「『松浦武四郎と行く~新・道東紀行』」カテゴリーアーカイブ

第十巻 ①厚岸の栄光と凋落

【第十巻】 厚岸から霧多布へ
 「岬と花の霧街道」を行く

扉写真はあやめケ原から西側の海岸線 海霧が立ち込める「岬と花の霧街道」 上の絵図はアッケシの図(『東蝦夷図巻』1857 北海道大学北方資料データベース)

▶小学校の頃、釧路の位置を厚岸と間違えて覚えていた。身体の中心が臍ならば、それを断面から見たらきっと厚岸湾みたいに窪んでいて、さしずめ奥の臍のゴマは厚岸湖の牡蠣になるのかも。
厚岸は東部太平洋沿岸の地図上では、ヘソのマチに見える。昔から交易や交通の拠点であった。松前藩が成立した1604年には既にアッケシ場所の設置が記されているが、以前よりアイヌの人々にとっては東の拠点であった。その時期は蝦夷地を支配していた松前藩の交易船も厚岸には年に一、二度来るのみで、厚岸に集まるのはもっぱら周辺のアイヌであった。釧路や根室そして千島のアイヌたちも厚岸に集い交易を行ったのだろう。

現在の厚岸湾から浜中湾の海岸線
松浦図で比較すると外観はほとんど現況図とかわらないが、霧多布岬は島になっている


▶アイヌが反乱を起こした大きな戦いの一つにシャクシャインの戦い(1789年)がある。この戦いには白糠から以東のアイヌは参加しなかったようで、厚岸を中心とした東蝦夷地のアイヌたちはその独立性を維持していた。
18世紀から広い蝦夷地を支配するために松前藩は場所請負人制により商人の取引から上がる運上金を藩の財源とした。このため本州から商人たちが蝦夷地に進出してきた。道東においては、飛騨地方の木材商・飛騨屋久兵衛が1774年以降、漁業や木材資源を産出するため進出した。この場所請負人によりもたらされた劣悪な労働環境で虐げられた国後のアイヌたちが蜂起した。クナシリ・メナシの戦い(1789年)である。
▶この頃のアイヌの人別帳によれば釧路の人口は52軒252人。厚岸は約2倍の5百人ほど。厚岸が蝦夷地東部の中心にあったことがうかがえる。釧路と厚岸の拠点機能の立場が逆転するのはクナシリ・メナシの戦い以後である。文化6年(1808)の調べではクスリ場所は1384人、アッケシ場所は874人、トカチ場所は1034人とあり、クスリ場所が東部の地区においては最大の拠点となっている。
▶クナシリ・メナシの戦い以前は剛強と恐れられ、高い独立心を誇った厚岸を中心とした東蝦夷地のアイヌたちは、この戦いの敗北後、松前藩への従属と幕府の撫育方針により勢いを失う。東蝦夷地のアイヌの拠点であった厚岸は疫病(天然痘)や大地震もあり著しく衰退し、安政4年(1857)には201人、明治4年(1871)には159人まで減少する。
ちなみに武四郎は戊午日誌に来釧時(1858)のクスリ場所の人口を「当領内家数237軒、人別1321人(男649人、女672人)有と。其内当会所元に人家75軒、人別385人(男189人、女196人)。右渡し場の傍と会所の前なる岡の傍に有たり。」と記している。釧路は、釧路川河口に港が拓け、周辺の漁業、木材、鉱物資源が集積するマチに成長する。
▶最新の人口データでは釧路市は16万人。厚岸は釧路管内では、釧路町に次いで第3のマチではあるが人口は9千人ほどである。厚岸の恵まれた自然、特に厚岸湾と厚岸湖が織りなす地形と、環境の豊かさは狩猟採集と交易が生業の中心であった時代のアイヌ民族にとっては拠点にふさわしい処だったのであろう。
▶さて仙鳳趾から図合船による渡しで厚岸湾を横断し、厚岸会所に着いた武四郎は初航1845年時には内陸の別寒辺牛湿原から風蓮川沿いに風蓮湖岸の内陸ルートを行く。第6回目の1858年には会所から再度、船で霧多布岬を廻り、現在の浜中湾榊町(アシリコタン)あたりに到着、そして海岸沿いに根室に向かう。武四郎が見た厚岸は既に黄金期から衰退の一途をたどりつつあった厚岸であった。
▶松浦図と現在の地図を比較するとこの海岸線の地形がほぼ一致するほどの完成度である。
北海道の輪郭図は先達である伊能忠敬や間宮林蔵たちの測量によりなされたもので、武四郎はその業績を踏まえた上での内陸調査に探検家としての栄光が刻まれる。
現在の厚岸町は真栄町と旧市街地(若竹町)が厚岸大橋で結ばれているが、旧市街地側の突き出た岬はノテトウ(岬)と呼ばれ、会所があった。この間は、渡し舟やはしけで結ばれ、1959年には厚岸丸というフェリーボートが就航した。ボクが高校1年生の頃、厚岸出身の学友の実家に仲間と一緒に泊まりがけで訪ねた。釧路から花咲線に乗って厚岸駅で降り、このフェリーに乗って対岸の友人の家を訪ねたことが昨日のことのように思い出される。(続く)

