〈第三巻〉②マチネシリとはどの山か

【第三巻】 イタルイカオマナイから雌阿寒岳へ
 登ったのか? マチネシリは何処

扉写真は「久摺日誌」に描かれた阿寒湖周辺。上は白湯山展望台から望む雄阿寒岳

▶武四郎の記述から類推する「マチネシリ」という山について考察してみたい。現在のピークであるポンマチネシリが雌阿寒岳の頂上という認識は一旦横に置いて、武四郎一行が来た1858年の時点でマチネシリとはどの山を指したのか? 果たしてそれは現在の頂上だったのか? について調べた。 
雌阿寒岳は複数(8つ又は9つの山)の山で構成された複合火山である。火山は3つの噴火口で形作られ、太古から活発に活動し、1万年前後には巨大な火砕流噴火により中マチネシリと呼ばれる大きな火口ができ、7000年から3000年前にはポンマチネシリと北側の山群が相次いで誕生した。2500年から1100年前にかけて南側の阿寒富士と呼ばれる一番新しい山ができ、ほぼ現在の山容となる。その後、近年の噴火は水蒸気噴火が主のようであるので、武四郎が来た時点で山の姿は今とそれほど変わりはなかったように推察できる。
この火山の形成を調べていたら『北海道阿寒町の文化財 先史文化篇第二輯』(阿寒町教育委員会刊)のⅡ『阿寒湖畔とその周辺の地形及び地質』で岡崎由夫氏は、―雌阿寒岳の形成過程の中で、現在、雌阿寒岳が形成された順序は、〈フレベツ岳→南岳→1042m山→東山→と剣峯、瘤山が最も古く、その後、中マチネシリが形成され、次に北山、西山、ポンマチネシリが出来、一番新しいのは阿寒富士―、と記していた。剣峯は現在、剣ヶ峰と表記されている。
この中で「剣峯(マチネシリともいう)」という記述があった。(強調は筆者)
▶ボクはアイヌ語でポン(小さい)は通常はポロ(大きい)との対比語と理解していたので、以前から一番高い頂上がなぜポンマチネシリなのか、不思議であった。ところが『地名アイヌ語小辞典』(知里真志保著)によると「ポロもポンもともにポ(子)から派生した語である。(中略)ポンの方もたぶんポ・ヌ(子・である)が語原で現行の若い、小さいの意味が出て来たのである」と記載されていた。
雌阿寒岳の形成史からいうと剣ヶ峰がマチネシリで、現在の頂上であるポンマチネシリとの関係は大小ではなく、古い(親)に対して、新しい(子)との関係にあることと理解できる。つまり、〈古いマチネシリ〉に対して、〈新しいポンマチネシリ〉という関係になり、一行が登った、又は目指したマチネシリは剣ヶ峰だった可能性が高まる。
実は北海道夏山ガイドの掲載地図にも剣ヶ峰(マチネシリ)と表記されているし、YAMAKEIオンラインの登山地図にも同様の表記がされている。マチネシリ=女山=雌阿寒岳=ポンマチネシリピーク(1499m)という思い込みがボクも含めて多くの人にあったのかもしれない。

雌阿寒岳山頂(ポンマチネシリ)から中マチネシリの火口とマチネシリ(剣ヶ峰、右て奥)を望む。

▶もう一つ違う角度から剣ヶ峰登頂の可能性を検証したい。武四郎は下山後、翌日アイヌと一緒に丸木舟で阿寒湖の四島巡りをしている。この印象を漢詩に詠み、それは現在も阿寒湖畔のボッケ散策路の碑に刻まれている。
碑文を和訳すると―
 「水面風おさまる夕日の間 小舟竿をさして崖に沿って帰る 
 たちまちに落ちる山の長い影 これはわれが昨日よじ登った山」

つまり前日のマチネシリ登山の山を湖上から確認している。
『日本百名山』(深田久弥著)で深田氏はこの漢詩を詠んで、この峰が「雄阿寒岳であることは間違いない」と書いているが、日誌の経過から読むと雄阿寒岳登山の可能性は考えにくい。また湖から雄阿寒岳は東側なので、夕日に山の影は馴染まない。
実は阿寒湖から雌阿寒岳を見ると頂上のように見えるのは手前の剣ヶ峰であり、奥のポンマチネシリは噴煙の風向きや、悪天時などはほとんど確認することができない。これらのことも勘案すると、私の推察は、武四郎一行は「剣ヶ峰」に登った可能性が高いという結論になる。

ボッケ散策路にある武四郎の漢詩碑。建立者は武四郎顕彰に尽力した釧路の経済人であり、議会人かつ郷土史家でもあった佐々木米太郎を中心にした発起人メンバー。
結氷した阿寒湖の湖上から雌阿寒岳に沈む夕陽。右手はフップシ岳。(撮影 松岡篤寛)

▶次に〈武四郎はマチネシリには登っていない〉という定説について調べた範囲でその根拠を整理したい。武四郎の発刊本である『戊午日誌』『久摺日誌』には、その元となる野帳と云われるフィールドノートが存在し、武四郎研究家である秋葉実氏により、手控(=野帳)が解説付きで活字化され出版されている。日誌のもとになるメモ書きを解読したものなので、内容の詳細や日程を確認する手助けとなる。
これによれば三月二七日出立し、移動行程のなかでルヘシヘからエナヲウシでの記述は…
「エナヲウシ 又カムイモミウシとも云。右の方ヲアカン左りの方メアカン岳に拝。是より笹原平地。また十丁計にて
小川
また少し上りて一ツ山をこへてヲウンコツ…」
これしか記されておらず、秋葉氏は注釈で次のように解説している。
「…このあと雌阿寒岳登山の記事があるが、文飾である」
何とも素っ気ない注釈ではある。「文飾」とは文章、語句を飾り立てることではあるが、この手控えを最優先すると、武四郎のマチネシリ登頂は、事実ではないことになる。武四郎の日誌には「文飾」がこのほかにもあり、現代語訳者の丸山道子さんもマチネシリ登山は「彼一流のフィクションであろう」と解説している。
秋葉氏は、武四郎が下山した翌日の阿寒湖の丸木舟による四島巡りも「三月十六日以降、日誌の行程は一日ずれていたが、ここで二七日阿寒湖内巡りをしたことにして、手控と日誌の行程が一致した」と解説している。(注:強調は筆者)
このことを知った時はさずがに驚きとショックがあったが少し落ち着いて、いく通りかの考えがめぐった。(続く)