根室バードフェスは吹雪ツアーになってしまった!

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愛くるしい親善大使チビ

根室のバードフェアにガイドとして参加してきました。開催期間中、初日夜のオープニング「野鳥の集い」と翌日夜のシンポジウムは開催されたのですが、昼間のガイドツアーは吹雪ですべて中止となりました。
3日間吹雪に閉ざされて、自然の猛威ホワイトアウト体験もしました。民宿のオーナーの話では、今年の根室はこれまでない気象で、想定外だそうです。
おかげで、報告できるのは「野鳥の集い」でシマフクロウの親善大使として活躍している「チビ」です。傷病発育不良で保護されたチビは治療後も自然界で生き続けるのは困難との判断で、人と自然を繋ぐ親善大使となりました。
こんなに手に触れてシマフクロウを観察する機会はないので、おとなしいチビに甘えて、いろいろ観察させてもらいました。各パーツの翅の文様は誠に美しいことに感動。さらにシマフクロウは他のフクロウと異なり、翅に消音機能の羽毛がついていないとの説明も実見することができました。
道東に生息するシマフクロウの営巣は半分以上が人工巣箱だそうです。大きな木を育む豊かな自然があってはじめて生きていけるシマフクロウは環境保全のシンボルであることをあらためて体感することができました。

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猛禽類研究所の渡辺副代表が講演
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カメラにも動じないスター性満点のチビ
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国道44号開通待ち。百円コーヒーでちょいまち

 

 

あかぬ山であきない<旅する阿寒>第2話

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雌阿寒岳(左)と雄阿寒岳(右)を双岳台からのぞむ

「あかぬ山であきない」
百名山ブームで老いも若きも山を目指す昨今。ブームの原点は、いうまでもなく作家深田久弥の『日本百名山』である。昭和39(1964)年初版なので、半世紀ロングセラーとなっている山岳エッセイの頂点である。「品格・歴史・個性」のある1500m以上の山から深田は百の名山を選定した。北海道からは9つの山が選ばれているが、釧路地方では雄阿寒岳と雌阿寒岳がワンセットで「阿寒岳」として選定されている。山岳名には、複数の山の集合体をひとくくりで山岳名にしているものが全国各地にある。大雪山やわが国最初の開山といわれる立山、そして、我らが雌阿寒岳も実は9つの山の集合体なのだ。(現在の雌阿寒岳頂上はポンマチネシリのピーク1499m)
しかし、深田は、さらに雌阿寒岳と雄阿寒岳の2つの山岳名をまとめてひとつにネーミングしてしまった。それが「阿寒岳」である。いわば深田オリジナルである。しかし、私の周りでは「阿寒岳に登ろう」というフレーズはあまり聞いたことがない。
雄阿寒岳登山口入口の国道脇に、ひっそりと歌碑が建立されている。幕末の探検家松浦武四郎の詠んだ歌の碑である。武四郎は蝦夷地探検家であるとともに、山が信仰の場であった時代に、信仰とは距離をおいて、全国の山岳を踏破した近代登山のパイオニアともいわれる存在でもある。阿寒の山の印象を詠った碑には、こう書かれている。

