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『クスリ凸凹旅日誌』▶10話:3千メートルへの挑戦

2011年10月12日~18日
南アルプス北岳 奈良井宿

北岳の手前稜線に出ると富士山が眼に飛び込んできた

登る山、見る山
 我々は富士山には登らない。理由は二つある。一つは日本で一番高いところに立ってみたいとか、一番先に何かを手に入れたいだとか、何事も一番に対するこだわりがボクには薄いのである。かつて民主党政権時に蓮舫さんが事業仕分けで高速コンピューター開発に関して、「なぜ2番じゃダメですか?」と質問し、一部に顰蹙をかったが、ボクもあの立場にいたら同じ質問をしたかもしれない。
 小さい頃は足が遅く運動会は昼食のバナナだけが楽しみであった。1番を競うとか、負けん気メンタルが重要な分野はどうも弱い。芸術や文化系の分野で、あっちもいいけど、こっちもいいよね、みたいな心持ちがボクのメンタリティの基盤であった。
 日本で2番目に高い山は北岳(標高3192m)である。我々の〈体の動くうちに山に行こう〉登山のはじまりは、この南アルプスの主峰がスタートであった。
 富士山のような成層火山でガレ場が続く単調な上り、一歩上がって二歩下がる、植物も少ない木もない、そんな登山道も苦手である。よって〈富士は登る山ではなく見る山だ〉という意見に与してしまう。

己の限界を知る
 もう一つは切実である。
 連れは山に関しては(いや運動全般に関しても)ボクよりハイレベルである。体力、俊敏性、いざという時の判断力等々。何もかもボクより上である。しかし人に完璧を求めてはいけない。彼女にも唯一といっていい山に関しての弱点がある。高度障害が出るのである。今までの経験では3千メートルを境に、体調によっては2千5百メートルくらいから頭が痛くなり、体がむくみ、気力が萎える。
 そのことを顕著に体感したのがこの時である。最初に滞在した山小屋は2500mほどで、特に変化なし。北岳にも登頂し、次の縦走する間ノ岳を目指した。この二つの山は標高第二位、第三位でこの縦走路は〈天空の散歩道〉と云われ、ここがハイライトであったが…。


 連れがいつになく言葉少なでうつむき加減になった。少し歩いただけで立ち止まり座り込む。いつもはボクの姿なのだが、頂上直下の山小屋に戻り、どうやら高度障害が出たということになった。小屋のスタッフにも色々気を使っていただいたが食事も喉を通らず、睡眠もままならず、症状は改善せず、結局そのまま翌朝下山とあいなった。
 最初に滞在した山小屋に戻って、外のテラスで休憩をしていると急に雰囲気が一変した。多弁でいつもの連れのリアクション。その変化を一言でいえば「手のひらを返したよう」。オノマトペで表現すれば「ヴァビ~ン!」と一気に快適モードに。お腹が空いたというのでとりあえず行動食を頬張り走るように下山し、麓の食堂でカレーライスとボクが注文した蕎麦も勢いよく頬張った。この露骨な変化。これが高度障害なんだなぁ。凄いなぁ。


 結局、縦走は北岳単独になったが、北岳はなかなか手強い山であった。季節は晩秋であったが高山植物の宝庫でもあり、北岳バットレスといわれる大岩壁も雄大で魅力的な山行を堪能した。しかし、もっとも感動したのは富士山である。森林帯を抜け、稜線に出て、くるっと振り返った時、ちょっと遠くだけど大きく見えた富士山の姿はまことに秀麗な美しさであった。
 いろいろな山に登った時も、遠くに富士山の姿が見えると何かしらの感動が胸にこみ上げてくるのはボクだけではないようだ。「あの奥に富士山が見えますよ」と誰かに伝えたくなり、伝えられた誰かも一緒に「富士山だ!」と感動をともにする。そう、富士山はボクたちにとっては「共感する山」なんだなぁ、と思った。富士山に登れないのは残念だ、とは思わないが、連れに高度障害がなければやっぱり一度は登っていたかもしれない。富士山の頂上でどんな思いを抱くんだろうな。できることより、できないことの方がおおいのが世の常。できないことを想像してみる楽しみ、というのも富士山は教えてくれる。

