〈第九巻〉①地域のブランド力

【第九巻】 桂恋から厚岸へ
 難解アイヌ地名を愉しむ

扉写真は1799年に植物調査で太平洋沿岸を探訪した渋江長伯一行に同行した絵師・谷元旦が描いた踏査の様子(『蝦夷紀行附図』函館中央図書館蔵)。上の写真は石門といわれる地形で釧路地方沿岸から厚岸にいたる海岸線に出現する。

地域のブランド力
▶ブランドは大切である。少しでも地域を売り込もうと思うのなら、ブランド力は欠かせない。釧路町の太平洋沿岸は、令和3年3月に「厚岸霧多布昆布森国定公園」の区域に指定された。ボクの自宅は釧路市街地と湿原の際にあり、道路を挟んで東側は釧路町なので、大雑把にいうと国立公園(釧路湿原)と国定公園に隣接しているのである。自慢であるが、地価は安い。
▶この海岸線は、十勝の広尾町から根室の納沙布岬までの全長321㎞メートルが「北太平洋シーサイドライン」と名付けられ、定着してきた。古くは東蝦夷地を探検した冒険者たちが道なき道を辿ったパイオニアルートである。1786年にエトロフ、ウルップに上陸した最上徳内は、真冬にこのルートを松前から根室まで二ケ月余りで踏破している。1798年に幕府は〈様似から釧路まで道を拓いた〉となっている。馬が荷を運べるような道になり、釧路の会所には馬2頭が配置されたとある。これに合わせ、一里塚といわれる距離標識や通行屋(家)といわれる宿泊施設、小休所といわれる休憩施設なども設置された。

谷元旦が描いたとされる通行屋の様子 イルカを食べている!(『蝦夷紀行附図』函館中央図書館蔵)


▶それ以前の釧路町の海岸線は道もなく、引き潮の時のわずかな時間に岩づたいに歩いたり、野宿をすることもあったようだが、昆布森と仙鳳趾(現在の古番屋)に通行屋ができ、同年に植物調査でこの海岸線を探訪した渋江長伯一行も、武四郎もここに宿泊している。釧路市街地からシレパ岬までは約40㎞メートルで、厚岸湾西岸の仙鳳趾から厚岸会所には舟で渡っていたので、仙鳳趾で天気待ちをする様子が日誌などにも記されている。ちなみに、仙鳳趾から厚岸会所までの厚岸湾沿いの陸路は文化5年(1808)に開削されている。
▶当時は道が出来たとはいえ、海岸線の砂浜を歩き、海岸の崖を乗り越え、また砂浜、岩浜を歩く難路だったのだろう。渋江長伯の旅行記『東游奇勝』によれば、釧路を立ち、昆布森の旅館(通行屋)に至る間に、〈石門5箇所、出崎(崖)16箇所、川を大小15箇所渡渉〉との記載がある。現地の海岸線に目を向ければ一行の大変さは実感できる。

桂恋から昆布森方面を望む海岸線。砂浜と岩崖が連続し、時に崖越えをしながら歩いたようだ


▶現在の釧路町、厚岸町、浜中町を通る道道142号は「岬と花の霧街道」とネーミングされて観光PRがされてきた。海蝕崖が連続する海岸線が織りなす景観、希少な海浜植物が咲き誇る原生花園、ガスと呼ばれる海霧が立ち込めるロマンチックな佇まい。これらをまとめて「岬と花の霧街道」という名称は誠に絶品。国定公園に指定されるぐらいだから一大観光地とおもいきや、初夏のシーズン以外はひっそりとして、特に釧路町の海岸線などは観光地という趣は皆無である。漁村集落が崖の間の砂浜に点在する。宿泊施設もなく、商店は昆布森に一店。コンビニはないけど、コンブは豊富なエリアである。
▶そんな中にあって、この地域は難解地名を売りにしてきた。アイヌ地名由来なのだがあてた漢字が極めて難解で、これを初見で全部読むことのできる人は存在しない。断言する。
「歴史に汚点を残す許しがたい暴挙の一つ」という批判もあるが、ここはひとまずおいて、地元自治体から地域住民まで、結構この難解地名にノリノリで、結果としてこの地域のブランド化に大きな役割を果たしてきた。釧路町は公式PR動画の「ふるさと地名の旅」をYouTubeで配信している。「難解地名番付表」というのを作った方もいらっしゃるし、アイヌ語研究をしている仲間達もアイヌ語由来の解説とあわせて現在の漢字の難解地名を紹介したり、解説したりしている。今日、ボクの最大の関心の拠りどころは、誰がこの難解漢字地名を付けたのかであるが、ネットを見るとそのことをリサーチしている方もいて、先駆者がいるのでここはその方の結果待ちもいいかなと思っている。しかし、ボクなりに少し分析めいたこともしてみたい。(続く)

昔の昆布森といわれる伏古から崖があって崖越えをしたところ。下の絵図と一致する地形が見える
昆布森には通行屋があって、その様子を描いた仙台藩の藩士・楢山隆福の絵図(『東蝦夷地与里国後へ陸地道中絵図』1810 函館市中央図書館蔵)