バラサン岬から厚岸湾眺望 対岸のセンポウシから会所の間は通船で行き来していた

〈第九巻〉③難しい地名・面白い地名

【第九巻】 桂恋から厚岸へ
 難解アイヌ地名を愉しむ

初無敵(ソンテキ)はいろいろ呼び方があって意味の特定が難しい。扉写真と絵図(目賀田守蔭 北大北方資料データベース)と人の立っている位置が類似している
初無敵(ソンテキ)周辺を3枚の写真を合成した。実際はもっと広い湾になっている。上の絵図にイメージが近い。

難しい地名・面白い地名
▶アイヌ地名には様々な解釈があるが、釧路町が公式動画でアップしている「ふるさと地名の旅」から何箇所かご紹介すると、宿徳内は「アサツキがはえている沢」。跡永賀は二つあって、アトイ・カatui-ka(海の・上)とアトイ・オカケatui-okake(昔は海のあった所)。初無敵は色々な呼び名があって特定しづらいようだが、ソウン・トゥ(滝のある小山)という解釈も紹介している。知方学はチェプ・オマ・ナイ(魚の集まる処)。同じ意味合いで仙鳳趾がチェップ・オッ・イ(小魚〈ニシン〉が沢山いるところ)とのことだが、仙鳳趾はこの海岸線にある4つの漁港(桂恋、昆布森、老者舞、仙鳳趾)のひとつで、近年は厚岸と並んで牡蠣がブランドとして有名になっている。

目賀田守蔭の絵図によるセンポウシ(右手)。厚岸湾側から太平洋を望む。
現在の地名は「古番屋」になっている旧センポウシを訪れた。奥側が厚岸で岩崖の形状が絵図と似ている
南部藩士の楢山隆福が1810年に描いたセンポウシ(函館市中央図書館蔵)


▶この仙鳳趾にまつわる地名は少々入り組んでいる。現在の仙鳳趾漁港から南寄りに古番屋という地名がある。ここが昔の仙鳳趾である。仙鳳趾は様々な絵図に遺されている要所だ。文化7年(1810)の『東蝦夷地与里国後へ陸地道中絵図』は南部藩の楢山隆福という藩士が蝦夷地警備を命ぜられ、国後に滞在した後、帰路は陸路をこの太平洋沿岸沿いに箱館まで戻った。その時、描いた各地の番屋や会所の絵図が、当時の様子を伝えている。

旧センポウシは近年まで番屋として使われていた。廃屋に面影を偲ぶ


▶ボクは仲間と一緒に旧仙鳳趾である古番屋を訪れた。てっきり古い番屋のあった所という和名だとばかり思っていたら、さにあらず。アイヌ地名由来でフルパンヤ(崖の上の平らな場所)という意味だそうだ。絵図を見ると確かに崖の中の平らな箇所に建物がある。通行屋を併設していたと思われる番屋の他、蔵や小屋などが点在し、稲荷神社も見える。ここから厚岸会所を結ぶ舟便があったことも含め、それなりの賑わいを感じさせる。
現地には既に廃屋しかないが、建物の配置や、浜から望む景観には、絵図と重なるところがあり、往時を偲ばせた。(終り)

