〈第一巻〉①道が拓かれて〈東蝦夷地パイオニアルート〉 

太平洋沿岸の道は東蝦夷地を探訪する探検家たちのパイオニアルート。松浦武四郎の『東西蝦夷山川地理取調図』にも点線で示されている

第一巻        蝦夷地探訪の先駆者たちが行き交う〈西と東蝦夷地を結ぶ道〉~直別から白糠・庶路へ

▶1798年(寛政10)幕府は日高の様似から釧路まで道を拓いた。
蝦夷地の支配を行ってきた松前藩の管理体制を揺るがすアイヌの蜂起が東蝦夷地で起こり、幕府は松前藩の場所請負人体制に対する不信を募らせる一方、ロシアの南下の動きもあり、ついにこの翌年から東蝦夷地を直接支配管理する体制を敷く。
このため様々な調査団が前後して東蝦夷地にやってきた。1799年には松平信濃守忠明が率いた8百余名からなる大規模な調査団が派遣され、その翌年には伊能忠敬が蝦夷地測量を行うため、この海岸線を通った。
▶幕府は道路開削にあたっては一里(4キロ)ごとの標識となる一里塚の設置と通行屋といわれる宿泊施設がおおよそ八里(32キロ)毎に設置した。いわば幕府にとっては、この道は東蝦夷地を拓くパイオニアルートとして東西を結ぶ幹線路の役割を果たすこととなった。
ボクは仲間と共に、十勝との国境である直別から白糠までの海岸線を探訪し、尺別に設置されていたとされる通行屋の跡地を探すツアーを行なった。
▶現在は白糠を中心にすると西側に直別、尺別、音別の3別。東側に茶路、庶路、釧路の3路が並ぶ海岸線沿いにルートは設定されていた。いずれも川名で、河口の地名でもあるが、3路の方はこの川沿いを遡上すると山越えの路なので、「路」をあてた意図があるのだろうか。
この頃から各種の地図や絵図が充実し、それがルート確認の手立てでもあり、それと現地を照合することがこのツアーの楽しさの一つでもある。
▶ボクたちはこの海岸線のキナシベツ湿原で保全活動を長年、熱心に取り組まれているSさんに案内をしてもらう幸運に恵まれた。Sさんは先祖が明治後期にこの地に入植され、農業や酪農を営むかたわら自然保護活動も実践。現在もこの地に住まわれている。
まず、昔も今もトカチ(十勝)とクスリ(釧路)の境となっている直別川から海岸沿いに東にに向かった。この海岸線は基本的には砂浜ではあるが処々に海岸縁まで丘陵(岬)が突き出ている箇所がある。トカチ境の直別川河口にも丘陵が突き出ていて、昔はここで渡船を使い、川を渡ったことになっている。

砂浜に突き出た丘陵(尺別海岸線)


▶古地図には一里塚の印もあった。Sさんにそのことを話すと、明治期に入ってもこの河口には駅逓所や一里塚もあったとのこと。特に一里塚については、〈自分が牧草地を広げる時、除去作業を直接行ったのでよく記憶している〉とお話しされ、スケッチも描いてくれた。ボクは武四郎一行の蝦夷地探訪の日誌にもよく出てくる一里塚の痕跡を探していたが、どこにもそんなものは見当たらず。きっと当時は木製の標柱が使われていて、もう痕跡はないのだろうと勝手に推察していた。その一里塚は石製で、円形に彫られた石盤の中央部に半球が突き出ていて、盤の周りも割石で土台が作られていたとのこと。もしこれが当時のものだったとしたら、これからもこのルート上に一里塚を発見することがあるかもしれない。
▶1798年(寛政10)の調査で、近藤重蔵と最上徳内は択捉島に領土を宣言する「大日本恵登呂府」の標柱(木柱)を建てた。ロシアの脅威が高まる中、領土を確定する意味においても蝦夷地調査の必要性が高まった。
翌年の大規模調査では、幕医であり、本草学者でもある渋江長伯を中心とした一行が東蝦夷地の植物調査に赴き、箱館から太平洋沿岸沿いに厚岸までを往復し、その間の植物調査を行なっている。植物=薬草の採集観察やアイヌ名の調査等が行われる。この一行には江戸後期の代表的な絵師・谷文晁の実弟である谷元旦も同行。植物標本や探訪の光景、アイヌの風俗などを描いている。絵師は写真前の時代では、記録係の役割を担った。(続く)

直別から庶路までの案内図
尺別のハウシュベツ川河口。ハウシュベツは炭川とも云われ、昔、寄り鯨が河口を埋めて炭色にしたアイヌの伝説が由来とも