「道東自然ごよみ2023」発売中

当舎初のカレンダー「道東自然ごよみ2023」が完成。〝毎日替わる写真と解説で新鮮な1日〟を謳い、阿寒の仲間の協力も得て、365日計424点の写真を駆使。限定3百部定価千円で、コーチャンフォー各店(市内、根室、北見)、佐藤紙店、湿原展望台で販売中です。
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1年365日日替わり写真で自然の変化を2行解説付きで情報提供
解説は自然ガイド風でちょっと怪しいところもあり
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〈第九巻〉①地域のブランド力

【第九巻】 桂恋から厚岸へ
 難解アイヌ地名を愉しむ

扉写真は1799年に植物調査で太平洋沿岸を探訪した渋江長伯一行に同行した絵師・谷元旦が描いた踏査の様子(『蝦夷紀行附図』函館中央図書館蔵)。上の写真は石門といわれる地形で釧路地方沿岸から厚岸にいたる海岸線に出現する。

地域のブランド力
▶ブランドは大切である。少しでも地域を売り込もうと思うのなら、ブランド力は欠かせない。釧路町の太平洋沿岸は、令和3年3月に「厚岸霧多布昆布森国定公園」の区域に指定された。ボクの自宅は釧路市街地と湿原の際にあり、道路を挟んで東側は釧路町なので、大雑把にいうと国立公園(釧路湿原)と国定公園に隣接しているのである。自慢であるが、地価は安い。
▶この海岸線は、十勝の広尾町から根室の納沙布岬までの全長321㎞メートルが「北太平洋シーサイドライン」と名付けられ、定着してきた。古くは東蝦夷地を探検した冒険者たちが道なき道を辿ったパイオニアルートである。1786年にエトロフ、ウルップに上陸した最上徳内は、真冬にこのルートを松前から根室まで二ケ月余りで踏破している。1798年に幕府は〈様似から釧路まで道を拓いた〉となっている。馬が荷を運べるような道になり、釧路の会所には馬2頭が配置されたとある。これに合わせ、一里塚といわれる距離標識や通行屋(家)といわれる宿泊施設、小休所といわれる休憩施設なども設置された。

谷元旦が描いたとされる通行屋の様子 イルカを食べている!(『蝦夷紀行附図』函館中央図書館蔵)


▶それ以前の釧路町の海岸線は道もなく、引き潮の時のわずかな時間に岩づたいに歩いたり、野宿をすることもあったようだが、昆布森と仙鳳趾(現在の古番屋)に通行屋ができ、同年に植物調査でこの海岸線を探訪した渋江長伯一行も、武四郎もここに宿泊している。釧路市街地からシレパ岬までは約40㎞メートルで、厚岸湾西岸の仙鳳趾から厚岸会所には舟で渡っていたので、仙鳳趾で天気待ちをする様子が日誌などにも記されている。ちなみに、仙鳳趾から厚岸会所までの厚岸湾沿いの陸路は文化5年(1808)に開削されている。
▶当時は道が出来たとはいえ、海岸線の砂浜を歩き、海岸の崖を乗り越え、また砂浜、岩浜を歩く難路だったのだろう。渋江長伯の旅行記『東游奇勝』によれば、釧路を立ち、昆布森の旅館(通行屋)に至る間に、〈石門5箇所、出崎(崖)16箇所、川を大小15箇所渡渉〉との記載がある。現地の海岸線に目を向ければ一行の大変さは実感できる。

