〈第五巻〉①ボクの叔父さん

【第五巻】 ご先祖様の行方を探して~ルーツ再発見の旅 モヨロ貝塚からウトロへ

扉写真は昭和30年代の知床半島ウトロの様子。我が家のアルバムから。上は叔父さんの獣医師・樽見佐吉。80歳を越えて現役で「たるみ動物病院」社長。

▶ボクの叔父さんは80歳を過ぎて、今も現役の獣医師である。本家のある斜里町で地域の主要産業の一つである酪農業を60年にわたって支えてきた。七人兄弟の三男として生まれた叔父さんは一家の中で唯一、上京して大学に入学し、故郷の期待を背に獣医師になって帰郷した。ボクの母親が年長の長女で、我が家は父親も同じく斜里を故郷としていたので、ボクにとって斜里は第二の故郷である。昭和30年代前半に田舎の大家族の農家から東京の大学に行くということは大変なことだった。叔父さんは稀有な秀才であるばかりか、文武両道の人で大学では相撲部で活躍した。叔父さんはこれまでの仕事のエピソードをまとめた『牛のはなし』というエッセイ集を出版した。本には入植当時の農家の苦労や牛にまつわる様々なエピソードが綴られている。
昭和35年から新米獣医師として仕事をはじめた叔父さんは、さっそくオートバイを購入し、斜里から45キロ離れたウトロに通い、入植者に国の支援事業として導入されたショートホーンという短角牛の飼育指導にあたった。
▶ウトロは武四郎が来た時(安政5)には番屋があった。漁業は古くからの主産業ではある。昭和10年代から斜里町は漁業に加え、ジャガイモをはじめとする農業生産物と乳牛を加えた「有畜寒地農業」による冷害に強い産業振興策を進めた。
この話には何処からかやってきた70戸の入植者に預けられた牛が、冬を越してどこかに消えてしまったというオチがある。真実は叔父さんの胸の中にはあるのだろうが、今は問わず語らず。厳しい自然と対峙しながら人々は知床の地で暮らしてきた。

斜里町以久科に入植した樽見一族。昭和16年頃の太平洋戦争へ出征する記念写真。

▶ボクの子どもの頃、夏に幌を被せたトラックの荷台に一族(20名ほどいただろうか)が乗り込んでウトロに遊びに行ったことがある。小学校低学年の頃だと思うので、きっと叔父さんがバイクでウトロの農家の牛を診に通ってた頃と同じである。全線、砂利道だったように思う。オシンコシンの滝は、今は海岸線沿いに下から仰ぎ見るが、当時は滝の落ち口の山側を道は通っていて、上から覗き見たように思う。ボクたちは畑のスイカや味瓜を積み込んでウトロの海岸でみんなで食べた。知床はまだ国立公園にもなっていないし、世界自然遺産なんか、だぁ~れも知らない。一族のピクニックはガタガタ道の乗り心地はさておき、のんびり楽しいひと時だった。快晴で海がとても澄んでいた記憶がよみがえる。その記憶は齢を重ねるたびに輝きを増す。

オホーツクの海(峰浜海岸)で遊ぶ一族の記念写真。昭和30年代前半。

▶一族の長で本家を守ってきた伯父さんが令和元年に亡くなった。葬儀に集まった甥っ子姪っ子との昔話、思い出話を辿っていったら、一族が北海道に入植してからちょうど百周年であることに気がついた。叔父さん達も加えて一族の開拓誌を作ろうということになり、ボクと叔父さんは一族の移住の歴史について調べることとなった。ボクはその前年、北海道命名150年の節目の年に、松浦武四郎の資料展を釧路で仲間と一緒に開催していた。イベントの中の講演会でアイヌの仲間が武四郎のことを話した。彼は、「武四郎が名前をつけたからそれがどうしたっていうのというのが正直な気持ちだ。武四郎の話で終わったら後の150年は放っておくの? 和人の自分たちの先祖の功績も見つめるべき」と指摘した。チクリと胸に刺さった。
武四郎を契機にしたアイヌと和人の蝦夷地の歴史。そして伯父の死を契機に一族の北海道移住史へと広がった。また、齢を重ね、〈我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこに行くのか〉という、日本人の起源にも興味が膨らんだ。(続く)