           

『クスリ凸凹旅日誌』●随想①私の旅スタイル

登山も海外もいつでもどこでもリュックご愛用(スペイン、マドリッド駅)

塩 幸子

●「荷物は背中に」がモットー
 どこに行くにもリュックにしている。どうも荷物を手にすると、右か左に偏りがちになる。
 リュックなら背中で左右対称だ。
 ウォーキング、スーパーへの買い物、便利だ。私の住む美原では遊歩道が周りをとり囲む。この道を歩けば、車が入ってくることはない。安心して歩けるが困りごともある。自転車だ。音無しで超スピードでいきなり追い越されるとドッキリだ。自転車は遊歩道で、我がもの顔で走る。万が一、追突されたらと思うと冷や汗ものだが、それをリュックがカバーしてくれると信じている。

● 旅では荷物は最低限がモットー
 登山以外の旅行の衣類は替え一組と決めている。このスタイルは自分との戦いに負けない意志がカギだ。
 旅の1日は歩き通しに近い形となる。特に海外では神経も使うのでクタクタで宿に入る。
 シャワーの後はまず洗濯だ。部屋には小さな石鹸が必ず付いている。洗濯物の手洗いはお手のもの。脱水は手とタオルだ。手で絞るだけ絞って、仕上げはタオルで挟んで絞る。部屋付きハンガーを使って干し、翌朝ドライヤーで仕上げて終了。疲れた1日の終わりのこの作業は、強い意志が必要となる。干された洗濯物を見て、深い満足感を得て眠りにつく。
 そして何といっても荷物を預けず機内直行が楽だ。リュックはそのために重さ(8キロ)、サイズの制限を守って荷造りする。着陸時もリュックを背に短時間で空港を出られる。ある時、一番の早さで税関のチェック時、荷物検査員に足を止められた。不定期の検査が入ったようだ。何の心配もないがドキドキする。調べ終えた検査員が「少ない荷物で旅慣れていますね」と声を掛けてくれた。ヤッターと思った。

● 旅行計画を楽しむがモットー
 本番前に楽しむ。それは重要なことだと思う。山は主に私、海外旅行は主に連れが計画する。だが役割分担は最小として、できるだけ同じように旅行内容を把握することとしている。
 楽しさと苦しさが入り混じった旅があった。九州旅行。もう25年余り昔のことになるが9泊10日の春の旅だった。今となっては懐かしさに、連れとこの旅の話に及ぶことが多々ある。
 娘は小学生。学校を10日間休んだ。長い休みになるので担任に手紙を書いて、娘に持たせた。
 幾日待っても反応がなく、痺れを切らして連絡を入れた。「勉強のことを考えると勧められません」これが返答だった。
 娘の荷物は教科書で一挙に増えた。〝ええよぉ、それなら〟という私の考えで、宿に入ってからしっかり娘は毎日時間割通りの勉強をこなした。完全に学校の勉強など忘れて、楽しめなかった。私の小心さが今でもひっかかる。
 桜はすでに終了していたが、春の九州はあれもこれもと、一つ一つ笑える思い出を私たちにもたらしてくれた。ただこの旅の計画は連れがたてた。帰宅して旅の順路がうまく思い出せなかった。計画にしっかり参加しなかった反省が残った。
 一つ一つの旅を終え、今のスタイルが出来上がってきている。後はもう体力の出来る限りの持続だと思う。

