当舎では2024年9月1日に新刊『渋江長伯一行の蝦夷地植物採集紀行~「東蝦夷物産志」を読む』を刊行します。これは江戸時代の本草学者一行が東蝦夷地(太平洋沿岸地域)を4か月にわたり植物採集調査をした史料を解読し、現在の環境と照らし合わせて図鑑にまとめたものです。釧路地方在住の女性3名の研究者(植物、アイヌ語、古文書)が協同して取り組んだ成果です。アイヌと和人が蝦夷地の植物を調べ、その利活用の在り方をまとめたもので、現在の様子との対比もふくめて環境の変化や人と自然の共生の在り方を植物を通して検証できる貴重な書籍です。とはいえ、決して取り付きにくい本ではありません。手に取ってフォールドで書斎で、身近な植物のアイヌ語名や昔の利活用の在り方を興味深く知る手立てにある本です。是非、書店で手に取ってご覧ください。9月1日以降、コーチャンフォー道内各店及び市内書店等にて随時販売されます。また、当舎でもネット申込いただければ、販売いたします。
「自然と人の共生」カテゴリーアーカイブ
第十巻 ①厚岸の栄光と凋落
【第十巻】 厚岸から霧多布へ
「岬と花の霧街道」を行く
▶小学校の頃、釧路の位置を厚岸と間違えて覚えていた。身体の中心が臍ならば、それを断面から見たらきっと厚岸湾みたいに窪んでいて、さしずめ奥の臍のゴマは厚岸湖の牡蠣になるのかも。
厚岸は東部太平洋沿岸の地図上では、ヘソのマチに見える。昔から交易や交通の拠点であった。松前藩が成立した1604年には既にアッケシ場所の設置が記されているが、以前よりアイヌの人々にとっては東の拠点であった。その時期は蝦夷地を支配していた松前藩の交易船も厚岸には年に一、二度来るのみで、厚岸に集まるのはもっぱら周辺のアイヌであった。釧路や根室そして千島のアイヌたちも厚岸に集い交易を行ったのだろう。
▶アイヌが反乱を起こした大きな戦いの一つにシャクシャインの戦い(1789年)がある。この戦いには白糠から以東のアイヌは参加しなかったようで、厚岸を中心とした東蝦夷地のアイヌたちはその独立性を維持していた。
18世紀から広い蝦夷地を支配するために松前藩は場所請負人制により商人の取引から上がる運上金を藩の財源とした。このため本州から商人たちが蝦夷地に進出してきた。道東においては、飛騨地方の木材商・飛騨屋久兵衛が1774年以降、漁業や木材資源を産出するため進出した。この場所請負人によりもたらされた劣悪な労働環境で虐げられた国後のアイヌたちが蜂起した。クナシリ・メナシの戦い(1789年)である。
▶この頃のアイヌの人別帳によれば釧路の人口は52軒252人。厚岸は約2倍の5百人ほど。厚岸が蝦夷地東部の中心にあったことがうかがえる。釧路と厚岸の拠点機能の立場が逆転するのはクナシリ・メナシの戦い以後である。文化6年(1808)の調べではクスリ場所は1384人、アッケシ場所は874人、トカチ場所は1034人とあり、クスリ場所が東部の地区においては最大の拠点となっている。
▶クナシリ・メナシの戦い以前は剛強と恐れられ、高い独立心を誇った厚岸を中心とした東蝦夷地のアイヌたちは、この戦いの敗北後、松前藩への従属と幕府の撫育方針により勢いを失う。東蝦夷地のアイヌの拠点であった厚岸は疫病(天然痘)や大地震もあり著しく衰退し、安政4年(1857)には201人、明治4年(1871)には159人まで減少する。
ちなみに武四郎は戊午日誌に来釧時(1858)のクスリ場所の人口を「当領内家数237軒、人別1321人(男649人、女672人)有と。其内当会所元に人家75軒、人別385人(男189人、女196人)。右渡し場の傍と会所の前なる岡の傍に有たり。」と記している。釧路は、釧路川河口に港が拓け、周辺の漁業、木材、鉱物資源が集積するマチに成長する。
▶最新の人口データでは釧路市は16万人。厚岸は釧路管内では、釧路町に次いで第3のマチではあるが人口は9千人ほどである。厚岸の恵まれた自然、特に厚岸湾と厚岸湖が織りなす地形と、環境の豊かさは狩猟採集と交易が生業の中心であった時代のアイヌ民族にとっては拠点にふさわしい処だったのであろう。
▶さて仙鳳趾から図合船による渡しで厚岸湾を横断し、厚岸会所に着いた武四郎は初航1845年時には内陸の別寒辺牛湿原から風蓮川沿いに風蓮湖岸の内陸ルートを行く。第6回目の1858年には会所から再度、船で霧多布岬を廻り、現在の浜中湾榊町(アシリコタン)あたりに到着、そして海岸沿いに根室に向かう。武四郎が見た厚岸は既に黄金期から衰退の一途をたどりつつあった厚岸であった。
▶松浦図と現在の地図を比較するとこの海岸線の地形がほぼ一致するほどの完成度である。
北海道の輪郭図は先達である伊能忠敬や間宮林蔵たちの測量によりなされたもので、武四郎はその業績を踏まえた上での内陸調査に探検家としての栄光が刻まれる。
現在の厚岸町は真栄町と旧市街地(若竹町)が厚岸大橋で結ばれているが、旧市街地側の突き出た岬はノテトウ(岬)と呼ばれ、会所があった。この間は、渡し舟やはしけで結ばれ、1959年には厚岸丸というフェリーボートが就航した。ボクが高校1年生の頃、厚岸出身の学友の実家に仲間と一緒に泊まりがけで訪ねた。釧路から花咲線に乗って厚岸駅で降り、このフェリーに乗って対岸の友人の家を訪ねたことが昨日のことのように思い出される。(続く)