桂恋から昆布森方面を望む海岸線。砂浜と岩崖が連続し、時に崖越えをしながら歩いたようだ


▶現在の釧路町、厚岸町、浜中町を通る道道142号は「岬と花の霧街道」とネーミングされて観光PRがされてきた。海蝕崖が連続する海岸線が織りなす景観、希少な海浜植物が咲き誇る原生花園、ガスと呼ばれる海霧が立ち込めるロマンチックな佇まい。これらをまとめて「岬と花の霧街道」という名称は誠に絶品。国定公園に指定されるぐらいだから一大観光地とおもいきや、初夏のシーズン以外はひっそりとして、特に釧路町の海岸線などは観光地という趣は皆無である。漁村集落が崖の間の砂浜に点在する。宿泊施設もなく、商店は昆布森に一店。コンビニはないけど、コンブは豊富なエリアである。
▶そんな中にあって、この地域は難解地名を売りにしてきた。アイヌ地名由来なのだがあてた漢字が極めて難解で、これを初見で全部読むことのできる人は存在しない。断言する。
「歴史に汚点を残す許しがたい暴挙の一つ」という批判もあるが、ここはひとまずおいて、地元自治体から地域住民まで、結構この難解地名にノリノリで、結果としてこの地域のブランド化に大きな役割を果たしてきた。釧路町は公式PR動画の「ふるさと地名の旅」をYouTubeで配信している。「難解地名番付表」というのを作った方もいらっしゃるし、アイヌ語研究をしている仲間達もアイヌ語由来の解説とあわせて現在の漢字の難解地名を紹介したり、解説したりしている。今日、ボクの最大の関心の拠りどころは、誰がこの難解漢字地名を付けたのかであるが、ネットを見るとそのことをリサーチしている方もいて、先駆者がいるのでここはその方の結果待ちもいいかなと思っている。しかし、ボクなりに少し分析めいたこともしてみたい。(続く)

昔の昆布森といわれる伏古から崖があって崖越えをしたところ。下の絵図と一致する地形が見える
昆布森には通行屋があって、その様子を描いた仙台藩の藩士・楢山隆福の絵図(『東蝦夷地与里国後へ陸地道中絵図』1810 函館市中央図書館蔵)

〈第八巻〉③郷土史と個人史

【第八巻】 塘路から釧路へ
川をくだる、時をかける〈釧路川今昔〉

扉写真は大楽毛海岸の釧路沖を航行する国際コンテナ船。上の写真は釧路川が現在の直線水路に切り替えた昭和6年に建設された「岩保木水門」。一度も開いたことがないまま役割を終えた。

▶武四郎一行の釧路から阿寒町までの行程に戻ろう。武四郎は会所を出発し、ヲタイト( ota-etu 沙・岬)という釧路川の河口の突き出た砂嘴から渡し船で対岸の阿寒川の河口である阿寒太(アカンプト)に渡った。渡し場にはメンカクシやムンケケ等も見送りに来たと記している。
幣舞公園にある松浦武四郎蝦夷地探検像のアイヌ像はこのメンカクシとおもわれる。メンカクシ一族は東蝦夷地を代表する一族で、ボクも阿寒湖温泉で、この末裔にあたる長老たちから、シサム(善き隣人)武四郎のことを色々教えていただいた。今もその子孫たちがアイヌ文化を継承している。

幣舞公園の松浦武四郎蝦夷地探検像。手前の指を指すアイヌが当時のクスリアイヌの首長であったメンカクシ。

▶アカンとはラカンとも聞き採られ、ラカンはウグイが産卵する穴(永田地名解)で、アカン=〈不動〉説とともに、複数ある阿寒の地名由来の一つになっている。少年の頃、友人とよく釧路川の河口で釣りをした。釣果はほとんどウグイだけで、食べる対象ではなかった。釧路ではウグイは小骨が多くて、せいぜい干して出汁にする魚であった。阿寒湖温泉で、武四郎の宿泊勉強会をおこなった時、ホテルにお願いして武四郎が紹介した阿寒湖の食材で「武四郎御膳」を出してもらった。その時、意外にもウグイ(アイヌ名シュプン)の刺身がとても美味であった。阿寒の人達もウグイは美味しい魚と言っていた。アイヌの川に関する考え方である〈川は海から発し山に上る〉視点で言えば、海側(河口)と山側(阿寒湖)は起終点の捉え方、魚の味も違うので、地名由来も別々に存在することの方が自然のことのように思われた。