『クスリ凸凹旅日誌』▶3話:山々への気づき あこがれの北アルプス

1995年9月20~26日 燕岳、槍ヶ岳ほか
 塩 幸子

道を間違えやっとたどり着いた燕岳の稜線

私の山々への気づき
 40代半ば両膝に痛みを覚えた。登山を大きな楽しみにしていただけに憂鬱な体調変化に何かしないと覚悟を決めてウォーキングを始めた。健康関係のテレビ番組で、歩くだけではダメと気づき、膝周りの筋肉を鍛えることとした。
 朝、目覚めてから、夜、布団に入るまで、一つひとつの軽い筋トレを日常生活に取り入れた。安心して歩きたい、登りたい、下りたい、この一心だった。時間、場所、お金の心配なく日々生活の中のなかで続けたことが成功の要因だと思っている。
 40代の十年間登れない時期を過ごし、55歳の時に雌阿寒岳を痛みなく下りられたことに何よりホッとした。その後、連れと共に様々な道を楽しめてこられた。
 日々継続の力の賜物だった。

登山との出会い~初めての北アルプス
 小学校5年の時、友人宅で見たアルバムの写真に釘付けになった。「雌阿寒岳家族写真」、登山を私の内に大きな概念として受け止めた出来事だった。
 山とは深い緑、連なる沢山の木々では? 想像とは違う! 行ってみたい! 強く感じたあの感覚が忘れられなかった。中3の大雪山黒岳から始まり、現在までの山行は夏山中心で年数回の限りではあるがどれも思い出深い。
 近年は膝痛の心配が小さくなり、ここ数年間、続けて憧れのアルプスに行けたことが何よりも今の私を満足させている。
 高校生の時、図書館で『槍までの道』と題した雑誌の中の写真が目に止まった。それからは、すっごく北アルプス。ずっ~と北アルプス…だった。まず目に留まったのは天を突き刺す槍ヶ岳ではなく、「燕」岳。何でこの一字でツバクロと読むのか不思議だった。頂上あたりは奇岩の数々。山の頂は岩? それも白っぽい岩。この山を通過して槍に立てたら……。


 この時点で私は中学生の時、たった一度の大雪山黒岳登山経験しかない存在だった。憧れではなく夢のような北アルプスの山々。それから40年後、膝の調子も良好で雌阿寒岳を下れた私は、連れと燕から槍の計画を立てた。幾度も地図を見て山道を頭に入れた。「燕」の漢字も書けるぞと一応の準備として満足していた。充分とは思えないが、まあこのくらいでヨシとした。小5の娘を伴って三人で勇んで穂高駅に立った。中房温泉で一泊。翌日の好天を願い眠りについた。
 願った通りの晴れの朝を迎えて、整備された山道、途中の小屋で名物のスイカは食べられるかな? 辛い行程では楽しみが必要だ。一切れいくらかなぁ? と考えながら登り始めた。
 結構な登り時間が過ぎた。頭に入れた要所要所のポイントがなぜか出てこない。連れも変だと言い出し、ちょっと慌てて地図を広げた。大体、全く他の登山客に出会わない。登り人も下り人もいない。
 登山口を軽い気持ちで温泉客に聞いた〈一つ目の失敗〉。前日の下見を怠った〈二つ目の失敗〉。一瞬頭がくらっとした。まさかの間違い。登り口が二つあったのだ。幾度も地図を見たはずだヨ。下準備は十分だと思ったヨ。ドキドキしてきた。今更下れない。予定の1.5倍の登りになってしまった。
 しかしこの失敗が今も思い出に残る登山の一つになった。まずは稜線までの我慢だ。短いジグザグ急登の連続だった。数歩登って息を整える。何度も繰り返す。ふっと振り返ると富士が目に飛び込んできた。山歩きで初めて目にした富士だった。遠方だがその高さがよくわかった。嬉しかった。少し疲れがとれた。そんな気がした。