〈第九巻〉②難解地名を分析する

【第九巻】 桂恋から厚岸へ
 難解アイヌ地名を愉しむ

カツラコイ(桂恋)の図は谷文晁が描いた。(北海道立美術館蔵)上の現在の写真と岩の形が符合する。ただ、左手は陸地なので絵図の砂嘴のような形状とは異なる。

難解地名を分析する
▶松浦図で釧路市の知人岬から仙鳳趾までの海岸線地名をチェックすると57地名あり、そのうち現在、漢字和名として表記されているのは、おおよそ24地名。約4割が現役である。じっと眺めていると知人岬からおおよそ中間点の跡永賀までの地名は、ほぼアイヌ語の〈音〉に漢字をあてた地名なので、無理をすればなんとか読める地名だ。しかし、跡永賀の次の冬窓床から知方学までの7箇所は、どう考えても読めない超難解地名である。難解度は東高西低なのである。ひょっとしたら一人が和名付けをしたわけではなくて、ここら辺で嫌になって、誰かにバトンタッチしたのかもしれない。どんな知的バックグラウンドを持った人がこういう漢字をあてたのだろう。

釧路町海岸線の難解地名を松浦図と現況図で比較した。


▶近世の文化人が漢詩や漢文をたしなむのは標準的な教養だったのだろう。武四郎も一般向けの刊行物である久摺日誌などには、わざわざ漢文で同じ箇所の説明を繰り返しているところがある。雌阿寒岳登山の件については、この例なのだが漢文箇所と和文箇所で微妙に内容を変えているところもあり、芸が細かい。一般向け書籍なので、読者も漢文に親しんでいたのだろう。
▶地名の和名表記は明治政府ができて以降の話なので、地域の役人か、北海道開拓使の吏員がこの任にあたったのだろうか? 和人の入植者が付けた可能性も…。詳細の読みについては次頁「釧路町海岸線難解地名マップ」をご参照頂きたい。この24の地名のなかで〈音〉も〈意味〉もアイヌ語にほぼそっているのは昆布森が唯一と言っていい。あえてもう一つ挙げるとすれば尻羽岬である。後者はカタカナ表記も使われている。アイヌ語解釈ではシレパは(山の・頭)である。あて漢字は尻の羽(尾)なのでアイヌと和人の自然を捉える方向性の多くが逆転してることを考えれば、尻羽岬も当たらずとも遠からず。
昆布森は松浦図ではコンフイ。コンプモイ(kombu-moi)昆布の・入江の意味である。昆布はアイヌ語でもコンブまたはサシともいう。同じ太平洋沿岸の根室地方にも昆布盛がある。「森」も「盛」も「モイ(湾)」のあて字である。

「昆布井」の図(目賀田守蔭 北大北方資料データベース)。現在の昆布森周辺。通行屋の横に馬用の飼料小屋が見える。馬が荷運びの役割をはたしていた


▶超難解7地名のうち、知方学と入境学はナイに〈学〉という字があてられている。通常は〈内〉でナイと読ませることが多いのだが、この2箇所以外は内になっているので、どうも命名者のセンスのような気がする。そういえば知、舞、遺、学、窓など学芸的な漢字使いも気になる。
▶地名研究者から〈アイヌ地名としての解釈も難しい〉といわれるのは又飯時と老者舞である。マタイトキは『釧路町史』では、〈海の瀬の荒いところ〉と解しているが、『北海道の地名』で山田氏は、武四郎の日誌の〈マタは水也、エトキは汲んで明ける事也〉の解釈を引用し、「マタが水とは変だ。水ならワッカであろう。エトキにそんな語源があるだろうか。その内容を言葉をあてて見ると、ワッカ・タ・エトゥとなるだろうか。とにかく難しい地名である」と書いている。オシャマップについても、解釈の記録がなく、「オ・イチャン・オマ・プ(川尻に・鮭鱒産卵場・ある・もの=川)とも聞こえるが、うっかり解がつけられない。」としている。あてた漢字も意味と全くつながらないので、お手上げの地名である。

