武四郎の足跡<ガイドエッセイ『旅する阿寒』第11話>

武四郎の足跡
■阿寒湖温泉に赴任当初、阿寒の観光資源を手探りで調べていたとき、ホテルで観光語り部をしているSさんと出会った。阿寒湖温泉の歴史や風土についてお話を伺っているなか、「俺の孫爺さんが松浦武四郎が来たとき案内した」と私にとっては衝撃の発言をされた。松浦武四郎といえば、どこか歴史の彼方の人という印象から一気にライブステージにワープした気分であった。これを機に釧路、弟子屈、阿寒のガイドや郷土研究者の知り合いに呼びかけて、松浦武四郎の勉強会を一泊二日で開催した。
■釧路阿寒紀行をまとめた『久摺日誌(松浦武四郎著)』(1860)は、全国にこの地を紹介した最初の観光ガイドブックともいえる紀行文である。これには記録メモである『戊午安加武留宇知乃誌』という野帖があって、さらに『東西蝦夷山川地理取調図』(1859)という地図が揃うと、1858年の武四郎一行の足跡がつぶさに再現できることになる。
■勉強会の資料はそこそこ整ったが、なんといっても武四郎一行の止宿地(宿泊地をこういっている)を、武四郎紀行に縁のある方から直接ガイドされるという、魅力たっぷりのプログラムとなった。

武四郎が阿寒で詠った漢詩碑(ボッケ散策路)
武四郎が阿寒で詠った漢詩碑(ボッケ散策路)

■武四郎の人生の足跡をたどるため年表を作成した。その資料のタイトルを『青春の旅立ちから一畳敷まで~武四郎 起承転結・阿寒の巻~』とした。起承転結のコントラストが際だった71歳の生涯だったのである。お伊勢参りの旅人が往来する三重県松阪市小野江町に生まれた武四郎少年は16歳で家出放浪。旅人の芽が<起>きる。蝦夷地で探検家としてスーパーマン武四郎の<承>が絶頂を迎えた20代半ばから40代。開拓判官という要職につきながら、アイヌ政策等で対立し<転>じ下野する50代。そして全国を旅しながら登山や文化人との交流をとおし、その活動を全国の寺社仏閣91箇所から集めた部材で作った一畳の書斎(一畳敷)で<結>した晩年。そのなかで6度目の蝦夷地最後の釧路阿寒紀行は、探検家としての足跡のハイライトともいうべき41歳の春であった。しかし、私が武四郎にもっとも惹かれたのは、絶頂の蝦夷地探検時代以降の<転>や<結>の足跡であった。ちょうど私の退職や第二の人生設計、そして老後へと、これから歩む道が重なるので親近感を抱いたのかもしれない。
■晩年、武四郎は独創性にあふれた武四郎ならではの表現をしている。それが東京神田五軒町の庵に併設して建てた「一畳敷」である。晩年の終の棲家に併設された一畳の小宇宙からどんな世界を見渡していたのだろう。武四郎の遺言は「自分が死んだら、一畳敷の部材で焼いて、骨を大台ヶ原山(武四郎が晩年、踏査した三重の山)に散骨してほしい」というものであったが、幸いというか、本人は本意ではないかもしれないが、一畳敷は保存(国際基督教大学敷地内に現存)され、武四郎も墓に眠っている。
■青年期、武四郎は対馬から朝鮮への渡航を図るも失敗し、北方探検に転じたそうだ。もし、現代なら世界を旅して、ひょっとしたら宇宙までもと想像してしまうが、最後の旅路の終着点が一畳の畳に集約されるというのは、なかなか想像できるものではない。マクロからミクロへ、広大な北の風土と一畳のスペースに込められる物語の足跡。名作のラストシーンをおもわせる見事なエンディングではないか。

