『クスリ凸凹旅日誌』●随想⑤統合と分断

パリからベルギー方面への鉄路の玄関はパリ北駅、この雰囲気が旅情をそそる

 パリからベルギー、オランダを経由してアムステルダムまでの移動は電車であった。
 この間、ブリュッセル、ブリュージュ、ゲント、アントワープ、デン・ハーグで途中下車や宿泊をして街歩きや美術館で名画を堪能した。
 この一帯は古くはネーデルランドといって 14世紀頃には西ヨーロッパ、つまりは世界の先進地域であった。欧州の歴史にいつでも登場するハプスブルク家が継承。この後、紛争戦争を繰り返しながらスペイン、ベルギー、オランダに分割されることになる。弊社の社名は釧路の旧名「クスリ」に由来する。オランダから見れば極東の端ではあるが、釧路の江戸時代の呼称であったクスリについて記されたもっとも古い記録は、日本人の手によるものではない。寛永20年(1643年)、オランダ東インド会社所属のM・G・フリース艦長率いるカストリクム号の航海記録に残っていたものが最初の記述である。
 出島はもとより、こんな身近な出来事にも当時のオランダがどれほど世界の中で影響力を持っていたかを偲ぶことができる。


 一方、第二次世界大戦下におけるオランダと日本の戦い、特にオランダ人捕虜をめぐる様々な事件は両国関係に大きな影を今も落としている。旅行出発前にBS の世界のドキュメンタリーでアジア系の女性が自分の出自を調べて日蘭の戦争史を調べる番組を見た。彼女の父親はオランダ人でメイドとして働いていた母親が家主であったこの父親に強姦されて生まれたのが彼女であった。自分の父親がどんな人間であったのかを調べる中で、戦争中捕虜として日本軍に捕まり様々な辛酸を舐め帰国後、PTSD(Post Traumatic Stress Disorder 心的外傷後ストレス障害)を患った父親の歴史にたどりつく。それは日本軍に対する復讐の代償としてアジア系のメイドを甚振ったという複雑な事情が背景にある悲劇であった。
 昭和天皇や上皇陛下がオランダ訪問時に猛烈な反対に遭遇した様子も番組では紹介されていた。ボクの知る限り日本でも報道されたが、その番組ではオランダ側が取材した、さらに過激な実態を映し出していた。

 
 アントワープからデン・ハーグへ向かう車中は自由席で混んでいたので通路を挟みボクと連れは別々のボックスに坐ろうとした。ボクの隣には30代らしい日本人女性がいた。
 どう見ても旅行者ではない。こういう時は冷静に振る舞わなければいけない。「この席は空いていますか、座ってよろしいですか」「どうぞ」とやりとりした後は相手から話しかけられるまでじっと我慢するのが紳士の振る舞いというもの。バタバタ焦って自分のことばかり喋り続けるのは最悪。と、心で確認するのもまもなく、相手から「ご旅行ですか?」「ハァ~、ハイ!」以下会話はとてもリズミカルに…。
 彼女は我々に関心を持ってくれたようで次から次と会話が弾む。こちらから聞いたわけではなく、自己紹介もしてくれた。
 彼女は日本を離れ20数年、現在はKLMのキャビンアテンダントとして働き、夫と子どもとアントワープに暮らしている。今日はフライト乗務でアムステルダムの空港まで移動中とのこと。納得した。コミュニケーションサービスのプロであった。
 彼女の話は、例えばベルギーとオランダの違いを国の歴史、人の気質、生活環境なども含めて素人旅行者の我々に伝わるように話してくれた。
「ベルギー人はちょっと気取ったところがある東京人のようだけど、オランダ人は関西風できっとアムステルダムではオランダ人の親切心に触れることができると思う」。こんな感じである。
 ボクがエールフランスで来て、帰りはKLMを使う、と話すと現在2社は持株会社でヨーロッパ最大の航空グループとなっているとのこと。統合にあたってそれぞれの会社の社風や文化背景も違い苦労した話も面白かった。確かに旅の予習ではベルギーはカトリック、オランダはプロテスタント。食事のうまいベルギー、乳製品以外これといった名物料理もないオランダ。まぁこんな程度の予備知識だもんね。
 現地でこんな人に偶然出会い、様々な話を聞ける機会はそうあるわけでもない。日本語を喋る現地ガイドというのも存在する。ボクは外国人もガイドするので逆パターンで考えるとボクがその立場である。しかし彼女は美人で聡明でしかも無料。この偶然は神様が与えてくれた〈旅の贈り物〉なのだ。
 旅先の外国で政治の話をするのは御法度ということにはなっているが、その場の雰囲気や相手次第でボクは結構シビアな話もする。
 彼女にとっておきの質問をした。「オランダ人は日本人に対して第二次世界大戦中の虐待行為に対する恨みが今も根強くあると聞いたことがあるが、あなたはそういうことを体験したことがありますか?」 彼女は自分の体験としてキャビンアテンダントの友人からホームパーティーの招待を受け、参加したところ、友人から「自分の祖父は日本人には会わない」と言われたことがあることを話してくれた。同世代の日常的な仕事の付き合いや友人関係ではそんな確執は一切感じたことがないが、戦争体験世代の中には、そういう体験に今も苦しめられている人がいることを実感したとのことであった。


 上海便のフライトに乗務する彼女とデン・ハーグで別れた。
 最終訪問地のアムステルダムの宿の近くにユダヤのシナゴーグと歴史資料館があった。彼女と会わなかったら行かなかったかもしれないこのユダヤの施設はヒトラードイツ占領下のユダヤ人の悲劇を今に伝えていた。休館日で見ることができなかった「アンネ・フランクの家」の見学を埋めるかのように。
 歴史資料館で写真家デヴィッド・シーモアの特別回顧展が催されていた。マグナム・フォトの代表者をつとめ、ボクにとっての写真アイドルであったロバート・キャパやユージン・スミスと同世代の写真家でいきなり写真小僧だった高校時代にタイムスリップしたような気分だった。
 ボクのサブカルチャーの引き出しは骨董屋で仕入れた我が家の種苗農家の種入箪笥のようだ。引き出しは沢山あるのだが、歳をとると、どこに何を入れたのかわからなくなる。
 でも旅に出て人と出会ったり、街歩きでふと見る情景に記憶の引き出しは不意に開かれ、ボクに忘れかけていた過去を呼び覚まさせ、新たな物語を語り始めてくれる。
 それはボクにとって旅の醍醐味といっていいものだ。旅先での出会いは一期一会かもしれないが〈記憶〉として蘇り、あわよくば再会する刻がくることを念じる。そして別れのひと言を…
 See you again someday, somewhere.