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第十巻 ②古の国際交流

【第十巻】 厚岸から霧多布へ
 「岬と花の霧街道」を行く

仙鳳趾から舟で厚岸会所についた様子を伝える『北海道歴検図』のアッケシ図(部分拡大)

▶17世紀から19世紀にかけては、ロシアの南下の動きや諸外国のアジア進出と通商要求が蝦夷地の周辺でも賑やかになってきた。厚岸周辺でも様々な出来事があった。時系列で追いながらこの前後の厚岸が海の玄関口としていかに重要な拠点であったかをおってみたい。
ジパング(日本)に金銀を探して、フリース船長率いるオランダ船カストリウム号が厚岸に寄港したのは1643年。その航海記録には当時の厚岸の様子が記されている。18日間の滞在中、アイヌとの交流もあり、牡蠣とハマナスの実がアイヌから船に贈り物として届けられている。クスリの初見はその航海日誌にあるが、フリースは厚岸湾をグーデホープ湾(希望湾)と名付けたほか、各所に地名をつけ、見聞記をオランダで発表するなど、さしずめ〈オランダの武四郎〉。
時は経ち1779年、愛冠岬から東側を望む海岸の筑紫恋にロシア人シャバーリンを長とする一行が交易を求めてやってくる。その案内をしたのは後にクナシリ・メナシの戦いで蜂起した国後アイヌの長であるツキノエであった。

筑紫恋の上陸したシャバ―リン一行の様子を伝えるオランダの文書


▶ロシアの商人たちは千島列島に沿って南下しはじめ、アイヌとの交易が進められていくがその動向に幕府は危機感を抱き、1785年に大規模な蝦夷地調査を行う。その拠点が厚岸であり、アイヌのリーダーであるイコトイが案内役を担った。一行には探検家・最上徳内もいた。1789年に場所請負人に不満を持ったアイヌが蜂起し、クナシリ・メナシの戦いが勃発するが松前藩の鎮圧により国後のリーダーであったツキノエは同族と共に、大きな打撃を受ける。
▶1792年にロシアの使節アダム・ラックスマンが国書を携え根室に行ってくる。翌年には厚岸を経由して松前に上陸し幕府と交渉を行う。蝦夷地探訪の先駆者である最上徳内は生涯9度も蝦夷地を探訪し、1798年には択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建立し、領土を示す。
危機感を高めた幕府は1799年に松田伝十郎が中心となり政徳丸で江戸~厚岸の航路を拓く。この航路開拓は蝦夷地を経営する奉行所を箱館ではなく、厚岸にする幕府の意向があった。江戸・東北・蝦夷地を海路で結ぶ「東海路構想」は実現しなかったが、厚岸が江戸時代蝦夷地第一の湊といわれた証を示している。1805年から6年にかけてロシアのレザノフの通商要求を拒絶したことに端を発し、露寇事件が勃発。幕府はロシアへの対応を巡り極度の緊張状態に陥る。
▶その後、ロシアがナポレオン戦争のロシア戦役に対応するため、しばし極東は平安を取り戻すが、1821年に幕府から再び松前藩の管理になったのにあわせるかのように、再び外国船の動きが活発になる。1831年には羨古丹沖(浜中湾)に現れた外国船が上陸し、厚岸会所の役人、アイヌらと戦闘となる。この船はオーストラリアの捕鯨船と伝えられている。1844年にはフランス船がバラサン沖に出現し、食料燃料を補給し、何事も起こさず湊を離れる。1850年にはオーストラリアの捕鯨船イーモント号が末広沖で難破し、乗組員32名が厚岸の人々によって救助された。これが縁となり厚岸とオーストラリア、クラレンス市とは姉妹都市提携を結ぶ。禍福は糾える縄の如し。この交流は今日まで続く。
▶クラレンス市はオーストラリアといっても、大陸の南東部に位置するタスマニア島の街である。タスマニア島といえばハシボソミズナギドリの繁殖地として有名。この海鳥は、最も長距離の渡りをする鳥として知られ、5月の下旬から6月にかけては厚岸沖から根室沖、知床を大群で通過し、ベーリング海から北極海まで約32000㎞を渡る鳥類の最長フライヤーである。人も野鳥もオーストラリアとは縁が深い。
1853年ペリーの黒船が浦賀に来航。翌年、幕府は鎖国を解き、開国。長崎、横浜とともに蝦夷地では函館が開港し、幕府は蝦夷地の管理を再び松前藩から直轄地に移すことになる。(続く)