阿寒のホテルにお願いして武四郎が紹介している阿寒の食材を使った「武四郎御膳」を出していただいた。

▶一行はヲタノシケ( ota-noshke砂浜の・中央)の海岸から大楽毛川沿いに西進する。大楽毛は表音あて字の珍名だが、現在、この河口海岸は厳冬期にジュエリーアイスを見ることのできる穴場観光スポットでもある。大楽毛川は河口手前で阿寒川に合流する支流だが、国道240号と釧路空港のある丘陵地の間を流れていて国道からは目につかない。久摺日誌には川沿いのトクシツナイというところで野宿したことになっているが、戊午日誌の方にはその記述はない。馬を連れて湿地帯を流れる大楽毛川を渡渉する大変さが記されている。現在、変電所があるウエンベツ川を越え、阿寒川からその支流である舌辛川沿いに阿寒湖に向かう一行であったが…。この時、武四郎は江戸で吹き荒れる「安政の大獄」の激動を察知していたのだろうか。

大楽毛海岸のジュエリーアイス。現在の阿寒川はここに流れ出ている。


▶近世釧路の黎明期を支えたのは漁業だが、明治以降はこれに周辺の森林や鉱物資源等が加わり、釧路港は原木などの搬出輸出港として機能拡充が進む。「マグロの釧路か、釧路のマグロか」「木処くしろ」と謳われた大正・昭和初期を経て、戦前から戦後、釧路の発展を牽引した三大基幹産業である〈水産・製紙・石炭〉の時代が長く続いたが、200海里漁獲規制や木材・石炭など資源依存型産業の退潮に押し出されるように〈観光〉がこれにとって変わった。
後背地に広がる釧路湿原や多様な自然の魅力をもった道東の観光が、物流インフラである港湾運輸とともに、新たな時代を支える基幹産業となった。
▶その転換期は個人的には西港第4ふ頭が供用され、外貿コンテナ船が韓国釜山港と定期航路として結ばれた21世紀初頭(2002年頃)を境とするようにおもう。国際的に人と物の地域間交流が本格化した。
なぜ、個人的かというと1973年から2014年まで42年間、釧路市役所で勤めたボクの職場は、新富士に出来た中央卸売市場を皮切りに、日本一の水揚げに湧いた魚揚場勤務。市の道路と河川を管理する道路管理課から埠頭造成盛んな港湾部勤務を経て、21世紀から観光部門の仕事に就き、阿寒湖温泉が最後の勤務地となった。
振り返ると釧路市の栄枯盛衰の現場で歩んできた役所勤務であった。
そして、郷土釧路や武四郎一行の歩みの道筋と少なからず重なる〈個人史〉でもあると実感するのである。(終り)

「釧路港修築碑」開国論者であった大老・井伊直弼の出身である彦根藩(滋賀県)の末裔が建立。当初、琵琶湖を模して春採湖畔にあったが、現在は米町公園に移された。

〈第八巻〉②釧路の足跡をたどって

【第八巻】 塘路から釧路へ
川をくだる、時をかける〈釧路川今昔〉

扉写真は安政年間(1857年頃)蝦夷地測量に同行した絵師・目賀田守蔭が描いた釧路川河口。上写真は岩保木水門でカヌーから自転車に乗り換えるツアーの様子

▶釧路会所に着いた武四郎一行はここから海岸線沿いに根室に向かう。
ここで当時の釧路川の河口の様子と、釧路出発時の釧路から阿寒町までの間の武四郎一行のルートを確認してみたい。ボクが阿寒の仲間達と2013年から始めた阿寒クラシックトレイルは、阿寒町から阿寒湖温泉までの武四郎ルートを探訪するトレイルである。
釧路から出発しなかった理由は2つ。ボクは当時阿寒湖温泉在住で、釧路市街から阿寒町までのルートを加えると総距離が80㎞ぐらいになるので長すぎること。そしてこの間は、国道240号が武四郎ルートに最も沿っているので、歩くには今一つの雰囲気と安全上の観点から、ここをカットしたのであった。
▶あらためて幕末の釧路川河口の様子を伝える絵図を見ると、白糠から釧路に至る海岸線が砂浜であったことがわかる。クスリ会所があったとされる佐野碑園の筋向いに米町公園がある。ここは、展望から見渡す釧路の街並みに、港町・釧路の発展の歴史を垣間見ることができる昔からの観光名所である。現在、最も海岸よりの国道や橋南地区のメインルートから海側と河口側にせり出した土地は、近代以降の埋め立て地である。漁港や港湾施設が作られ、釧路川河口に拓けた港の発展を礎に街も拡大していった。

