ローマのマルゲリッタ通りは、「ローマの休日」で新聞記者(グレゴリー・ペック)の住いに王女(ヘップバーン)が転がり込むアパートのある通りです。その一角に「イル・マルモラーロ」という大理石で表札や値札を造っているお店があって、そこで表札を造ってもらいました。日本語でもいい、とのことでしたがやはり勝手が違うようで、完成品にOKが出ると、とても喜んでいました。値段は50ユーロだとおもっていたら、15ユーロの聞き違い。約2千円、安~!。想い出の品で商売繁盛!?
「無法者たちのローマ」~イタリア逍遥③~
ローマの治安についてはざまざまな情報や友人からの忠告もあり、スリや置き引き対策を練ったところだが、さらにベルギーでのISテロもあり、緊張感が一層増した。そんな不安を抱えながらもそれを凌駕する異文化に触れる感動があった。
連れ合いがホテルの階段でふとしたはずみで空足を踏んでしまい、症状が徐々に悪化、ローマ駅に到着した時、動けなくなった。持参のファーストエイドには湿布薬がないので、駅構内のベンチに座らせて、薬探しに右往左往した。駅の構内は要注意であるが、そんなことは気にしていられず、やっとイタリアの湿布薬をゲット。ホテルに戻り患部を湿布して、連れは休養。せっかくなので私は予定通りローマの街に繰り出すことにした。ローマの地下鉄は要注意である。悪いことに夕方のラッシュに遭遇した。テロのターゲット都市にローマが挙げられたこともあり、交通拠点や観光スポットには自動小銃を抱えた軍兵、警察、警備員が多く、護られているという実感がわくほどに目に付く。
さて、自衛するのはスリ対策である。さっそく混雑する車内で不審な黒ジャンの男二人。一人は前にディパックを抱え、一人は少し距離を置いて見張り役。案の定、私に近づきザックの陰から何か物色する仕草。こちらも態勢を変え、移動すると相手も諦めたのか、次のターゲットに近づいて行った。目的の駅についたので一緒に下車する人並みから二人を見ると改札に向かわず、次の電車を待っていた。
ローマ最初の訪問地は天才カラバッチョの絵が礼拝堂を飾る教会だ。明暗法や写実的な超絶技巧で芸術の革新を果たしたカラバッチョはその暴力性で多くの傷害事件とついには殺人者となり死刑を宣告されるも逃亡の旅のなかで数々の名画を残した天才である。ローマには教会を中心に彼の代表作があり、今回は日伊国交樹立150周年を記念した「カラバッチョ展」が上野の西洋美術館でも開催されており帰国後に観る事ができ、にわかカラバッチョファンから結構なカラバッチョファンになってしまった。
永遠の都ローマの精神背景に「寛容」があるそうである。征服した敵国の文化も吸収し政治的調和を図り続いたローマの平和(パックス・ロマーナ)は、この寛容の精神がベースにある。
治安の悪さは寛容さの副産物か。カラバッチョはユーロ統合以前の通貨であったリラの最高額紙幣をその肖像が飾っていたほどの国民的英雄。この紙幣には彼の作品『女占い師』も肖像と組み合わせられている。その絵は占いを装いスリをする女を描がいたものだ。殺人者とスリの絵が紙幣を飾っていた。さすが芸術の都、ルネッサンスの国・イタリア! 清濁併せ呑むローマ。スリや治安の悪さにビビってなんかいないで、ローマを楽しんで来いよ!と全身タトゥーをまとった地下鉄の電車がつぶやいたような気がした。
「フィレンツェのカプチーノ」~イタリア逍遥②~
フィレンツェといえば、カプチーノである。
イタリアはコーヒーとワインの国。コーヒーで言えばまずはエスプレッソ。ほんの一口で飲み干せる濃厚なコーヒーをバーやカフェで初老の男女がカウンター越しにキュと飲んで一言二言、店員の言葉を交わし、さっと出て行く様はなかなかカッコイイ。カプチーノは牛乳をホイップし、そこに濃厚なコーヒーを注ぐ、泡立てコーヒーである。
私は高校時代からカプチーノであった。
通っていた釧路の中心市街地の裏角にある喫茶店は店名が「フィレンツェ」、そして当時は珍しいカプチーノの専用サーバーがあった。いつもここでカプチーノと店に集まる常連たちとの語らいが日常であった。「フィレンツェ」にはミチコさんというミストレス(女性店長)がいて、常連の女性客は彼女の女友達、男性はほとんど何からのおもいをミチコさんにもって集っていた。4~5名が座れるカウンターがあるので常連はほとんどここに座ってミチコさんと話すのを楽しみにしていた。常連同士も仲良くなって、一緒に食事に行ったり、深夜映画で先行封切りを見に行ったり、花見に行ったりした。年齢も私が若い方で、上は40代くらいまで、年齢やステータスに関わらない自由な人とのコミュニケーションと付き合い。振り返ると若い私にとっては、人と付き合う幅をこの喫茶店で身につけたような気がする。