 燕岳から東沢岳を結ぶ稜線に出た。北アルプスの中心部が目前に突然現れた。沢を挟んで対峙する山脈の山々は薄いブルーに、点在する山小屋の赤い屋根、青い屋根。沢の下には湖が細長く光っている。高瀬湖だ。私にとってこの出会いが北アルプスの原風景となった。
 燕山荘で一泊。御来光を見て、客におねだりのイワヒバリを観察して、ゆったりとした朝の時間を過ごしているうちに、小屋の登山客は次の山を目指して誰もいなくなっていた。私たち家族が最後となってしまった。早出早着きが原則の山で、またしてもこの調子だ。
 薄氷の張ったなだらかな山道が続く。今ここにいるんだ、と現実の幸福感一杯に西岳まで歩く。槍は徐々にその姿を大きくさせた。西岳までのゆったりした道は終わり、アップダウンが厳しい山道となる。東鎌尾根だ。大きな岩場が続き槍岳山荘に着く。雲が湧いて陽が傾き、この日の槍ヶ岳登頂は明朝に持ち越した。翌朝、霧の中の槍の頂はどうも滑りそうだった。娘に怪我をさせてはと思いながらここまで来ていた。
 勇んで釧路を出てきたが、楽しみに浮き足立っているのはきっと私だけで、この登山で嫌な記憶が残り山登りはもうこりごりとは思われたくなかった。いつになくこの時の私は妙に慎重だった。
 石橋を飛び越える私。少し叩いて渡る連れ。叩いて壊れて渡れなくなる娘。三者三様の性格。慎重なのは大切だがこのコロナ禍の中、自宅アパートで仕事をしている娘は週一回買い物以外、外出してない様子なのだ。これはこれで心配。話を元に戻す。ふっ切れた思いだった。夢の北アルプスに来られたのだ。
 もう十分に満足していた。またの機会が必ずある、そう信じて上高地に下りた。 

映画「アイヌモシリ」は阿寒湖アイヌコタンを舞台にした素敵な映画

 ボクが5年間暮らした第三の故郷、阿寒湖温泉を舞台にした映画「アイヌモシリ」はとても素敵な映画だった。ドキュメンタリーのようでありながらドラマであり、フィクションとノンフィクションが混在する。阿寒湖アイヌコタンに実際に暮らしている人たちが出演している。その演技は日常生活の延長線上で演じられ、とても自然な感じがする。物語はアイヌコタンに暮らす少年とデポさんと呼ばれる男を中心に、その周辺の人々で織り成される。

 阿寒湖アイヌコタンの人々は 昭和30年代以降、木彫りを中心とした土産物販売や古式舞踊などのアイヌ文化を観光客に伝えることを生業としながら、文化の保存継承を進めてきた。その民族的アイデンティティの根幹といわれるのが「イオマンテ」と呼ばれる熊送りの儀式だ。

 春熊猟で射止めた母グマの子熊を数年間コタンで育て、時期が来たら殺して天に送る儀式だ。昭和30(1955)年に北海道の通達で野蛮な儀式として廃止されたが平成17(2007)年にはその通達は廃止されている。アイヌにとっては最も重要な儀式とされているが、今の時代、アイヌではないボクにとっては理屈ではわからなくもないが、その重要性は今ひとつ…?

 阿寒湖温泉では行政マンだったボクはヒグマ対策会議のメンバーとして地域に出没するヒグマの対応に当たっていた。年に何度か温泉街の周辺にもヒグマは出没したがその多くは子別れした若熊であった。ある時、例によって会議が招集され、通学路に出没した若熊に対する対応が議論された。

「まだ若い熊だからもうちょっと様子を見るか」
「爆竹で追い出すか」
「追い出しても縄張りのオスから弾かれる」
「罠をかけようか」
「いや通学路に出てきたら処分するしかない」
「……」。

 そんな議論を映画を見ながら思い出した。映画ではイオマンテという儀式を復活させたいという男のおもいがコタンの仲間たちの間で議論になる。

「熊を殺すなんて今の世の中じゃできない」
「観光客を相手にどう説明する」
「牛でも豚でも食べているのに臭いものには蓋の世の中は納得できない」
「イオマンテを俺たちがどう捉えるかが重要だ」
「……」。

 観光という生業を通して伝えられているアイヌ文化へのもどかしさ。伝統という民族が共有する記憶とその価値について、自分たちの手で体感したいという男のおもいがイオマンテ復活に込められているように思った。イオマンテ復活はこの映画の物語の軸である。

