マルチワーク<ガイドエッセイ『旅する阿寒』>第7話

マルチワーク

スキー大会は阿寒のマルチワーカーたちで運営される
スキー大会は阿寒のマルチワーカーたちで運営される

湿原で修学旅行の生徒たちを案内するのは新米ガイドにとっては難関である。
釧路まで本州から修学旅行にやってくる学校は、私立の進学校であることが多い。小さい頃から受験競争にさらされて来たであろう若者達に一時の湿原散策を記憶に留めてもらいたいとおもう。
生徒をガイドするとき意識的に話すことがある。湿原の動植物の「適応」と「競争」についてである。釧路湿原には地球最後の氷河期であるウルム氷河期が終わる約1万年以上前から、地続きだったシベリア大陸から渡ってきた動植物が命をつないでいる。「氷河期の生き残り」とか、遺存種ともいわれる生物達である。これらの生物達は大陸が海で分断された後も北海道でも特に冷涼で厳しい環境である高山や湿原でその環境に適応し、生き延びてきたものである。生物の世界では、弱肉強食が支配する世界があると同時に、厳しい環境に適応する世界もある。ともすれば、地味で目立たない動植物のなかにしぶとい猛者がいる。生徒たちにはそんなことを話しながら、「競争原理だけでなく、環境適応というのも忘れないで」と話をする。
7月になると阿寒湖畔も初夏の訪れと観光シーズンの到来を実感する。通勤前の早朝散歩には最適の季節だ。早朝6時過ぎにボッケ散策路に向けて商店街を歩いているとお土産店が店先の扉を開けて開店準備をはじめている。そんな店舗の先陣を切ってNさんが店を開ける。Nさんは商店街や観光協会の役員を務める湖畔のキーパーソンのひとりである。率先して朝早くから深夜まで店を開く。観光客へのホスピタリティの最前線である。
Nさんはマルチワークの人である。Nさんの働き方に阿寒湖温泉という風土のある典型をみるおもいがする。お土産物店を生業としているが、冬期間は国設阿寒湖畔スキー場の場長になる。さらに、秋には、阿寒の森を管理する前田一歩園の作業員として毎木調査をおこなう。春夏はお店、秋は林業、冬はスキー場と季節に仕事が替わる。もちろんお店は通年営業、家族経営だ。
さらに町内会活動と地域の消防団長というボランティア活動が加わわるマルチぶりである。
阿寒のスキー場が国際的な大会を実施してることは、阿寒に暮らし大会の運営に携わるようになって知った。FIS(国際スキー連盟)の公認大会が年に2.3度おこなわれる。大会誘致の決め手は、評価の高い雪質と大会の充実した運営体制である。
スキー大会は、阿寒湖温泉のマルチワーカー達が運営を支えている。ホテル旅館関係者、消防職員、教員、御土産店、お菓子屋、飲食店、主婦、観光協会スタッフ、公務員等々。それぞれが記録員や旗門員、コース整備など国際基準にそった役割分担をこなし、大会は成立する。
スキー大会はひとつの例である。阿寒湖温泉という風土を支える主要産業である観光業は観光客によって成り立っている。スポーツ大会参加者や合宿の学生を観光客と呼ぶのがちょっと違和感があるとすれば、交流市民によって成り立っているといったほうがしっくり来るのである。
阿寒湖の定住者は、明治期の漁業、林業、鉱業(硫黄)開発に遡り、その後、観光産業が主力になっていく。アイヌにとっても、阿寒湖畔は定住地ではなく季節的な狩猟採集の場所であった。ともに定住市民として生活の基盤をつくっていくのは明治後期からで、現在の住民も二、三代目が主力である。
現在、観光産業は阿寒湖温泉の風土を支える基盤であり、そこに生きる人々のセーフティネットである。そして、マルチワークは働き方であり、生き方でもあるようにおもう。
公務員という終身雇用の総本山のような労働環境に生きてきた私にとっては、四季の変化のみならず、観光トレンドの変化に揉まれながらも、暮らしを維持していくマルチな適応力に感動すら覚える。
もとより、現実の阿寒湖温泉は平成10年(1988)に百万人を超える年間宿泊者数を記録してから、減少傾向をたどり、平成26年(2014)には60万人となり、約半分に近い減少である。定住人口も昭和60年代の約3千人をピークに、平成26年には13百人まで減少した。この間、観光産業は多様化し、全国何処も観光地となり、一方で国際化と少子高齢化が顕在化し、昔から観光を生業とした阿寒湖温泉のような温泉観光地はどこも社会の変化への適応と地域間競争にさらされてきた。
阿寒湖は冬凍結する。液体が固体に変化するのは大変なことである。生活の基盤に影響があるだけでなく、風土が育むメンタリティにも影響を及ぼすものではないか。景気のよかった時代には冬眠を決め込んでいた先輩たちは、今では漁業も遊覧船も、そこで働く人々も冬は氷上レジャー業やスキー場などに職場を移す。風土の条件に合わせながら、風土を守っていく暮らしは、外部から見ている以上に大変なことだ。
マルチワークは持続可能な地域社会づくりの上で重要なキーワードの一つだとおもう。季節に合わせて、ニーズに合わせて、働き続けることの出来る環境を作っていくためには、地域の知恵と既成社会とのバランスをとりながら、目指すべき地域の未来像が共有されていなければならない。
地方創生が叫ばれる一方、消滅自治体という言葉が現実味を帯びてくる。持続可能な地域社会を構築するためには、自己のスキルアップとマルチワーク環境の拡充という両輪が推進力なのではないだろうか。
マルチワークは、現実に適応していくための生き方である。昔からお百姓さんは、その名のとおり四季の気候にあわせた百のスキルを有するマルチワーカーだったのである。
地域づくりは人づくりとよく言われる。軽々に人づくりと言うことに何かしらの抵抗感がある。まずはマルチワーカーとしての自覚と自己努力(スキルアップ)を己に課したい。地域も人も、競争力(ナンバーワン)より個性(オンリーワン)を磨きたい。