いつまでも ながめはつかじ あかぬ山 妹背の中に 落る瀧津瀬

阿寒の地名由来には複数の説がある。武四郎の説は、アイヌ語で車の両輪を意味するアカムから、男の山ピンネシリ(雄阿寒岳)と、女の山マチネシリ(雌阿寒岳)を両輪(アカム)にたとえ、「あかむ」から「あかん」へ変化したという説だ。これに<いつまで眺めても「あきない山」>をブレンドして、二重意味となっている。武四郎は洒落っ気もあったのだ。
武四郎が阿寒に来た1858年の記録『久摺日誌』には、2つの謎があるようだ。ひとつは、「あかぬ山」はどこなのか。二つ目は、武四郎は本当に「あかぬ山」に登ったのか、というものである。これに関して、研究者の見解は、雌阿寒岳に登ったように記述されているが、これはアイヌ案内人からの聞き書きで、実際には登っていないとの見方が一般的なようである。
私は、阿寒の仲間たちと、武四郎の歩いた古道を中心とした研究会をひらいて、彼の記録をもとに実際に現地も歩いてみたが、経路として有力なのは、雌阿寒岳経由で、登ったか否かについては、私も迷い道探索中である。ここはガイドらしく、いつか実際に踏査して、事実関係を判断したいとおもっている。
一方、深田久弥は『日本百名山』阿寒岳の章で、はっきりと雄阿寒岳に登り、次に雌阿寒岳に登る予定が、登山口で登山禁止の看板があり(火山活動の状態が原因か)断念した件が記述されている。
つまり、確かなことは、二人とも、「あかぬ山」若しくは「阿寒岳」は完全踏破ではないことだ。
「登らずして語るなかれ」という声もかかりそうだが、「登らずとも語りたくなる」御両人ではあった。特に、深田は湖畔にある武四郎の漢詩碑を詠んで、武四郎が登ったのは雄阿寒岳と断言しているから、話はさらに混乱する。ちなみに私はこの説に異論があって、それはこの碑は、丸木舟にのって湖上巡りした武四郎一行が夕日に影をおとす山を見て、あれは自分が昨日苦労して登った山だ、と感嘆するのを詠ったものだが、湖から東側に位置する雄阿寒岳は朝日が昇る方向で、夕日の影は落ちない。つまり、この山は南西側の雌阿寒岳又はフレベツ岳方向になるというのが根拠だ。
私は研究者ではない。自然ガイドである。真実を探求するはお客様にお任せし、ガイドは現地現場に安全にお客様をご案内し、風土の声を通訳する人(インタープリター)なのだ。私がガイドすればここは、「武四郎も深田も、阿寒の夫婦山に敬意を表して、二対で一体であることを最優先した」ということになる。
観光地阿寒湖温泉の発祥は明治後期。温泉旅館の老舗である山浦旅館の元祖山浦政吉夫人トキさんのお話では「(観光の)お客さんが来はじめたのは登山の学生さん達でした。」(阿寒国立公園指定40周年記念誌 種市佐改著)とのこと。明治38(1905)年には、釧路第一第二小学校生徒が修学旅行で釧路から徒歩で雌阿寒岳登山をおこなっている。尋常小学校だから14,15歳の少年少女達が、足掛け7日間、往復約2百キロにもおよぶ行程の修学旅行をおこなっている。にわかに信じ難いが、複数の史料に記されている。昔の人はよく歩いたと感心するとともに、阿寒の山は若者を惹きつける「あかぬ山」であったのだ。
平成26(2014)年に、プロアドベンチャーレーサーの田中陽希さんが約二百日で日本百名山を陸路・海路とも自力踏破で完走した。(「田中陽希 グレートトラバース-日本百名山一筆書き踏破」(NHKBS1)我が家でも、坊主頭の若者にくぎづけの1年余であった。阿寒岳に関して、様々な百名山ガイドブックにはどちらかしか紹介していないものもあるのだが、田中青年は、律儀に、深田の登れなかった雌阿寒岳も、武四郎の登ったか、登らなかったか不明の、あかぬ山、つまり、雌阿寒岳と雄阿寒岳をきちっと登りきった。若者の潜在能力は今も昔も想定外だ。
「あかぬ山」であきない(商い)がスタートし、「あかぬ山」は今も昔も、あきない(飽きない)山であり続ける。阿寒の原点の観光資源である。
阿寒湖温泉では現在、マチの活性化を目指して、観光まちづくり計画を策定して、持続的な観光地としてのまちづくりを進めている。その施策のひとつが、アウトドア基地化構想である。阿寒湖温泉を登山や釣りやスポーツなどのアウトドア基地として魅力の再構築をしようというものである。
阿寒の観光は、若者の登山からスタートした。温故知新。「あかぬ山」の魅力を古きに尋ね、若者の発想で、持続可能な観光地のあきない(商い&飽きない)魅力づくりを期待したい。

音羽橋にタンチョウが舞う

 

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なんとなくハーレムをつくっているような…

 

厳冬期を迎えた道東ですが、この時期の風物詩は、鶴居村音羽橋のタンチョウです。けあらし(外気温が水温より低いため川から蒸気が上がる)のなか、タンチョウたちは川のなかがねぐらです。今朝は-15℃くらいでしたが、多くのカメラマンが集まってタンチョウにめざましシャッターを浴びせておりました。今日の日の出時刻は6時47分でした。これからだんだん早くなっていきますが、しばらくの間、薄暗い刻からヒトも動き回る音羽橋周辺です。妙な鳴き声がしたので後を向くとアカゲラが「私もここにいるわよ!」と鳴いていました。寒そうに身体をすくめていたので、ひょっとしたらオオアカゲラかもしれません。頭が黒かったので雌であることは確か。

