『クスリ凸凹旅日誌』▶19話:帰らぬ人を偲ぶ山旅

2017年9月10日~16日
後立山連峰(唐松岳、不帰ノ嶮、白馬岳、 杓子岳、栂池高原ほか)

無事、不帰ノ嶮を通過し、これから通過する登山者を見送る

三大キレットを踏破する
 山登りでキレットというのは岩の稜線で山と山の間の大きく窪んだ難所のことをいう。日本三大キレットというのがある。槍ヶ岳と北穂岳の間の「大キレット」。鹿島槍ヶ岳と五竜岳の間の「八峰キレット」。そして唐松岳と白馬岳の間にある「不帰キレット」である。すべて踏破したが、べつに目標としていたわけでもなく、特別な達成感があるわけでもない。ちょっと自慢になるのだろうか? 
 最も難度が高いのは大キレットだといわれている。しかし名前が良くない。文学的センスゼロの名前である。名前で言えば断然、不帰キレットである。正式名称は「不帰ノ嶮」。一度足を踏み入れたら戻れない難所が名前の由来だそうだ。そこはかとなく怖い名前だ。「不帰の客となる」とは、二度と帰らぬ人、つまり死んだ人のことをいう。間接表現が文学的なのである。怖いのである。
 ボクたちは小雨の降る中、夜もまだ明けきらぬ唐松山荘をスタートした。崩れる予報ではなかったが、降雨のキレット通過は危険である。
 何よりも岩が滑り、滑落の危険性が高まる。その緊張感の中、恐る恐る不帰キレットに足を踏み入れた。
 天気が悪いのはデメリットだけでなくメリットもある。雲の中を歩く感じだったので、あまり高度感を感じず、恐怖で足が竦むこともなかった。足元をしっかり見て、鎖やステップを確認しながら、一歩一歩、歩を進めた。
 不帰キレットの記憶はもうひとつの不帰、帰らぬ人の思い出と重なる。50代を過ぎて日本アルプスを登るようになってからは家族若しくは連れとボクの二人登山であったが、それ以前は北海道の山を友人や仲間達とワイワイ、ガヤガヤいいながら登山を楽しんでいた。
 この歳になるとその友人達にも不帰の人が増えてくる。

帰らぬ友の思い出
 2013年の冬に急逝した佐々木征志さんは市役所に入所してからずっと付き合いのあった友人であった。
 友人とはいえ、ボクより11歳年上であり、結婚式の仲人もしてもらったり、組合活動や様々な文化活動の指導を得た師でもあり、一緒に出版事業を行なった同志でもあった。
 病気で足の不自由だった彼はほとんど体育系と縁の薄い青春を送っていた。役所に入ってボクと出会った頃は組合の活動家であり、当時、社会党左派系の組合(釧路市役所には社会党系の市職労と民社党系の市役所労組という二つの組合があった)であった市職労にあっても独自の路線を行く論客であった。
 その彼が1980年代に入って、確か雌阿寒岳だと思ったが仲間と登山に行ったのをきっかけに登山にのめり込んだ。無事、頂上に立てた自信もあったのだろうが登山に目覚めたのである。
 思い出すのはボクたちがまだ結婚前で彼と3人で十勝連峰を美瑛岳から富良野岳まで2泊3日の縦走をしたことである。水場のない山で、ボクと連れは交代で15キロぐらいの荷物を背負って大変だった記憶がある。山中では写真を撮ったり、景色を眺めたり、彼のペースを気にしながらも3人は同じようなペースで縦走することができた。
 彼は連れの以保子さんと一緒に大雪山縦走や道内の様々な山、本州の八ヶ岳などを踏破。ボクの連れ合いとは知床縦走まで行っちゃったりしたのである。ボクはそれほどたくさん一緒に登ったわけではないが、八ヶ岳は最初の計画ではボクと一緒に行く予定で、台風の影響でそれが中止になり一緒に行くことは叶わなかった。あの時一緒に八ヶ岳に行っていたらボクの登山歴も少し変わっていたかもしれない。

出版という道を行く
 登山だけではなく思想書や哲学書などボクに縁のなかったジャンルの本をいろいろ紹介してくれたり、音楽・絵画など芸術系の刺激も受けた。今こうして文章を書いたり、少し論理的に物事を考えられるようになったのも彼の薫陶の成果だと思っている。
 初めて一緒に出版物を発行したのは1990年『北の家図鑑』である。もう一人の友人と「ワークショップわらじすと」という社名で釧路市内にある古建築をスケッチしていた鉄道職員のイラストをメインとした図鑑を発刊した。〈わらじすと〉は公務員と出版者という「二足の草鞋」が由来である。
 彼は読書家であり、当時の職場も図書館資料室勤務。公私共、編集者にふさわしい能力と才能を持っていた。筋金入りの公私混成である。ボクはといえば彼から譲り受けたアップルコンピューターを使いDTPソフト(DeskTop Publishing デスクトップパブリッシング)を駆使してブックデザインを担当した。
 若い時は組合活動や映画サークルなどで情報誌や会報作りをよくしていた。初期はガリ版刷り、次はワープロ印刷を台紙に貼り付けてレイアウトしていた。初めてDTPソフト(アルダス・ページメーカーであった)を使った時の感動は今でも忘れない。アップルが提唱していたWYSIWYG(ウィジウィグ。What You See Is What You Get の略で、パソコン画面上で見たとおりに出力結果が得られるというシステム)が目の前に展開した様はインターネットのウェブブラウザーを見たときをしのぐ感動であった。

 この『北の家図鑑』はプチヒットとなり、その収益で新しいコンピューターを買うことができた。ボクの人生はヒットには無縁で、競馬は詳しいが馬券は当たらず。宝くじも当選資金の供給のみ。クスリ凸凹旅行舎はこれまで5冊の書籍を刊行しているが元を取れたらベストである。今のところ、この時以上のヒットはないのである。
 しかし、ボクが現在、自然ガイドと出版業を手掛ける素地が培われたのは間違いなく彼の存在無くしてはありえない。
 彼は自らの登山体験や書評、音楽評、知友人からの寄稿などを盛り込んだミニコミ誌『自游人』を1982年から死ぬ年まで発行し続けた。文化人類学者の山口昌男氏も評価し、晩年交流もしていた。年を重ね、足の具合が加齢とともに思うに任せぬようになって彼は登山から、愛犬家に変身し、犬育てに没頭した。厳冬期の凍結路面の坂道で足をとられ頭部打撲で急逝したが、その時も愛犬の散歩中の出来事だった。
『自遊人』は通算57巻を数え死後、復刻限定版を友人達と発刊することができた。

 不帰キレットを抜け、白馬鑓ヶ岳と杓子岳を踏み、歩き続けて夕刻に白馬岳山荘に着いた。翌日は人気の白馬岳に上り、そこから小蓮華岳を経て栂池高原を経由し、ロープ―ウェイに乗ってスキー場を下り、白馬村に着いた。
 緩やかな北海道の山をおもわせる稜線、沼巡りや湿原を歩きながらこのルートだったら彼とも一緒に歩けたかもしれないなと思った。
 ボクと彼は腹が減ると機嫌が悪くなる質であった。山で食べた焼肉、菓子パン、おやつ。下山して「パーッとやろう!」と行ったレストランでの夕食。そんな些細なことを思い出しながら、不帰の客となった友を偲んだ。