 〈人と自然の共生〉が叫ばれている。時代のスローガンともいえるこのフレーズは何時からかアイヌ文化がその先達の役回りを担わされた。しかし近頃ボクは、人と自然が共生する社会はどこか嘘くさいとおもうようになった。なぜならイオマンテで送られる若熊は殺されるのである。これは共生ではない。どう考えたって一方的な話だ。 そもそも人と自然が共生するような理想郷な世の中がこれまであったのか? その疑問の答えはアイヌの人からいただいたような気がする。

 アイヌの考え方にある〈折り合いの哲学〉。人と自然が折り合う社会、きっとそれは臭いものには蓋をせず、様々な心の内の葛藤やおもいやこだわりを吐露し、議論し、修正し、何かしらの収まりをつける社会。アイヌコタンの人たちはきっと映画の中で演じられた場面のような話し合いをこれまでもしてきたのだとおもう。そのことがこの映画の自然さを醸し出している。

 昨年、温泉街の自然散策路を使ってカムイルミナと呼ばれる夜間の光と音の映像ショーが開催された。そのショーはアイヌの民話をコタンの守り神であるシマフクロウが語るものであった。ボクは阿寒湖温泉に暮らしていた時、この散策路の森に生息するチプッタチリカムイ(舟を造る神様)と呼ばれるクマゲラを何度か見ていたのでこのイベントには反対であった。人と自然の共生をうたいながら、実はカムイたちをこの森から追い出すことになる矛盾。アイヌの仲間にこのことを問うと「そのぐらいの事は大丈夫だ」と彼は軽くいなした。

 一方で会場の設営や運営に多くの地域の人々が参加し、そこで暮らしの糧を得る姿を見て、ボク自身の折り合いをつけなければならないと思った。職場の後輩にボクと同じような視点を持っている人たちに説明できるようしておいた方がいいとアドバイスをした。我ながら世間に忖度する気分であった。本当はやめてほしい。でも地域がやるとまとまったのなら、そのことを考え方として整理してほしい。自分の考えはさておいて。なさけないが本当に整理なんてできるんだろうかと疑問がわく。

 この映画を見ながらやっぱり人と自然が共生する社会(地域)なんて、ありもしない理想のスローガンに振り回され、騙され、思考停止されることより、折り合いをつけるため、現実を直視しつつ異論、反論も包含し、でも核心は忘れない柔軟な心持ちを持ちたいものだとおもった。初老を迎えるボクがいい歳をして、今更無理な話なのだろうと思う。きっとこの映画の主人公である少年に対するボクの期待なので、おせっかいなことである。お母さんもあの男も近くで寄り添いながら少年に優しく伝えている。 

 この映画に登場する出演者は、俳優としては素人なのかもしれないが、日々表現の術を鍛錬している人々である。コタンでの生業とともに、朝や夜には観光客を相手にアイヌ文化を伝えるマルチワーカーたちだ。

 ボクたちは本物の自分を考える時、日々ちょっとした嘘や、ホラ話や、自己顕示、ささやかな虚飾で彩られたもう一人の自分と同居しながら生きている。どちらも自分であり、そのことを客観視できるのが大人になるということなのかもしれない。

 少年から老人まで、コタンの人々のささやかな気持ちの揺れを丁寧にとらえた映像。少年たちのバンドの語らいで、アイヌの楽器を使うことをためらう仲間をみんなで受けとめるシーン、カラオケで歌いまくる男に呆れた表情のスナックの女主人、ちょっとした等身大の人々のスケッチが積み重なっていく。それを時にトレンディドラマのワンシーンの様に、はたまたニュース映像の様に、家族の想い出の8ミリムービーの様に積み上げられて映画は輝きを増していく。

 福永監督を中心とする映画作りのスタッフたちは、様々な映画的表現を駆使しながら、失われつつあるイオマンテの記憶を阿寒湖アイヌコタンに手繰り寄せ、その真実を解凍させ、我々にその意味を伝える。映画の歴史の古道を歩きながら新たな映画の道を創造して行く作業がコタンの人たちの自己表象能力とシンクロし、素晴らしい映画的興奮を我々にもたらしてくれた。過去と現在を行き来し、伝統と創造を織り交ぜ、夢のような現実のような、その混沌とした交差する道筋に表現の確かな方向性を導く映画文法。

