明治41年1月21日、石川啄木は釧路の駅に下り立ちます。釧路新聞社の記者として76日間の短い期間ですが、釧路に滞在し、旺盛な執筆活動と小奴をはじめ幾人かの女性との交遊とともに短歌ものこします。こんな短期間にともいますが、そこが天才たるところ、多くの釧路人にも深い印象をのこし、今でも啄木を讃える活動が釧路は盛んです。
市内には25基を超える(正確な数がわかりません?)歌碑と記念公園や彫像、そして自ら勤務した釧路新聞社社屋が港文館(さながら啄木資料館です)として釧路川沿いに赤レンガ造りの佇まいをのこしています。
私は啄木には縁深く、行政マンだった時、港文館の建設や歴史通りの整備、啄木像の移設等にかかわったこともあり、その後も、啄木歌留多の製作やイベントにも参加させていただきました。
とりわけ、その縁を感じたエピソードは、東京出張の際、宿を決めていなかったので、文京区を散策しとある旅館に飛び込みで投宿した時、その旅館が、啄木が釧路を離れ、函館を経由して東京にやってきたときの滞在先だったことです。女将さんは、私の釧路での啄木とのかかわりをお話したら、大変喜んでくれ、旅館で建立した歌碑の拓本からおこしたオリジナルのお土産をプレゼントしてくれました。
5年ほど阿寒湖温泉で生活していたのこともあり、しばらくぶりにイベント「啄木雪明りのまち」に参加させていただきましたが、大変な盛り上がりを見せていました。地域のまちづくりグループや町内会、岩手県人会(啄木出生地)などが中心に輪を広げているとのことです。頼もしい限りです。
啄木の一人百首歌留多会もおこなわれていました。釧路にお越しの際は、釧路川フィッシャーマンズワーフMOO対岸の港文館にお立ち寄り下さい。釧路市民の啄木に対するおもいの一端に触れることができます。