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〈第七巻〉④「くすり乃たけごんげん」は何処

【第七巻】 摩周から屈斜路へ
神なる山は何処 ? 屈斜路カルデラを巡る

扉写真は摩周湖第三展望台から望む硫黄山と奥に藻琴山。上の絵図は蝦夷図全図(『三国通覧図説』所収図 林子平著1785年)北海道大学北方資料データベース 

▶釧路の厳島神社は安芸の宮島で有名な厳島神社の御分霊で「市杵島姫命」が主祭神。この他、複数祀られている神様の内、「阿寒大神」は雄阿寒岳、雌阿寒岳を霊峰とする山神様で、アイヌの神ともされている。(「厳島神社」ホームページより)
果たして円空が民の平安を願って遥拝した「くすり乃たけごんげん」とは何処の山だったのか。

絵図拡大。右上に「クスリ嶽」、左に「アカヌノ嶽」が表記。阿寒岳とクスリ嶽は違う山の可能性を示す。

▶江戸時代にクスリ場所を海からアプローチする時、シンボリックに見える山といえば、まず候補は、雌阿寒岳(1499m)または雄阿寒岳(1370m)。ちょっと奥には斜里岳(1547m)が見える。霊山としてはカムイヌプリ(神の山)と呼ばれ、崇められる摩周岳(857m)。アトサヌプリ(硫黄山)も伝説に彩られた山である。藻琴山(999・9m)は屈斜路カルデラの外輪山で平坦な山容で目立たないが、霊山という側面でみると決して侮れない。

▶藻琴山には2つのアイヌ名が付けられている。松浦図には「トウエトクシヘ又ウラエウシノホリ云」と記されている。釧路アイヌはトエトクシペto-etok-ush-pe〈湖の・奥に・いる・者(山、神様)〉と云った。逆方向の網走側の浦士別にもかつてコタンがあり、「浦士別川の水源にもあたるので網走側の呼び名がウライウシヌプリurai-ush(-pet)-nupuri〈浦士別川の・山〉と呼ばれていたのであろう」(山田)とのこと。
「山名はその下を流れる川の名前をとって呼ばれる場合が多い」(山田)との例によれば、オホーツク海に流れ出る藻琴川の水源もこの山なので、アイヌ地名ルールにならって現在の和名も藻琴山になったのだろうか。

松浦武四郎著「久摺日誌」に掲載された地図には「クスリ岳」の表記が藻琴山か、硫黄山のあたりに描かれている。

▶屈斜路湖の河口部東側にオプタテシケヌプリ(504m)という山がある。山田氏は著書『北海道の地名』で次のようにアイヌの古老八重九郎翁の話を紹介している。
「オプ・タ・テシケ・ヌプリ(op-ta-teshke-nupuri槍が・そこで・はねかえった・山)の意だろうか。オプタテシケは女山で、トイトクシペ(藻琴山)は男山だ。女は位があるので、ために槍を投げたら槍がテシケ(それる)して眠っている摩周湖ヌプリに刺さってその跡が赤い血の沼になった云々」
この伝説は有名なようで、知里真志保著『アイヌ語入門』でも「山争いの伝説」として紹介されている。同じ話なのだが、八重九郎翁はオプタテシケは女山で、知里真志保氏は男山としているところが可笑しい。知里版には後日談が書かれていて、「マシュウ岳(カムイヌプリ)は腹を立てて、千島のクナシリ島へ飛んで行き、チャチャヌプリのそばへ身を寄せたが、晴天の日にはトゥエトコウシペ(藻琴山)のもがき苦しむ醜い姿が見えるので、さらに飛んでエトロフ島に行った。釧路や阿寒のアイヌが千島に行くと、晴天でも雨が降るというが、それはカムイヌプリが故郷を思い出して流す涙だという…」
八重九郎翁曰く、「カムイノミ(神拝)する時には、山々の名を称えて献酒するのであるが、いかなる場合でもトエトクシペが第一に称えられる最高の神山」(『北海道の地名』山田秀三著)とのこと。