 最後の熊送りの儀式に参列する少年と異論を乗り越えて、〈決めたことはみんなで取り組んできた〉コタンの伝統に沿って参列したコタンの男たちの後ろ姿。少年の赤いモンベルのハードシェルが民族衣装の中に溶け込む。

 少年と父との静かな再会。送られる子熊の目に宿る炎。そして少年が見上げる先の樹冠に止まったコタンコロカムイの姿。印象に残る様々なシーン。実写なのだろうか? CGなのだろうか? 本物なのだろうか? 作り物なのだろうか? 
 どちらでも構いはしない。記憶が伝承され、継承される。そのことにかけたおもいは〈真実〉としてこの映画に刻まれた。 

KC3S0011

 あの時、ヒグマ対策会議で検討された子熊は結局、殺処分された。現場に立ち会った。子別れして間もない子熊であった。その夜、ハンターの仲間からその熊の肉を食べないかと電話があった。ボクは即座に断った。今思えばボクはその子熊の肉をいただいてその命を体感すべきであったと思う。

 後日、お世話になっていたアイヌの古老が語りかけてきた。
「あんな小さな子熊を殺すなんて。かわいそうに。カムイノミしておいたから」。

 ボクは少し心が軽くなった。

 今の時代に羆のイオマンテをすることの必然性はない。人間が生きていく上で必要な殺生の現場から遠く離れた現代社会。しかしその現場は確かにこの世に存在していたし、今もし続けている。その命に向き合い、持続可能な社会への恩恵を願うおもいを儀式にこめ、人と自然の折り合いをつけてきた先人たちの確かな生の記憶は、どこかに留めておきたい。

 「アイヌモシリ」はその役割を託された映画になった。

 ボクにとって素敵な映画とは端的に言えば〈信じられる映画〉である。そこに込められた〈心と技〉。第三の故郷の記憶が確かに刻まれた「アイヌモシリ」はボクの宝物(イコロ)にもなった。

第7話「トラベルはトラブル」(私たちの旅スタイル全7話)

ローマの地下鉄でスリに会う。混んでいる時は要注意。

 重大なトラブルで旅行自体に影響が及ぶような経験はないが、小さなトラブルはちょくちょく出現。これに焦らず、慌てず、冷静に対処するのが旅の醍醐味。田部井淳子さんと登山した時、緊急時には、「とにかくパニくらないことが一番」とおっしゃていた。この言葉を胸に刻んで、といつもおもってはいるが現実がなかなか。私たちのトラブル事例及び防止策をご参照下さい。

1)2時間前にはスタンバイ

団体旅行の集合時刻は海外ツアーは出発2時間前が一般的なようだが、個人旅行も同じモードが必要。幸いなことにこれまで乗り継ぎ遅れや出発遅延などのトラブルには巻き込まれてこなかったが、今回のローマからの帰国では、空港への鉄道切符を自販機で購入していたら、英語でよく判らないのにアフリカ系の兄さんが近くでいろいろ口を挟む(後で考えるとアドバイスだったかも)ので、エイヤーと購入したら、違うチケットを購入してしまい、結局駅の窓口で払い戻しと再購入手続きで小1時間。どこに落とし穴があるか、わからない。

 当舎は釧路在住なので、新千歳経由で英国に行ったときは、朝(というより深夜)2時に自家用車で自宅出発。4時間ほどで新千歳空港着、8時台の仁川行きに乗り、仁川で乗継。ヒースロー空港着後、マンチェスター行き国内エアに乗継、到着は同日(時差8時間)深夜。この間、ほぼ時間通りに行けたことの方が幸運というべきか。ちなみに、想像をこえていたのは、ヒースロー空港の国際便から国内便の乗換えでターミナルビル移動が別の空港に行くのか、とおもうほどの遠隔地。さらには国内線のセキュリティチェックがえらく厳重。まあ、時間に余裕があったので焦りはなかったが、とにかく移動の時間設定はゆとりが第一である。

