「映画・本・JAZZ・登山」カテゴリーアーカイブ

〈第五巻〉①ボクの叔父さん

【第五巻】 ご先祖様の行方を探して~ルーツ再発見の旅 モヨロ貝塚からウトロへ

扉写真は昭和30年代の知床半島ウトロの様子。我が家のアルバムから。上は叔父さんの獣医師・樽見佐吉。80歳を越えて現役で「たるみ動物病院」社長。

▶ボクの叔父さんは80歳を過ぎて、今も現役の獣医師である。本家のある斜里町で地域の主要産業の一つである酪農業を60年にわたって支えてきた。七人兄弟の三男として生まれた叔父さんは一家の中で唯一、上京して大学に入学し、故郷の期待を背に獣医師になって帰郷した。ボクの母親が年長の長女で、我が家は父親も同じく斜里を故郷としていたので、ボクにとって斜里は第二の故郷である。昭和30年代前半に田舎の大家族の農家から東京の大学に行くということは大変なことだった。叔父さんは稀有な秀才であるばかりか、文武両道の人で大学では相撲部で活躍した。叔父さんはこれまでの仕事のエピソードをまとめた『牛のはなし』というエッセイ集を出版した。本には入植当時の農家の苦労や牛にまつわる様々なエピソードが綴られている。
昭和35年から新米獣医師として仕事をはじめた叔父さんは、さっそくオートバイを購入し、斜里から45キロ離れたウトロに通い、入植者に国の支援事業として導入されたショートホーンという短角牛の飼育指導にあたった。
▶ウトロは武四郎が来た時(安政5)には番屋があった。漁業は古くからの主産業ではある。昭和10年代から斜里町は漁業に加え、ジャガイモをはじめとする農業生産物と乳牛を加えた「有畜寒地農業」による冷害に強い産業振興策を進めた。
この話には何処からかやってきた70戸の入植者に預けられた牛が、冬を越してどこかに消えてしまったというオチがある。真実は叔父さんの胸の中にはあるのだろうが、今は問わず語らず。厳しい自然と対峙しながら人々は知床の地で暮らしてきた。

斜里町以久科に入植した樽見一族。昭和16年頃の太平洋戦争へ出征する記念写真。

▶ボクの子どもの頃、夏に幌を被せたトラックの荷台に一族(20名ほどいただろうか)が乗り込んでウトロに遊びに行ったことがある。小学校低学年の頃だと思うので、きっと叔父さんがバイクでウトロの農家の牛を診に通ってた頃と同じである。全線、砂利道だったように思う。オシンコシンの滝は、今は海岸線沿いに下から仰ぎ見るが、当時は滝の落ち口の山側を道は通っていて、上から覗き見たように思う。ボクたちは畑のスイカや味瓜を積み込んでウトロの海岸でみんなで食べた。知床はまだ国立公園にもなっていないし、世界自然遺産なんか、だぁ~れも知らない。一族のピクニックはガタガタ道の乗り心地はさておき、のんびり楽しいひと時だった。快晴で海がとても澄んでいた記憶がよみがえる。その記憶は齢を重ねるたびに輝きを増す。

オホーツクの海(峰浜海岸)で遊ぶ一族の記念写真。昭和30年代前半。

▶一族の長で本家を守ってきた伯父さんが令和元年に亡くなった。葬儀に集まった甥っ子姪っ子との昔話、思い出話を辿っていったら、一族が北海道に入植してからちょうど百周年であることに気がついた。叔父さん達も加えて一族の開拓誌を作ろうということになり、ボクと叔父さんは一族の移住の歴史について調べることとなった。ボクはその前年、北海道命名150年の節目の年に、松浦武四郎の資料展を釧路で仲間と一緒に開催していた。イベントの中の講演会でアイヌの仲間が武四郎のことを話した。彼は、「武四郎が名前をつけたからそれがどうしたっていうのというのが正直な気持ちだ。武四郎の話で終わったら後の150年は放っておくの? 和人の自分たちの先祖の功績も見つめるべき」と指摘した。チクリと胸に刺さった。
武四郎を契機にしたアイヌと和人の蝦夷地の歴史。そして伯父の死を契機に一族の北海道移住史へと広がった。また、齢を重ね、〈我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこに行くのか〉という、日本人の起源にも興味が膨らんだ。(続く)

