ガイドの仲間たちと冬の釧路湿原を一周ドライブしてきました。今年の冬は周期的に荒天降雪が続き、例年は晴れて寒さが続く道東地方も例年にない積雪量に人も生物達も苦しめられているようです。釧路湿原はぐるっと来るまで外周部を回ることが出来ますが、なかでも鶴居からコッタロ湿原を抜けて釧路湿原の東側に位置する塘路地区までの道路は湿原のど真ん中を突き抜ける道路です。防寒服を着たようなシカがいたのでよく見ると移動情報収集の通信装置をつけられているようです。シカの数はとても多くて低木の樹木は外皮を食べられてしまっています。また、オオワシが多く、オジロワシはあまり目にしませんでした。塘路湖周辺も湖が開けたところが点在しており、ヒシクイ又はコクガンらしい群れが休んでいました。エゾフクロウのように眠くなるほどの穏やかで暖かい曇り日の湿原探訪でした。
Hybrid(ハイブリッド)
ハイブリッドといえば、プリウスというくらい、ガソリン電気自動車のイメージが定着している。辞書では交配種、雑種、混成物等の意味が真っ先に出てくるが、どこか人工的につくられたイメージもある。
2月初旬にガイドの下見で花咲港で水鳥を見ていたら、普段見慣れない鳥が双眼鏡に飛び込んできた。同行のアシスタントガイドは、「珍鳥だ!連絡しないと!」と騒がしいが、私のほうは、若鳥か、迷い鳥ではないかとおもい図鑑とにらめっこ。こんな反応にも人柄が出るもんだ。
後日、根室のガイドさん達とお話しする機会があり、この不審鳥の話題を出してみた。皆さん既にご存知のようで、どうやらウミアイサとミコアイサのハイブリットではないか、とのこと。ハイブリット!。じばし話を合わせつつ、ハイブリッドは自然交配種!?、との回答。どうやら野鳥、特に水鳥の世界では結構、ハイブリッドが出現するらしい。
先日、ヨーロッパの野鳥図鑑を購入したところ、水鳥の項目にわざわざハイブリッドの章があり、さまざまなパターンが紹介されていた。私たちが見たものはなかったが、ハイブリッド鳥の存在を確認した図鑑であった。自然界は奥深い。固定概念にとらわれない観察の柔軟な心持が必要なんですね。
還 暦<旅する阿寒>第3話
昨年の1月、私は還暦を迎えた。還暦とは「干支(十二支)が一巡し、起算点となった年の干支に戻ること。通常は人間の年齢について言い、数え年61歳を指す。本卦還り(ほんけがえり)ともいう。」(ウィキペディアより)
人が歳をとるように、故郷も歳をとる。同じ年(2014)に、阿寒湖で遊覧船事業を営む阿寒観光汽船㈱と、阿寒湖アイヌコタンがそれぞれ還暦をむかえた。人の場合は、個人差はあるにしても、加齢による退行現象が心身にあわれる。近い記憶ほど忘れやすく、遠い記憶ほど覚えがいい。これを「老人力」と肯定的に捉えれば、活かしようもあるというもの。
企業や地域にとっても、加齢による企業力の低下や地域力の減衰はあるのかもしれないが、組織は個人より新陳代謝機能が高いので、創業百年を目指して阿寒湖温泉発展の原動力としてこれからも活躍してほしいものだ。
私の還暦の誕生日は、友人の葬儀の日であった。私達夫婦の友人であり、仲人でもあり、市役所の先輩として20代前半から兄貴のように面倒を見てくれた人が、正月に愛犬と散歩中に凍結路面に脚をとられ転倒、頭部損傷が致命傷となり、あっというまにこの世を去った。家族の意向で友人葬で送りたいということになり、慌しく準備に奔走していた。送別の辞をしたため、夜半に床に就いたが眠れず、思い出が走馬灯のように闇を巡った。
中島みゆきの名曲に『誕生』がある。赤子の誕生を祝う歌詞の冒頭に「一人でも私は生きられるけど、誰かとなら、人生ははるかに違う」というくだりがある。一人でも生きていく覚悟とともに、誰かとともにある生の重みをこんなに平明な歌詞に盛り込んでいる。そう、誰かとなら<はるかに>違う人生があるのだ。
還暦祝いの赤い頭巾とチャンチャンコは遠慮したいとおもってきた。老人の刻印をおされるかのような儀式で、私のファッションセンスも許さない。が、私は還暦の意味を知った。十二支が5回巡って、私は赤子で生まれ変わるのだと。別れ行く悲しみと生まれ出ずる喜び、還暦まで命を与えていただいたものへの感謝。そのことをしっかり噛み締めさせられた還暦の誕生日であった。