〈第三巻〉③検証登山てんまつ記

【第三巻】 イタルイカオマナイから雌阿寒岳へ
 登ったのか? マチネシリは何処

中間点の800m峰頂上(C地点)でカムイノミ。後ろに雄阿寒岳を望む

▶2022年5月26日木曜日。長年の懸案であった武四郎一行マチネシリ検証登山が実現した。天気は快晴。最高気温は25℃近くまで上昇した暑い一日であった。阿寒クラシックトレイルの仲間と阿寒湖温泉のガイドスタッフ計5名でイタルイカオマナイ沢の入り口を8時半にスタートした。
ルベシベの峠(ルチシ)に10時に到着した。渡辺さんの見積もった〈シユマタツコフからルベシベまで約2時間〉という行程時間はほぼ一致した。ここからほぼ直角に西に折れ、800m峰のピークを目指した。予想はしていたが笹藪こぎと針葉樹林の倒木を超え、ピークである標高830mまでの標高差は約200m。1.2kmの道なき道を1時間10分ほどかかり、到着した。
▶800m峰ピークからは北東に雄阿寒岳とそれを取り巻く阿寒湖の眺め、西側にフレベツ岳や雌阿寒岳の山並みが美しい。ここがアイヌたちが祈りを捧げるカムイノミウシまたエナヲウシであることを十分推測しうる景観であった。
小休止後、西に向けて雌阿寒岳登山口を目指した。一旦、標高650m地点まで降らなければならなかった。この間が急な斜面で、背丈に近いほどのクマイザサを漕ぎながら数度にわたって転倒し、やっとの思いで接続する林道に出た。ここで30分ほどの昼食を済ませ、この延長上にある750mのピークまで登り返し通過する予定であったが、笹藪が思いのほか手強く、精根使い果たし、アミノバイタルも使用済みであったボクの提案で迂回する林道を行くことになった。白水フレベツ林道を使って雌阿寒岳登山口を目指した。


▶雌阿寒岳登山口に到着したのは午後1時半であった。我々の検証登山はここで一旦終了した。ルベシベ(ルチシ)出発から雌阿寒岳登山口まで要した時間は3時間半である。これを武四郎一行のタイムテーブルに合わせると一行のルベシベ発を8時半とすると、雌阿寒岳登山口には12時頃到着になる。ここから夏山ガイドブックに沿った登山時間を充てれば、登山口から頂上到達時刻の午後2時までの約2時間で行くことができるのは剣ヶ峰になる。な、なんと! ぴったりの時間設定ではないか!
また武四郎の記した距離程においても、地図上で計測した約8.3kmの距離と一致した。

▶さて我々の検証登山日と武四郎一行の登った5月10日には2週間ほどの日にち差がある。この早春の頃は1日毎に条件が変化する。これをどう勘案するか。
今回の参加メンバーは阿寒湖温泉で長年ネイチャーガイドをし、阿寒クラシックトレイル研究会の代表でもある安井。アイヌコタンでアイヌ料理のカフェを営み、日常的に山菜採りなどで山に入っている郷右近。アウトドアサイクリング団体を主宰し、林道はじめ阿寒の道を熟知している松岡。皆、阿寒の自然を熟知し、40代。安井は武四郎がマチネシリを登った41歳と同年である。女性ネイチャーガイドは30代?。ボクが68歳で体力的にはみんなの足手まといである。途中で何度となく転び、最後尾を遅れ気味についていく。おまけに記録用で愛用していたコンパクトカメラをどこかで落としたらしく、みんなに捜索する手間まで付け加えてしまった。

カメラを無くしたショックと疲労にうな垂れながら仲間に励まされ、もうひと頑張り。背後のピークが800m峰で地図のDからE方向


▶安井は、「当時の笹の状態、雪の状況次第で、雌阿寒岳(ポンマチネシリ)登頂も不可能ではなかったと思いました。5月前半ということで、春の堅雪がブッシュを覆うほど残っていた可能性は十分あると思います。800m峰のところはぐるっと阿寒の様子を見渡せて、カムイノミするのにもいい雰囲気と感じました」と阿寒の自然を熟知している代表ならではのコメント。
後半は林道を歩く形になったので当時より格段に歩きやすかったには違いないが、現行の雌阿寒岳登山口は北側に寄っているので迂回する分、距離は長くなった。