松浦武四郎の6航釧路から阿寒に向かう推定ルート図


▶武四郎は、将来の釧路の発展を「東蝦夷地第一の都会たるべし」と予見した。その根拠は豊かな資源であり、川(交通路)であり、扇の要に位置する港であった。その精神は今も釧路市中小企業基本条例の前文に引き継がれている。
▶米町公園に「釧路港修築之碑」が立っている。1909年(明治42)に帝国議会で釧路港の修築予算が成立したのを記念し、滋賀県(彦根藩)からの移住者達が開港論者であった藩主・井伊直弼を讃え建立した。当初は春採湖を琵琶湖になぞらえ、その湖岸に建てられたが後に米町公園に移築された。
この予算成立にあたって釧路港発展の可能性を新聞記者として発信したのが石川木である。木は明治41年に来釧。旧釧路新聞社の記者として76日間釧路滞在。その足跡は旧釧路新聞社を復元した港文館で辿ることができる。

啄木資料がある幣舞橋のほとりの港文館。啄木が記者として活躍した釧路新聞社社屋を復元。右手に啄木像(本郷新作)

▶釧路川の東側、太平洋に突き出た岬がシリエト(現・知人町)である。この岬の内湾の入り江が釧路港の発祥である。その後、20世紀初頭から海岸線沿いに西側に向かって港が造成され、釧路港は現在、新釧路川を挟んで東港区と西港区に区分されている。
武四郎が来釧した安政年間は井伊直弼による「安政の大獄」で尊王攘夷の志士たちに弾圧の嵐が吹き荒れた。武四郎の知友である頼三樹三郎はじめ、吉田松陰らが獄死や重罪の憂き目にあった。この井伊直弼を水戸藩の若き志士たちが桜田門で撃ったのは安政7年(1860)。それから半世紀、釧路の彦根藩の末裔たちは修築碑を建て、木は新聞記者として健筆を振るい、歌人として街を詠う。その歌碑と修築碑が並んで港を見下ろす米町公園に建立されている。
蝦夷地探訪に心身を投じていた武四郎は幸いにも安政の大獄を免れた。運命は予測不能。武四郎、米町公園で何を思う。

釧路市内を見下ろす米町公園に建立された啄木歌碑(左)と釧路港修築碑(右)

▶戦後、高度経済成長期は1954年から1973年の19年間とされている。ボクはジャストに出生し、少年時代を過ごし、釧路市役所に奉職した。青年都市釧路の発展と共に歩んだ年月であった。この間、釧路港は「東洋一の漁港」と謳われた副港魚揚場が整備され、水揚げ連続日本一を記録した。1970年代からは西港整備がはじまり、道東の拠点国際貿易港として発展する。
▶ボクは松浦武四郎の来釧に命名由来をもつ松浦町で育った。
昭和7年の町名改正で釧路駅の裏手はほとんど松浦町になった。その後、町域も分けられ、母校である共栄小学校には鉄北地区といわれる松浦町、新富町、川北町、堀川町などから学童が通学していた。昭和40年(1965)、6年生は8クラスで357名いた。1クラス約45名ではあったが特にマンモス校というわけではなかった。ガキが街にあふれていた。