「マタイトキ」の図(目賀田守蔭 北大北方資料データベース)


▶人名は人名漢字さえ使っていれば後は極端に言えば、どう読んでもいいそうだ。近年、全く読めない人名が多くて、他者に分かってもらうことと、自分をアピールすることの齟齬について考えざるを得ない。地名も似たところがあって、音を無視し、意味を重視してリネームをするとすれば、幌内〔大きな川〕は大川、来止臥〔ギョウジャニンニクが群生する処〕は葱群処、浦雲泊〔小さな入江〕は小泊、去来牛〔葦が群生する処〕は葦群処と書いて読ませるのはいかがでしょう。しかし、こうなれば至る所に大川や小泊がついて、アイヌ地名の標準化指向に近くなり、それは国が地名により、場所を特定させる方向性からは離れることになる。

浦雲泊から左からトド岩、中央奥に立岩、右手陸側に三角形のタコ岩が並ぶ奇岩群。隣接地の十町瀬(トマチセ)は現在、行くことができない。


▶土地は〈天からの預りもの〉ではなく、〈国の管理するもの〉になったのだ。現代は、どこまで土地にこだわるシステムに依存した社会を維持していくのだろう。領土をめぐる国家間の軋轢から、ご近所との土地境界のいざこざまで、争いは尽きない。アイヌ地名付けにみる考え方や「名は体を表す」との諺にも立ち返り、名称付けのあり方を今一度考える契機にしたい。(続く)

〈第九巻〉①地域のブランド力

【第九巻】 桂恋から厚岸へ
 難解アイヌ地名を愉しむ

扉写真は1799年に植物調査で太平洋沿岸を探訪した渋江長伯一行に同行した絵師・谷元旦が描いた踏査の様子(『蝦夷紀行附図』函館中央図書館蔵)。上の写真は石門といわれる地形で釧路地方沿岸から厚岸にいたる海岸線に出現する。

地域のブランド力
▶ブランドは大切である。少しでも地域を売り込もうと思うのなら、ブランド力は欠かせない。釧路町の太平洋沿岸は、令和3年3月に「厚岸霧多布昆布森国定公園」の区域に指定された。ボクの自宅は釧路市街地と湿原の際にあり、道路を挟んで東側は釧路町なので、大雑把にいうと国立公園(釧路湿原)と国定公園に隣接しているのである。自慢であるが、地価は安い。
▶この海岸線は、十勝の広尾町から根室の納沙布岬までの全長321㎞メートルが「北太平洋シーサイドライン」と名付けられ、定着してきた。古くは東蝦夷地を探検した冒険者たちが道なき道を辿ったパイオニアルートである。1786年にエトロフ、ウルップに上陸した最上徳内は、真冬にこのルートを松前から根室まで二ケ月余りで踏破している。1798年に幕府は〈様似から釧路まで道を拓いた〉となっている。馬が荷を運べるような道になり、釧路の会所には馬2頭が配置されたとある。これに合わせ、一里塚といわれる距離標識や通行屋(家)といわれる宿泊施設、小休所といわれる休憩施設なども設置された。

谷元旦が描いたとされる通行屋の様子 イルカを食べている!(『蝦夷紀行附図』函館中央図書館蔵)