世界の海を支配した17世紀のオランダの様子を展示したアムステルダム国立美術館

第十巻 ①厚岸の栄光と凋落

【第十巻】 厚岸から霧多布へ
 「岬と花の霧街道」を行く

扉写真はあやめケ原から西側の海岸線 海霧が立ち込める「岬と花の霧街道」 上の絵図はアッケシの図(『東蝦夷図巻』1857 北海道大学北方資料データベース)

▶小学校の頃、釧路の位置を厚岸と間違えて覚えていた。身体の中心が臍ならば、それを断面から見たらきっと厚岸湾みたいに窪んでいて、さしずめ奥の臍のゴマは厚岸湖の牡蠣になるのかも。
厚岸は東部太平洋沿岸の地図上では、ヘソのマチに見える。昔から交易や交通の拠点であった。松前藩が成立した1604年には既にアッケシ場所の設置が記されているが、以前よりアイヌの人々にとっては東の拠点であった。その時期は蝦夷地を支配していた松前藩の交易船も厚岸には年に一、二度来るのみで、厚岸に集まるのはもっぱら周辺のアイヌであった。釧路や根室そして千島のアイヌたちも厚岸に集い交易を行ったのだろう。

現在の厚岸湾から浜中湾の海岸線
松浦図で比較すると外観はほとんど現況図とかわらないが、霧多布岬は島になっている


▶アイヌが反乱を起こした大きな戦いの一つにシャクシャインの戦い(1789年)がある。この戦いには白糠から以東のアイヌは参加しなかったようで、厚岸を中心とした東蝦夷地のアイヌたちはその独立性を維持していた。
18世紀から広い蝦夷地を支配するために松前藩は場所請負人制により商人の取引から上がる運上金を藩の財源とした。このため本州から商人たちが蝦夷地に進出してきた。道東においては、飛騨地方の木材商・飛騨屋久兵衛が1774年以降、漁業や木材資源を産出するため進出した。この場所請負人によりもたらされた劣悪な労働環境で虐げられた国後のアイヌたちが蜂起した。クナシリ・メナシの戦い(1789年)である。
▶この頃のアイヌの人別帳によれば釧路の人口は52軒252人。厚岸は約2倍の5百人ほど。厚岸が蝦夷地東部の中心にあったことがうかがえる。釧路と厚岸の拠点機能の立場が逆転するのはクナシリ・メナシの戦い以後である。文化6年(1808)の調べではクスリ場所は1384人、アッケシ場所は874人、トカチ場所は1034人とあり、クスリ場所が東部の地区においては最大の拠点となっている。
▶クナシリ・メナシの戦い以前は剛強と恐れられ、高い独立心を誇った厚岸を中心とした東蝦夷地のアイヌたちは、この戦いの敗北後、松前藩への従属と幕府の撫育方針により勢いを失う。東蝦夷地のアイヌの拠点であった厚岸は疫病(天然痘)や大地震もあり著しく衰退し、安政4年(1857)には201人、明治4年(1871)には159人まで減少する。
ちなみに武四郎は戊午日誌に来釧時(1858)のクスリ場所の人口を「当領内家数237軒、人別1321人(男649人、女672人)有と。其内当会所元に人家75軒、人別385人(男189人、女196人)。右渡し場の傍と会所の前なる岡の傍に有たり。」と記している。釧路は、釧路川河口に港が拓け、周辺の漁業、木材、鉱物資源が集積するマチに成長する。
▶最新の人口データでは釧路市は16万人。厚岸は釧路管内では、釧路町に次いで第3のマチではあるが人口は9千人ほどである。厚岸の恵まれた自然、特に厚岸湾と厚岸湖が織りなす地形と、環境の豊かさは狩猟採集と交易が生業の中心であった時代のアイヌ民族にとっては拠点にふさわしい処だったのであろう。
▶さて仙鳳趾から図合船による渡しで厚岸湾を横断し、厚岸会所に着いた武四郎は初航1845年時には内陸の別寒辺牛湿原から風蓮川沿いに風蓮湖岸の内陸ルートを行く。第6回目の1858年には会所から再度、船で霧多布岬を廻り、現在の浜中湾榊町(アシリコタン)あたりに到着、そして海岸沿いに根室に向かう。武四郎が見た厚岸は既に黄金期から衰退の一途をたどりつつあった厚岸であった。
▶松浦図と現在の地図を比較するとこの海岸線の地形がほぼ一致するほどの完成度である。
北海道の輪郭図は先達である伊能忠敬や間宮林蔵たちの測量によりなされたもので、武四郎はその業績を踏まえた上での内陸調査に探検家としての栄光が刻まれる。
現在の厚岸町は真栄町と旧市街地(若竹町)が厚岸大橋で結ばれているが、旧市街地側の突き出た岬はノテトウ(岬)と呼ばれ、会所があった。この間は、渡し舟やはしけで結ばれ、1959年には厚岸丸というフェリーボートが就航した。ボクが高校1年生の頃、厚岸出身の学友の実家に仲間と一緒に泊まりがけで訪ねた。釧路から花咲線に乗って厚岸駅で降り、このフェリーに乗って対岸の友人の家を訪ねたことが昨日のことのように思い出される。(続く)