〈第三巻〉③検証登山てんまつ記

【第三巻】 イタルイカオマナイから雌阿寒岳へ
 登ったのか? マチネシリは何処

中間点の800m峰頂上(C地点)でカムイノミ。後ろに雄阿寒岳を望む

▶2022年5月26日木曜日。長年の懸案であった武四郎一行マチネシリ検証登山が実現した。天気は快晴。最高気温は25℃近くまで上昇した暑い一日であった。阿寒クラシックトレイルの仲間と阿寒湖温泉のガイドスタッフ計5名でイタルイカオマナイ沢の入り口を8時半にスタートした。
ルベシベの峠(ルチシ)に10時に到着した。渡辺さんの見積もった〈シユマタツコフからルベシベまで約2時間〉という行程時間はほぼ一致した。ここからほぼ直角に西に折れ、800m峰のピークを目指した。予想はしていたが笹藪こぎと針葉樹林の倒木を超え、ピークである標高830mまでの標高差は約200m。1.2kmの道なき道を1時間10分ほどかかり、到着した。
▶800m峰ピークからは北東に雄阿寒岳とそれを取り巻く阿寒湖の眺め、西側にフレベツ岳や雌阿寒岳の山並みが美しい。ここがアイヌたちが祈りを捧げるカムイノミウシまたエナヲウシであることを十分推測しうる景観であった。
小休止後、西に向けて雌阿寒岳登山口を目指した。一旦、標高650m地点まで降らなければならなかった。この間が急な斜面で、背丈に近いほどのクマイザサを漕ぎながら数度にわたって転倒し、やっとの思いで接続する林道に出た。ここで30分ほどの昼食を済ませ、この延長上にある750mのピークまで登り返し通過する予定であったが、笹藪が思いのほか手強く、精根使い果たし、アミノバイタルも使用済みであったボクの提案で迂回する林道を行くことになった。白水フレベツ林道を使って雌阿寒岳登山口を目指した。


▶雌阿寒岳登山口に到着したのは午後1時半であった。我々の検証登山はここで一旦終了した。ルベシベ(ルチシ)出発から雌阿寒岳登山口まで要した時間は3時間半である。これを武四郎一行のタイムテーブルに合わせると一行のルベシベ発を8時半とすると、雌阿寒岳登山口には12時頃到着になる。ここから夏山ガイドブックに沿った登山時間を充てれば、登山口から頂上到達時刻の午後2時までの約2時間で行くことができるのは剣ヶ峰になる。な、なんと! ぴったりの時間設定ではないか!
また武四郎の記した距離程においても、地図上で計測した約8.3kmの距離と一致した。

▶さて我々の検証登山日と武四郎一行の登った5月10日には2週間ほどの日にち差がある。この早春の頃は1日毎に条件が変化する。これをどう勘案するか。
今回の参加メンバーは阿寒湖温泉で長年ネイチャーガイドをし、阿寒クラシックトレイル研究会の代表でもある安井。アイヌコタンでアイヌ料理のカフェを営み、日常的に山菜採りなどで山に入っている郷右近。アウトドアサイクリング団体を主宰し、林道はじめ阿寒の道を熟知している松岡。皆、阿寒の自然を熟知し、40代。安井は武四郎がマチネシリを登った41歳と同年である。女性ネイチャーガイドは30代?。ボクが68歳で体力的にはみんなの足手まといである。途中で何度となく転び、最後尾を遅れ気味についていく。おまけに記録用で愛用していたコンパクトカメラをどこかで落としたらしく、みんなに捜索する手間まで付け加えてしまった。

カメラを無くしたショックと疲労にうな垂れながら仲間に励まされ、もうひと頑張り。背後のピークが800m峰で地図のDからE方向


▶安井は、「当時の笹の状態、雪の状況次第で、雌阿寒岳(ポンマチネシリ)登頂も不可能ではなかったと思いました。5月前半ということで、春の堅雪がブッシュを覆うほど残っていた可能性は十分あると思います。800m峰のところはぐるっと阿寒の様子を見渡せて、カムイノミするのにもいい雰囲気と感じました」と阿寒の自然を熟知している代表ならではのコメント。
後半は林道を歩く形になったので当時より格段に歩きやすかったには違いないが、現行の雌阿寒岳登山口は北側に寄っているので迂回する分、距離は長くなった。

