1984年8月
中国・シルクロード
初物づくしの旅
「原点」ではなくあえて「源流」というには理由がある。この年30歳を迎えたボクにとっては、色々な意味で転換点の年であった。
結婚した。市役所に入って十年目を迎え仕事にも慣れたがどこかしか行き詰まりも感じていた。仲間と十年間続けてきた映画サークルを閉じることになった。敬愛する寺山修司が死に、ミスターシービーに続けてシンボリルドルフが2年続けての三冠馬に輝いた。
さて、旅先の中国では日中国交回復の流れをうけ、前年に日本人の個人客にも中国内の旅行を解放した。TVではNHKのシルクロード特集が人気となり、中国からヨーロッパに向かうシルクロードがにわかに脚光を浴び始めた。
こんななか、ボクにとっては初めての海外旅行は中国への個人旅行となった。個人旅行とはいえ、当時の中国への入国は、ツアーという形で入国し、現地一泊後解散。期間中、フリーで最終日前日にまた指定の箇所に集合し、一緒に出国するという変則ツアーであった。
この旅行にはもう一つ重大なミッションがあった。いや、こちらがメインテーマ。高校時代一緒に写真部に所属していた友人のK君が会社を興し、海外の写真を有償提供するストックエージェンシーという事業を行っていた。K君はシルクロードに目を付け、長期取材を敢行した。中国滞在中の彼に未使用のフィルムを届け、代わりに撮影済みフィルムを持ち帰る、いわばボクは「運び屋」であった。
撮影はシノゴと呼ばれる4インチ×5インチの大型フィルム使用のため、取材期間中でのフィルム交換が必要となった。今思うと空港の税関でよく捕まらなかったものだと思う。拘束され、逮捕され、市役所は失職、家庭は崩壊、そんな可能性だって無きにしも非ず。でもそんなことはつゆほども考えず、やっぱり若かった。
〈日常の惰性的な生活の中で閉ざされたボクたちの心を旅は開かれた予感に満ちたものにする〉(『知の旅への誘い』中村雄二郎、山口昌男著 岩波新書刊)
初めての海外、そして行き帰りの飛行機チケットと離発着日の宿泊場所以外は全て現地で手配しなければならない。中国という未知との遭遇。どんな偶然に支配されるか分からない旅は、当然にも小心者のボクを不安にさせた。
彼との待ち合わせは内陸の旧都西安。シルクロードの起点であり昔は長安と呼ばれた。事前に、この西安駅の正面玄関左側の柱(きっとあるはず)で約束の日に会うことにしていた。当時、携帯電話はなく中国からの連絡は現地の交換手を通してしなければならず、30分近く待たされ、言葉は通じず、これだけで一仕事。今振り返ってもどんなふうに連絡できたのかよく分からない。
西安駅での待ち合わせは当然叶わず彼から連れに連絡が入り、ボクはどこに行ったのか? どこかで野垂れ死んでしまったのではないかと連れは新婚で身重にもかかわらず、いきなり奈落の底に突き落とされた感じがしたと後日、連れから聞かされた。そもそも連れが身重だったので新婚旅行をカットし、身内からいただいた祝い金を持って、中国旅行に出かけたことで身内の評価は著しく低下。まぁ、我ながら相当いい加減な輩だったことは違いない。
これまで様々な旅を経験してきたが血湧き肉踊り全身にアドレナリンとドーパミンが噴出する感じというのは何度かある。でも最初にその感覚を味わったのは、旅の初日蘇州の街歩きであった。なぜか「負けてはいけない」とおもった。スタートダッシュが肝心。ホテルの朝食をキャンセルし、早朝の街にでかけた。まだ自由経済が進んでなかった中国では住民が配給券みたいなものを持って朝食の油條(棒状の油の揚げパン。以降、台湾でも朝食にはこれが定番になる)を買うため並んでいた。ボクも物珍しさに眺めていると住民が声をかけてくれ、配給券を1枚くれてボクも列に並び油條を買って食べた。これが中国の最初の朝食だった。
蘇州から西安に行くには列車の切符を購入しなければならず駅に向かうと校内は長蛇の列。さすがに日本人観光客はほとんどおらず、住民からは好奇の目で見られるが、どういうわけか不安な気持ちに陥らない。そのうちもの好きな人が声をかけてくれ「金を交換してくれるなら切符を早く買ってあげるぞ」と提案してくれる。これを筆談でやるので、ワンフレーズ2・3分かかる。ボクには好奇心が今以上にあったことは間違いない。『何でも見てやろう』小田実著の本のタイトルが頭に広がる。(ちなみに沢木耕太郎『深夜特急便』は2年後)その好奇心は、中国という国を人の暮らしのレベルから観察し、楽しみ、関心を寄せる知的情熱の源泉であったように思う。
国を知るという事
中国人民とボクの関係は、それぞれがもの珍しく関心を寄せ合う関係であったに違いない。こんな経験はそうあるものではない。この間30数年が経て、社会政治状況の変化はことのほか激しく、激変するグローバル世界を前にして、なんと素朴で幸福感に満ちた時間だったのだろうと実感する。
「金を交換する」とはどういう意味か。当時は人民が使うお札と外国人が使う紙幣は別であった。人民札と兌換札。兌換札は人民にとっては外国人が使う高級店舗で、そこだけで買うことができる高級消費財を手に入れることができる特別な紙幣であった。
