〈第三巻〉①武四郎一行の登山行程について

【第三巻】 イタルイカオマナイから雌阿寒岳へ
 登ったのか? マチネシリは何処

扉写真は雌阿寒岳頂上直下から剣ヶ峰や雄阿寒岳を望む。上はイタルイカオマナイ沢からルベシベ(峠越え)の道

▶松浦武四郎が釧路から阿寒を経由して網走に至る途中で、マチネシリ(アイヌ語で雌山を意味し雌阿寒岳を指している)と呼ばれる山に登山をしたことが記されている。
この登山に関しては、〈実際には登っていない〉ということが定説となっている。様々な方たちが、武四郎は聞き書きしたのではないか、とか、日程的にズレがある、などの理由を述べられている。松浦武四郎は蝦夷地探検家であるとともに〈江戸、明治時代の登山の先駆者〉としても知られており、山岳関係の方々も武四郎の登山についての著作を出されている。
なかでも『江戸明治の百名山を行く~登山の先駆者松浦武四郎』(渡辺隆著 北海道出版企画センター刊)は、蝦夷地における武四郎の登山に関して、詳細な検証をしている。著者の渡辺さんは道内出身者で松浦武四郎やアイヌ語研究の他、登山家としても山岳学会で活動されている方である。
▶渡辺さんは決して〈武四郎一行はマチネシリを登らなかった〉とは言い切ってはいないが、巻末の登山一覧では「断念」と整理されている。
渡辺さんは武四郎の日誌から推定し、行程の時間を割り出し、時間的な限界から雌阿寒岳登頂は困難としているが、「どこかの山にアタックしたのは事実であろう」としている。
どこかの山は「831mの無名山」と「エナヲウシ(場所不明)」をあげておられる。私は渡辺さんの分析を参考にしながら、これまで仲間と共に活動してきた阿寒クラシックトレイルなどで歩いた武四郎ルートと照らし合わせ、武四郎一行の雌阿寒登山の可能性を検証してみたい。
武四郎はマチネシリへの登山に関しては「戊午日誌」と「久摺日誌」に記載している。特に久摺日誌において、登頂経過は、和文で記載された部分と重複して、漢文でも記載され、特段の思い入れの深さを感じさせる扱いとなっている。(以下「久摺日誌:和」又は「久摺日誌:漢」と表記する)

ルベシベの登りを行く「山湖の道」トレッキング参加者

▶日誌から事実関係を推察する。
一行は1858年(安政5)旧暦3月の戊午日誌では26日、久摺日誌では27日にマチネシリ登山をして湖畔に下山している。1日のズレがある。旧暦なので今の暦では5月9日又は10日になる。
前泊したルベシベナイを発って、シユマタツコフという小山を経由し、ルベシベの麓まで来て、ここから山越えの道を歩き、そのピーク(ルチシ=峠)まで来た件については、別記「武四郎一行マチネシリ登山ルート推定図」(以下「ルート推定図」)でご確認いただきたい。一行はこのルベシベのピークで、登山をするものと、先に湖畔に向かって滞在の準備をするものが別れる。ここまでは渡辺さんと私の分析はほぼ同じだ。
▶ここから見解が違う部分を説明したい。
一つはルベシベの位置についてである。私達が阿寒クラシックトレイルの阿寒湖への峠越えの道として使ってきたルベシベのピーク(ルチシ)は標高620mである。渡辺さんの記述では「ルベシベより頂上までの標高差は約1100mである」となっていて、頂上がポンマチネシリの1499mとすると、逆算すればルベシベの標高は399mとなる。この標高をルート上で探すと、麓であるイタルイカの周辺にあたる。
武四郎は戊午日誌には「ルベシベ 此処は路越えると言う儀なり。是アカン越えの頂上なり」と書いているので、標高620mのピーク周辺がこの地点に当たると思われる。
渡辺さんが想定したルベシベのポイントと我々が想定したポイントの標高差は221mで、その違いはこのあとの登山行程の見積時間にも影響したのではないかと思われる。
ここから山頂までの行程を日誌から拾うと全行程76丁(1丁は109m)約8・3㎞の行程になる。
久摺日誌には頂上到着が「達山巓、則日己未」(久摺日誌:漢)とあり、すでに午後2時になっていたとされる。
渡辺さんは「雪の無い所は2時間半、雪のある所は直登したとして小休止を含め、4時間は必要と思われる。途中で昼食30分として頂上到着は午後6時頃」と行程時間(ルベシベから合計7時間)を割だし、到着時刻を推定している。ここで午後2時頃に登頂した武四郎一行とは4時間もの大きな差が生じることになる。このことが登頂困難の最大の理由となる。