現在の頂上(ポンマチネシリ)直下から中マチネシリ、剣ヶ峰(マチネシリ)そして雄阿寒岳、阿寒湖を望む武四郎一行が登ったと思われるルート。HからG方向(2枚合成)

▶結論から言えば、武四郎一行が登ったと記されたマチネシリ登山に関する時間や距離の計測は、とても理にかなった情報であった。マチネシリが現在の剣ヶ峰だったとしたら、日誌の記述はとてもリアルなものであった。これをもって武四郎がマチネシリに登ったことが事実だったのかどうかはもはや知る術はない。ただそこに記された記録はマチネシリ登山がフィクションではなく、少なくともアイヌ案内人からの聞き取りや現地の山容、地形地質、植生を読み解きながら、自らの経験と見識を加味し綴られた〈武四郎の登山紀行〉というほかはない。
▶日誌に記されているカムイノミウシ又はエナヲウシについては、登りと降り両方に通過したポイントであるため、おそらく白湯山西側の750mピーク(D地点)で、ここから湖畔に向けて下山ルートを取ったものと推察される。(現在の白湯山登山路に重なるイメージ)

下山路に使ったであろう白湯山から湖畔に下るルート。IからJ方向

▶これまで武四郎の記録については、武四郎自ら〈分飾を施した又は興を加えた〉とされる日誌の表現が、ともすれば〈話を盛る、表現過剰〉で、情報の信憑性まで疑われる嫌いもあったようだ。
しかし、阿寒紀行に関しては、ボクたちの阿寒における経験や今回の検証登山と、武四郎の記録を擦り合わせると、武四郎一行がマチネシリに登ったことは《ノンフィクションとして物語ることができた》とおもっている。
▶下山時に失くしたカメラは親友が退職記念にプレゼントしてくれたもので、これまで多くの旅行や登山に同行し、沢山の思い出を遺してくれたイッピン。今回も途中経過を写し、800m峰の頂上から眺める360度に展開する雌阿寒岳や阿寒湖、雄阿寒岳の景観をビデオ機能で撮影した。これらの記録は、この登山ルートのどこかにタイムカプセルのように封印され、次の探訪者に発見されるのを待つのか—。
誠に残念ではあるが、ボクは、記録の喪失より、仲間と共にこの検証登山ができたことの記憶が大切な宝物として遺った喜びを実感している。(終わり)