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寒そうなアカゲラか、オオアカゲラ?
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音羽橋からはこんな情景。左手から日があがる。

 

根室で見つけたトンガッタもの

 

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ハヤブサは何を狙っているのだろう

来月の根室バードフェスティバルの下見に根室半島を一周してきました。根室で活躍する国際的野鳥ガイドの新谷さんの案内です。森林の小鳥から、港の水鳥、草原の猛禽、国境の海を行き来する旅鳥…。根室が国際的な探鳥地として認知されてきたのは、日本で確認された野鳥約500種のうち350種ほどが根室でも確認されているという種類数。そして、オオワシ、タンチョウ、エトピリカなど国際的にも人気のある希少種が沢山いるということでしょう。特に、新谷さんが中心となって整備されたハイド(野鳥観察小屋)や漁協とタイアップした沿岸クルーズが一層、野鳥との距離を相手にプレッシャーを与えず近づけたことが大きいと思います。
四季折々、行く度に新たな発見がある根室です。今回の印象に残ったとんがった根室を写真でご紹介します。
私も2月14・15日にはガイドで参加します。皆さんも是非ご参加ください。バードフェスはこちらへ

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オオハム?の冬羽。夏と冬の装いが違うオシャレ。
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私たちがさがしていたのはオオワシがとまっている岩礁にいるチシマシギ。この日は逢えず。
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ゴミと間違えたゴマフアザラシ
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対岸にはロシア正教の協会が
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これが噂の花咲港のホームラン焼き(1個60円)

 

風土に紡ぐ物語<旅する阿寒>第1話

風土に紡ぐ物語《旅する阿寒》①

武四郎探検像(幣舞公園:釧路市街地)
武四郎探検像(幣舞公園:釧路市街地)

北大通を見おろす幣舞公園に松浦武四郎蝦夷地探検像が建立されている。
幕末の蝦夷地探検家で、北海道の名付け親ともいわれる武四郎とアイヌ案内人の銅像だ。こじんまりとしているが、凛々しい。アイヌ案内人は、これから向かう遠い阿寒の山並みを指さし、武四郎は野帳を手に、その表情には未知への期待と異郷の地へ赴く緊張感が漂っているように見える。
昭和29(1954)年早生まれの私は、釧路生まれの釧路育ち。国鉄マンの父は浪花町の鉄道官舎住まいから、マイホームを当時の新興住宅地である松浦町にもとめた。私が小学校に上がる前年だった。
松浦町は、昭和7(1932)年7月に実施された釧路市字地番改正の際につけられたものだが、命名理由には「今より76年前松浦武四郎は不毛の久寿里場所即ち此町の如き泥炭地たりとも東蝦夷地第一の都会たるべしと絶叫したるは超達見として敬意を表すべきである此の因縁を記念の意味に於て松浦町と命く」(釧路市ホームページ『釧路郷土史考』引用)とある。「絶叫した」とか、「超達見」とか、相当思い入れの強い表現だが、武四郎の釧路(当時は「クスリ場所」と言った)に対する評価はすこぶる高く、釧路人の郷土愛を刺激するに十分であった。
さて、昨年、還暦をむかえた私は、長年勤めた釧路市役所を退職し、自然案内ガイドとして再出発した。もともと自然好きで、趣味も登山や野鳥観察等々。また、職員のとき一番長い期間勤めた部署が観光部門であったことも影響している。
釧路市は平成17(2005)年に、阿寒町、音別町と合併し、新生釧路市として再出発したのだが、私は、合併をはさんで、釧路で8年、阿寒で3年、計11年間、この地域の観光行政にかかわることになった。
平成21(2009)年からは、阿寒の観光部門勤務で阿寒湖温泉単身赴任勤務となった。この年になって、「第二の故郷」が出来たことは、望外の喜びとなった。
合併時に新生釧路の新しい観光ポスターをつくった。最後の最後まで、キャッチコピーが決まらず難儀していたとき、阿寒の関係者が「釧路という異国」という数点の候補のなかではもっとも人気薄だったコピーを押した。私も最初から、「どうも陰気なイメージ」と感じていたが、推薦者は、釧路と阿寒のそれぞれの既存イメージを超えたところをアピールしたい、それには、国内にあって、どこか異国を感じさせる道東のイメージを打出したい、という主張が皆を納得させたのであった。
異郷を旅する。少々脱線するが、「旅」と「旅行」の違いについて考えることがある。観光行政に携わっていると、業界用語が身につく。「周遊観光、団体旅行から、滞在観光、個人旅行へ」は昨今の観光業界定番表現である。「旅行」には、予定や行動範囲を設計し、必然的な感動を用意するという、業界的なところがあるが、「旅」には、道草や偶然性のなかで得る、即興的な感動が期待され、未知であるがゆえに、刺激的というニュアンスが強い。
私は、根は臆病で慎重ではあるが、「旅」派である。メインストリートより、わき道に惹かれる。そんな私にとって、阿寒湖温泉への単身赴任は、まさに釧路にあって、釧路でない異郷への旅であり、未知との遭遇、日常性に閉ざされた私の感性を刺激してくれるのでは、との予感に満ちたものであった。