現在の頂上(ポンマチネシリ)直下から中マチネシリ、剣ヶ峰(マチネシリ)そして雄阿寒岳、阿寒湖を望む武四郎一行が登ったと思われるルート。HからG方向(2枚合成)

▶結論から言えば、武四郎一行が登ったと記されたマチネシリ登山に関する時間や距離の計測は、とても理にかなった情報であった。マチネシリが現在の剣ヶ峰だったとしたら、日誌の記述はとてもリアルなものであった。これをもって武四郎がマチネシリに登ったことが事実だったのかどうかはもはや知る術はない。ただそこに記された記録はマチネシリ登山がフィクションではなく、少なくともアイヌ案内人からの聞き取りや現地の山容、地形地質、植生を読み解きながら、自らの経験と見識を加味し綴られた〈武四郎の登山紀行〉というほかはない。
▶日誌に記されているカムイノミウシ又はエナヲウシについては、登りと降り両方に通過したポイントであるため、おそらく白湯山西側の750mピーク(D地点)で、ここから湖畔に向けて下山ルートを取ったものと推察される。(現在の白湯山登山路に重なるイメージ)

下山路に使ったであろう白湯山から湖畔に下るルート。IからJ方向

▶これまで武四郎の記録については、武四郎自ら〈分飾を施した又は興を加えた〉とされる日誌の表現が、ともすれば〈話を盛る、表現過剰〉で、情報の信憑性まで疑われる嫌いもあったようだ。
しかし、阿寒紀行に関しては、ボクたちの阿寒における経験や今回の検証登山と、武四郎の記録を擦り合わせると、武四郎一行がマチネシリに登ったことは《ノンフィクションとして物語ることができた》とおもっている。
▶下山時に失くしたカメラは親友が退職記念にプレゼントしてくれたもので、これまで多くの旅行や登山に同行し、沢山の思い出を遺してくれたイッピン。今回も途中経過を写し、800m峰の頂上から眺める360度に展開する雌阿寒岳や阿寒湖、雄阿寒岳の景観をビデオ機能で撮影した。これらの記録は、この登山ルートのどこかにタイムカプセルのように封印され、次の探訪者に発見されるのを待つのか—。
誠に残念ではあるが、ボクは、記録の喪失より、仲間と共にこの検証登山ができたことの記憶が大切な宝物として遺った喜びを実感している。(終わり)

北海道のハイマツ

こんなハイマツの道もあります。疲れた足を上げるのが大変

ハイマツは北海道の山では1000m位以上の高山には普通に見られるが、弟子屈の硫黄山周辺などは硫黄で土壌が強酸性のため平地でも見れる。球果の松ぼっくりはヒグマの重要な食糧の一つではあるが成熟に2年かかるので、この豊作凶作がヒグマの出没件数にも関連するようだ。今回の大雪山縦走では雌花雄花が咲き、花粉舞うハイマツ帯の通過が大変だった。ハイマツの花粉アレルギーもあるのかしら? この時期のヒグマはハクサンボウフという植物の根が主食のようで、雪渓の糞にもハイマツは入っていなかった。種子は動物散布で、その主役であるホシガラスにも出会わなかった。まだ食べるには熟した松ぼっくりがないのかもしれない。北から広がった氷河期の遺存種で日本はその南限(南アルプスあたり)だそうだ。

『クスリ凸凹旅日誌』▶13話:大キレットって何?

