「ジス・イズ」がオープンしたのはボクが高校1年の時。写真部だったボクはちょっと背伸びしたアート少年だった。初ジス・イズはその音量に圧倒された。「どうしてこんな大音量で音楽を聴かねばならぬのだ!」と叫んでもかき消されるほどの音の洗礼だった。写真・映画・演劇・競馬・ボクシング…寺山修司と大橋巨泉がボクのサブカルチャーライフの師であり、小林さんは釧路における文化活動の先達であった。
自主上映サークル「映画集団四季」は約百本の映画上映を釧路でおこなったが、ほぼ全部、ジス・イズでのチケット販売支援を受けた。無償対応が当然のようにボクはいつもチケットを売っていただき、小林さんも買ってくれた。道新の佐竹記者の記事で様々な思い出が甦ってきた。ニューオリンズからのジャズバンド招聘は釧路ジャズクラブの神村君を中心にボクは港祭りの実行スタッフとして関わった。あの更正施設出身の若者ブラスバンドは5~6人で北大通を市民が溢れんばかりの解放区にしてしまった。小林さんはその渦の中心にいたようにおもう。宮田国男氏のつるい養正邑構想で没後の追悼集ともいえる「希望としての精神医療」の出版スタッフとしてブックデザインに関わった時は、現代美術家の中西夏之氏のドローンイングを取り入れたが、ボクにはうまく対応できなかった。その時、小林さんの教えを請うためにお家に伺った。時に厳しく、時に優しく、指導なのか、支援なのか、今もよくわからないが…。
いつもジス・イズにいけば小林さんがいた。
小林さんもジス・イズも年中無休。仕事ではなく、生き方なんだ。スタイルではなく、思想なんだ。
強さに裏打ちされた優しさ、悩める人、病む人たちにとってもジス・イズは大きな支えであった。
それはいつもジス・イズにいけば小林さんがいたから。
アート系に仕事を求めた我が娘にもあの熱い握手で励ましてくれた。水俣病30周年連続イベント、ユージン・スミス写真展、細江英公「かまいたち」写真展、黒テント公演、四季オールナイトシネマラソン…数限りないJAZZコンサートそしてイコロ建設のアドバイス等々。際限なく次から次へと甦るアートシーン…!
小林さんは亡くなったが、ジス・イズ魂は永遠です。釧路にも活きのいいアーティスト達が次から次と生まれている。
ボクも新しいことにトライしようとおもっている。革命だぜぃ~!!
でも、もうちょっとパワーがほしい時、もう少し勇気が必要な時、もっと過激になりたい時、そしてぐっと耐え忍ぶ時も、ちょっと寂しくなった時も…。
心の中でこれからも叫ぶよ、「ジス・イズ!」。