釧路港全景。手前が東側、奥が西側。東の釧路川河口から西に向かって釧路港は発展した。

▶この年の秋、炊事遠足に出かけた新富士海岸で悲劇は起きた。海岸で拾った旧陸軍の爆雷部品をそうとは知らず、炊事道具に使って爆発事故が起き、4名の学友が死んだ。現場の海岸線は今、西港区の臨海公園と埠頭地区を隔てる幹線道路となっている。ボクのクラスは、当初の予定では爆発事故が起きた現場で炊事をする予定であったが、荷物を運んでくれたクラスメイトの建設会社のお父さんが間違えて、ずっと先に運んでしまったので、ボクたちはそこまで移動し、炊事をすることに変更した。
海際に煙が立ち上がり、その煙を背景にI君が走ってこちらに向かってきた。彼は学年でもとびきりのスポーツマンで、走るのが苦手だったボクはいつも羨望の目で彼を見ていた。彼は事の重大さを知らせる伝令だった。ボクたちは何が起きたのか事の全貌を知る由もなく、担任の先生と一緒にひたすら歩いて、時に小走りで、悲壮感も漂うことなく、ただ炊事遠足が中止になったことが解せないおもいを抱えて学校に戻った。
▶その後に起きたことはあまり思い出せない。しかし、若者になって学生運動に身を投じた友人はこの事故がきっかけだったと話してくれた。戦後のなおざりにした戦争処理のつけが何時、何処で目前に立ち現れるのか、誰にもわからない。運命は予測不能。しかし、この事故を自分の課題として人生を歩む契機にした人達がいた。
武四郎一行が歩き、ボクたちの戦争があった海岸線は、今はアスファルトの下となり、爆発事故の記憶は臨海公園に建立された「共栄小学校炊事遠足事故慰霊碑」で偲ぶだけだ。小学校のアルバムのクラス写真を眺めながらふと思う。ボクは死者とともに大人になってきたのだろうかと。(続く)

〈第八巻〉①釧路川をアドベンチャーツアーでガイド

【第八巻】 塘路から釧路へ
川をくだる、時をかける〈釧路川今昔〉

扉写真はツアーの釧路川カヌーイングで岩保木水門に向かう。上写真は明治44年当時の岩保木での木材流送作業風景。(『くしろ写真帳』北海道新聞社刊より)

▶1858年(安政5)5月28日、塘路湖の湖畔を出発した武四郎一行は釧路川をアイヌの丸木舟で釧路会所まで下る。5月7日釧路を出発し、阿寒、網走を経て斜里から屈斜路、摩周と道東を半周した最終日。これで自身最後の蝦夷地探訪の前半を終了するという感じになる。


▶2021年秋。釧路観光コンベンション協会が企画して釧路湿原アドベンチャーモニターツアーが行われた。ボクはこの企画に参画し、当日は添乗ガイドをした。
モニターツアーの概要は、釧路湿原で楽しめるアクティビティ(湿原ノロッコ号、トレッキング、カヌー、サイクリング)などを盛り込んだアウトドア志向のツアーで、愛好者やインバウンド向けのアドベンチャーツアーを想定したものだった。
▶ガイドの立場でこのツアーを組み立てるにあたり、テーマを考えた。松浦武四郎の道東紀行をモチーフにこんなアプローチをしようと思った。
〝幕末のアドベンチャー松浦武四郎の釧路川探訪の足跡をたどり、釧路川再発見を旅する。先住民アイヌと折り合いをつける異文化融合の姿を地名に探しながら、様々なアクティビティを駆使し、釧路川・新釧路川・旧阿寒川沿いに近世・近代・現代につながる自然と開発のあり方を見つめる〟
ツアーは釧路駅から湿原ノロッコ号に乗って釧路湿原駅まで行き、細岡展望台から釧路湿原を眺望し、細岡カヌーステーションまで約3キロを歩く。その後、カヌーステーションから釧路川を下り、岩保木山水門までのカヌーイング。そこからはクロスバイクやマウンテンバイクに乗ってサイクリングで新釧路川沿いに南下し、新釧路川から、柳町公園沿いに釧路川に向い、釧路川からその河畔を出発地の釧路フィッシャーマンズワーフまで戻るというもの。
徒歩、カヌー、サイクリング+観光列車を利用した盛りだくさんなアクティビティプランだ。ボクは武四郎の足跡をたどる背景に、地域の〈アイヌ地名〉や〈川の歴史〉を加味して、地域の再発見ツアー(マイクロツーリズム)にしてみたいと思った。
体験プログラムを縦軸に、川の開発、地名変遷の歴史を横軸に捉えて見ると色々と地域の歴史や出来事が連なってくる。参加者にも風景の背後にある地域の歴史を少しでも感じとってもらえればと思った。