雌阿寒岳登山の阿寒湖温泉ルートから頂上を目指す。前方中央に剣ヶ峰がみえる


▶さらに渡辺さんとボクの間で、時刻の取り扱いに大きな見解の相違が出る。久摺日誌(和)には「五ツ比シユマタツコフに至る」という表記がある。これを渡辺さんは「午前9時に通過」と解釈されている。江戸時代の時刻表記については、日の出から日の入りまでの時間を6分割し2時間単位で一刻、二刻と呼ぶ。一方で日の出を「明六ツ」、日の入りを「暮六ツ」と呼んだそうだ。昼と夜の時間がほぼ半々となる「春分の日」や「秋分の日」は、一刻が2時間となるが、季節によって昼夜の時間長は変わるので、時間の単位も変動するのが江戸時代の時刻表記なのだ。
武四郎がマチネシリに登った5月10日前後の日の出時刻は午前4時頃、日の入りは午後6時半頃だ。昼間時間が14時間30分として、6等分すると、武四郎一行登山時の一刻は2時間25分になる。「暁靄深く同行の者も見失う故に、互いに聲をかハし行。」(久摺日誌:和)。暁が日の出時刻と設定すれば明六ツは午前4時。「五ツ比シユマタツコフに至る」(久摺日誌:和)の五ツは一刻を過ぎて、6時半頃である。渡辺さんの午前9時とは2時間半の時間差が生じた。
「シユマタツコフよりここまで(ルベシベ)を地図上の計測で仮に2時間とする」(渡辺)に倣えば、ルベシベの峠到着時刻は8時半である。山頂到着が午後2時。ルベシベ(ルチシ)から山頂までは5時間半あることになり、この間に約8・3㎞の山道をどこまで行けたかが検証のポイントとなる。

検証登山の工程図


▶私の山の経験は趣味程度で夏山登山が主である。雌阿寒岳、雄阿寒岳にはもちろん登っている。一行のルート上で、渡辺さんが登頂の可能性として記載されている阿寒湖の南に位置する「831mの無名山」には冬に登ったことがある。地元では「800メートル峰(C地点)」と呼ばれ、結構知られたところである。詳細は地図を見て頂いた方が分かりやすいとは思うが戊午日誌の「扨此処(ルベシベ)より真一文字に、何をも不管して二十丁も上るや…」という記述に対応するように、ルベシベで西側に直角に折れた先、約1・5kmほどで800メートル峰ピークになる。さらに雌阿寒岳頂上につながる延長上に重なる。
ルート推定図上の直線距離測定ではルベシベ(B)から剣ヶ峰(G)までは8・5㎞、ポンマチネシリ(H)までは9・75㎞となった。当然、屈曲はあるにせよ、剣ヶ峰に関してはほぼ近い距離だ。現在の雌阿寒岳阿寒湖畔コースの登山口(E)はこの直線上の少し北寄りに設定されているが、登山コースタイムは、登りで剣ヶ峰(G)コルまで2時間。ポンマチネシリ頂上(H)までさらに40分で合計2時間40分。下りは頂上から30分で剣ヶ峰コル。そこから登山口までは1時間30分で合計2時間となっている。(『北海道夏山ガイド⑤』北海道新聞社刊)
つまり、ルベシベから登山口まで3時間半で行けたら、少なくとも剣ヶ峰までには午後2時に着くことができる。もちろん、これは夏山で登山道が整備されている現在の状況下で、1858年5月登攀日の条件下でどこまで行けたのかが問題である。(続く)

白く見えるのが剣ヶ峰。その背後に雄阿寒岳。左手に阿寒湖がみえる