フィレンツェの下町で昼食に立ち寄ったバーでもミストレスが常連たちといつもながらの会話を交わし、私たちとの注文にもにこやかに答えてくれた。カプチーノを頼むと最後にホイップで葉の模様を描いてくれた。きっと、ちょっと特別のあしらいのように私には感じられた。
見ず知らずの人との出会いに不安と期待が交錯する。それは青春の一時期のことかもしれないが異国を旅するとちょっと同じような感覚になる。旅は人を若くするということなのか。人が出会う場としての喫茶店やバー、カフェの役割は古今東西かわらない。ともすれば、新しい関係性に億劫になる中高年こそ、カウンターで短く、人生を語り、さっと出て行く、そんなカッコよさを身につけたいものだ。
フィレンツェのカウンターの中の人々に目をやりながら、「フィレンツェ」におもいをはせた。
「ヴェネチアの娘」~イタリア逍遥①~
「きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ」。須賀敦子のエッセイ『ユルスナールの靴』はこの魅力的な一節からはじまる。私のイタリア旅行は連れ合いに勧められたこの本から再起動した。若かりし頃の中国シルクロード紀行からずっと、いつかはイスタンブールからローマへつなぐ道を旅したいとおもい続けてきたが、そのおぼろげな夢に火をつけたのは須賀敦子のイタリア生活を綴った珠玉のエッセイたちであった。
東京に暮らす私の一人娘と夕食をともにし、東京駅八重洲口のバスターミナルで別れ、成田からイタリアへ向かった。
水の都、ヴェネチアの足は運河を行き来する船たちだ。見るものすべてが新鮮に感じるが、とりあえずルネッサンス文化の足跡を訪ねる予習にそって、ヴェネチア派の画家ティントレットの名画がある教会に向かい開館を待っていたら、若い女性に声を掛けられた。この時期、日本観光客にとってはローシーズンなのだそうで、アジア系でめだつのは中国や韓国のカップルや団体であった。大学の卒業式を終えて飛行機に飛び乗った彼女は予習なしのヴェネチア3泊の旅とのこと。ガイドの血が騒ぎちょっと絵の解説なんかをしていると何となく息が合い、一緒に行動する事になった。若かったときの海外旅行は行きずりの人との出会いが楽しみのひとつであった。今は60代の夫婦、彼女は20代前半、ロマンチックな予感はないが、これはこれでいいとおもった。
美術館や観光スポットを巡りながら昼時になったのでランチをと誘ったら、彼女の今日一日のこづかいは20€(約2600円)とのこと、学生は金がないのだ、でも金がないことを公言する爽やかさに若さのエネルギーを感じた。私も旅先でおごってもらったことがあった。時代は巡り、お返しをするチャンスが来たのだ、とおもった。それでも彼女は彼女なりのもてなしで、イタリアのお土産情報やスマフォのナビで教会探しをしてくれ、持ちつ持たれつのヴェネチア街歩きであった。食事の時に彼女が卒業式の祝い饅頭を食べようと言い出した。せっかくの記念品だからご両親に見せたら、といったがイタリアで賞味期限を迎えるため結局、3人でいただくことになった。箱を開けると紅白の2個づつの大学の刻印がされた祝い饅頭であった。その大学名は、なんと我が娘の大学であった。理系女の彼女は芸術系への転部も考えたが適わなかったとのこと、もしも芸術学部卒だと娘の後輩になったところである。
結局、朝の9時頃に出会い、夜の9時ころまでの即製親子のヴェネチア紀行であった。夜の水路に街路灯やヴァポレット(船)の航跡が浮かび、それぞれの安宿に戻るバス停で別れた。名前も聞かず、でも学生生活や就職先のこと、今の暮らしや将来設計など私たちも北海道の暮らしや旅への思いを語り合った。
私たちにとっては、一緒に行くことの出来なかった娘の替わりに1日だけのヴェネチアの娘であった。彼女にとっては、私たちはどんな風に映ったのだろうか。暗闇に消えていく彼女の後姿を見つめながら、彼女にとって”きっちり足に合った靴”に出会えることを祈らずにはいられなかった。
東京の桜は散ったけど北海道の春はこれからですよ。
イタリア旅行でしばらく不在、さらに東京で娘と花見で東西の春を満喫してきました。帰釧した翌日(4/7)の暴風雨で関東以西の桜は終わりを告げているようですが、これから東北、北海道は春です。特に道東の釧路、根室地方は日本でももっとも遅い桜の開花となり、例年は5月中旬です。
北海道は冬が長く春は一斉に草花が芽吹く最高のシーズンです。今年はイタリアや東京で春を満喫した上に、北海道でもエゾヤマザクラを愛でることが出来て幸せです。