我々〈何でも見てやろう旅行者〉は人民の暮らしを体験したいので人民元で十分なのである。ここに交換市場が発生する。「代わりに切符を買ってあげるから交換してちょうだい」という役務提供タイプと1:1.5とかの交換レートでの両替タイプの2パターンがある。日本国内では貧乏な若者も中国ではリッチマンとして通用する時代であった。ちなみに『地球の歩き方中国版』のうたい文句には「中国を1日1500円(宿泊、食事、移動費込み!)で旅する」とあったように記憶している。
この交換はイツデモドコデモ。さまざまな人(駅、街頭、列車の車掌、ホテルのメイド等々)から囁かれた。
西安駅で会うことのができなかった彼とはホテルで会うことができた。西安の人口は今現在で1200万人、当時も1千万人前後であったに違いない。この大都市で外国人旅行者が何の連絡も取らず(取れず)、でもホテルで再会できるなんて奇跡といわずして何と言う。でもこの奇跡にはネタがちゃんとある。外国人が泊まるホテルは全て数箇所指定されていた。このため目星をつけて、2箇所目ぐらいで彼に会うことができた。
こういう規制は超マイノリティだった個人旅行者にとっては都合が良い場合もあったがそれは例外。例えば訪問先も開放都市になっていなければ、事前に公安局に行って許可証をとらなければならない。やる気のない国家公務員に遭遇したら、こういう手間で半日。まあ、こういうことも含めて楽しめ、そこで起きるエピソードを面白がれる心持ちが必要だ。60を過ぎた今もボクにはその好奇心は消えていないが、きっと中国では、もっと早く激しい流れについていける自分がいたんだろうと思う。
日本から一緒に入国した旅行者は、夏休みを利用した社会人や学校の先生・学生・フリーランスのカメラマン(中国残留孤児の取材だった)等々。旅の途中では香港、イギリスの旅行者と一緒に行動したり宿を共にした。
シルクロードのウルムチ、トルファンなどでは欧米のバックパッカーが多かった。ボクはシルクロードで彼の撮影の助手として一緒に行動し、写真を撮ったりしたが大まかな旅行スケジュールはあるにしても、その場の流れで旅程はフレキシブル状態であった。
例えばウルムチの近くの天山山脈に天池という標高2200mほどの観光地があった。ここを訪れたときカザフ族の遊牧民がいて、馬で居留地に行かないかという提案があり数名の旅行者と共に行くことにした。
天池から馬に乗って3時間前後だったと思うがテント暮らしをしている遊牧民一家のパオに一泊することになった。もちろんそのことが遊牧民たちにとっても貴重な収入源であったことは確かであるが、こんな自由度を満喫できる旅はその後していない。真夏の旅行であったが翌朝パオから出ると目の前に雪をかぶった高山があり、歩いて数十メートル先に残雪があった。その手前で少女は機織りをしていた。
後で調べると新疆ウイグル自治区の国境の峠は約4千mなので我々もほぼその辺りにいたことになる。翌日ウルムチに戻りそこから数時間、ゴビタン砂漠をバスで移動し、中国で最も暑いといわれるトルファンに移動した。このオアシス都市は海抜下154mに位置し、気温は45℃前後であった。天山山脈を源流とする世界最古のカレーズとよばれる上水道施設を有し、砂漠の一直線の道路の脇の水路には雪解け水が悠々と流れていた。アフガニスタン支援で活躍し、2019年、凶弾に倒れた中村哲さんが現地支援で尽力したのも水道設備建設であった。
中国を横断するタクラマカン砂漠の変わらない風景を2日間ほど見続けた後だと、オアシスのありがたさ、水の大切さをあらためて痛感するのである。
もう一人の中村、哲学者中村雄二郎の著書から…
〈五感を研ぎ澄ました先に生まれる第六感、それらを躰に統合する体性感覚。さらにはそれを土台として生まれる共通感覚コモンセンス。五感を貫いてそれらを統合する根源的感覚〉
難解な哲学を体得した気分であった。
人に対する信頼感
この中国の旅を書き続けていけば百ページくらいになりそうだ。その一部でも記憶を文章化することで一つの区切りをつけたい。
この旅で実感したことの一つは人に対する恐怖心についてである。駅、町並みの雑踏、賑わう食堂、すし詰めのバス等々。人の波にもまれながらも不思議と人に対する恐怖というのを感じなかった。出発前は、共産主義一党独裁の中国にあって、中国には乞食がいない、犯罪が起きない、交通事故も少ない等々の伝説があり、一方で無秩序で、モラルなき大衆、いつまでたっても中国は先進国にならないとの評価もあった。伝わる情報の量も質も乏しい時代にあっては、何もが一面的であるとともに、当たらずとも遠からずの側面もあった。
旅を通し、人々の日常に少し触れることで自分にとっての中国のイメージの源流が形作られた旅であった。混沌の中にも秩序はあり、目の前の困ってる人を助けてあげたいという思いもあり、人に対する信頼感の土台を確認する旅であった。
その意味では、わが旅の源流は、わが人生の旅にとっても、大きな自信という流れをもたらした旅となった。