2014年9月6日~13日
北アルプス槍ヶ岳から大キレット経由
奥穂高岳

 いよいよ大キレットである。キレットとはガレットのように食べれるわけではなく、キットカットのように甘くもない。英語ではなく切戸と書く。日本語である。岩でできた刀の刃のような稜線が大きく抉れているところをキレットという。
 我が国最大のキレットは北アルプスの槍ヶ岳から北穂高岳までの間にある大キレットである。ボクたちが最初に北アルプスに足を踏み入れたのは1995年。家族登山であった。娘は小学校5年生。我々は41歳の時だ。それから再び北アルプスに足を踏み入れるのは十数年後で、その間、子育てや仕事に没頭していた。
 全く山に行かなかったわけではなく、北海道の日帰り登山は楽しんでいた。北海道と北アルプスの山の一番の違いは、北海道の山は火山や土壌が盛り上がって山になった感じ。北アルプスは岩山である。人によっては女性的な北海道と男性的なアルプスとかいうが、岩のような女性もいるのでボクはこの表現に与しない。


 雑誌PEAKSの岩山特集で掲載されていた危険な岩山番付によると、大キレットは東大関だ。図の黄色いマークの所が我々の登ったところで、結構危ない山も登ってきた。
 中でも左の横綱である剱岳別山尾根を2年前に登っていたボクたちは少し自信をつけていたのかもしれない。それまでノーマーク(少なくともボクは)であった大キレットへの挑戦の気持ちが芽生えていた。ちなみに東の横綱「西穂高岳から奥穂高岳」の区間は最難関箇所で行く可能性はゼロ。生まれ変わってもボクは行くことはない。東西横綱のレベル差は東横綱が大鵬であれば、西の横綱は柏戸ぐらいの差になる。(分かるかなぁ? この違い) 
 ボクたちのルートは上高地から槍沢沿いに槍ヶ岳に登り、北側から大キレットを縦走して南側の北穂高岳、そしてその先の前穂高岳までの予定であった。一番最初に娘と行った時、槍ヶ岳は小雨が降っていて登頂を断念した。 今回初めて登頂して想像以上に怖かった。あの時、無理せずに登頂を断念した判断は正しかったと思った。
 頂上直下の槍岳山荘で昼食をとって、好天だったので次の南岳小屋まで歩を進めることができた。ここで一泊し、いよいよ大キレット縦走である。

 大きなV字の岩山の切れ込みなのだが、その落差は約300mでさらに底にはギザギザのピークが2ヶ所ある。それが「長谷川ピーク」と「飛騨泣き」と呼ばれる大キレットの2大核心部である。
 長谷川ピークは昭和20年代頃、大学生がここで滑落し、奇跡的に救出された場所だそうで、その人の名前が地名由来となっている。
 飛騨泣きは稜線が刀の刃先の上を歩くような感じで、左足は信州側(長野県)、右足は飛騨側(岐阜県)を跨ぐ感じのところで、特に飛騨側は岩から垂直に最大500mぐらいの落差に切れ込んでいる。思わず泣いてしまう「飛騨泣き」なのだ。
 危険要因は二つ。一つは滑落である。足が恐怖ですくんだり、ボクたちみたいな中高年は平地でもたまに躓くのに、こんなところで躓くと取り返しがつかない。二つ目は落石である。約300mぐらいを上ったり下りたり繰り返すので、岩場の落石も命取り。
 予防策も二つ。一つは「三点支持」という岩場の登坂技術。これは経験と練習で徐々に身についてくるものだ。二つ目はヘルメット着用。上から落ちてきた石が当たった経験はないが、岩場を登っていくと角度が急になると登ってる 頭上の岩に気がつかないことが多い。これが結構ヘルメットの傷となって残っている。


 ボクたちは天候に恵まれていた。雨が降っていたらまずだめだ。ボクは高所恐怖症ではないが、当日は適度に雲があり、眼下の風景が雲であまり見通せなかったので恐怖感に苛まれることがなかった。約5時間近くかかり、最後の急登をよじ登り、北穂高岳山頂に着いた。
 昇り降りしてる間、何か考えていたかというと思い出せない。きっと無心に近い状況だったのかもしれない。北穂高岳に着いた時もやったという達成感があったわけでもない。ただホッとした。
 お昼ご飯を食べて更なる連なりの涸沢岳を経由して穂高山荘が二日目の山小屋であった。しかし、この北穂高岳から穂高山荘までの間が大キレットより怖かった。あまり鎖もなく、岩場の急斜面をフリークライミングで降りていかなければならない箇所など息を抜けない。山の事故の多くは危険箇所で注意喚起されている場所より、そういう所を通過した後、ふと気が抜けた時、滑落したりする。


