〈第八巻〉②釧路の足跡をたどって

【第八巻】 塘路から釧路へ
川をくだる、時をかける〈釧路川今昔〉

扉写真は安政年間(1857年頃)蝦夷地測量に同行した絵師・目賀田守蔭が描いた釧路川河口。上写真は岩保木水門でカヌーから自転車に乗り換えるツアーの様子

▶釧路会所に着いた武四郎一行はここから海岸線沿いに根室に向かう。
ここで当時の釧路川の河口の様子と、釧路出発時の釧路から阿寒町までの間の武四郎一行のルートを確認してみたい。ボクが阿寒の仲間達と2013年から始めた阿寒クラシックトレイルは、阿寒町から阿寒湖温泉までの武四郎ルートを探訪するトレイルである。
釧路から出発しなかった理由は2つ。ボクは当時阿寒湖温泉在住で、釧路市街から阿寒町までのルートを加えると総距離が80㎞ぐらいになるので長すぎること。そしてこの間は、国道240号が武四郎ルートに最も沿っているので、歩くには今一つの雰囲気と安全上の観点から、ここをカットしたのであった。
▶あらためて幕末の釧路川河口の様子を伝える絵図を見ると、白糠から釧路に至る海岸線が砂浜であったことがわかる。クスリ会所があったとされる佐野碑園の筋向いに米町公園がある。ここは、展望から見渡す釧路の街並みに、港町・釧路の発展の歴史を垣間見ることができる昔からの観光名所である。現在、最も海岸よりの国道や橋南地区のメインルートから海側と河口側にせり出した土地は、近代以降の埋め立て地である。漁港や港湾施設が作られ、釧路川河口に拓けた港の発展を礎に街も拡大していった。

松浦武四郎の6航釧路から阿寒に向かう推定ルート図


▶武四郎は、将来の釧路の発展を「東蝦夷地第一の都会たるべし」と予見した。その根拠は豊かな資源であり、川(交通路)であり、扇の要に位置する港であった。その精神は今も釧路市中小企業基本条例の前文に引き継がれている。
▶米町公園に「釧路港修築之碑」が立っている。1909年(明治42)に帝国議会で釧路港の修築予算が成立したのを記念し、滋賀県(彦根藩)からの移住者達が開港論者であった藩主・井伊直弼を讃え建立した。当初は春採湖を琵琶湖になぞらえ、その湖岸に建てられたが後に米町公園に移築された。
この予算成立にあたって釧路港発展の可能性を新聞記者として発信したのが石川木である。木は明治41年に来釧。旧釧路新聞社の記者として76日間釧路滞在。その足跡は旧釧路新聞社を復元した港文館で辿ることができる。

啄木資料がある幣舞橋のほとりの港文館。啄木が記者として活躍した釧路新聞社社屋を復元。右手に啄木像(本郷新作)

▶釧路川の東側、太平洋に突き出た岬がシリエト(現・知人町)である。この岬の内湾の入り江が釧路港の発祥である。その後、20世紀初頭から海岸線沿いに西側に向かって港が造成され、釧路港は現在、新釧路川を挟んで東港区と西港区に区分されている。
武四郎が来釧した安政年間は井伊直弼による「安政の大獄」で尊王攘夷の志士たちに弾圧の嵐が吹き荒れた。武四郎の知友である頼三樹三郎はじめ、吉田松陰らが獄死や重罪の憂き目にあった。この井伊直弼を水戸藩の若き志士たちが桜田門で撃ったのは安政7年(1860)。それから半世紀、釧路の彦根藩の末裔たちは修築碑を建て、木は新聞記者として健筆を振るい、歌人として街を詠う。その歌碑と修築碑が並んで港を見下ろす米町公園に建立されている。
蝦夷地探訪に心身を投じていた武四郎は幸いにも安政の大獄を免れた。運命は予測不能。武四郎、米町公園で何を思う。

釧路市内を見下ろす米町公園に建立された啄木歌碑(左)と釧路港修築碑(右)

▶戦後、高度経済成長期は1954年から1973年の19年間とされている。ボクはジャストに出生し、少年時代を過ごし、釧路市役所に奉職した。青年都市釧路の発展と共に歩んだ年月であった。この間、釧路港は「東洋一の漁港」と謳われた副港魚揚場が整備され、水揚げ連続日本一を記録した。1970年代からは西港整備がはじまり、道東の拠点国際貿易港として発展する。
▶ボクは松浦武四郎の来釧に命名由来をもつ松浦町で育った。
昭和7年の町名改正で釧路駅の裏手はほとんど松浦町になった。その後、町域も分けられ、母校である共栄小学校には鉄北地区といわれる松浦町、新富町、川北町、堀川町などから学童が通学していた。昭和40年(1965)、6年生は8クラスで357名いた。1クラス約45名ではあったが特にマンモス校というわけではなかった。ガキが街にあふれていた。

釧路港全景。手前が東側、奥が西側。東の釧路川河口から西に向かって釧路港は発展した。

▶この年の秋、炊事遠足に出かけた新富士海岸で悲劇は起きた。海岸で拾った旧陸軍の爆雷部品をそうとは知らず、炊事道具に使って爆発事故が起き、4名の学友が死んだ。現場の海岸線は今、西港区の臨海公園と埠頭地区を隔てる幹線道路となっている。ボクのクラスは、当初の予定では爆発事故が起きた現場で炊事をする予定であったが、荷物を運んでくれたクラスメイトの建設会社のお父さんが間違えて、ずっと先に運んでしまったので、ボクたちはそこまで移動し、炊事をすることに変更した。
海際に煙が立ち上がり、その煙を背景にI君が走ってこちらに向かってきた。彼は学年でもとびきりのスポーツマンで、走るのが苦手だったボクはいつも羨望の目で彼を見ていた。彼は事の重大さを知らせる伝令だった。ボクたちは何が起きたのか事の全貌を知る由もなく、担任の先生と一緒にひたすら歩いて、時に小走りで、悲壮感も漂うことなく、ただ炊事遠足が中止になったことが解せないおもいを抱えて学校に戻った。
▶その後に起きたことはあまり思い出せない。しかし、若者になって学生運動に身を投じた友人はこの事故がきっかけだったと話してくれた。戦後のなおざりにした戦争処理のつけが何時、何処で目前に立ち現れるのか、誰にもわからない。運命は予測不能。しかし、この事故を自分の課題として人生を歩む契機にした人達がいた。
武四郎一行が歩き、ボクたちの戦争があった海岸線は、今はアスファルトの下となり、爆発事故の記憶は臨海公園に建立された「共栄小学校炊事遠足事故慰霊碑」で偲ぶだけだ。小学校のアルバムのクラス写真を眺めながらふと思う。ボクは死者とともに大人になってきたのだろうかと。(続く)