「ふんだり、けったり」
自然ガイドで常に気をつけているのは、お客様の安全。自然は私たちに様々な恵みをもたらすとともに、大きな危険も孕んでいる。
そんな私の頭の片隅には常にヒグマが生息している。北海道では、わが国最大の陸棲哺乳類ヒグマの存在をぬきに自然とは付き合えないのである。
私がはじめてヒグマに遭ったのは二十代半ば、仲間と行った山開け前の羅臼岳登山であった。裾野をまきながらもくもくと登っていた時、上から小型のヒグマが走ってくるではないか。二番手を歩いていた私は、先頭の友人が襲われるとおもい、下の仲間の方に向かって逃げた。幸い、互いの存在に気づき、ことなきを得たのだが、私の方は、それ以来、しばらくの間、ヒグマがトラウマとなった。
阿寒湖生活では五年間に三度対面した。「やっぱり阿寒はヒグマ多いんだねぇ」とおもわないでほしい。阿寒湖温泉の住民でも、ヒグマに会ったことのある人は少数派である。阿寒の森を管理している前田一歩園林業の職員でもヒグマに会ったことのない人は大勢いる。
私が三度も会ったのには、それなりの理由がある。釧路市は、環境省、警察、猟友会、前田一歩園、営林署などとヒグマの対策会議を組織している。ヒグマの出没情報があると会議が召集され対策が検討される。必然的に、出没地や周辺の見回り業務も発生するので、見る可能性は高まる。
阿寒湖温泉では、春から初夏にかけて出没情報が多くなる。釣り人や通行車輌の運転手、地域住民等からもたらされるが、その多くは小型の親離れ早々のヒグマか、親子連れである。
数年前、生活道路に若グマが出没し、会議が召集された。阿寒湖温泉は阿寒国立公園のなかにある街なので、畑や牧草地といった耕作地が存在しない。このため、生活道路の先はほぼ原生林に近いヒグマの生息環境がある。小学校と中学校もあり、生活道路は学童の通学路と重なる。
この若グマは、発見者に愛想をふりまき(ここは私の主観)、写真にも撮られ、ゆっくりと森に入っていった。証拠万全である。
会議ではこんなやりとりが…。
「親離れして、小型のヒグマであまり人を恐れていないようだ」
「あそこは通学路なので危険だ。見つけたら処分も考えなければ」
「まだ、世間知らずなんだから、いきなりズドンは可哀想だべ。爆竹鳴らして一度、森におっぱらったらいいんじゃないかぁ」
「自然との共生ということもあるし、知床では追い出す試みもしてるので…」「いやいや、縄張りをさがしてウロウロしてるんだけど、森に追い払っても、縄張り持っているオスに追い返されてまた戻ってくるぞ」
「子どもたちに何かあったら大変ですよ…」
「…………」
ということで、議論はとりあえず、周辺の林道に檻わなをかけて、猟友会が見回りをし、道路に出てきたら様子次第では処分も、ということになった。
私といえば、怖いもの見たさではないが、丸腰で見回りに参加し、ウロウロ、ソワソワの早朝自然観察(たしかに自然観察だけど、ここは少し違うかも)。
阿寒湖温泉の周辺エリアのほとんどは前田一歩園が管理しているので、長年森づくりにかかわってきた財団職員の方は、ヒグマの動向や傾向も把握している。できれば処分もしないで森で暮らしてほしいのは共通のおもいなのだが、近年は、エゾシカの増加や春熊の狩猟禁止などで個体数が増えているのではないかという見立てもある。
実は、この若グマと私は知らない仲ではなかった。私がたまたまバードウォッチングに行く林道の橋の袂で会っていたのである。彼はこの時、熱心にフキを食べていた。最初は逃げたが、一定程度離れるとまたフキに夢中になった。双眼鏡でしばし、どきどきしながら野生のヒグマの姿に見ほれた。
見回り数日後、同じ場所で双眼鏡を覗いていると猟友会のジープが急停車。
「出たぞ!」「何処に!」「ついて来い!」
私も追っかけ現場に駆けつけた。林道から数十メートル先の倒れたトドマツの陰に黒い塊があった。止めの一撃で、私の目の前で若グマ君は絶命した。
アイヌ文化ではイオマンテ(熊送り)の儀式は最も重要なものとされるが、政府の先住民同化策で禁止された。春熊狩りで捕まえた小熊を人が育て数年後、イオマンテで葬り、天上のカムイとなり、また沢山の食糧とともにキムンカムイ(山の神)として戻ってくるという儀式の主旨は、ヒグマの個体数調整やアイヌのタンパク源確保など合理的な問題解決策でもあったようだ。
阿寒湖アイヌシアター「イコロ」は、アイヌ民族舞踊などアイヌ文化を伝承する専用劇場であるが、三年前からアイヌ民話の創作人形劇づくりをすすめている。第一作目は「ふんだり、けったり熊神様」で、イオマンテを題材として、ちょっと間抜けで愛嬌のあるクマの視点から欲におぼれない生き方をコミカルに描いていた。今年の第二作目「ちっちゃいカムイとゆっくりカムイ」も、荒くれ熊(ウエンカムイ=悪いクマ)を小さな小鳥ミソサザイが中心となって森の仲間で知恵と力を会わせて退治する物語である。
ヒグマとどう共存するかは難題である。地域住民のみならず、観光客の理解も必要である。みんなの知恵が必要である。確かなことは絶対的な解決策はなく、重要なのは相対的な対応をしっかりとすることではないか。<人と自然が共生>とは言っても、命のやりとりがどこかで生まれる。
この若グマの件を契機に、学校ではクマの学習会が開かれた。ヒグマの習性を知る、ヒグマの事情も知る、ヒグマの存在が自然のなかで果たしている役割など思いを巡らせることも共生関係をつなぐ隣人としてのエチケットではないだろうか。
そうでなければ、あの若グマはうかばれない。