『クスリ凸凹旅日誌』●随想④旅の付加価値

ヴィルモランの社長と旅の記念写真を

 イタリアでルネサンスの洗礼を受け北方ルネサンスやバロックそして17世紀オランダ絵画への興味が広がるなか、西洋絵画に目覚めた我々にとってこの旅は必然であった。名画を訪ねフランス、ベルギー、オランダを縦断する計画をたてた。観光と名画鑑賞が旅のメインテーマではあるが、サブカルチャー志向のボクにとってはいくつかのサブテーマも仕込んだ。
 芸術の都パリは写真小僧だった若かりし頃のボクにとってはアンリ・カルティエ・ブレッソンやウジェーヌ・アジェなどの写真家に活写された憧れの都であった。我が家にも数冊写真集があるが、そこにはいずれも19世紀から20世紀初頭にかけて写真の黎明期に撮られたパリの姿があった。


 阿寒湖温泉で仕事をしていた時に、阿寒の森を所有し長年にわたり森林保全を担ってきた前田一歩園の創設者・前田正名を知ることになる。
 明治初期、日本に近代化の息吹をもたらすため有望な薩摩藩の若者が欧米に留学した。その一員として20歳の前田正名は1869年から7年間にわたりパリ留学を果たす。
 この留学で得たフランスの農本主義を中心とした見識は、生涯にわたり〈地場産品をメインに国力を地域の力で押し上げていく農本資本主義〉ともいうべき正名の開発思想に大きな影響を与えた。
 阿寒の森を「伐る山から見る山へ」の転換を図り、現在に至る観光産業を基盤とする自然と人の共生の地域づくりの土台を作ることになる。
 出発の前、『人物叢書前田正名』(祖田修著)をパラパラとめくっていたら、正名が帰国する前にパリの世界的な種苗業者であったヴィルモランの協力を得て、多くの種苗を集め、日本に持ち帰った、と記されていた。オリーブや葡萄や有用植物の種、苗木はその後日本で甲府ワインなどの生産に繋がっていく。本には「ヴィルモランはセイヌ河畔に種苗問屋を営み現在も営業中である」とあった。
 夜明け前にカルチェラタンの宿を出て、カフェで朝食を済ませ、パリ発祥の地シテ島のノートルダム大聖堂で夜明けを迎えた。聖堂見学やサントシャベルを見た後、ルーブル美術館に向かいセーヌ川河畔を歩いていると街角の一角が種苗や造園関係の店舗でできているエリアに出くわした。その角の店の深緑のウインドウルーフにヴィルモランのスペルを見つけた。
 店舗に入ると園芸用品の専門店らしく家庭菜園レベルからプロユースの園芸用品まで品揃いが行きとどいていた。店舗の奥に会議室らしきものが見えたので覗いてみると何人かのスタッフが打ち合わせをしていた。ちょうど打ち合わせが終わったらしく出てきた人に声をかけた。当然こちらはフランス語はできず、英語でそれも片言レベル。社長に会いたいと伝えたら取り次いでくれた。ボクより若い、人の良さそうな社長がボクの拙い説明を必死になって理解しようと聞いてくれた。
「1876年当時、日本の留学生がこの店の協力を得て日本に沢山の種苗や苗木を伝えた。その人物の足跡を訪ねてパリにボクはきた」と、言ったつもりなんだがおそらく伝わったのは半分以下。でも怪しい奴ではないと思ったらしく社長は「ちょっと待ってくれ」と言って奥の事務所から一枚のペーパーを持ち出し、この店の歴史を語り出した。
 ペーパーはフランス語だったのでボクにはチンプンカンプンだったが社長はそこそこの英語で語ってくれた。一緒に写真を撮って、「またいつか訪れたい」と伝え、店を後にした。
 ルーブルの開館時間に間に合わせなければならない! メインテーマはこちらなのだ。


 翌日はオルセーやオランジュリーなどルーブルと共にパリを代表する美術館巡りがメインテーマであった。しかし、またしても夜明け前から始動した我々はカフェで朝食をとり(ホテルは朝食なしの素泊まりの安宿)通勤客とともにメトロを乗り継ぎ、モンマルトルを目指した。
 モンマルトルはルノアールやドガやゴッホなど多くの芸術家が創作活動を行った芸術の街である。近年は映画『アメリ』の舞台として脚光を浴び、パリ観光の人気スポットでもある。
 実はボクの友人の娘さんがモンマルトルでお菓子屋さんを開いたというのである。娘さんのパートナーはパリでも人気のチョコレート職人で日本のテレビ番組でも紹介された。その店にドッキリ訪問しよう、というのがもうひとつのサブテーマであった。同じ町内で生活していたので小さい頃から知っていて、一緒に山に行ったり遊んだりしていたため顔見知り。ドッキリ訪問でも「あれ、どなたでしたっけ?」と肩透かしの危険性がない。友人にも訪問のことは内緒。というのも、もしも訪問できなかったら混乱するかもしれず、〈旅先での約束事は最小限〉の我流教訓にしたがった。


 さすがインターネット時代である。スマホ片手に一発で到着。「ヤア、ヤア、どうも、どうも」「アレ、アレ、アレ~」。まぁ、そんな感じであった。こじんまりとした角地にあって明るい店内ではあるがアトリエ(工場だが、フランスではこういう)も併設。お菓子が中心だがパンも焼いていて、午前中ではあるが程よい感じで常連客風の老若男女が来店していた。
「事前に知らせてくれたら一緒にランチでも食べたのに」。でも彼女は出産したばかりで、今は店のマネージメントをしながら主婦業をしているそうだ。無用な負担は禁物。
 彼女は高卒後、東京の料理学校でパティシエを目指し修行をした後、再度勉強のために単身パリに渡り、働く中で彼と知り合い現在に至る。
 フランス語は男性名詞と女性名詞が分かれる。パティシエは菓子職人だが男性名詞。女性名詞ではパティシエールという。つまり彼女はパティシエールを目指し、パリで修行し、パティシエの彼とめぐり逢い、パティスリーを開いたということになる。
 パ行4段活用である。
 さっと訪問し、さっと去る。中高年の旅の美学。どことなく『深夜特急便』を思い出しながらモンマルトルを後にした。
 それにしても「GILLES MARCHAL」(店名です)のエクレアの美味しかったこと。記憶に残る美味とはまさにあのこと。