はじめに道(ル)ありき <ガイドエッセイ『旅する阿寒』第10話>

雄阿寒岳を臨みながら「山湖の道」を湖畔に向かう
雄阿寒岳を臨みながら「山湖の道」を湖畔に向かう

はじめに道(ル)ありき

■松浦武四郎の学習会を契機に、実際に武四郎の探訪ルートを歩いてみようと仲間たちと阿寒町から阿寒湖畔までのトライアルを平成25年(2012)の秋からおこなった。武四郎の『久摺日誌』は釧路を紹介した初めての旅行ガイドブックだが、その基礎資料である『東部安加武留宇知之誌』という野帳(トラベルノート)、そして膨大なアイヌ地名が記された北海道地図『東西蝦夷山川地理取調図』が、ルートを調べる道標となった。
仲間には、阿寒の地理や歴史を熟知した先輩や、武四郎の阿寒滞在時に孫爺さんが会っているというアイヌの古老もいて、歴史的な古文書に印された地名や人名が意外なほど今につながっていることを実感した。
■武四郎第6回目の安政5年(1858)の探検は最後の蝦夷地探訪となったわけだが、全行程203日、うち道東は23日間を要し、内陸調査のハイライトともいうべきものであった。
その道程の基本ルートとなったのは、幕府が北方警備のために釧路地方から網走に陸路でつなぐために開削した「網走山道」であり、武四郎は山道自体の利用実態調査もおこなった。
■阿寒町(旧シタカラ)から布伏内(フップウシナイ)の間は、旧雄別鉄道の線路跡があり、旧雄別炭鉱などとともに国の近代産業遺産として指定されている。もっとも、武四郎の地図に示された赤線(歩行ルート)は舌辛川左岸になっており、現在の道道の舗装道路の方がルート的には近いのかもしれない。しかし、武四郎が探訪した当時の面影を重視すれば現在の町道ルートの方が雰囲気なのである。
この部分は、古い順からいえば、アイヌが川筋に暮らし、網走山道が開かれて、武四郎が馬で通り(この区間は乗馬で飽別まで移動している)、そして明治後期からは和人の入植がはじまり、大正12年(1923)に雄別鉄道が開通、昭和45年(1970)に廃止後は町道として現在に至っている。これほど歴史の足跡が一本の道に刻まれているのも感動的だが、実際に歩いてみると随所にその面影を感じ取ることができる素敵な散策路なのである。
■松浦武四郎の探訪だけでなく、それに前後して、様々な郷土の歴史が刻印された道を歩くところから、阿寒クラシックトレイルという名称が生まれた。
_DSC0993クラシックという言葉は、音楽や競馬、ビールなど様々なイメージにつながるが、<歴史的に長く、評価の定まった物事を指して「クラシック」と呼ぶ。>とあり、まさにこの道はクラシックなのだと確信し、命名した。
歴史の掘り起こしを「歩く」行為をとおして、おこなうとともにこの道を新たな歩く観光資源として再構築することが我々の共通認識となった。全行程約60キロを3つの「道」に分割したのも、歩きやすさと、参加しやすい距離設定を考慮したものであった。阿寒町から飽別までの開拓された里の部分と阿寒川沿いの川の部分、そして山道の峠を越えて阿寒湖畔にいたる部分の3つが距離的にも道の個性的としても区分しやすく、それぞれ「里の道」「川の道」「山湖の道」と名づけられた。この命名に当っては取材してくれた新聞記者が分かりやすく名づけてくれたものをそのまま使わせていただいている。
■武四郎の野帳である『東部安加武留宇知之誌』の「留宇知」はアイヌ語のルウチ、峠の当て字である。「東の阿寒の峠越えの日誌」とでも訳せばいいのか。阿寒川を遡上し、支流に沿ってカルデラの淵から峠越えをすると阿寒湖が前方に右手には雄阿寒岳の雄大な姿を眺めならが阿寒湖畔への道をたどることになる。
硫黄を釧路に搬出するため、雌阿寒岳から鶴居の幌呂につながる約80キロの道は明治25年(1892)に完成するが、多くの民は釧路から阿寒までそれぞれの目的をもってこの道を歩いてきた。明治39年(1906)には阿寒の森林開発を目指して、前田一歩園創設者である前田正名がやってきた。正名がこの道から眺めた阿寒の風景は、後に「阿寒の山は伐る山ではなく観る山だ」と開発理念を転換したことにつながる印象を与えたのではないだろうか。同じ時期に、釧路第一第二小学校の学童たちは釧路から6泊7日で雌阿寒岳登山の修学旅行を敢行している。現在の観光地阿寒湖温泉の礎は、雌阿寒岳登山だったのである。
■大正13年(1924)に釧路湖畔間に車が通れる道が出来、昭和30年(1955)に、「まりも国道」が国道として指定されて、現在の道路の骨格が整った。
「道」は身体にたとえれば血管のようなもので、血管は太いものだけでなく、細い血管が隅々まで血液を運び、身体は健康を維持できる。今は歴史的な役目を終えた古道を新たな役目を得て甦らせる。道も人も地域の主役としていきいきとした風土づくりにつなげたい、「歩く」という観光文化を定着させたい、というおもいがつのる。

「山湖の道」でガイドをする筆者
「山湖の道」でガイドをする筆者

■はじまりの「道」はどんなものだったのだろう。アイヌ文化に詳しい仲間曰く「アイヌは人やけものたちが使っていた踏み跡を『ル』と言うんだ」。時に歴史は勝者や支配者の側から記されるものだが、無名の民や自然の中で共生する生物たちの視点から「道」をみわたせばそれは「ル」が出発点なのかもしれない。我々が阿寒クラシックトレイルという小さな試みに託した夢は、自然と人が共生する阿寒を未来につなげるために、先人達から学び、自分たちも一歩の「ル」を踏み出さなければならない、という決意表明のようなもの、だったのかもしれない。
ホテルウーマンの仲間が言った。
「そういえば、中国語でも道は『ルゥ』なのよね」
「足許から国際化ってことか?」
「<もう一歩、今が一番大事な時だ、もう一歩>というは、一歩園のモットーなので…」
「……」。