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雌阿寒岳(左)と雄阿寒岳(右)を双岳台からのぞむ

「あかぬ山であきない」
百名山ブームで老いも若きも山を目指す昨今。ブームの原点は、いうまでもなく作家深田久弥の『日本百名山』である。昭和39(1964)年初版なので、半世紀ロングセラーとなっている山岳エッセイの頂点である。「品格・歴史・個性」のある1500m以上の山から深田は百の名山を選定した。北海道からは9つの山が選ばれているが、釧路地方では雄阿寒岳と雌阿寒岳がワンセットで「阿寒岳」として選定されている。山岳名には、複数の山の集合体をひとくくりで山岳名にしているものが全国各地にある。大雪山やわが国最初の開山といわれる立山、そして、我らが雌阿寒岳も実は9つの山の集合体なのだ。(現在の雌阿寒岳頂上はポンマチネシリのピーク1499m)
しかし、深田は、さらに雌阿寒岳と雄阿寒岳の2つの山岳名をまとめてひとつにネーミングしてしまった。それが「阿寒岳」である。いわば深田オリジナルである。しかし、私の周りでは「阿寒岳に登ろう」というフレーズはあまり聞いたことがない。
雄阿寒岳登山口入口の国道脇に、ひっそりと歌碑が建立されている。幕末の探検家松浦武四郎の詠んだ歌の碑である。武四郎は蝦夷地探検家であるとともに、山が信仰の場であった時代に、信仰とは距離をおいて、全国の山岳を踏破した近代登山のパイオニアともいわれる存在でもある。阿寒の山の印象を詠った碑には、こう書かれている。

いつまでも ながめはつかじ あかぬ山 妹背の中に 落る瀧津瀬

阿寒の地名由来には複数の説がある。武四郎の説は、アイヌ語で車の両輪を意味するアカムから、男の山ピンネシリ(雄阿寒岳)と、女の山マチネシリ(雌阿寒岳)を両輪(アカム)にたとえ、「あかむ」から「あかん」へ変化したという説だ。これに<いつまで眺めても「あきない山」>をブレンドして、二重意味となっている。武四郎は洒落っ気もあったのだ。
武四郎が阿寒に来た1858年の記録『久摺日誌』には、2つの謎があるようだ。ひとつは、「あかぬ山」はどこなのか。二つ目は、武四郎は本当に「あかぬ山」に登ったのか、というものである。これに関して、研究者の見解は、雌阿寒岳に登ったように記述されているが、これはアイヌ案内人からの聞き書きで、実際には登っていないとの見方が一般的なようである。
私は、阿寒の仲間たちと、武四郎の歩いた古道を中心とした研究会をひらいて、彼の記録をもとに実際に現地も歩いてみたが、経路として有力なのは、雌阿寒岳経由で、登ったか否かについては、私も迷い道探索中である。ここはガイドらしく、いつか実際に踏査して、事実関係を判断したいとおもっている。
一方、深田久弥は『日本百名山』阿寒岳の章で、はっきりと雄阿寒岳に登り、次に雌阿寒岳に登る予定が、登山口で登山禁止の看板があり(火山活動の状態が原因か)断念した件が記述されている。
つまり、確かなことは、二人とも、「あかぬ山」若しくは「阿寒岳」は完全踏破ではないことだ。
「登らずして語るなかれ」という声もかかりそうだが、「登らずとも語りたくなる」御両人ではあった。特に、深田は湖畔にある武四郎の漢詩碑を詠んで、武四郎が登ったのは雄阿寒岳と断言しているから、話はさらに混乱する。ちなみに私はこの説に異論があって、それはこの碑は、丸木舟にのって湖上巡りした武四郎一行が夕日に影をおとす山を見て、あれは自分が昨日苦労して登った山だ、と感嘆するのを詠ったものだが、湖から東側に位置する雄阿寒岳は朝日が昇る方向で、夕日の影は落ちない。つまり、この山は南西側の雌阿寒岳又はフレベツ岳方向になるというのが根拠だ。
私は研究者ではない。自然ガイドである。真実を探求するはお客様にお任せし、ガイドは現地現場に安全にお客様をご案内し、風土の声を通訳する人(インタープリター)なのだ。私がガイドすればここは、「武四郎も深田も、阿寒の夫婦山に敬意を表して、二対で一体であることを最優先した」ということになる。
観光地阿寒湖温泉の発祥は明治後期。温泉旅館の老舗である山浦旅館の元祖山浦政吉夫人トキさんのお話では「(観光の)お客さんが来はじめたのは登山の学生さん達でした。」(阿寒国立公園指定40周年記念誌 種市佐改著)とのこと。明治38(1905)年には、釧路第一第二小学校生徒が修学旅行で釧路から徒歩で雌阿寒岳登山をおこなっている。尋常小学校だから14,15歳の少年少女達が、足掛け7日間、往復約2百キロにもおよぶ行程の修学旅行をおこなっている。にわかに信じ難いが、複数の史料に記されている。昔の人はよく歩いたと感心するとともに、阿寒の山は若者を惹きつける「あかぬ山」であったのだ。
平成26(2014)年に、プロアドベンチャーレーサーの田中陽希さんが約二百日で日本百名山を陸路・海路とも自力踏破で完走した。(「田中陽希 グレートトラバース-日本百名山一筆書き踏破」(NHKBS1)我が家でも、坊主頭の若者にくぎづけの1年余であった。阿寒岳に関して、様々な百名山ガイドブックにはどちらかしか紹介していないものもあるのだが、田中青年は、律儀に、深田の登れなかった雌阿寒岳も、武四郎の登ったか、登らなかったか不明の、あかぬ山、つまり、雌阿寒岳と雄阿寒岳をきちっと登りきった。若者の潜在能力は今も昔も想定外だ。
「あかぬ山」であきない(商い)がスタートし、「あかぬ山」は今も昔も、あきない(飽きない)山であり続ける。阿寒の原点の観光資源である。
阿寒湖温泉では現在、マチの活性化を目指して、観光まちづくり計画を策定して、持続的な観光地としてのまちづくりを進めている。その施策のひとつが、アウトドア基地化構想である。阿寒湖温泉を登山や釣りやスポーツなどのアウトドア基地として魅力の再構築をしようというものである。
阿寒の観光は、若者の登山からスタートした。温故知新。「あかぬ山」の魅力を古きに尋ね、若者の発想で、持続可能な観光地のあきない(商い&飽きない)魅力づくりを期待したい。