 計画は山中3泊4日。北アルプスの主峰をつないだ縦走でボクたちの登山史上、間違いなくハイライトであった。この計画は連れが作った。登山は連れがいなければこのレベルには至らない。ボクは連れに登らさせていただいたというおもいが強い。しかし海外旅行に関しては、連れはボクを頼りにしていて、海外では謙虚である。持ちつ持たれつ。一勝一敗、五分である。 
 さてこの山行は計画通りには終わらなかった。翌朝、山小屋を出発し、奥穂高岳山頂に立った。しかし前穂高岳にはいかずボクたちはそこから引き返しザイデングラートというルートを使って上高地に下山した。
 これはボクが前穂高岳に行くのを拒否したことによる。予兆は登山口の上高地のビジターセンターに掲げられていた登山事故の状況を示す案内板にあった。ボクたちのルート上では大キレットでも何箇所かあったが一番事故が密集していたのが奥穂高岳から前穂高岳にいたる吊尾根と呼ばれる箇所であった。その事が頭の片隅に残っていて、ボクはどうしても前穂高岳には行きたくなかった。連れにお願いして無理を聞いてもらった。我儘ではない素直なヒロちゃんにしては珍しいことだった。
 ボクは思った。この難関をすべてこなすのは出来過ぎである。槍に登り、大キレットを縦走し、奥穂高岳の頂上に立てば満願ではないか。 人間、体も心も健やかに生きるのには腹八分目がいい塩梅である。二分は次回に残しておく。それがボクたちを見守ってくれた神様、仏様、ご先祖様への礼儀。連れがその事を理解してくれたかは分からない。ただ大キレットの話をするといつもこのことを責められる。できれば大キレットの話は避けたいのだが、話さずにはいられないほどボクにとっても偉業で自慢のことなのである。
 そのことがちょっと辛い。    

『クスリ凸凹旅日誌』▶12話:アートの力は 人を救うか

伊藤若冲だけじゃないぞ!応挙も芦雪も揃って見事なコレクションを堪能しました

2013年8月26日~9月4日
後立山連峰 福島

若冲の衝撃
 本州に登山に出かける時の一般的なスケジュールは登山に2、3泊。これに予備日を1日つけて、前後の移動日も加えると一週間前後の日程となる。どうしても東京が起点となるので予備日を使わなかったときは東京での街歩きや美術館巡りに充てることが多い。
 2013年の後立山連峰縦走は残暑の8月下旬であった。スケジュール通り縦走を終えたボクたちは東京の娘と一緒に丸1日の予備日を福島への日帰り旅行を計画した。


 福島県立美術館で開催される伊藤若冲の展覧会を見に行くためである。この展覧会は東日本大震災の復興支援特別展と銘打たれ、若冲の世界的コレクターであるジョー・プライス氏のコレクションが一堂に展示される魅力的なものであった。プライス氏の意向で高校生以下は無料。大震災で傷ついた青少年たちをアートの力で励ます氏の思いが伝わるものであった。
 NHK「日曜美術館」で初めて伊藤若冲という江戸時代の絵師の存在を知った。プライス氏はアメリカで石油パイプラインの会社の2代目御曹司として生まれ育ち、若かりしとき日本画に魅せられて購入した一枚の絵がきっかけとなり有数の日本画コレクターとなった。その最初の一枚が伊藤若冲の『葡萄図』であった。 
 震災から2年経ったが福島原発の放射線被害は多くの故郷を離れざるを得ない人々を生み出していた。そんな中でも経済復興を牽引するため福島を観光することや地場産品の購入が叫ばれていた。東北新幹線で福島駅に着くと駅のホームに「あなたの旅が福島の元気です」とのフラッグが掲げられていた。


 一方、福島県立美術館の敷地内庭園には放射線で汚染されているので立ち入らないでください、との札があった。
 展覧会の目玉は若冲の『鳥獣花木図屏風』であった。その絵は会場の奥まったところの一室の一面、壁を独占する形で展示されていた。1cm四方のマス目が8万6千個グリッドに並べられ、そこに様々な鳥や動物、木や花がモザイク式にびっしりと描かれている。実在するものや空想のものなどが入り混じっている。
 ボクはこれまで色々な美術館や展覧会、そして教会などで様々な絵と出会ってきたが、今までで一番鑑賞時間が長かったのは間違いなくこの絵である。展覧会全体で約2時間。そのうちの1時間以上はこの絵の前にいた。この絵を見ながら色々なことが頭をよぎった。