〈第三巻〉②マチネシリとはどの山か

【第三巻】 イタルイカオマナイから雌阿寒岳へ
 登ったのか? マチネシリは何処

扉写真は「久摺日誌」に描かれた阿寒湖周辺。上は白湯山展望台から望む雄阿寒岳

▶武四郎の記述から類推する「マチネシリ」という山について考察してみたい。現在のピークであるポンマチネシリが雌阿寒岳の頂上という認識は一旦横に置いて、武四郎一行が来た1858年の時点でマチネシリとはどの山を指したのか? 果たしてそれは現在の頂上だったのか? について調べた。 
雌阿寒岳は複数(8つ又は9つの山)の山で構成された複合火山である。火山は3つの噴火口で形作られ、太古から活発に活動し、1万年前後には巨大な火砕流噴火により中マチネシリと呼ばれる大きな火口ができ、7000年から3000年前にはポンマチネシリと北側の山群が相次いで誕生した。2500年から1100年前にかけて南側の阿寒富士と呼ばれる一番新しい山ができ、ほぼ現在の山容となる。その後、近年の噴火は水蒸気噴火が主のようであるので、武四郎が来た時点で山の姿は今とそれほど変わりはなかったように推察できる。
この火山の形成を調べていたら『北海道阿寒町の文化財 先史文化篇第二輯』(阿寒町教育委員会刊)のⅡ『阿寒湖畔とその周辺の地形及び地質』で岡崎由夫氏は、―雌阿寒岳の形成過程の中で、現在、雌阿寒岳が形成された順序は、〈フレベツ岳→南岳→1042m山→東山→と剣峯、瘤山が最も古く、その後、中マチネシリが形成され、次に北山、西山、ポンマチネシリが出来、一番新しいのは阿寒富士―、と記していた。剣峯は現在、剣ヶ峰と表記されている。
この中で「剣峯(マチネシリともいう)」という記述があった。(強調は筆者)
▶ボクはアイヌ語でポン(小さい)は通常はポロ(大きい)との対比語と理解していたので、以前から一番高い頂上がなぜポンマチネシリなのか、不思議であった。ところが『地名アイヌ語小辞典』(知里真志保著)によると「ポロもポンもともにポ(子)から派生した語である。(中略)ポンの方もたぶんポ・ヌ(子・である)が語原で現行の若い、小さいの意味が出て来たのである」と記載されていた。
雌阿寒岳の形成史からいうと剣ヶ峰がマチネシリで、現在の頂上であるポンマチネシリとの関係は大小ではなく、古い(親)に対して、新しい(子)との関係にあることと理解できる。つまり、〈古いマチネシリ〉に対して、〈新しいポンマチネシリ〉という関係になり、一行が登った、又は目指したマチネシリは剣ヶ峰だった可能性が高まる。
実は北海道夏山ガイドの掲載地図にも剣ヶ峰(マチネシリ)と表記されているし、YAMAKEIオンラインの登山地図にも同様の表記がされている。マチネシリ=女山=雌阿寒岳=ポンマチネシリピーク(1499m)という思い込みがボクも含めて多くの人にあったのかもしれない。

雌阿寒岳山頂(ポンマチネシリ)から中マチネシリの火口とマチネシリ(剣ヶ峰、右て奥)を望む。

▶もう一つ違う角度から剣ヶ峰登頂の可能性を検証したい。武四郎は下山後、翌日アイヌと一緒に丸木舟で阿寒湖の四島巡りをしている。この印象を漢詩に詠み、それは現在も阿寒湖畔のボッケ散策路の碑に刻まれている。
碑文を和訳すると―
 「水面風おさまる夕日の間 小舟竿をさして崖に沿って帰る 
 たちまちに落ちる山の長い影 これはわれが昨日よじ登った山」

つまり前日のマチネシリ登山の山を湖上から確認している。
『日本百名山』(深田久弥著)で深田氏はこの漢詩を詠んで、この峰が「雄阿寒岳であることは間違いない」と書いているが、日誌の経過から読むと雄阿寒岳登山の可能性は考えにくい。また湖から雄阿寒岳は東側なので、夕日に山の影は馴染まない。
実は阿寒湖から雌阿寒岳を見ると頂上のように見えるのは手前の剣ヶ峰であり、奥のポンマチネシリは噴煙の風向きや、悪天時などはほとんど確認することができない。これらのことも勘案すると、私の推察は、武四郎一行は「剣ヶ峰」に登った可能性が高いという結論になる。

ボッケ散策路にある武四郎の漢詩碑。建立者は武四郎顕彰に尽力した釧路の経済人であり、議会人かつ郷土史家でもあった佐々木米太郎を中心にした発起人メンバー。
結氷した阿寒湖の湖上から雌阿寒岳に沈む夕陽。右手はフップシ岳。(撮影 松岡篤寛)