阿寒の森はキノコ&粘菌天国。
9月1日、雌阿寒岳山麓をフィールドに「キノコ観賞&食事会」が開催されました。野中温泉から湖岸沿いにアカエゾマツの山麓でキノコ、粘菌、コケ類などの観察会が新井文彦さんの解説で約2時間30分おこなわれました。新井さんは阿寒湖温泉の阿寒ネイチャーセンターでガイドをおこなうかたわら、キノコや粘菌の見事な写真や楽しい文章で数々の著作を発刊している人気のキノコ粘菌作家です。当日の私の力作を一挙掲載します。興味のある方はご覧下さい。名前が違う、名前が不明なものが多々あります。ネンキン初心者にご指導下さい。
凸凹海外研修報告その3(ローマ編)紀元前の道を歩く
我が舎の研修の一貫したテーマがトレッキングである。登山であれ、ハイキングであれ、街なか散歩であれ、著名無名を問わず魅力的なトレッキングを体感し、その魅力をどこかで活かすことがテーマになっている。今回は、長年の夢の一つ、ローマ旧アッピア街道のトレッキングである。最初の造成が紀元前312年といわれ、「すべての道はローマに通ず」の格言をまさしく形にしたものである。”女王の道”とも呼ばれ、現在も現役の道路であるが、随所に古代の遺跡(墓地、祠、標識柱など)が点在し、糸杉と唐笠松の並木の中、一部は静かな散策路、一部は今も激しく車が行き来する生活道路となっている。
我々は古の佇まいがある静かな散策路を約5kmほど歩き、カタコンベという古代からの共同墓地遺跡(洞窟内に3層にわたる遺跡跡を見ることができる)を見学した半日であった。
■どんな道かといえば…
イタリアは南北に細長く、火山があって、温泉があって、家族主義で、かつて独裁国家同士同盟をむすんだこともある同類項の多い国である。アッピア街道は火山岩(玄武岩)を敷き詰めており、もっとも古い部分はごつごつした大き目の石が、時代が近づけば定型の石畳になっている。ローマ旧市街地はこの石畳が太宗で歩くには疲れるし、車に乗っても乗り心地悪いこと夥しい。
さて、アッピア街道は観光地であるが、このアッピア街道を歩こうという人はあまり多いわけではない。個人旅行者(我々もそうだが)は公共交通(地下鉄、バス)を乗り継いで約2時間(待ち時間も入れて)ほどで、歩くポイントに到着、ほぼ直線路なので行って戻る感じのトレッキングとなる。この道を堪能するにはローマや世界の歴史と春採湖一周くらいの体力を身につけていれば楽しめるのだが、特に前者の教養の深浅が極めて重要。ガイド付きツアーだと申し分ないかもしれない。(私たちはカタコンベガイド以外は単独行でした)
■楽しみ方あれこれ
ガイドツアーでも、歩いている最中に出会ったのが、ホーストレッキングと自転車ツアー。石畳の特に古代部分は不整陸路なので自転車は大変だろうとおもい聞いてみると、マウンテンバイクで電動サポートつきであった。確かにこれでないと尻が大変。馬は手綱引きのツアーなので乗馬の魅力ではなく、気分を楽しむ感じと見受けられた。こういう歴史道路は楽しむ教養を自前で身につけるか、ガイドから得るか、いずれにせよ旅の前後の予習復習がたくさんある。これも含めて「旅」なのだが、あの足裏の古代の感触は忘れられない旅の記憶として身体に残るものとなった。
凸凹海外研修報告その1(スペイン編)ガウディ恐るべし
開業以来毎年2回ずつ国内外の観光地を視察している。「遊びじゃないの?」という声も聞こえるが、研修なんである。報告もし、成果も仕事に反映しなければならない。まあ、旅行者の立場で仕事を再点検する意味では、遊びの気分も大切ではある。
さて、今回はスペインとはいってもバルセロナ、マドリッドの二大都市とイタリア、ローマの8泊10日間の旅であった。類比的に考えるタイプなので、バルセロナで言えば、共通項である港町を軸に、ガウディ建築物(毛綱建築物)、サン・ジョゼッペ市場(和商市場)、地中海海鮮料理(太平洋海鮮料理)なんかが比較項目になってくる。
■建築物や街並みの魅力
アール・ヌーボー(新しい芸術活動)の時代にフランスやスペインで活躍した、芸術家たちのなかでアントニオ・ガウディは最も著名な建築家だとおもう。いうまでもなくサクラダ・ファミリア教会の設計者かつ施工者でもあるが、ガイディは工期途中で不慮の死(交通事故)でなくなり、かつ設計図も戦争中に消失したので現在は継承者たちが2026年の完成を目指して試行錯誤しているそうだ。ガウディ建築物は有名なもの(世界遺産に指定されているような)だけでも5棟くらいあって、その他の建築家たちの作品が街中にあって、相当奇抜なものも多いが街の景観に溶け込んでいるところが凄い。はっきり言えば、これはバルセロナのオンリーワン観光素材なので、比較するものもないが、釧路にもポストモダンの建築家で郷土出身の毛綱毅曠(故人)がいる。大小あわせれば10棟ほどの毛綱建築物が市内に点在している。
一朝一夕に街並み景観を形成することは不可能だが、地道な積み重ね、つまり街の歴史を語る活きた素材が建築物や街並みのアイテムである。その方向性は大切に市民共有したいものである。