〈第一巻〉②斜里山道と網走山道 

八王子千人同心の中心人物である原半左衛門の碑が建つ白糠厳島神社

第一巻        蝦夷地探訪の先駆者たちが行き交う〈西と東蝦夷地を結ぶ道〉~直別から白糠・庶路へ

▶北方防衛策で幕府は、津軽、南部両藩に蝦夷地の警備を命ずるが、なかなか警備体制は進まなかった。
そんななか、1800年(寛政12)には八王子千人同心が出願した〈蝦夷地の開拓と警備にあたりたい〉との申し出を幕府は許可し、勇払と白糠にそれぞれ50名ずつやって来る。彼らは、身分は武士でありながら、農民でもある団体的農兵として、交通の要所の警備と開拓という使命にあたることになった。
▶八王子千人同心は、白糠に駐屯した翌年の1801年(享和元)から斜里山道と呼ばれる峠越えの道の開削にあたる。物資を運び、通行を確保する馬車道の造成は、大規模調査とともに進んだ。斜里山道は、釧路から舟で釧路川を標茶まで行き、虹別、ホンケネカ、ワッカヲイを経て斜里につながるルートとして拓かれる。その後、標津から標津川沿いにつながるルートが1810年に開削され、時代は下り1885年(明治14)には忠類から斜里へつながる現在の根北峠を越えるルートが新斜里山道として造成され、それ以前の斜里山道は廃止されることとなった。

斜里山道と網走山道のルート図。太平洋沿岸は19世紀初頭に一番最初に拓かれたパイオニアルートである


▶幕府は江戸から厚岸までの海上航路も1799年にひらき、海と陸の路を繋ぎ、釧路から対ロシア防衛の前線となる斜里への物資輸送ルートを拓くが、釧路川の舟運も利用したルートである斜里山道とは別に、阿寒を越え網走までの陸路の造成が行われる。
この網走山道は白糠、庶路から阿寒川沿いに阿寒湖を経て網走川沿いに北上し、網走に至るルートとして開削が進められた。開削にあたっては1804年(文化元)着工説と1806~7年にかけて開削した説、1810年に開削が終了したとの説があり、若干不明な点がある。いずれにしても斜里山道直後に着手され開削されたことになる。
この開削の中心は白糠にいた幕吏・大塚惣太郎であり、アイヌなどの使っていた路を頼りに開削していったものと思われる。斜里山道を開削した八王子千人同心は、道東の厳しい自然条件と自給自足体制不備の中、多くの犠牲者を出し解散してしまう。このため大塚惣太郎という人物は、八王子千人同心ではなく幕府の幕吏という立場で網走山道の開削作業に当たったと思われる。
▶それから約半世紀後、1858年に松浦武四郎は網走山道を通って、阿寒から網走に抜けている。
武四郎は6度蝦夷地を探訪している。そのうちの最初の3回は私的身分(水戸藩の支援も受けていたようだ)で、後半の3回は幕府雇いという身分で公務としてやってきている。1858年は6回目、最後の蝦夷地探訪だった。

武四郎が道東を訪れた4回の探訪ルート図。特に4回目と最後の6回目は内陸調査がおこなわれた。

公務であるからには業務命令がある。函館奉行村垣範正から下された特命には「蝦夷地一円山川地理取り調べ方申し渡し候へば、新道新川切闢場所、其外見込みの趣、追々取調べ申し立て候様致すべし」とある。つまり新しい道や川を切り開く場所の調査を命じられた。
武四郎の戊午日誌で、阿寒湖に向かう峠越えの起点となるイカルイカの記述に大塚惣太郎が記されている。
・イタルイカ
「イタは板也、ルイカは橋なり。昔し大塚某此処え板を以て橋を架けしによって号るとかや。今土人等、其橋は無けれども、如レ此までも下をあわれみて大塚ニシパは致し呉られしとして、木幣を通るものは削りて立行ことになり。惣て此山中大塚某を尊敬すること神のごとし」
▶ニシパはアイヌ語では尊敬される人を表すもので、大塚惣太郎が尊敬の対象になっていたことがわかる。
松浦武四郎の蝦夷地探訪においては、この網走山道、斜里山道の確認調査が随所でなされている。
イタルイカにおいても…
「此処昔し一里塚有りと云跡有」
と記されており、この一里塚が山道造成時に建てられた距離標柱であったと思われる。
▶一里塚に関しては日記の中に随所に同様の記載がされているので、武四郎の内陸調査のルートはこの山道が主要な経路になっていたことは明らかである。阿寒の仲間たちとはじめた阿寒クラシックトレイルも武四郎が探訪した網走山道がルートになっている。
これら幕府により造成された山道はとりあえず幹線道であるが、アイヌはそれ以前から峠越えの路、ルベシベと呼ばれる地名沿いに行き来する路を利用していた。路は人や獣だけが越えることのできる路もあれば、その後、切り拓かれ、山道として馬車道となり、人と物資を輸送する道になっていくものもあった。そして近代に入ると自動車が通行する道路が開発整備されていく。
地図で現在の主要幹線道路網と武四郎が辿った山道のルートを重ね合わせると道東の開発の歴史を今日も辿ることができる。(続く)

『蝦夷全図』所収「東蝦夷地クスリ場所絵図面)部分 藪内於太郎(安政5年頃・1858)著者は箱館奉行の役人 ∩印は一里塚、□印は通行屋である 北海道大学北方資料データベース