▶次に〈武四郎はマチネシリには登っていない〉という定説について調べた範囲でその根拠を整理したい。武四郎の発刊本である『戊午日誌』『久摺日誌』には、その元となる野帳と云われるフィールドノートが存在し、武四郎研究家である秋葉実氏により、手控(=野帳)が解説付きで活字化され出版されている。日誌のもとになるメモ書きを解読したものなので、内容の詳細や日程を確認する手助けとなる。
これによれば三月二七日出立し、移動行程のなかでルヘシヘからエナヲウシでの記述は…
「エナヲウシ 又カムイモミウシとも云。右の方ヲアカン左りの方メアカン岳に拝。是より笹原平地。また十丁計にて
小川
また少し上りて一ツ山をこへてヲウンコツ…」
これしか記されておらず、秋葉氏は注釈で次のように解説している。
「…このあと雌阿寒岳登山の記事があるが、文飾である」
何とも素っ気ない注釈ではある。「文飾」とは文章、語句を飾り立てることではあるが、この手控えを最優先すると、武四郎のマチネシリ登頂は、事実ではないことになる。武四郎の日誌には「文飾」がこのほかにもあり、現代語訳者の丸山道子さんもマチネシリ登山は「彼一流のフィクションであろう」と解説している。
秋葉氏は、武四郎が下山した翌日の阿寒湖の丸木舟による四島巡りも「三月十六日以降、日誌の行程は一日ずれていたが、ここで二七日阿寒湖内巡りをしたことにして、手控と日誌の行程が一致した」と解説している。(注:強調は筆者)
このことを知った時はさずがに驚きとショックがあったが少し落ち着いて、いく通りかの考えがめぐった。(続く)

〈第三巻〉①武四郎一行の登山行程について

【第三巻】 イタルイカオマナイから雌阿寒岳へ
 登ったのか? マチネシリは何処

扉写真は雌阿寒岳頂上直下から剣ヶ峰や雄阿寒岳を望む。上はイタルイカオマナイ沢からルベシベ(峠越え)の道

▶松浦武四郎が釧路から阿寒を経由して網走に至る途中で、マチネシリ(アイヌ語で雌山を意味し雌阿寒岳を指している)と呼ばれる山に登山をしたことが記されている。
この登山に関しては、〈実際には登っていない〉ということが定説となっている。様々な方たちが、武四郎は聞き書きしたのではないか、とか、日程的にズレがある、などの理由を述べられている。松浦武四郎は蝦夷地探検家であるとともに〈江戸、明治時代の登山の先駆者〉としても知られており、山岳関係の方々も武四郎の登山についての著作を出されている。
なかでも『江戸明治の百名山を行く~登山の先駆者松浦武四郎』(渡辺隆著 北海道出版企画センター刊)は、蝦夷地における武四郎の登山に関して、詳細な検証をしている。著者の渡辺さんは道内出身者で松浦武四郎やアイヌ語研究の他、登山家としても山岳学会で活動されている方である。
▶渡辺さんは決して〈武四郎一行はマチネシリを登らなかった〉とは言い切ってはいないが、巻末の登山一覧では「断念」と整理されている。
渡辺さんは武四郎の日誌から推定し、行程の時間を割り出し、時間的な限界から雌阿寒岳登頂は困難としているが、「どこかの山にアタックしたのは事実であろう」としている。
どこかの山は「831mの無名山」と「エナヲウシ(場所不明)」をあげておられる。私は渡辺さんの分析を参考にしながら、これまで仲間と共に活動してきた阿寒クラシックトレイルなどで歩いた武四郎ルートと照らし合わせ、武四郎一行の雌阿寒登山の可能性を検証してみたい。
武四郎はマチネシリへの登山に関しては「戊午日誌」と「久摺日誌」に記載している。特に久摺日誌において、登頂経過は、和文で記載された部分と重複して、漢文でも記載され、特段の思い入れの深さを感じさせる扱いとなっている。(以下「久摺日誌:和」又は「久摺日誌:漢」と表記する)

