〈第八巻〉③郷土史と個人史

【第八巻】 塘路から釧路へ
川をくだる、時をかける〈釧路川今昔〉

扉写真は大楽毛海岸の釧路沖を航行する国際コンテナ船。上の写真は釧路川が現在の直線水路に切り替えた昭和6年に建設された「岩保木水門」。一度も開いたことがないまま役割を終えた。

▶武四郎一行の釧路から阿寒町までの行程に戻ろう。武四郎は会所を出発し、ヲタイト( ota-etu 沙・岬)という釧路川の河口の突き出た砂嘴から渡し船で対岸の阿寒川の河口である阿寒太(アカンプト)に渡った。渡し場にはメンカクシやムンケケ等も見送りに来たと記している。
幣舞公園にある松浦武四郎蝦夷地探検像のアイヌ像はこのメンカクシとおもわれる。メンカクシ一族は東蝦夷地を代表する一族で、ボクも阿寒湖温泉で、この末裔にあたる長老たちから、シサム(善き隣人)武四郎のことを色々教えていただいた。今もその子孫たちがアイヌ文化を継承している。

幣舞公園の松浦武四郎蝦夷地探検像。手前の指を指すアイヌが当時のクスリアイヌの首長であったメンカクシ。

▶アカンとはラカンとも聞き採られ、ラカンはウグイが産卵する穴(永田地名解)で、アカン=〈不動〉説とともに、複数ある阿寒の地名由来の一つになっている。少年の頃、友人とよく釧路川の河口で釣りをした。釣果はほとんどウグイだけで、食べる対象ではなかった。釧路ではウグイは小骨が多くて、せいぜい干して出汁にする魚であった。阿寒湖温泉で、武四郎の宿泊勉強会をおこなった時、ホテルにお願いして武四郎が紹介した阿寒湖の食材で「武四郎御膳」を出してもらった。その時、意外にもウグイ(アイヌ名シュプン)の刺身がとても美味であった。阿寒の人達もウグイは美味しい魚と言っていた。アイヌの川に関する考え方である〈川は海から発し山に上る〉視点で言えば、海側(河口)と山側(阿寒湖)は起終点の捉え方、魚の味も違うので、地名由来も別々に存在することの方が自然のことのように思われた。

阿寒のホテルにお願いして武四郎が紹介している阿寒の食材を使った「武四郎御膳」を出していただいた。

▶一行はヲタノシケ( ota-noshke砂浜の・中央)の海岸から大楽毛川沿いに西進する。大楽毛は表音あて字の珍名だが、現在、この河口海岸は厳冬期にジュエリーアイスを見ることのできる穴場観光スポットでもある。大楽毛川は河口手前で阿寒川に合流する支流だが、国道240号と釧路空港のある丘陵地の間を流れていて国道からは目につかない。久摺日誌には川沿いのトクシツナイというところで野宿したことになっているが、戊午日誌の方にはその記述はない。馬を連れて湿地帯を流れる大楽毛川を渡渉する大変さが記されている。現在、変電所があるウエンベツ川を越え、阿寒川からその支流である舌辛川沿いに阿寒湖に向かう一行であったが…。この時、武四郎は江戸で吹き荒れる「安政の大獄」の激動を察知していたのだろうか。

大楽毛海岸のジュエリーアイス。現在の阿寒川はここに流れ出ている。


▶近世釧路の黎明期を支えたのは漁業だが、明治以降はこれに周辺の森林や鉱物資源等が加わり、釧路港は原木などの搬出輸出港として機能拡充が進む。「マグロの釧路か、釧路のマグロか」「木処くしろ」と謳われた大正・昭和初期を経て、戦前から戦後、釧路の発展を牽引した三大基幹産業である〈水産・製紙・石炭〉の時代が長く続いたが、200海里漁獲規制や木材・石炭など資源依存型産業の退潮に押し出されるように〈観光〉がこれにとって変わった。
後背地に広がる釧路湿原や多様な自然の魅力をもった道東の観光が、物流インフラである港湾運輸とともに、新たな時代を支える基幹産業となった。
▶その転換期は個人的には西港第4ふ頭が供用され、外貿コンテナ船が韓国釜山港と定期航路として結ばれた21世紀初頭(2002年頃)を境とするようにおもう。国際的に人と物の地域間交流が本格化した。
なぜ、個人的かというと1973年から2014年まで42年間、釧路市役所で勤めたボクの職場は、新富士に出来た中央卸売市場を皮切りに、日本一の水揚げに湧いた魚揚場勤務。市の道路と河川を管理する道路管理課から埠頭造成盛んな港湾部勤務を経て、21世紀から観光部門の仕事に就き、阿寒湖温泉が最後の勤務地となった。
振り返ると釧路市の栄枯盛衰の現場で歩んできた役所勤務であった。
そして、郷土釧路や武四郎一行の歩みの道筋と少なからず重なる〈個人史〉でもあると実感するのである。(終り)

「釧路港修築碑」開国論者であった大老・井伊直弼の出身である彦根藩(滋賀県)の末裔が建立。当初、琵琶湖を模して春採湖畔にあったが、現在は米町公園に移された。