屈斜路湖から流れ出る釧路川河口左岸にあるオプタテシケ。伝説に彩られた山だ。

▶釧路の郷土史家・故佐藤直太郎の研究論文によれば〈「薬ケ嶽」の初見は『和漢三才図絵』(1713)であり、その後『蝦夷全図』(林子平著1785)には、「クスリ」の傍に「クスリ嶽」が描かれ、それより北東方向に「アカヌノ嶽」(阿寒嶽)も描かれている。伊能忠敬の実測では阿寒嶽のみが描かれ、航海者の目標にもなった。『北海道志』(開拓史編1884)の地図には釧路嶽、雌阿寒嶽、雄阿寒嶽がのっていて、クスリ嶽は薬ケ嶽なので阿寒嶽は別の山。釧路嶽=クスリ嶽=薬ケ嶽は釧路地方の代表的名山であった証拠。〉とされている。
多様な由来や霊山としてのエピソードも加味され、〈藻琴山こそがクスリの地のシンボルマウンテン・くすり乃たけごんげん〉とのおもいを強くしたのだが…。後年、武四郎の探訪記録にはウラエウシヌプリ=藻琴山とは別にクスリ岳と表記された絵図(野帳)もあり、佐藤氏はアトサヌプリ(硫黄山)がこれにあたるのではとの推察もされている。

屈斜路湖の東岸に並ぶ3つの山。左端がアトサヌプリ(裸の山。現・硫黄山)

▶ボクの両親の故郷は斜里である。父は斜里岳の麓・川上羅萠で、母は以久科という海岸線の集落で育った。父方の実家の裏には小さな祠があり、祖母が山に向かい手を合わせていた姿を覚えている。以久科はボクの見立てではもっとも斜里岳が美しく見える処である。すそ野まで左右対称にのびた山容は全身斜里岳である。さらに山頂からは実家も含めオホーツク海に抱かれた原野が見渡せる。双方向視界全開のシンボルマウンテンである。
我が家の祖先のみならず、オホーツク人はもとより、古の先人達は、此の山に何を祈り、何を感謝して日々生き抜いて来たのだろう。
「ふるさとの山に向かいて言うことなし
 ふるさとの山はありがたきかな」(啄木)

斜里町以久科から見た斜里岳は最も均整のとれた山容。我が先祖の入植の地でシンボルマウンテンだった。

▶釧路で育ったボクは製紙工場の紅白の煙突にたなびく白煙を背景に遠望する雄阿寒岳、雌阿寒岳を見ながら少年・青年期を過ごし、そして老年期を迎えた。2022年春、その白煙は工場の閉鎖で途絶えたが雄岳、雌岳は変わらぬ山容を今に留める。
伊能忠敬は此の山を測量の標とし、松田伝十郎は海霧のなかに頂きを探したに違いない。アイヌたちは阿寒川沿いにこの山を頼りに湖畔を目指した。その阿寒の山が「くすり乃たけごんげん」か、否かは研究者に任せるにしても、ある刻から阿寒大神の山神になったことは納得できる。歴史の謎解きに身を委ねれば藻琴山か、硫黄山のいずれかが「くすり乃たけごんげん」なのかも知れない。しかし、時代の変遷にそってシンボルマウンテンは替わり、今日、道東に暮らす多くの北海道人が、それぞれのおもいをよせるシンボル・マウンテンが複数存在することも確かである。
単身赴任で5年間、阿寒湖温泉に暮らしたボクにとっても第二の故郷の山は雄阿寒岳、雌阿寒岳である。「くすり乃たけ」がシンボル・マウンテンズになるのも時の流れ。(終り)

武四郎が描いた釧路会所の図(『東蝦夷日誌』)背後に道東のシンボルマウンテンズが連なる

〈第七巻〉③母なる川と「くすり乃たけごんげん」

【第七巻】 摩周から屈斜路へ
神なる山は何処 ? 屈斜路カルデラを巡る

扉写真は屈斜路湖釧路川河口。上の写真は円空作薬師像(厳島神社蔵)