バラサン岬から厚岸湾眺望 対岸のセンポウシから会所の間は通船で行き来していた

〈第九巻〉③難しい地名・面白い地名

【第九巻】 桂恋から厚岸へ
 難解アイヌ地名を愉しむ

初無敵(ソンテキ)はいろいろ呼び方があって意味の特定が難しい。扉写真と絵図(目賀田守蔭 北大北方資料データベース)と人の立っている位置が類似している
初無敵(ソンテキ)周辺を3枚の写真を合成した。実際はもっと広い湾になっている。上の絵図にイメージが近い。

難しい地名・面白い地名
▶アイヌ地名には様々な解釈があるが、釧路町が公式動画でアップしている「ふるさと地名の旅」から何箇所かご紹介すると、宿徳内は「アサツキがはえている沢」。跡永賀は二つあって、アトイ・カatui-ka(海の・上)とアトイ・オカケatui-okake(昔は海のあった所)。初無敵は色々な呼び名があって特定しづらいようだが、ソウン・トゥ(滝のある小山)という解釈も紹介している。知方学はチェプ・オマ・ナイ(魚の集まる処)。同じ意味合いで仙鳳趾がチェップ・オッ・イ(小魚〈ニシン〉が沢山いるところ)とのことだが、仙鳳趾はこの海岸線にある4つの漁港(桂恋、昆布森、老者舞、仙鳳趾)のひとつで、近年は厚岸と並んで牡蠣がブランドとして有名になっている。

目賀田守蔭の絵図によるセンポウシ(右手)。厚岸湾側から太平洋を望む。
現在の地名は「古番屋」になっている旧センポウシを訪れた。奥側が厚岸で岩崖の形状が絵図と似ている
南部藩士の楢山隆福が1810年に描いたセンポウシ(函館市中央図書館蔵)


▶この仙鳳趾にまつわる地名は少々入り組んでいる。現在の仙鳳趾漁港から南寄りに古番屋という地名がある。ここが昔の仙鳳趾である。仙鳳趾は様々な絵図に遺されている要所だ。文化7年(1810)の『東蝦夷地与里国後へ陸地道中絵図』は南部藩の楢山隆福という藩士が蝦夷地警備を命ぜられ、国後に滞在した後、帰路は陸路をこの太平洋沿岸沿いに箱館まで戻った。その時、描いた各地の番屋や会所の絵図が、当時の様子を伝えている。

旧センポウシは近年まで番屋として使われていた。廃屋に面影を偲ぶ


▶ボクは仲間と一緒に旧仙鳳趾である古番屋を訪れた。てっきり古い番屋のあった所という和名だとばかり思っていたら、さにあらず。アイヌ地名由来でフルパンヤ(崖の上の平らな場所)という意味だそうだ。絵図を見ると確かに崖の中の平らな箇所に建物がある。通行屋を併設していたと思われる番屋の他、蔵や小屋などが点在し、稲荷神社も見える。ここから厚岸会所を結ぶ舟便があったことも含め、それなりの賑わいを感じさせる。
現地には既に廃屋しかないが、建物の配置や、浜から望む景観には、絵図と重なるところがあり、往時を偲ばせた。(終り)

〈第九巻〉②難解地名を分析する

【第九巻】 桂恋から厚岸へ
 難解アイヌ地名を愉しむ

カツラコイ(桂恋)の図は谷文晁が描いた。(北海道立美術館蔵)上の現在の写真と岩の形が符合する。ただ、左手は陸地なので絵図の砂嘴のような形状とは異なる。

難解地名を分析する
▶松浦図で釧路市の知人岬から仙鳳趾までの海岸線地名をチェックすると57地名あり、そのうち現在、漢字和名として表記されているのは、おおよそ24地名。約4割が現役である。じっと眺めていると知人岬からおおよそ中間点の跡永賀までの地名は、ほぼアイヌ語の〈音〉に漢字をあてた地名なので、無理をすればなんとか読める地名だ。しかし、跡永賀の次の冬窓床から知方学までの7箇所は、どう考えても読めない超難解地名である。難解度は東高西低なのである。ひょっとしたら一人が和名付けをしたわけではなくて、ここら辺で嫌になって、誰かにバトンタッチしたのかもしれない。どんな知的バックグラウンドを持った人がこういう漢字をあてたのだろう。

