【第九巻】 桂恋から厚岸へ
難解アイヌ地名を愉しむ
難解地名を分析する
▶松浦図で釧路市の知人岬から仙鳳趾までの海岸線地名をチェックすると57地名あり、そのうち現在、漢字和名として表記されているのは、おおよそ24地名。約4割が現役である。じっと眺めていると知人岬からおおよそ中間点の跡永賀までの地名は、ほぼアイヌ語の〈音〉に漢字をあてた地名なので、無理をすればなんとか読める地名だ。しかし、跡永賀の次の冬窓床から知方学までの7箇所は、どう考えても読めない超難解地名である。難解度は東高西低なのである。ひょっとしたら一人が和名付けをしたわけではなくて、ここら辺で嫌になって、誰かにバトンタッチしたのかもしれない。どんな知的バックグラウンドを持った人がこういう漢字をあてたのだろう。
▶近世の文化人が漢詩や漢文をたしなむのは標準的な教養だったのだろう。武四郎も一般向けの刊行物である久摺日誌などには、わざわざ漢文で同じ箇所の説明を繰り返しているところがある。雌阿寒岳登山の件については、この例なのだが漢文箇所と和文箇所で微妙に内容を変えているところもあり、芸が細かい。一般向け書籍なので、読者も漢文に親しんでいたのだろう。
▶地名の和名表記は明治政府ができて以降の話なので、地域の役人か、北海道開拓使の吏員がこの任にあたったのだろうか? 和人の入植者が付けた可能性も…。詳細の読みについては次頁「釧路町海岸線難解地名マップ」をご参照頂きたい。この24の地名のなかで〈音〉も〈意味〉もアイヌ語にほぼそっているのは昆布森が唯一と言っていい。あえてもう一つ挙げるとすれば尻羽岬である。後者はカタカナ表記も使われている。アイヌ語解釈ではシレパは(山の・頭)である。あて漢字は尻の羽(尾)なのでアイヌと和人の自然を捉える方向性の多くが逆転してることを考えれば、尻羽岬も当たらずとも遠からず。
昆布森は松浦図ではコンフイ。コンプモイ(kombu-moi)昆布の・入江の意味である。昆布はアイヌ語でもコンブまたはサシともいう。同じ太平洋沿岸の根室地方にも昆布盛がある。「森」も「盛」も「モイ(湾)」のあて字である。
▶超難解7地名のうち、知方学と入境学はナイに〈学〉という字があてられている。通常は〈内〉でナイと読ませることが多いのだが、この2箇所以外は内になっているので、どうも命名者のセンスのような気がする。そういえば知、舞、遺、学、窓など学芸的な漢字使いも気になる。
▶地名研究者から〈アイヌ地名としての解釈も難しい〉といわれるのは又飯時と老者舞である。マタイトキは『釧路町史』では、〈海の瀬の荒いところ〉と解しているが、『北海道の地名』で山田氏は、武四郎の日誌の〈マタは水也、エトキは汲んで明ける事也〉の解釈を引用し、「マタが水とは変だ。水ならワッカであろう。エトキにそんな語源があるだろうか。その内容を言葉をあてて見ると、ワッカ・タ・エトゥとなるだろうか。とにかく難しい地名である」と書いている。オシャマップについても、解釈の記録がなく、「オ・イチャン・オマ・プ(川尻に・鮭鱒産卵場・ある・もの=川)とも聞こえるが、うっかり解がつけられない。」としている。あてた漢字も意味と全くつながらないので、お手上げの地名である。
▶人名は人名漢字さえ使っていれば後は極端に言えば、どう読んでもいいそうだ。近年、全く読めない人名が多くて、他者に分かってもらうことと、自分をアピールすることの齟齬について考えざるを得ない。地名も似たところがあって、音を無視し、意味を重視してリネームをするとすれば、幌内〔大きな川〕は大川、来止臥〔ギョウジャニンニクが群生する処〕は葱群処、浦雲泊〔小さな入江〕は小泊、去来牛〔葦が群生する処〕は葦群処と書いて読ませるのはいかがでしょう。しかし、こうなれば至る所に大川や小泊がついて、アイヌ地名の標準化指向に近くなり、それは国が地名により、場所を特定させる方向性からは離れることになる。
▶土地は〈天からの預りもの〉ではなく、〈国の管理するもの〉になったのだ。現代は、どこまで土地にこだわるシステムに依存した社会を維持していくのだろう。領土をめぐる国家間の軋轢から、ご近所との土地境界のいざこざまで、争いは尽きない。アイヌ地名付けにみる考え方や「名は体を表す」との諺にも立ち返り、名称付けのあり方を今一度考える契機にしたい。(続く)