「山湖の道」で武四郎の足跡をガイドする筆者
「山湖の道」で武四郎の足跡をガイドする筆者

■資料作りで、武四郎の肩書きをまとめた。浮世絵師、登山家、北方探検家、ルポライター、地理学者、人類学者、民俗学者、イラストレーター、コレクター、旅行作家、名付け親、篆刻師、高級官僚、双六作家、アートプロデューサー、家出少年、旅人等々。かつて異才寺山修司は記者の質問で、職業をたずねられた時、「職業は寺山修司」と答えたそうだが、なるほど、武四郎も「職業は松浦武四郎」と言うにふさわしい人ではある。多面体は極めれば球体になるのだ。
武四郎の人生はドラマチックで起承転結に富み、自己劇化を図りながら、道を切り開いた演劇的人生といっても過言ではあるまい。これほどの人物があまり映画や演劇で取り上げられていないのも不思議なことである。
■さて、我々の武四郎の足跡めぐり勉強会は、その後、阿寒の仲間が中心となって古道の研究会、「阿寒クラシックトレイル研究会」に発展し、故郷の歴史を歩きながら掘り起こす活動を続けている。『久摺日誌』や武四郎の数々の記録には、釧路地方の豊かな地域資源、河川交通網の活用策など可能性が記されるとともに、阿寒の山河の景観や自然の豊かさが絶賛され、温泉に浸かり、「効能神のごとし」と温泉地としての可能性も予見している。「これほどの景観が自分の故郷にあれば、多くの人が押し寄せるだろう」とも記されている。
■観光客など外部の人から地域の魅力を再認識させられることは日常茶飯事である。地域住民が日々新鮮な刺激を感じ取るのはなかなか困難ではあるが、旅人たちは、その刺激をもとめてやってくる。我々もそれに応えるため、常々感性を磨いておきたいものだ。
■新しい道は、古い道をなぞるだけでは未来へ繋がらない。<新しい酒は、新しい酒袋に盛れ>とも言う。先人の足跡には、その起承転結を通し、人生観が垣間見える。晩年まで創造性を失わず、表現の歩みを止めることのなかった武四郎の足跡は、先行き不安の高齢化社会をともに生きるご同輩にも、過疎や地域格差に悩ましい地方にも、その足元を照らす希望の灯となるのではないか。

発見!!阿寒国立公園の3つのカルデラを一望できる処

3つのカルデラが一望できる摩周岳ピーク
3つのカルデラが一望できる摩周岳ピーク

好天の11月4日、グリーンシーズンもひと段落し、ほっと一息。摩周岳に足を運びました。晩秋とはおもえる暖かな日和。片道7.2kの登山道はとても草刈が行き届き、クマイザサも気にすることなく快適な散策でした。松浦武四郎の6回目の蝦夷地探検では摩周カルデラを時計逆周りで摩周岳に登頂し、湖のほとりの洞穴で1泊しました。最近は、北根室ランチウェイのルートにもなっており、西別岳からの縦走も容易です。
また、アイヌの山本多助さんが記したカムイヌプリ(摩周岳は神様の山です)を舞台にしたカラスの伝説をはじめ、アイヌの物語の数々もこの山のイメージを豊かに彩ります。
あまり起伏もきつくなく、頂上直下の登りだけがきつく感じました。頂上は、槍ヶ岳をおもわせる風貌で、ピークも狭く少々怖いけど、なんとも見事な眺めに圧倒させられます。
摩周カルデラはもとより、屈斜路、阿寒の3つのカルデラが一望出来る処はここだけでしょう。太古の記憶から今に至る歴史におもいをはせたひと時でした。

この日の摩周湖はとにかく美しい!
この日の摩周湖はとにかく美しい!
落葉したシラカバの明るい道をいきます
落葉したシラカバの明るい道をいきます
これが摩周ブルーか!
これが摩周ブルーか!
西別岳を正面にみて、きれいに草刈がされた登山道
西別岳を正面にみ、きれいに草刈がされた登山道
今年の雪です。
今年の雪です。
片道7.2kだけど距離はかせげます
片道7.2kだけど距離はかせげます
ピークを眺めながら、奥は斜里岳
ピークを眺めながら、奥は斜里岳
ピークは狭く、決してはしゃがないこと
ピークは狭く、決してはしゃがないこと
右下の入り江に武四郎の泊まった洞があるそうな
右下の入り江に武四郎の泊まった洞があるそうな
登頂祝賀ケーキは川湯駅前森のホールで
登頂祝賀ケーキは川湯駅前森のホールで
いつになく気取った凸凹
いつになく気取った凸凹

「山湖の道」で阿寒の自然と共生文化を体感!オハウも旨い!