釧路町海岸線の難解地名を松浦図と現況図で比較した。


▶近世の文化人が漢詩や漢文をたしなむのは標準的な教養だったのだろう。武四郎も一般向けの刊行物である久摺日誌などには、わざわざ漢文で同じ箇所の説明を繰り返しているところがある。雌阿寒岳登山の件については、この例なのだが漢文箇所と和文箇所で微妙に内容を変えているところもあり、芸が細かい。一般向け書籍なので、読者も漢文に親しんでいたのだろう。
▶地名の和名表記は明治政府ができて以降の話なので、地域の役人か、北海道開拓使の吏員がこの任にあたったのだろうか? 和人の入植者が付けた可能性も…。詳細の読みについては次頁「釧路町海岸線難解地名マップ」をご参照頂きたい。この24の地名のなかで〈音〉も〈意味〉もアイヌ語にほぼそっているのは昆布森が唯一と言っていい。あえてもう一つ挙げるとすれば尻羽岬である。後者はカタカナ表記も使われている。アイヌ語解釈ではシレパは(山の・頭)である。あて漢字は尻の羽(尾)なのでアイヌと和人の自然を捉える方向性の多くが逆転してることを考えれば、尻羽岬も当たらずとも遠からず。
昆布森は松浦図ではコンフイ。コンプモイ(kombu-moi)昆布の・入江の意味である。昆布はアイヌ語でもコンブまたはサシともいう。同じ太平洋沿岸の根室地方にも昆布盛がある。「森」も「盛」も「モイ(湾)」のあて字である。

「昆布井」の図(目賀田守蔭 北大北方資料データベース)。現在の昆布森周辺。通行屋の横に馬用の飼料小屋が見える。馬が荷運びの役割をはたしていた


▶超難解7地名のうち、知方学と入境学はナイに〈学〉という字があてられている。通常は〈内〉でナイと読ませることが多いのだが、この2箇所以外は内になっているので、どうも命名者のセンスのような気がする。そういえば知、舞、遺、学、窓など学芸的な漢字使いも気になる。
▶地名研究者から〈アイヌ地名としての解釈も難しい〉といわれるのは又飯時と老者舞である。マタイトキは『釧路町史』では、〈海の瀬の荒いところ〉と解しているが、『北海道の地名』で山田氏は、武四郎の日誌の〈マタは水也、エトキは汲んで明ける事也〉の解釈を引用し、「マタが水とは変だ。水ならワッカであろう。エトキにそんな語源があるだろうか。その内容を言葉をあてて見ると、ワッカ・タ・エトゥとなるだろうか。とにかく難しい地名である」と書いている。オシャマップについても、解釈の記録がなく、「オ・イチャン・オマ・プ(川尻に・鮭鱒産卵場・ある・もの=川)とも聞こえるが、うっかり解がつけられない。」としている。あてた漢字も意味と全くつながらないので、お手上げの地名である。

「マタイトキ」の図(目賀田守蔭 北大北方資料データベース)


▶人名は人名漢字さえ使っていれば後は極端に言えば、どう読んでもいいそうだ。近年、全く読めない人名が多くて、他者に分かってもらうことと、自分をアピールすることの齟齬について考えざるを得ない。地名も似たところがあって、音を無視し、意味を重視してリネームをするとすれば、幌内〔大きな川〕は大川、来止臥〔ギョウジャニンニクが群生する処〕は葱群処、浦雲泊〔小さな入江〕は小泊、去来牛〔葦が群生する処〕は葦群処と書いて読ませるのはいかがでしょう。しかし、こうなれば至る所に大川や小泊がついて、アイヌ地名の標準化指向に近くなり、それは国が地名により、場所を特定させる方向性からは離れることになる。

浦雲泊から左からトド岩、中央奥に立岩、右手陸側に三角形のタコ岩が並ぶ奇岩群。隣接地の十町瀬(トマチセ)は現在、行くことができない。


▶土地は〈天からの預りもの〉ではなく、〈国の管理するもの〉になったのだ。現代は、どこまで土地にこだわるシステムに依存した社会を維持していくのだろう。領土をめぐる国家間の軋轢から、ご近所との土地境界のいざこざまで、争いは尽きない。アイヌ地名付けにみる考え方や「名は体を表す」との諺にも立ち返り、名称付けのあり方を今一度考える契機にしたい。(続く)

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