▶母なる川と「くすり乃たけごんげん」
釧路に住むボクたちにとって、釧路川は屈斜路湖に源を発し、154㎞に及ぶ流れの道中で釧路湿原の中を蛇行しながら、多くの支流を集め、太平洋に注ぐ母なる川である。
水源の湖である屈斜路湖は、松浦図には「クスリ湖」と表記されている。クスリ・トゥ(薬・温泉の湖)は釧路の地名由来の一つである。
アイヌの人たちは自分たちの生活圏の中で、誰もがわかる大きな湖や河川については、特段名前をつけるわけではなく、ただ単にトウ(湖)やペッ(川)と呼んだそうだ。だから松浦図の記載どおり、アイヌの人たちが昔からこの湖をクスリ湖と呼んでいたという確証はない。アイヌ文化の伝承者・山本多助エカシは、クシリ・オンネ・トー(薬温泉の・大きな・湖)と伝えているし、そもそも〈アイヌは、クスリではなく、クシリという〉とのことで、釧路川も「クシリ・シ・ペツと云った」とのこと。(『森と大地の言い伝え』チカップ美恵子編著 北海道新聞社刊より)

松浦図拡大。屈斜路湖に「クスリ湖」の表示。その北側に「トウエトクシヘ又ウラエウシノホリ云」(藻琴山)の表記が見える

▶現在の河口には眺湖橋がかかり、源流部カヌーの起点となっている。
松浦図にはクッチャロという地名が見れる。アイヌにとって川は〈海から発し、山に向かって上るもの〉とのことで、自然の地理地形の多くは人体になぞらえて名前が付けられている。湖から見ると水源地の川口部は人間の喉元を表すクッチャロという言葉が標準化されている。阿寒湖でも阿寒川の川口にある滝の名前はソーパロ(滝の口)で、そこから先の細い入江の箇所にもクチャロの名前が見える。
カルデラ湖である屈斜路湖や阿寒湖の湖岸や湖底からは温泉が湧き出しており、クスリは温泉と薬効で結ばれる。
江戸時代の文献では一貫してクスリという表記になっている。その点から、クスリというアイヌ語は和語からの借用語ではないか、との説もある。

釧路川下りの基点。屈斜路湖河口に架かる「湖眺橋(こちょうばし)」


▶クスリの初見は寛永20年(1643)、オランダ東インド会社所属のM・G・フリース艦長率いるカストリクム号の航海記録に残っていたものが最初とある。外国人によって最初に記され、和語とアイヌ語の共用語として今日の地名に引き継がれているクスリではある。
釧路川が母なる川とすれば、母又は父なる山として、ここで取り上げてみたいのは藻琴山である。
▶釧路の厳島神社に江戸時代の仏師・円空の彫った薬師仏がある。円空が寛政6年(1666)に来道した折りに彫った計約40体の道内各地に残されている仏像の一つである。この座像の背面に「くすり乃たけごんげん」の銘がある。この像は内浦湾に面した礼文華峠にあるケボロヰとよばれる洞窟にあった5体のうちの1体で、5体は蝦夷地を代表する山岳にあて、はるばる霊山を訪ね難いのでこの洞窟に背銘像をそろえて遥拝したと云われている。(続く)