阿寒の自然と共生文化を体感した「山湖の道」

11月1日(日)好天の中、阿寒クラシックトレイル「山湖の道」が開催されました。山越えし湖畔にいたる約10キロの散策と武四郎にならっての湖上遊覧。原生の佇まいの森を抜け、カルデラの景観と復元の森づくりの足跡もたどりながら、巨木に出会う喜び。昼食は山湖を臨む展望台でアイヌ料理と音楽のおもてなし。とても贅沢なひとときを参加者の皆様とともに我々スタッフも堪能しました。

紅葉のなか「川の道」トレイルで晩秋の阿寒を堪能

10月18日、阿寒クラシックトレイル「川の道」、好天の中、紅葉に彩られた阿寒川を遡上しました。ヤマブドウ、コクワやキノコ汁、特製クッキーなどグルメと森の香りに包まれたトレッキングでした。fuka森便りにも報告あります

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阿寒川を約8km遡上します
阿寒川を約8km遡上します
川辺には盛りの紅葉
川辺には盛りの紅葉
カツラの落葉が甘い香りを放ちます
カツラの落葉が甘い香りを放ちます
取り立てキノコ汁で昼食
取り立てキノコ汁で昼食

はじめに道(ル)ありき <ガイドエッセイ『旅する阿寒』第10話>

雄阿寒岳を臨みながら「山湖の道」を湖畔に向かう
雄阿寒岳を臨みながら「山湖の道」を湖畔に向かう

はじめに道(ル)ありき

■松浦武四郎の学習会を契機に、実際に武四郎の探訪ルートを歩いてみようと仲間たちと阿寒町から阿寒湖畔までのトライアルを平成25年(2012)の秋からおこなった。武四郎の『久摺日誌』は釧路を紹介した初めての旅行ガイドブックだが、その基礎資料である『東部安加武留宇知之誌』という野帳(トラベルノート)、そして膨大なアイヌ地名が記された北海道地図『東西蝦夷山川地理取調図』が、ルートを調べる道標となった。
仲間には、阿寒の地理や歴史を熟知した先輩や、武四郎の阿寒滞在時に孫爺さんが会っているというアイヌの古老もいて、歴史的な古文書に印された地名や人名が意外なほど今につながっていることを実感した。
■武四郎第6回目の安政5年(1858)の探検は最後の蝦夷地探訪となったわけだが、全行程203日、うち道東は23日間を要し、内陸調査のハイライトともいうべきものであった。
その道程の基本ルートとなったのは、幕府が北方警備のために釧路地方から網走に陸路でつなぐために開削した「網走山道」であり、武四郎は山道自体の利用実態調査もおこなった。
■阿寒町(旧シタカラ)から布伏内(フップウシナイ)の間は、旧雄別鉄道の線路跡があり、旧雄別炭鉱などとともに国の近代産業遺産として指定されている。もっとも、武四郎の地図に示された赤線(歩行ルート)は舌辛川左岸になっており、現在の道道の舗装道路の方がルート的には近いのかもしれない。しかし、武四郎が探訪した当時の面影を重視すれば現在の町道ルートの方が雰囲気なのである。
この部分は、古い順からいえば、アイヌが川筋に暮らし、網走山道が開かれて、武四郎が馬で通り(この区間は乗馬で飽別まで移動している)、そして明治後期からは和人の入植がはじまり、大正12年(1923)に雄別鉄道が開通、昭和45年(1970)に廃止後は町道として現在に至っている。これほど歴史の足跡が一本の道に刻まれているのも感動的だが、実際に歩いてみると随所にその面影を感じ取ることができる素敵な散策路なのである。