釧路観光コンベンション協会主催の「釧路湿原アドベンチャーモニターツアー」の行程

▶歴史を遡りながら川を下る
1920年(大正9)8月、未曾有の大洪水により釧路の市街地はほぼ冠水する状態に陥る。この洪水被害を受け、翌年から下流部を直線化する大規模な河川改修工事がはじまる。その起点は現在の岩保木水門で、この水門からの新規直線ルートと、従来の釧路川の2つのルートが出来、有事の場合は水門を開いて、河川の負担を分散する防災措置が施された。
しかし、工事が完成した昭和6年以降、岩保木水門は一度も開いたことがない〈開かずの水門〉といわれている。
現在、釧路川は川の機能としては直線化された新釧路川が担っており、鮭もシシャモもこの川を遡上する。従来の釧路川は岩保木水門から下流は流れのない川となっている。


▶大洪水以前、釧路川は西側から湿原を下って合流する雪裡川、久著呂川などとともに、阿寒湖を水源とする阿寒川も支流としていた。しかし、阿寒川は暴れ川だったので大正7年から現在の新釧路川のルート上(仁々志別川河口)に通水し、海に流す直線ルートが作られたが、この大正9年の大洪水では、阿寒川はさらに上流で分離し、もっと西側の現在のルート(大楽毛海岸口)に変わってしまう。
▶大洪水の翌年から始まった釧路川の直線化掘削工事と合わせて、新釧路川と釧路川の間の旧阿寒川のルート沿いに運河の掘削も進められる。しかし、鉄道網の整備により運河の機能は不要となり、工事はとん挫。その後、運河(旧阿寒川)は埋立により、昭和57年に柳町公園となって〈緑の川〉に生まれ変わる。

雪裡川での大正2年の木材流送作業(『くしろ写真帳』北海道新聞社刊より)

▶今回のモニターツアーのルートは、時代軸で整理すると、武四郎一行が下った〈近世の釧路川〉から〈近代の直線化された新釧路川〉を経て、〈柳町公園に姿を変えた旧阿寒川〉を通り、〈景観整備により再生された釧路川〉を現代に戻ってくるツアーの流れだ。
近代以降の釧路の開発は、湿原を取り囲む後背地に広がる森林帯の木材資源をもとに〈世界の原木供給基地〉として進展する。木材搬送する河川の舟運は、その後、鉄路に代わるが、木材資源は枯渇しはじめ、産業は衰退。運河の埋立を進めていた旧阿寒川は公園整備に計画変更。その様は、開発の時代の変遷を見るようだ。
その後、釧路川に河口型観光開発として観光新時代を期待された釧路フィッシャーマンズワーフの誕生(1989年開業)につながる。
▶これらの河川開発の歴史と共に、アイヌ文化目線で地域の地名やモシリアチャシなどの遺跡群を見て、アイヌにとっての河川の役割、動植物の活用等の視点を解説に盛り込むと、さらに魅力的な地域再発見ツアーができるのではないかとおもう。
しかし、引き出しは沢山出来たけれど、アクティビティのスピードとガイドの解説がうまく折り合うかは、まだまだ検討の余地あり。


▶近代以降の自然資源の開発は、単純化していえばスピードとそれを実現するために直線的。自然は時代適応せざるを得なかった。その後の開発思想の変化は、自然保護や環境との調和をめざし、まちづくりにもそのコンセプトが反映している。ポストモダンを象徴する釧路の毛綱建築物や蛇行河川の面影を遺す釧路川のリバーサイド河畔開発は曲線的。
▶直線から曲線へ、そして釧路の未来はどんな線形を描くのか? 観光が地域経済の発展や雇用の拡大に寄与する方向性は共有されているのだろうが、そこに新たな観光文化は一石を投じることが可能なのか。
温故知新。
大胆に時代を見つめ、時に失敗をしながらも地域の未来を拓いてきた先人達の歴史をたどりながら、今のボク達に欠けているものは何なのか。
ツアーの魅力とその実現策を検証しながら、そのことをあたらめて考えさせられた。(続く)

夕焼けの幣舞橋フィッシャーマンズワーフでツアー終了

釧路湿原、阿寒・摩周の2つの国立公園をメインに、自然の恵が命にもたらす恩恵を体感し、自然環境における連鎖や共生の姿を動植物の営みをとおしてご案内します。また、アイヌや先人たちの知恵や暮らしに学びながら、私たちのライフスタイルや人生観、自然観を見つめ直す機会を提供することをガイド理念としています。