ルベシベの登りを行く「山湖の道」トレッキング参加者

▶日誌から事実関係を推察する。
一行は1858年(安政5)旧暦3月の戊午日誌では26日、久摺日誌では27日にマチネシリ登山をして湖畔に下山している。1日のズレがある。旧暦なので今の暦では5月9日又は10日になる。
前泊したルベシベナイを発って、シユマタツコフという小山を経由し、ルベシベの麓まで来て、ここから山越えの道を歩き、そのピーク(ルチシ=峠)まで来た件については、別記「武四郎一行マチネシリ登山ルート推定図」(以下「ルート推定図」)でご確認いただきたい。一行はこのルベシベのピークで、登山をするものと、先に湖畔に向かって滞在の準備をするものが別れる。ここまでは渡辺さんと私の分析はほぼ同じだ。
▶ここから見解が違う部分を説明したい。
一つはルベシベの位置についてである。私達が阿寒クラシックトレイルの阿寒湖への峠越えの道として使ってきたルベシベのピーク(ルチシ)は標高620mである。渡辺さんの記述では「ルベシベより頂上までの標高差は約1100mである」となっていて、頂上がポンマチネシリの1499mとすると、逆算すればルベシベの標高は399mとなる。この標高をルート上で探すと、麓であるイタルイカの周辺にあたる。
武四郎は戊午日誌には「ルベシベ 此処は路越えると言う儀なり。是アカン越えの頂上なり」と書いているので、標高620mのピーク周辺がこの地点に当たると思われる。
渡辺さんが想定したルベシベのポイントと我々が想定したポイントの標高差は221mで、その違いはこのあとの登山行程の見積時間にも影響したのではないかと思われる。
ここから山頂までの行程を日誌から拾うと全行程76丁(1丁は109m)約8・3㎞の行程になる。
久摺日誌には頂上到着が「達山巓、則日己未」(久摺日誌:漢)とあり、すでに午後2時になっていたとされる。
渡辺さんは「雪の無い所は2時間半、雪のある所は直登したとして小休止を含め、4時間は必要と思われる。途中で昼食30分として頂上到着は午後6時頃」と行程時間(ルベシベから合計7時間)を割だし、到着時刻を推定している。ここで午後2時頃に登頂した武四郎一行とは4時間もの大きな差が生じることになる。このことが登頂困難の最大の理由となる。

雌阿寒岳登山の阿寒湖温泉ルートから頂上を目指す。前方中央に剣ヶ峰がみえる


▶さらに渡辺さんとボクの間で、時刻の取り扱いに大きな見解の相違が出る。久摺日誌(和)には「五ツ比シユマタツコフに至る」という表記がある。これを渡辺さんは「午前9時に通過」と解釈されている。江戸時代の時刻表記については、日の出から日の入りまでの時間を6分割し2時間単位で一刻、二刻と呼ぶ。一方で日の出を「明六ツ」、日の入りを「暮六ツ」と呼んだそうだ。昼と夜の時間がほぼ半々となる「春分の日」や「秋分の日」は、一刻が2時間となるが、季節によって昼夜の時間長は変わるので、時間の単位も変動するのが江戸時代の時刻表記なのだ。
武四郎がマチネシリに登った5月10日前後の日の出時刻は午前4時頃、日の入りは午後6時半頃だ。昼間時間が14時間30分として、6等分すると、武四郎一行登山時の一刻は2時間25分になる。「暁靄深く同行の者も見失う故に、互いに聲をかハし行。」(久摺日誌:和)。暁が日の出時刻と設定すれば明六ツは午前4時。「五ツ比シユマタツコフに至る」(久摺日誌:和)の五ツは一刻を過ぎて、6時半頃である。渡辺さんの午前9時とは2時間半の時間差が生じた。
「シユマタツコフよりここまで(ルベシベ)を地図上の計測で仮に2時間とする」(渡辺)に倣えば、ルベシベの峠到着時刻は8時半である。山頂到着が午後2時。ルベシベ(ルチシ)から山頂までは5時間半あることになり、この間に約8・3㎞の山道をどこまで行けたかが検証のポイントとなる。

検証登山の工程図


▶私の山の経験は趣味程度で夏山登山が主である。雌阿寒岳、雄阿寒岳にはもちろん登っている。一行のルート上で、渡辺さんが登頂の可能性として記載されている阿寒湖の南に位置する「831mの無名山」には冬に登ったことがある。地元では「800メートル峰(C地点)」と呼ばれ、結構知られたところである。詳細は地図を見て頂いた方が分かりやすいとは思うが戊午日誌の「扨此処(ルベシベ)より真一文字に、何をも不管して二十丁も上るや…」という記述に対応するように、ルベシベで西側に直角に折れた先、約1・5kmほどで800メートル峰ピークになる。さらに雌阿寒岳頂上につながる延長上に重なる。
ルート推定図上の直線距離測定ではルベシベ(B)から剣ヶ峰(G)までは8・5㎞、ポンマチネシリ(H)までは9・75㎞となった。当然、屈曲はあるにせよ、剣ヶ峰に関してはほぼ近い距離だ。現在の雌阿寒岳阿寒湖畔コースの登山口(E)はこの直線上の少し北寄りに設定されているが、登山コースタイムは、登りで剣ヶ峰(G)コルまで2時間。ポンマチネシリ頂上(H)までさらに40分で合計2時間40分。下りは頂上から30分で剣ヶ峰コル。そこから登山口までは1時間30分で合計2時間となっている。(『北海道夏山ガイド⑤』北海道新聞社刊)
つまり、ルベシベから登山口まで3時間半で行けたら、少なくとも剣ヶ峰までには午後2時に着くことができる。もちろん、これは夏山で登山道が整備されている現在の状況下で、1858年5月登攀日の条件下でどこまで行けたのかが問題である。(続く)