■松浦武四郎の探訪だけでなく、それに前後して、様々な郷土の歴史が刻印された道を歩くところから、阿寒クラシックトレイルという名称が生まれた。
_DSC0993クラシックという言葉は、音楽や競馬、ビールなど様々なイメージにつながるが、<歴史的に長く、評価の定まった物事を指して「クラシック」と呼ぶ。>とあり、まさにこの道はクラシックなのだと確信し、命名した。
歴史の掘り起こしを「歩く」行為をとおして、おこなうとともにこの道を新たな歩く観光資源として再構築することが我々の共通認識となった。全行程約60キロを3つの「道」に分割したのも、歩きやすさと、参加しやすい距離設定を考慮したものであった。阿寒町から飽別までの開拓された里の部分と阿寒川沿いの川の部分、そして山道の峠を越えて阿寒湖畔にいたる部分の3つが距離的にも道の個性的としても区分しやすく、それぞれ「里の道」「川の道」「山湖の道」と名づけられた。この命名に当っては取材してくれた新聞記者が分かりやすく名づけてくれたものをそのまま使わせていただいている。
■武四郎の野帳である『東部安加武留宇知之誌』の「留宇知」はアイヌ語のルウチ、峠の当て字である。「東の阿寒の峠越えの日誌」とでも訳せばいいのか。阿寒川を遡上し、支流に沿ってカルデラの淵から峠越えをすると阿寒湖が前方に右手には雄阿寒岳の雄大な姿を眺めならが阿寒湖畔への道をたどることになる。
硫黄を釧路に搬出するため、雌阿寒岳から鶴居の幌呂につながる約80キロの道は明治25年(1892)に完成するが、多くの民は釧路から阿寒までそれぞれの目的をもってこの道を歩いてきた。明治39年(1906)には阿寒の森林開発を目指して、前田一歩園創設者である前田正名がやってきた。正名がこの道から眺めた阿寒の風景は、後に「阿寒の山は伐る山ではなく観る山だ」と開発理念を転換したことにつながる印象を与えたのではないだろうか。同じ時期に、釧路第一第二小学校の学童たちは釧路から6泊7日で雌阿寒岳登山の修学旅行を敢行している。現在の観光地阿寒湖温泉の礎は、雌阿寒岳登山だったのである。
■大正13年(1924)に釧路湖畔間に車が通れる道が出来、昭和30年(1955)に、「まりも国道」が国道として指定されて、現在の道路の骨格が整った。
「道」は身体にたとえれば血管のようなもので、血管は太いものだけでなく、細い血管が隅々まで血液を運び、身体は健康を維持できる。今は歴史的な役目を終えた古道を新たな役目を得て甦らせる。道も人も地域の主役としていきいきとした風土づくりにつなげたい、「歩く」という観光文化を定着させたい、というおもいがつのる。

「山湖の道」でガイドをする筆者
「山湖の道」でガイドをする筆者

■はじまりの「道」はどんなものだったのだろう。アイヌ文化に詳しい仲間曰く「アイヌは人やけものたちが使っていた踏み跡を『ル』と言うんだ」。時に歴史は勝者や支配者の側から記されるものだが、無名の民や自然の中で共生する生物たちの視点から「道」をみわたせばそれは「ル」が出発点なのかもしれない。我々が阿寒クラシックトレイルという小さな試みに託した夢は、自然と人が共生する阿寒を未来につなげるために、先人達から学び、自分たちも一歩の「ル」を踏み出さなければならない、という決意表明のようなもの、だったのかもしれない。
ホテルウーマンの仲間が言った。
「そういえば、中国語でも道は『ルゥ』なのよね」
「足許から国際化ってことか?」
「<もう一歩、今が一番大事な時だ、もう一歩>というは、一歩園のモットーなので…」
「……」。