摩周第三展望台から屈斜路カルデラを望む。左手の白い山がアトサヌプリ(裸の山。硫黄山)。奥に見えるのが藻琴山。いずれも「くすり乃たけごんげん」の候補。

〈第七巻〉②ちょっとレアなカルデラ探訪

【第七巻】 摩周から屈斜路へ
神なる山は何処 ? 屈斜路カルデラを巡る

扉写真は藻琴山頂上から屈斜路湖と外輪山を望む。上の写真は登山道入り口です。初心者でも楽しめる低山です。

▶ちょっとレアなお勧めのカルデラ探訪コース
摩周湖から下ってアトサヌプリ(硫黄山)の山麓を周り、屈斜路湖岸に出る林道がある。この「池の湯林道」では、道路際にハイマツやエゾイソツツジ、ガンコウランなどの高山植物群を見ることができる。ボクは以前、北アルプス立山縦走の折り、ウラジロタデという高山植物を室堂から剣岳に向かう途中の高山帯で見たが、どういうわけかこの植物が弟子屈川湯の道路沿いに結構あるのだ。硫黄山山麓のエゾイソツツジの大群落は有名だが、平地でも高山植物を見ることができる北海道でも特異で貴重な自然環境である。

池の湯林道には高山植物が道路際にあります


▶池の湯林道の中間地点あたりにはキムントーという小さな沼がある。キムはアイヌ語で山という意味で、〈山の中の沼〉とでもいう意味になろうか。駐車して2百メートルほど歩くと静かなそしてちょっと不気味な沼に出る。幽玄で少しモノクロームな印象のある秘境である。北海道どこでもヒグマに会う可能性は無きにしもあらずだが、地元民によれば、ここはちょっと確率が高いそうだ。昨今、秘境の価値低下が著しいが手軽に行ける貴重な秘境だ。

キムントーのちょっと寂しい幽玄な風景


▶屈斜路湖周辺の国道や道道は舗装道路で快適なドライブができるが、林道はほとんどがオフロードである。車にもそれなりの心構えが必要である。屈斜路湖は周囲57㎞の湖であるが、北側のおおよそ半分は一般的にはあまり通る事のない、地元民のそれもアウトドア志向の方が訪れる林道である。湖岸沿いにほぼ半周、片側に湖を眺めながらオフロードドライブを満喫できる。クロスバイクやマウンテンバイクなどのサイクリングコースとしても面白いと思う。
トレッキングを楽しむならやはり藻琴山登山がお勧めではあるが、静かな湖岸を散策するのも魅力的である。特に和琴半島を周るトレッキングコースは平坦で原生の森や露天風呂などがあり魅力的なコースだ。

池の湯の露天風呂。ちょっと温めだけど温泉を楽しめます。


▶露天風呂は和琴半島のほか、砂湯、池の湯、屈斜路アイヌコタンにあり、今も愛好家や観光客が楽しんでいる。池の湯と屈斜路コタンには武四郎の歌碑が有志により建立されている。池の湯の歌碑は露天風呂から湖岸沿いに右手約50mほどのところにあるがわかりづらい。
歌碑には―
「久寿乃湖 岸のいで湯や あつからん 
 水乞鳥の 水こふてなく」
―とあるが、これも読みづらい。いやほとんど読めない。水乞鳥はアカショウビンではないかと言われているが、カワセミの仲間のアカショウビンはその名のとおり全身ほぼ朱色の野鳥ファンにとっては憧れの鳥ではあるが、今日、道東では見ることはない。道央では観察例があるし、ボクも白老のポロト湖畔で観察できた。昔は道東でもいたのかもしれないが…。
しかしこの歌は、露天風呂の情景を醸し出し、趣のある歌ではある。ちなみにボクの解釈では、水乞鳥というのはハクチョウが相応しいのではないかと思っている。

池の湯の武四郎歌碑。探すのが少し大変です


▶屈斜路湖は冬、凍結し、雄大な御神渡りができる。1月中旬から2月上旬が狙い目。
湖岸の温泉が湧き出ている露天風呂の周辺は、凍結しないのでハクチョウの群れが冬を越す。以前、香港の旅行雑誌関係者を案内して、真冬にここで女性記者がサッと服を脱ぎ、露天風呂に入り、ハクチョウと一緒のところを撮影した。その記者根性に圧倒された。ハクチョウと混浴できる稀な露天風呂だ。冬のバードウォッチングツアーでは屈斜路湖は外せないスポットである。