フクシマで考えたこと
 絵から離れて全体を眺めると2幅の屏風に描かれている生き物の世界が何ともいえず愛くるしい。天竺(インド風)イメージという識者もいるが、確かに象や虎などのモチーフはそうだが、シルクロードで見た仏画の中にこんな形式のものはひとつもなかった。
 これは若冲のオリジナルなんだろうか? 近づいてみるとマス目の中にさらに複数のマス目が描かれているのが分かる。そして細かなマス目に塗り分けられた色の変化が全体の絵のグラデーションを作り上げている。一つ一つのマス目を見ていて飽きないのである。
 その時、ボクに一つの記憶が蘇った。高校生の時、「アサヒカメラ」という雑誌に掲載されていたデビッド・ホックニーの写真である。
 今でこそデビッド・ホックニーが現代美術をリードする芸術家の一人であることは知っているが、当時は新進気鋭の写真家とばかり思っていた。その写真はひとつの場面を数十枚くらいの写真で再構成している。一見コラージュのようなのだが、あくまで一つの場面を分割し再構成する写真の一枚一枚が大きかったり小さかったり微妙に傾いていたりするのである。
 人間の視覚は一枚の絵画や写真を見ていても常に一点の視点が移動しながら全体像を把握する。つまり全体を見ているつもりだが実は一点しか見ていない。これは生理的なことなので如何ともし難い。このことをホックニーは利用し、平面の全体を分割し、複数の視点移動で表現する習作を作っていた。
 1時間も同じ絵を見ていても飽きない一つの理由がホックニーと伊藤若冲の技法に共通する視覚の誘導方法にある。
 先人たちは遠近法や明暗法など様々な手法を開発し、表現の世界を切り開いてきた。「ジョイナーフォト」と名付けられたその技法にボクは妙に引かれ、自分でも同じ手法で何点かの作品を作った。
 伊藤若冲は極めて独創的な手法でいきものたちの姿を描いた。現実に存在する生き物も空想の生き物もこの1cmのグリッド単位を起点として描いた。ボクにはそれが脳細胞の集合モデルを見てるような感じがした。
 頭の中で空想されるイメージの脳細胞図を見ているような思いに駆られた。

  
 会場からロビーに出ると多くの人が列を作っていた。何かと思って前を見るとなんとプライス氏がお連れ合いの悦子さんと一緒にサイン会をしていた。ボクはあまりサインが欲しいとか思わないたちなのだが、プライスさんにひとこと声をかけたくて、その列に並んだ。
 あの時、ボクは彼になんと声をかけたかったのだろう。
「日本のためにありがとう」
「素晴らしいコレクションを見せてくれてありがとう」
「復興支援にご尽力ありがとう」等々。
 英語でいうフレーズを考えていたら美術館の係員がボクの前で「サインはここまでにします。よろしくご理解ください」とのこと。
「コチとら北海道から、それも後立山連峰を縦走し、東京を経由し、わざわざまわり道してここに来たんだぞ!」と叫びたい衝動に駆られた。
 その時聞き慣れた声で「お父さんカレーきたよ」との声。そうだ! 先に展示場を出た家族と館内の食堂で昼食をとる約束をしていて、ボクのメニューはカレーと先に決めて入場したんだよな。
 アメリカを代表する石油資本の御曹司に生まれたプライスさんの出自は原発事故で福島を離れざるを得なくなった若者の出自と宿命という点では同じである。選ばれた運命。一方、若き日のプライスさんが目にした『葡萄図』に魅せられ購入した彼の慧眼は自ら拓いた道であった。
 独学で日本美術を学んだプライス氏は美術商や専門家の助言とは遠く離れ、自らの眼力で当時全く無名であった伊藤若冲のコレクションを作り上げた。
 福島の若者たちに若冲はどんな衝撃をもたらしたのだろう。
 熱いフクシマの一日であった。