『クスリ凸凹旅日誌』●随想③絵画へのめざめ

カラバッジョ3部作があるサン・ルイージ・デ・フランチェージ教会(ローマ)

 旅先にひとつの目的だけで行くようなオタク系ではないボクではあるが、これまで親しんできたサブカルチャー(写真、映画、競馬、アウトドア、ジャズなど)に絵画が加わったのは最近のことである。この分野も連れの方が先行し、ボクは後方待機の状態であった。
 連れと一緒の最初の海外旅行はイタリアであった。連れにとっては須賀敦子という作家の存在が大きかったのだが、ボクにとっては予習として手にした西洋絵画についての本が以後のボクのカルチャーライフにとって優秀なガイド役となった。
『大橋巨泉の超シロート的美術鑑賞ノート』(大橋巨泉著 ダイヤモンド社刊)。著者自らが超素人というくらい「65の手習い」ではじめた西洋美術への案内本である。出版元が『地球の歩き方』のダイヤモンド社であることも何かの縁。
 この本はその後、計5冊のシリーズとなり2016年に巨泉氏は亡くなる。思えば初期テレビ世代のボクにとって、大橋巨泉はサブカルチャーの伝道師のような存在であった。その教本は同氏司会の「11PМ」という番組(確か月・金が巨泉氏の担当日)。ボクは小学校高学年の頃から「ボーイズライフ」(小学館刊)という月刊誌を定期購読していた。F1や戦艦戦闘機や洋画など、それは主に欧米文化のサブカルチャーを思春期前後の少年向けに紹介しているものであった。
 高校受験の時、夜、勉強してひと休みと称して親の寝ている間に11PМを見るのが楽しみであった。オープニングのピンナップガール、新作洋画の紹介、そして競馬のクラシックレースの予想等々。11PМの後は全盛期だったラジオの深夜放送を3時ぐらいまで聞いて寝るのである。親は勉強していると思っていたはずだが、11PМ以降はほとんどサブカルチャーの時間であった。


 ボクのカルチャーライフを書いたら長くなるので、連れと行った2016年のイタリア旅行以降の西洋美術についての話に絞りたい。
 三度の海外旅行。東京や各地での展覧会など西洋美術鑑賞はこれからも継続しそうな勢いなのである。
 イタリアで最初に観た絵画は、ベネチアのスクオーラ・グランデ・ディ・サンロッコ(略して大信者会)で観たヤコブ・ティントレットの「キリスト磔刑」をはじめとする作品群。その後にサンタマリア・グロリオーサ・デイ・フェラーリ教会(長い!)でティッツァーノの代表作の一つ「被昇天の聖母」を観た。
 実物を見る喜び。あえて「本物」ではなく「実物」というのは、少しこだわりがあって、実物の対義語は「模型」。本物の対義語は「偽物・贋物」である。絵画の世界には模写された複製画を見る機会も多い。先ごろ釧路市立美術館でフェルメールのほぼ全作品複製画の展覧会があった。それは現代技術を駆使して、フェルメールが創作した当時の色彩を再現し複製されたもので、偽物とはちょっと違う。やはり実物に対しての模型といったほうが馴染むのである。これはこれで価値のある表現物だと思う。


 実物を見る喜びは、教会で絵画を見ることで少しその本質が解けたような気がする。美術館に飾られるタブロー(板画やキャンバス画)と違い、教会に飾られる壁画やフレスコ画は備え付けである。教会という空間、そこを訪れる信者、観光客も含めて生み出される空気感、匂い、気配など、その絵画を取り巻く全体を体感することが鑑賞体験となる。
 ローマで最初に見た絵画はサンタマリア・デル・ポポロ教会のカラバッジョ作品であった。ボクはここでのカラバッジョとの出会い以降、追っかけ(逃げてはいかないが)になるのだが、彼の作品には教会の依頼で描かれた宗教画(多くは壁画)が多い。その実物に出会うためには現地に赴かなくてはいけないのだ。
 カラバッチョ追っかけのもう一つの要因は最初のイタリア旅行から帰国した直後、東京でちょうど「日伊国交樹立150周年記念カラバッチョ展」が開催されていた。そこで未見だった実物の何点か(「エマオの晩餐」と「マグダラのマリアの法悦」が忘れがたい)を見ることができ一気にカラバッチョの現存する作品の半数近くを観ることができ勢いをつけた。


 ルネサンス絵画からスタートしたボクらの西洋美術カルチャーツアーは、巨泉氏の著書をガイドブックに北方ルネサンス、バロック、17世紀オランダ絵画、ロココ、新古典主義、写実主義、印象派…と続き、旅先での教会、修道院や美術館、博物館巡りがスケジュールの中で大きな比重を占めることになる。あまりにたくさんの美術館等を巡って多数の絵画を見たので、連れは「どこで見た作品か分からなくなる」と苦言を呈す。
 ボクは小さい頃から映画や写真、テレビなどの視覚文化に親しみ〈視覚の記憶〉にはそれなりに自信があるので、どこの街でなんという美術館でどの作品を見たかについては、ほぼ記憶にとどめている。
 ダ・ヴィンチ、ラファエロ、ボッティチェリ、フラ・アンジェリコ、ブリューゲル、レンブラント、ベラスケス、フェルメール、モネ、ゴッホ、ピカソなどの有名どころはもとより、この旅で知ることとなった巨匠たち、ヤン・ファン・エイク、ルーベンス、ターナー、マネ、ホルバインなども魅力的。そしてお気に入りであるヘリウッド・ダウやアダム・エルスハイマーの細密画もボクのカルチャーライフをひときわ豊かにしてくれた存在である。
 ほとんどの美術館や教会で写真を撮る(ノンフラッシュだが)ことが出来て、日本の展覧会のような厳しい監視員の目もなく、小さな絵画も近づいて見ることができるのは「鑑賞」にとっては極めて重要である。ルーブルでもっとも鑑賞時間が長かったのはフェルメールの「レース編みの女」でA4判くらいの小さな絵であった。細密表現を堪能できるのである。プラド美術館にあったエルスハイマーの「ケレスの嘲笑」は学芸員に場所を教えてもらいやっとたどり着いたが、これもA4判くらいで、夭逝の天才の細密表現を堪能した。


 実物を見る喜びは現場の臨場感に加え、それを取り巻く建築物や街の景観、彫刻などに広がりを見せつつある。教会もキリスト教のみならず、イスラム教と合一したビザンチン様式やロマネスク様式、ゴシック様式、そして独自の融合を見せるサグラダファミリア教会などもあり、興味の広がりは尽きない。
 巨泉氏は著書のあとがきで「65歳から始めた西洋美術鑑賞で得た感動を一人でも多くの同胞(この場合の「同胞」は同士や同志という意味合いに受け取った)と分かち合いたい、という思いで専門家の書く解説書ではない。「ボクはこう感じた」だけを書きたかった。」と書いている。我々夫婦は〈62歳から始めた手習い〉で、いつまで続くかは分からないが、自分が感じたことに少し自信が持てる年頃になったことを自覚している。それはこれまで蓄積してきたカルチャーライフがもたらした果実であり、その木に滋養を与えてくれた先人たちの存在は忘れない。
 自分の美意識や感性は歴史の積み重ねの延長上にある。
 多くの災難や宿命を抱えながら表現に身を賭した芸術家たちの足跡を訪ね、その歴史や社会的背景を西洋美術を通して知ることが出来るのも大きな喜びである。それは国や民族や宗教を越えてボクたちを感動させ、芸術のもつ力を教えてくれる。