松浦武四郎は、幕末の1845年から1858年の間、6度にわたって蝦夷地の探検をしている。このうち、3度、釧路に立ち寄っている。釧路は縁のある地なのである。6度の蝦夷地探訪の内、後半の3回は、幕府の雇われなので、いわば調査出張旅行だ。特に最後の1858年には内陸部を中心に全行程203日、そのうち釧路・阿寒をはじめ道東の旅は23日に及んだという。このとき、武四郎一行は、釧路から阿寒湖の間を4泊5日かけて、つぶさにこの風土を記録している。出張なので公務目的は、蝦夷地の資源調査や開発の可能性、地形地理調査などであったが、武四郎は公務をこえて、同行したアイヌのローカル情報もふんだんに取り入れ、アイヌ地名採取やアイヌが置かれている苦境の聞き取り調査もしている。公務員の出張は、必要以外の用務や街に立ち寄るのは厳禁であるが、武四郎は、禁断の公私混同・異郷の領域に大胆に踏み込んだ旅人であった。
さて、釧路に生まれ、松浦町に育った私は、結婚後、幣舞町で暮らし、通勤路は出世坂、子どもとの散歩は幣舞公園という時期を過ごした。そして、時は過ぎ、釧路から阿寒湖温泉へと転勤。とてもというほどではないが、少し、もしくは軽く、私は武四郎と縁があったとおもっている。武四郎にとっての4泊5日の釧路阿寒紀行と、私の60年にも及ぶ歳月の旅路が重なってくる。
人は自らの意思で移動することが可能で、それを空間軸に広げれば「旅行」、時間軸に広げれば「旅」、というのが、私にとって、もう一つの「旅行」と「旅」のイメージの違いである。人生が旅にたとえられる所以である。人生という誰もが体験する旅のステージではそれぞれが主役であり、その旅先は私たちを支えてきた風土という舞台そのものである。人と自然が織り成す故郷の変化や先人達のおもいは、風土のなかにたたずんでいる。
人が旅するように、故郷も旅する。そんなおもいがよぎる。
武四郎とアイヌが歩いた風土と私たちの時代の風土にはどんな違いがあるのだろうか。
変わったものは何か、変わらないものは…。
加齢のなせる業とおもうが、時をかける中高年は、時間の旅人である。昨日の出来事は忘れるが、昔の事柄はよく覚えている。速く走れないが、ゆっくり歩ける。周遊型から滞在型へは、時代のトレンドではなく世代のトレンドである。
故郷の歴史と自分の経験を重ね、旅の体験をとおし、風土に紡ぐ物語をひと月一編啓上したいとおもっている。ご贔屓に。

クスリ凸凹旅行舎 代表 塩 博文

釧路湿原、阿寒・摩周の2つの国立公園をメインに、自然の恵が命にもたらす恩恵を体感し、自然環境における連鎖や共生の姿を動植物の営みをとおしてご案内します。また、アイヌや先人たちの知恵や暮らしに学びながら、私たちのライフスタイルや人生観、自然観を見つめ直す機会を提供することをガイド理念としています。