摩周岳から3つのカルデラを展望する

▶5月26日、弟子屈を後にして武四郎一行は陸路で標茶に向かった。そこには弟子屈に運ばれているはずだった食糧が届いていた。
ここから釧路川を丸木舟と陸路の二手に分かれて一行は釧路を目指すのだった。(続く)

〈第七巻〉①松浦図を片手に

【第七巻】 摩周から屈斜路へ
神なる山は何処 ? 屈斜路カルデラを巡る

扉写真は摩周湖を背景に松浦図を照らし合わせる。上の絵図は「久摺日誌」に描かれた一行が滞在時の様子。

▶松浦図を片手に
1858年(安政5)5月21日、西別川から戻った武四郎一行は釧路川岸の弟子屈に着いた。ここで武四郎一行にアクシデントが起こる。釧路会所を出発する前に食糧の補給を依頼し、弟子屈で受けとる予定であったが、その荷物が届いていない。この食糧待ちをしている間、足掛け五日間にわたり一行は屈斜路湖周辺で過ごすことになる。結果、この食糧は下流の標茶に届いており、事なきを得るが、登山やトレッキング中に食糧や水がなくなるのは心細い限りである。
▶屈斜路湖は北海道では洞爺湖に次ぐ二番目に大きいカルデラ湖である。この地域のナンバーワンの一つは、屈斜路カルデラが日本一の大きさを誇ることである。広さ約20㎞×26㎞でそのほぼ半分は屈斜路湖となっている。ここには約7千年前にできた摩周カルデラも含まれている。
若い時、旅行で見た阿蘇カルデラの雄大さに、ボクは圧倒された記憶があり、〈阿蘇カルデラは日本一〉とつい最近まで思っていた。阿蘇カルデラのうたい文句は「世界最大級の阿蘇カルデラ…」となっており、ここらへんが思い込みの一丁目。実は日本一は屈斜路カルデラなのだ。ちなみに世界最大のカルデラはスマトラ島のトバ湖を囲むカルデラで、長さ100㎞、幅約30㎞もあるそうだ。世界はデカイ!

摩周第三展望台から望む屈斜路カルデラ。白い山肌がアトサヌプリ(硫黄山)。その奥に屈斜路湖と藻琴山が見える。


▶戊午日誌によれば、武四郎は摩周湖を反時計回りに一周してから、西別岳を経由して西別川中流域のシカルンナイまで下り、とって返し弟子屈まで戻り、弟子屈と屈斜路湖のコタンに滞在している。
屈斜路カルデラを全貌できるお勧めの展望地は二つ。
一つは摩周湖第三展望台である。摩周湖と摩周岳の素晴らしい景色を眺めた後、回れ右して後ろを見ると屈斜路湖とそれを取り巻く外輪の山々が一望できる。阿蘇カルデラを見た時は、カルデラの鍋底に様々な街並みが見渡せたが、屈斜路カルデラにはほとんど街らしい街がないので、きっと大きさを比較する対象物がないことが印象の違いになっていたのだと思う。
もう一つの展望地は藻琴山展望台である。藻琴山登山口手前、道路沿いの駐車帯に展望台がある。屈斜路湖とそれをとりまく外輪の山々が眼前に広がる。
登山をされる方は外輪を構成する藻琴山、摩周岳、西別岳などにぜひ登られることをお勧めする。藻琴山は、頂上に一升瓶を立てると千mになる山で、国土地理院の地図(2万5千分の1)には999・9mと表示されている。道東の中高年登山愛好家たちは春先の足慣らしに、これらの山に登る。景観の素晴らしさはもとより、特に西別岳は6月下旬頃からは高山植物が咲き誇る人気の山でもある。千m以下の低山で高山植物と出会える北海道ならではの登山が楽しめる。
一行が滞在した屈斜路アイヌコタンのあるクッチャロとテシカガは阿寒摩周国立公園を代表する観光地で、屈斜路湖岸の砂湯キャンプ場、和琴半島キャンプ場などは人気のキャンプ場である。また、弟子屈町の「道の駅 摩周」は道内でも人気の道の駅となっている。