 友人の姉妹が出発便の遅延で乗り継ぎ便に遅れたことを妹さんがフェイスブックにアップ。お姉さんの名前はエミさん。『エミ、レイトしました』。この時のエアはエミレイツ航空。緊急時にもこんなユーモアを持ち合わせたい。

列車の切符を間違って買って、あわや乗り遅れ!間一髪

 2)特殊詐欺について

私たちの旅行目的の一つが西洋絵画鑑賞である。数年前からはまったのだが、当舎はだいたい連れの趣味が私に感染して、重篤化するのが常で、登山しかり、自然観察しかり。美術もこのパターンだが最初のイタリア旅行(ベネチア、フィレンツェ、ローマ)でのルネサンス体験と大橋巨泉の美術関連著作が引き金となって、その後の旅行では重要なテーマとなっている。

 美術館や教会などをチェックして見たい作品をリストアップするのだが、これに落とし穴があった。ルーブルやオルセーなどの有名な美術館の名画をふんだんに見まくるぞ、という決意で出向くと、なんと必ずしも全部見れるわけではなく、貸出中や補修のため部屋が閉鎖されていたりと正に出鼻をくじかれ体験。なかには貸出先が東京日本となっているものも、「こちとら東京から来たんだぞ! 」と叫びたい心境。まあ、海外での美術鑑賞では常識的なことのようで、事前の美術館サイトへのリサーチが必要と痛感。

 私がおっかけている作家のひとりがブリューゲル。オランダ出身のブリューゲルの作品を追って、フランス(パリ)、ベルギー、オランダと旅をした。訪問地の美術館に数点の作品が点在しているため、その作品観賞がとりあえず訪問の最大目的。ベルギーのアントワープという古都にマイエル・ヴァン・デン・ベルグ美術館という小さな市立美術館がある。ここに『狂女フリート』という傑作がある。この絵を楽しみにルンルン小走りで訪れたところ、出張不在とのこと。「何にぃい!! 」と受付で叫ぶ(ところiだった)。この美術館のエースで4番が違うチームにレンタル中とは…。やっと気を取り直して、オランダのロッテルダムに移動。ここのボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館にはかの有名な『バベルの塔』がある。早足で美術館に入り入館前に確認すると、こちらもベルリンだか、どこだかに出張中。「ざけんなよ! 」と呟くも、もはや戦意喪失。

ボイマンス・ファン・ヘーニンゲン美術館エントランスオブジェに慰められる

 予兆は、ベルギー最初の訪問地であったブリュッセルの王立美術館にあった。ブリューゲルには息子二人や孫、親類にも画家がいてブリューゲル一族ともいえる芸術家の一家なので、いろいろな美術館にブリューゲル(一族のだれかが)の描いた絵が沢山ある。ここにはブリューゲル作品をあつめた部屋があって私は『鳥罠のある風景』という作品がお目当てだったのだが、貸出中。替わりにブリューゲル長男(この人は親父の模写が得意だった)の模写が飾られていた。

 受付や学芸員、ミュージアムショップの店員に「わざわざ(ここ強調)日本から来たのに残念だ」との意向を伝えると、済まなそうに謝るタイプとだからどうしたタイプがいる。おもわず「詐欺だ!」と叫びたい心境だが、現場にいると館職員の人件費や美術館の維持管理費などを稼ぐために美術館も大変なんだと妙に納得。

出張中だったブリューゲル『鳥罠のある風景』
ブリューゲルの長男作『鳥罠のある風景』ちょっと違う。親父のコピーが得意。
教会でカラバッジョの名作とパチリ。入館無料。
出張中だったブリューゲル『狂女フレート』。どこに行った!
マネの名作『フォリー・ベルジェールのバー』と記念写真。日本の展覧会ではこうはいかない。

 美術鑑賞趣味で、かつブリューゲルのおっかけという特殊性もあるが、この手の詐欺(見方を変えれば常識)には気をつけたい。

街角でピカソに会うかも…(バルセロナ)

 以上。楽しい旅を!