東北海道の夏の魅力をワイドビジョン(16:9)で

花の季節となりました。いつもは湿原の花との付き合いなのですが、久しぶりに大雪山の高山植物大群落に会いたくて、赤岳銀泉台から白雲岳、北海平を経由して黒岳層雲峡までの縦走をしてきました。また、今年は「北海道ガーデンショー2015夏」が開催されているので、北海道ガーデン街道のガーデン巡りもしてみました。
私の感動した印象を広い北海道らしく、16:9比率のワイドビジョンにトリミングしてみていただこうとおもいます。

雲海がブームのようですが、好天の山の朝は雲海とともにひらく、という感じです。三国峠から東大雪方面の山々です。
雲海がブームのようですが、好天の山の朝は雲海とともにひらく、という感じです。三国峠から東大雪方面の山々です。
朝日にきらめくフキの葉の雫。なにげないショットだけれど、新緑と雫に命のイメージを感じます。
朝日にきらめくフキの葉の雫。なにげないショットだけれど、新緑と雫に命のイメージを感じます。
岩石にへばりつくエゾノツガザクラ。岩と花、白と赤のコントラストが目にしみます。
岩石にへばりつくエゾノツガザクラ。岩と花、白と赤のコントラストが目にしみます。
大雪を代表する鳥といえば、ギンザンマシコ。ハイマツの実をついばんでいました。これは雄。雌はオリーブ色が基調でこれがまたいい。
大雪を代表する鳥といえば、ギンザンマシコ。ハイマツの実をついばんでいました。これは雄。雌はオリーブ色が基調でこれがまたいい。
大雪の高山植物群は質量ともに世界有数。今回はポピュラーの花以外に目を向けて、タカネイワヤナギ、花が綺麗。
大雪の高山植物群は質量ともに世界有数。今回はポピュラーの花以外に目を向けて、タカネイワヤナギ、花が綺麗。
大雪森のガーデンからの大雪連峰の景観。草原に牛、山に雪、夏の青空。北海道の夏です。
大雪森のガーデンからの大雪連峰の景観。草原に牛、山に雪、夏の青空。北海道の夏です。
大雪森のガーデンの「デザイナーズガーデン」。日仏のデザイナーによるバルーンと草木の競演。
大雪森のガーデンの「デザイナーズガーデン」。日仏のデザイナーによるバルーンと草木の競演。
富良野「風のガーデン」。いうまでもなく倉本聡さんのあのドラマの舞台です。またDVDで見直しました。ガーデンが成熟しているのがわかりました。
富良野「風のガーデン」。いうまでもなく倉本聡さんのあのドラマの舞台です。またDVDで見直しました。ガーデンが成熟しているのがわかりました。

 

鳥はタンチョウ、花はハマナス!