第三展望台から摩周湖を望む。中島と摩周岳、そして摩周ブルーの湖面が美しい

▶武四郎一行は5月21日から25日まで滞在したが、25日には丸木舟で釧路川を下って、テシカガに泊まった。その夜、月夜だったが雪が降り、その雪が桜の花の上に降り積もっている情景を武四郎は印象深く日誌に記している。
ゴールデンウィーク明けの道東地方は春というにはまだ肌寒く、多くのドライバー達はタイヤの履き替えを躊躇する期間でもある。5月上旬はエゾヤマザクラはまだ咲かず。その開花期は、道東では例年5月中旬頃まで待たなければならない。釧路、根室は稚内と並んで桜の日本列島最終便の地である。だから桜に雪が積もる情景は道東ならありうる光景ではあるが、さすがに珍しいことではあるかもしれない。
以前、ゴールデンウィーク明けに雌阿寒岳に登った時、麓は桜がちらほら咲き始めていたが頂上でいきなり吹雪になり、道を見失い、ちょっと焦った経験がある。5月の道東は、やっと春が来た…かも? と言う季節感なのである。(続く)

〈第五巻〉③オホーツク人は何処

【第五巻】 ご先祖様の行方を探して~ルーツ再発見の旅 モヨロ貝塚からウトロへ

扉写真はオホーツク海以久科海岸を埋め尽くす流氷原。上の写真は樽見一族の北海道入植百周年を記念してクスリ凸凹旅行舎で2020年出版した「開拓百年を越えて~馬おじさんへの手紙」。

▶岐阜県根尾村に樽見家のルーツを探した一族の旅もいくつかの「かもしれない…」説を手にはしたが、確実なルーツにたどり着くことはできなかった。ボクの代から遡って6代先の先祖まで行きついたが、それから先は歴史に名を遺す超有名人でもない限り、市井の人々のルーツは推測の域を出ないのだそうだ。
しかし、ヒトゲノムの解明で一足飛びに数年万年前の自分のルーツが判るそうだ。また、どんな民族の血と関りがあるかも判るそうだ。いつか、庶民でもコロナのPCR検査なみにルーツ検査ができるかもしれない。民族間のいざこざも少し緩和されるかも。

樽見一族の移動ルートを根尾村教育委員会の調査をもとに作図(クスリ凸凹旅行舎作成)

▶近代以降、北海道への本土からの移住は、明治19年から大正11年までの37年間に三つの大きな波がある。日清戦争後の明治30年(1897)を第一のピークとし、日露戦争後の明治41年(1908)がこれに続く第二のピーク、最後は第一次世界対戦後の大正8年(1919)が第三のピークであった。この間、移民の総数は55万戸、約201万人が移住し、「北海道移住の時代」と言われている。(『北海道の歴史 下』北海道新聞社刊)
樽見家が徳島から北海道に渡った大正8年はこの第三のピークであり、貧窮を極めた徳島県は県知事が当時の県民69万人のうち20万人を北海道に移住させる計画を作っている。さすがに計画通りには行かなかったが、その困窮ぐあいが伝わる。
わが一族の曽祖父は、四国山地から原木を切り出す木材の流送職人であったが、資源の枯渇と輸送モードの変化で仕事をなくし、北海道移住を決意した。十勝に渡り着いた先祖は、道内移住で小清水町止別村を経て、現在の斜里町以久科に昭和3年にたどり着く。
▶本州に習い稲作水田造成を勧めていた村は、度重なる冷害、干ばつ、害虫の発生により昭和12年に水田をあきらめ、馬鈴薯(ジャガイモ)を中心とした農業開拓とその澱粉加工で「澱粉王国斜里」と呼ばれるに至り、これに乳牛酪農業が加わり、従来からの基幹産業である漁業と合わせ、まちの産業が確立した。
樽見家も澱粉工場を興し、本家を継承した伯父は馬産や肉牛の畜産、ヤマメの養殖事業、観光レジャー施設の運営、菊芋の健康食品作りなど多種多彩な事業を行なってきた。
ボクの小さい頃は以久科海岸に流れ着く海の幸や、野山の山菜、そしてハレの日(ほとんどお正月だけだった)は飼っていた羊がジンギスカンに姿を変えて食卓を飾った。初めて〈肉を食べた!〉という記憶は、この羊肉だ。