▶それ以前の釧路町の海岸線は道もなく、引き潮の時のわずかな時間に岩づたいに歩いたり、野宿をすることもあったようだが、昆布森と仙鳳趾(現在の古番屋)に通行屋ができ、同年に植物調査でこの海岸線を探訪した渋江長伯一行も、武四郎もここに宿泊している。釧路市街地からシレパ岬までは約40㎞メートルで、厚岸湾西岸の仙鳳趾から厚岸会所には舟で渡っていたので、仙鳳趾で天気待ちをする様子が日誌などにも記されている。ちなみに、仙鳳趾から厚岸会所までの厚岸湾沿いの陸路は文化5年(1808)に開削されている。
▶当時は道が出来たとはいえ、海岸線の砂浜を歩き、海岸の崖を乗り越え、また砂浜、岩浜を歩く難路だったのだろう。渋江長伯の旅行記『東游奇勝』によれば、釧路を立ち、昆布森の旅館(通行屋)に至る間に、〈石門5箇所、出崎(崖)16箇所、川を大小15箇所渡渉〉との記載がある。現地の海岸線に目を向ければ一行の大変さは実感できる。

桂恋から昆布森方面を望む海岸線。砂浜と岩崖が連続し、時に崖越えをしながら歩いたようだ


▶現在の釧路町、厚岸町、浜中町を通る道道142号は「岬と花の霧街道」とネーミングされて観光PRがされてきた。海蝕崖が連続する海岸線が織りなす景観、希少な海浜植物が咲き誇る原生花園、ガスと呼ばれる海霧が立ち込めるロマンチックな佇まい。これらをまとめて「岬と花の霧街道」という名称は誠に絶品。国定公園に指定されるぐらいだから一大観光地とおもいきや、初夏のシーズン以外はひっそりとして、特に釧路町の海岸線などは観光地という趣は皆無である。漁村集落が崖の間の砂浜に点在する。宿泊施設もなく、商店は昆布森に一店。コンビニはないけど、コンブは豊富なエリアである。
▶そんな中にあって、この地域は難解地名を売りにしてきた。アイヌ地名由来なのだがあてた漢字が極めて難解で、これを初見で全部読むことのできる人は存在しない。断言する。
「歴史に汚点を残す許しがたい暴挙の一つ」という批判もあるが、ここはひとまずおいて、地元自治体から地域住民まで、結構この難解地名にノリノリで、結果としてこの地域のブランド化に大きな役割を果たしてきた。釧路町は公式PR動画の「ふるさと地名の旅」をYouTubeで配信している。「難解地名番付表」というのを作った方もいらっしゃるし、アイヌ語研究をしている仲間達もアイヌ語由来の解説とあわせて現在の漢字の難解地名を紹介したり、解説したりしている。今日、ボクの最大の関心の拠りどころは、誰がこの難解漢字地名を付けたのかであるが、ネットを見るとそのことをリサーチしている方もいて、先駆者がいるのでここはその方の結果待ちもいいかなと思っている。しかし、ボクなりに少し分析めいたこともしてみたい。(続く)

昔の昆布森といわれる伏古から崖があって崖越えをしたところ。下の絵図と一致する地形が見える
昆布森には通行屋があって、その様子を描いた仙台藩の藩士・楢山隆福の絵図(『東蝦夷地与里国後へ陸地道中絵図』1810 函館市中央図書館蔵)

〈第八巻〉③郷土史と個人史

【第八巻】 塘路から釧路へ
川をくだる、時をかける〈釧路川今昔〉

扉写真は大楽毛海岸の釧路沖を航行する国際コンテナ船。上の写真は釧路川が現在の直線水路に切り替えた昭和6年に建設された「岩保木水門」。一度も開いたことがないまま役割を終えた。

▶武四郎一行の釧路から阿寒町までの行程に戻ろう。武四郎は会所を出発し、ヲタイト( ota-etu 沙・岬)という釧路川の河口の突き出た砂嘴から渡し船で対岸の阿寒川の河口である阿寒太(アカンプト)に渡った。渡し場にはメンカクシやムンケケ等も見送りに来たと記している。
幣舞公園にある松浦武四郎蝦夷地探検像のアイヌ像はこのメンカクシとおもわれる。メンカクシ一族は東蝦夷地を代表する一族で、ボクも阿寒湖温泉で、この末裔にあたる長老たちから、シサム(善き隣人)武四郎のことを色々教えていただいた。今もその子孫たちがアイヌ文化を継承している。