「北海道の花」ハマナス
「北海道の花」ハマナス

「北海道の花」というのはあまり馴染みがないかもしれませんが、ハマナスです。国道38号の道の駅「恋問館」の海岸線は海浜植物の宝庫ですが、ハマナスをはじめ、エゾスカシユリやセンダイハギなどが咲き誇っています。とりわけハマナスは満開で、車を止めて写真を撮りに降りるとハマナスの香りに包まれました。これからしばらくの間、赤い実を結ぶまで「北海道の花」として観光客を迎えてくれます。

国道38号のロードサイドを飾ります
国道38号のロードサイドを飾ります
もう実を結んでいるのと、これからの蕾が同居してます
もう実を結んでいるのと、これからの蕾が同居してます
ハマナスには北海道の抜けるような青空が似合います
ハマナスには北海道の抜けるような青空が似合います

ピアノ発表会で人生初のコンサートデビュー!

下のバーをクリックして記事をお読みください。私の下手なピアノですが、少し雰囲気がでます。
発表会で弾いたのは「モーニン」でした。
発表会で弾いたのは「モーニン」でした。


先日、1年間続けてきたピアノ教室の発表コンサートがおこなわれた。還暦を機にはじめたことの一つがピアノ。個人レッスンを週1回続けてきたが先生には、「歳になってはじめることなので、弾きたい曲をやりたい」というリクエストを出した。私は数曲のピアノで弾きたいお気に入りがあったが、その一つが『トロイメライ』だった。シューマンの「子どもの情景」という小曲集のひとつで、「夢」とか「夢見心地」という意味だそうだ。

この曲へのおもいは、大林宣彦が尾道を舞台に描いた映画『転校生』の挿入曲で印象的に使われていたことにあり、さらに私自身が映画仲間と製作した8mm映画『第三の男’77』は、大林の初期の実験映画である『伝説の午後 帰ってきたドラキュラ』へのオマージュで、私の映画への記憶につながっていく。

今月の21日、義母がファンであるピアニスト、フジコ・ヘミングの札幌公演に同行した。ピアノをはじめたから数ヵ月後、『トロイメライ』に取り組んだとき、YouTubeで有名ピアニストの聞き比べをした。その時、「これなら自分もできそうだ」とおもわせたのがフジコ・ヘミングだった。それから数ヶ月、やっとなんとか簡単に編曲したものを弾けるようになり、私のピアノへのおもいは一つ、小さい実を結んだ。

さて、札幌のフジコ・ヘミングは、ショパン、ドビッシー、ブラームスの名曲と彼女の十八番であるリストの「ため息」そして「ラ・カンパネラ」でコンサートを締めくくり、観衆の大喝采を浴びた。決して若くはない彼女はアンコールはやらないのでは、との話も聞いていたが、再登場し、短い謝辞の後、アンコールの曲をおこなった。
それは、平明で、ピュアで、素朴な演奏であった。超絶技巧の演奏の後であったので一層際立つほどのシンプルさであった。「これなら私も弾ける」。再び、そう思った。純真であることは可能性を開くドアである。自分自身の「子どもの情景」をイメージしながら、『トロイメライ』に身を浸し、トロイメライがつなぐ縁を夢見心地で回想した。

人生初めてのピアノコンサート出演は、アッという間に終了。手が震え、普段しないミスを重ね、頭の中が白くなった。そんな甘いものではないことを体感した。
しかし、私の小さく実を結んだピアノへのおもいは、音楽の神様がつないだ縁をとおして、少し熟していたように感じた。

 

「モーニン」はBS「美の壷」のテーマ曲でもあります。「朝」ではなく、「叫び」という意味です。
「モーニン」はBS「美の壷」のテーマ曲でもあります。「朝」ではなく、「叫び」という意味です。

一歩の系譜<ガイドエッセイ『旅する阿寒』>第6話

ACT (4) 「千里の道も一歩から」(どんなに大きな事業でも、まず手近なところから着実に努力を重ねていけば成功する)という老子の格言はあまりにも有名である。 千里といえば、一里が約4キロとして、4千キロ。地球一周の10分の1。
この格言にもっとも馴染むのは、幕末、日本国中を歩き、我が国の輪郭を地図化した伊能忠敬の業績であろう。伊能は、最初の蝦夷地測量の頃は歩測で距離を測った。研究者によれば、一歩が約66から69センチになるとのこと。名実ともに一歩一歩積み重ね、大きな功績を跡したことになる。
釧路の地名研究会が主催した伊能の足跡を訪ねるバスツアーに参加したことがある。難解地名で有名な北太平洋シーサイドラインを釧路から西別まで、伊能が1800年、初めての測量で歩測し私たちの郷土の輪郭をトレースした足跡をたどり、労苦の一端をしのぶことができた。 伊能は江戸への物資供給地であった佐原(現、千葉県香取市)の商人として事業を成した後、56歳から夢である全国測量に踏み出し、17年をかけた全国測量の集大成『大日本沿海輿地全図』を1816年に完成し、日本の国土の姿を正確に示した。 伊能が人生の歩みを終えた1818年に、松浦武四郎は誕生する。武四郎の蝦夷地探検は1845年から58年の足かけ13年を要した。その成果のひとつは地図として『東西蝦夷地山川地理取調図』(1859年)としてまとめられた。この時の武四郎も、伊能同様、懐中羅針盤以外の測量道具を持たず、距離は歩測で測った、とされている。また、この地図の輪郭は伊能忠敬・間宮林蔵が実測したもので、武四郎は先人の偉業をふまえ、それをもとに蝦夷地の内陸部へ歩をすすめ、山地・湖沼・河川・交通路と一万に近い地名を記録し地図化する。伊能は身長160センチほど、武四郎はさらに小柄で150センチなかったといわれているので、一歩の歩幅はどのくらいだったのであろう。