戦時中の樽見家本家の様子。学生たちは援農で来ていた者たちで家長は学生の横。昭和17.18年頃。

▶ボクの初めての海外旅行は中国の西域シルクロードだった。ウイグル、チベット、カザフの民やミックス(明らかに西方と東方の混血を思わせる人々)たちとの出会いで、中国が9割の漢民族と、残りの1割が55の少数民族で構成された多民族国家であることを実感した旅であった。
カザフ族の居留地に滞在した。その時パオ(テント型住居)で羊を潰し、茹でた肉と、乳で作ったチーズとチャイ(ミルクティー)、そして小麦粉のナンの夕食を頂きながら、周りのカザフ族の住民があまりにもボクの親族に似ていて唖然とした。叔父さんや叔母さんたちに囲まれながら仄暗いパオでする食事は、言葉は通じなくても心穏やかな宴で、家畜と共に命を分かち合う暮らしに懐かしさを感じた。旅の思い出が幼い時の記憶とつながった。今にして思うと、ルーツを共にする人々に出会っていたのかもしれない。

カザフ族の家族。パオのなかで一宿一飯。昔の自分に出会った気分。(1984)

▶『牛のはなし』で叔父さんは「四変」(正式名称「第四胃変位症」という)の病気にかかった牛の開腹手術を15分ほどでおこなう自らの施術を〈マジシャンのような早業〉と、ちょっと自慢気に紹介している。しかし、この話の本題は別だ。高い濃厚飼料を食べさせ、沢山乳を搾るようになって、牛を経済動物としてしか扱わなくなった、現在の酪農業と社会状況に対する警鐘だ。
四変という病気は以前は無く、濃厚飼料を食べさせることで胃の位置が変位する現象が起きてきた後発的な病気なのだそうだ。本来の牛の寿命も20年もあったのだが、今はたった5年だそうだ。そんな不憫な牛のおもいを叔父さんは牛に代わって語る。
「モーこれ以上乳を出せないよ。モーこれ以上人間のために頑張れないよ。モー少し長生きしたいよ。地球上の生き物はみんな仲間だ、共生しよう。人間は野生動物の保護ばかり叫んでいる。あまりにも不公平だ。人間のために野生動物が何かしてくれたの。牛だけがこんな酷い目にあうのはモー我慢できない。今度生まれてくる時はモー牛はまっぴらだ。野生動物がいい。待てよ、水にも空気にもこれからダイオキシンがだんだん増えるそうだ。そうだ! やっぱり青いオホーツクの海底で静かに暮らす貝がいい」。(『牛のはなし』より)
60年を越えて、酪農家と家畜の暮らしを現場で見続けてきた人の言葉は重い。

叔父さんの沖縄の貝のコレクション。膨大なコレクションが庭や室内に展示され、私設博物館の趣である。

▶叔父さんの沖縄の貝のコレクションは、こだわりの人らしく現地との交流も重ねながら、ただならぬ量と質を誇る。コレクションを眺めていると、貝が人間の為に命を捧げた夥しい数の〈名もなき牛たちの墓標〉のように思えてきた。
そして、ふっと叔父さんの心の中にも〈オホーツク人の血〉が騒いだのではないかとの思いに至った。
海に眠っていた貝は、太古に北と南に分かれた〈アイヌ〉と〈オキナワ〉の民が、先祖からから引き継いできた物語を蘇らせ、オホーツクの地で、北方の海人の調べに耳を澄ませているかのようにそこにあった。(終わり)