白く見えるのが剣ヶ峰。その背後に雄阿寒岳。左手に阿寒湖がみえる

〈第二巻〉④温故知新の道を行く

【第二巻】 阿寒町から阿寒湖畔へ
松浦武四郎の歩いた道〈阿寒クラシックトレイル

扉写真は「山湖の道」で武四郎にならって、阿寒湖の湖上四島めぐりをカヌーで行った

▶環境と人権というテーマで起承転結の「結」にしたい。
武四郎の蝦夷地探訪が後世に残したものは、この地の風光明媚な観光的価値と、開拓資源の豊かさと交通網の可能性、そして開発政策よりアイヌ保護を優先するとの主張だった。一方、森林開発の夢を阿寒に求めた前田正名は阿寒の国立公園化の動きを受けて「阿寒の自然は、スイスの自然に勝るとも劣らず」そして、「阿寒の山は伐る山ではなく、観る山だ」との政策転換を果たし、今日の「復元の森づくり」につながる自然資源を観光の柱とする阿寒の基盤を築いた。
この二人はともに先住民アイヌに対する人権家としての眼差しを持ち、それは阿寒におけるアイヌ文化につながっていると実感する。

武四郎関連のクスリ凸凹旅行舎発刊図書


▶マリモ祭りはアイヌと和人が協働でマリモに象徴される自然保護を世に問った祭だ。
毎年、全道から集まったアイヌとシサムが温泉街を行進し、立ち寄る先に前田正名像のある前田公園と三代目園主・前田光子が暮らした前田一歩園山荘がある。奉納の舞と祭りの報告とともに感謝の言葉が述べられる。
明治39年に前田正名が取得した広大な阿寒湖周辺の森は、一方の視点から見れば、利権により得たともいえるものだが、「前田家の財産はすべて公共事業に供する」を家訓とする前田家のユニークな経営により、実質的には公有化されたも同然。さらにイズムを継承する二代目、三代目により、一層厳格な規制の元で自然は活かされて来た。前田家のほぼ独占的な土地資源、温泉資源活用は、あらためて所有の意味を考えさせられる。


▶今日、流行言葉のようにサスティナビリティ(持続可能性)が叫ばれている。交流市民と定住市民が観光産業をとおして財の交換をする。観光資源である自然とアイヌ文化を持続可能なものとするため、行政と協働関係にある地域マネジメントシステムの一翼を担っているのが前田一歩園財団だ。
それを支える思想の源流部にはアイヌ文化とともにある松浦武四郎、前田正名という二人の偉人がいるのだとおもう。
現在の日本で、人と自然の共生関係をアイヌ先住文化に学びながら、持続可能な地域社会と自然環境を実現しているユニークモデルが阿寒湖温泉なのだ。これはオンリーワンかもしれないが、可視化が難しい。物語を説明するガイド機能が必要となる。
このことをフィールドで体感してもらうが阿寒クラシックトレイルの魅力の真髄で、それを〈暮らしの糧として地域に定着させたい〉というのが我々の活動の肝である。(終わり)

釧路湿原、阿寒・摩周の2つの国立公園をメインに、自然の恵が命にもたらす恩恵を体感し、自然環境における連鎖や共生の姿を動植物の営みをとおしてご案内します。また、アイヌや先人たちの知恵や暮らしに学びながら、私たちのライフスタイルや人生観、自然観を見つめ直す機会を提供することをガイド理念としています。