前田正名(資料提供:前田一歩園財団)
前田正名(資料提供:前田一歩園財団)

阿寒で一歩と言えば前田一歩園である。創設者前田正名も歩く人であった。明治新政府で農商務次官として活躍した正名は、政策方針を巡って政府中枢と対立し、40代以降は下野し、民間人として、産業団体を組織化する必要性を訴え、全国を歩きまわる。その行動は「前田行脚(あんぎゃ)」と言われ、正名の功績は後に彼をして、<日本産業振興の祖>といわれるまでになった。正名が関わった全国組織の産業団体は実に十数団体に及ぶ。 伊能や武四郎の一歩は測量や地図化につながる実利的な一歩であったが、正名の一歩は日本の産業振興という悲願へむけて道筋をつける一歩であった。身の丈、五尺(150センチメートルほど)の行脚は明治25年(1892)からはじまった。そろそろ交通機関も整備されてきた時期ではあったにせよ主は人馬の世界であったであろう。この時期から没する1921年まで、およそ30年にわたり全国をくまなく訪ね、生涯現役を貫き、産業振興を説き、自らも先駆的な事業を興したエネルギーは超人的ともいえるものであった。
阿寒前田一歩園は正名が明治39年に阿寒湖周辺の山林五千ヘクタールの払い下げを受け、開発事業に着手するにともない設立された。社名は、正名の座右の銘「物ごと万事に一歩が大切」から命名されたが、これは武者小路実篤の「如何なる時にも自分は思う もう一歩、今が大事な時だ もう一歩」という言葉に共鳴して名づけたものとのこと。前田一歩園記念館には、実篤の直筆の色紙もある。
一歩園は、創設者の正名から二代目正次(次男)、三代目光子(二代目の妻)と私有財産として受け継げられてきたが、昭和28年に財団法人化され、現在に至る。 前田家には家訓があって、そのイズムを最も伝えているのは「前田家の財産はすべて公共の財産となす」である。この精神は前田家三代を超えて、財団設立主旨へ、まさに私から公へ引継がれている。
正名は日本産業界の振興を訴えつつ、晩年の阿寒開発の夢として、「阿寒の山は伐る山ではなく観る山だ」と自然保護への転換を二代目の正次に託した。その精神を継承し財団は現在、「復元の森づくり」と称して、阿寒の森がもっとも原生に近い3百年前の森林に復元する事業を進めている。現理事長の前田三郎氏は財団設立30周年で「財団永続にむけての道すじをつけたい」と語った。まさに、世代を超えて一歩園精神は継承されている。
近年、北太平洋シーサイドラインには、釧路町、厚岸町、そして、厚床、落石、初田牛などに散策の道<フットパス>が整備されている。釧路から阿寒湖畔へは、阿寒クラシックトレイルとして武四郎や正名が歩いた古道をたどることができる。 日頃、万歩計で何歩歩いたとか、ダイエットや健康維持など目先の幸福に一歩を託している我が身も慈しみながら、先人達の壮大な夢につながる一歩の重さを体感し、故郷の古道を歩くのもいいではないか。 時代をつなぐ「一歩の系譜」とでも言うべき風土に刻まれた道は、未来につながる道である。「伝統とは形を継承することを言わず、その魂を、その精神を継承することを言う」(嘉納治五郎) 世界を見渡す鳥の目と足元の一歩を大切にした虫の目をもつ小さな巨人たちの生き方に学び、私たちも「一歩の系譜」に足跡を印したいものだ。

松浦武四郎『東西蝦夷山川地理取調図』より阿寒部分を抜粋
松浦武四郎『東西蝦夷山川地理取調図』より阿寒部分を抜粋