多くのサラリーマンにとって還暦は同時に退職を意味し、リタイア又は第二の人生のスタートとなる。私もなんとか役所勤めを終えることができたが、退職後のことは1年前ほどから現実の課題であった。
阿寒に来て、松浦武四郎や前田一歩園創設者である前田正名という、幕末から明治の激動期を生きた先人達の生き方にふれる機会があった。書物の偉人伝だけでなく、その人が歩いた風土や見つめた風景、おもいを引き継いだ人達との出会いは、良質な旅をしているかのような日々であった。
この二人に共通するキーワードは「下野(げや)」である。<官職を辞して民間に下ること(『広辞苑』)>。武四郎は、北海道探検の業績を買われて、開拓判官(現在の道副知事にあたる)に就任するが、アイヌ政策を巡って対立し、職を辞す。前田正名は、明治政府の農商務長官(現在の事務次官)として政策立案に活躍するが近代化政策を巡って政府中枢と対立し、二度にわたって非職、つまり事務方トップの座を追われることになる。
いずれも、自分の生き方や考え方に妥協せず、結果的に下野することになるが、どうもこの二人には下野という言葉が似合わない。最初から、官が上で、民が下とか、出世のために妥協するといった振る舞いの痕跡がない。根っから野の人なのだ。
還暦を過ぎても、武四郎は本州の山岳や風土の調査、文化活動をとおして社会にかかわりを持ち続けたし、前田正名にいたっては民間産業団体の立ち上げで全国を奔走した。阿寒の森林開発や釧路での製紙工場の立ち上げ、そして前田一歩園の森づくりに携わるのは最晩年である。
私も「下野」をしようとおもった。もっとも私の下野は、文字通り野を下る(時には上る)暮らしそのものである、自然ガイドとしてのリスタートであった。二人の重みと全く比較にならないが、<誰かとともに>違う人生をリスタートさせたいという思いが決断させた。
後日、職場の仲間が還暦のお祝い会を開いてくれた。赤い頭巾とチャンチャンコ着用は覚悟していたが、赤子としてリスタートした気持ちの整理が私の気分を寛容にしていた。私がガイドをすると知っていた仲間が、アウトドア用の高級ブランドフリースをプレゼントしてくれた。そのフリースは目にも鮮やかな真紅であった。
アイヌにとって、赤は、アイウシという文様とともに、災い除けの色でもあるとのこと。阿寒の野山をガイドする時、この真紅のフリースが私の身を護ってくれるような心強さを感じた。
「私たちはどこからきて、何者で、どこへいこうとしているのか」。この命題を前に、まだ、旅の途中というおもいがよぎる。人の命は儚い。今日一緒に歩いている人と明日も一緒に歩いているかはわからない。還暦を過ぎたら、人生はおまけだともいわれる。余生という言葉もある。
しかし、いつ果てるとも知れない命について、どこか諦観せざるを得ない経験を重ねてくると還暦は再生の旅立ちと無理なくおもえてくる。
私には常に持ち歩いているお守りがある。私と急逝した友人がお世話になった、本行寺の住職だった故菅原弌也さんの葬儀のお返しである。それは救済の「いのちの電話」というボランティア活動をしていた住職らしく、テレフォンカードで、そこには「生かされて生きる命を大切に」と直筆でしたためられている。
赤子として誕生したての私は、道に迷って、困った時にはこのテレフォンカードで天国の先人たちと交信するのである。
穏やかな港でバードウォッチング
春節、SLガイドは外国人で満席!
中華系の方が暮らす国々は春節がお正月。今年は2月19日から1週間ほどがお正月休みということで、昨日(2/20)のSL冬の湿原号は外国人が一杯で満席でした。団体旅行はほどんどなく個人やグループ・家族旅行がメイン。添乗ガイドで同行しましたが、言葉は英語が少々の私にとっては、中華系の方々にも通じるブロークン英語(英語が出来る方が結構多い)と地図や資料を駆使しての往復ガイドでした。皆さん、車窓からの風景やタンチョウ、シカなどの生物に歓声をあげ、ダルマストーブでスルメを食べる等楽しそうにSLの旅を満喫していました。