幣舞公園の松浦武四郎蝦夷地探検像。手前の指を指すアイヌが当時のクスリアイヌの首長であったメンカクシ。

▶アカンとはラカンとも聞き採られ、ラカンはウグイが産卵する穴(永田地名解)で、アカン=〈不動〉説とともに、複数ある阿寒の地名由来の一つになっている。少年の頃、友人とよく釧路川の河口で釣りをした。釣果はほとんどウグイだけで、食べる対象ではなかった。釧路ではウグイは小骨が多くて、せいぜい干して出汁にする魚であった。阿寒湖温泉で、武四郎の宿泊勉強会をおこなった時、ホテルにお願いして武四郎が紹介した阿寒湖の食材で「武四郎御膳」を出してもらった。その時、意外にもウグイ(アイヌ名シュプン)の刺身がとても美味であった。阿寒の人達もウグイは美味しい魚と言っていた。アイヌの川に関する考え方である〈川は海から発し山に上る〉視点で言えば、海側(河口)と山側(阿寒湖)は起終点の捉え方、魚の味も違うので、地名由来も別々に存在することの方が自然のことのように思われた。

阿寒のホテルにお願いして武四郎が紹介している阿寒の食材を使った「武四郎御膳」を出していただいた。

▶一行はヲタノシケ( ota-noshke砂浜の・中央)の海岸から大楽毛川沿いに西進する。大楽毛は表音あて字の珍名だが、現在、この河口海岸は厳冬期にジュエリーアイスを見ることのできる穴場観光スポットでもある。大楽毛川は河口手前で阿寒川に合流する支流だが、国道240号と釧路空港のある丘陵地の間を流れていて国道からは目につかない。久摺日誌には川沿いのトクシツナイというところで野宿したことになっているが、戊午日誌の方にはその記述はない。馬を連れて湿地帯を流れる大楽毛川を渡渉する大変さが記されている。現在、変電所があるウエンベツ川を越え、阿寒川からその支流である舌辛川沿いに阿寒湖に向かう一行であったが…。この時、武四郎は江戸で吹き荒れる「安政の大獄」の激動を察知していたのだろうか。

大楽毛海岸のジュエリーアイス。現在の阿寒川はここに流れ出ている。


▶近世釧路の黎明期を支えたのは漁業だが、明治以降はこれに周辺の森林や鉱物資源等が加わり、釧路港は原木などの搬出輸出港として機能拡充が進む。「マグロの釧路か、釧路のマグロか」「木処くしろ」と謳われた大正・昭和初期を経て、戦前から戦後、釧路の発展を牽引した三大基幹産業である〈水産・製紙・石炭〉の時代が長く続いたが、200海里漁獲規制や木材・石炭など資源依存型産業の退潮に押し出されるように〈観光〉がこれにとって変わった。
後背地に広がる釧路湿原や多様な自然の魅力をもった道東の観光が、物流インフラである港湾運輸とともに、新たな時代を支える基幹産業となった。
▶その転換期は個人的には西港第4ふ頭が供用され、外貿コンテナ船が韓国釜山港と定期航路として結ばれた21世紀初頭(2002年頃)を境とするようにおもう。国際的に人と物の地域間交流が本格化した。
なぜ、個人的かというと1973年から2014年まで42年間、釧路市役所で勤めたボクの職場は、新富士に出来た中央卸売市場を皮切りに、日本一の水揚げに湧いた魚揚場勤務。市の道路と河川を管理する道路管理課から埠頭造成盛んな港湾部勤務を経て、21世紀から観光部門の仕事に就き、阿寒湖温泉が最後の勤務地となった。
振り返ると釧路市の栄枯盛衰の現場で歩んできた役所勤務であった。
そして、郷土釧路や武四郎一行の歩みの道筋と少なからず重なる〈個人史〉でもあると実感するのである。(終り)

「釧路港修築碑」開国論者であった大老・井伊直弼の出身である彦根藩(滋賀県)の末裔が建立。当初、琵琶湖を模して春採湖畔にあったが、現在は米町公園に移された。