「『松浦武四郎と行く~新・道東紀行』」カテゴリーアーカイブ

〈第七巻〉①松浦図を片手に

【第七巻】 摩周から屈斜路へ
神なる山は何処 ? 屈斜路カルデラを巡る

扉写真は摩周湖を背景に松浦図を照らし合わせる。上の絵図は「久摺日誌」に描かれた一行が滞在時の様子。

▶松浦図を片手に
1858年(安政5)5月21日、西別川から戻った武四郎一行は釧路川岸の弟子屈に着いた。ここで武四郎一行にアクシデントが起こる。釧路会所を出発する前に食糧の補給を依頼し、弟子屈で受けとる予定であったが、その荷物が届いていない。この食糧待ちをしている間、足掛け五日間にわたり一行は屈斜路湖周辺で過ごすことになる。結果、この食糧は下流の標茶に届いており、事なきを得るが、登山やトレッキング中に食糧や水がなくなるのは心細い限りである。
▶屈斜路湖は北海道では洞爺湖に次ぐ二番目に大きいカルデラ湖である。この地域のナンバーワンの一つは、屈斜路カルデラが日本一の大きさを誇ることである。広さ約20㎞×26㎞でそのほぼ半分は屈斜路湖となっている。ここには約7千年前にできた摩周カルデラも含まれている。
若い時、旅行で見た阿蘇カルデラの雄大さに、ボクは圧倒された記憶があり、〈阿蘇カルデラは日本一〉とつい最近まで思っていた。阿蘇カルデラのうたい文句は「世界最大級の阿蘇カルデラ…」となっており、ここらへんが思い込みの一丁目。実は日本一は屈斜路カルデラなのだ。ちなみに世界最大のカルデラはスマトラ島のトバ湖を囲むカルデラで、長さ100㎞、幅約30㎞もあるそうだ。世界はデカイ!

摩周第三展望台から望む屈斜路カルデラ。白い山肌がアトサヌプリ(硫黄山)。その奥に屈斜路湖と藻琴山が見える。


▶戊午日誌によれば、武四郎は摩周湖を反時計回りに一周してから、西別岳を経由して西別川中流域のシカルンナイまで下り、とって返し弟子屈まで戻り、弟子屈と屈斜路湖のコタンに滞在している。
屈斜路カルデラを全貌できるお勧めの展望地は二つ。
一つは摩周湖第三展望台である。摩周湖と摩周岳の素晴らしい景色を眺めた後、回れ右して後ろを見ると屈斜路湖とそれを取り巻く外輪の山々が一望できる。阿蘇カルデラを見た時は、カルデラの鍋底に様々な街並みが見渡せたが、屈斜路カルデラにはほとんど街らしい街がないので、きっと大きさを比較する対象物がないことが印象の違いになっていたのだと思う。
もう一つの展望地は藻琴山展望台である。藻琴山登山口手前、道路沿いの駐車帯に展望台がある。屈斜路湖とそれをとりまく外輪の山々が眼前に広がる。
登山をされる方は外輪を構成する藻琴山、摩周岳、西別岳などにぜひ登られることをお勧めする。藻琴山は、頂上に一升瓶を立てると千mになる山で、国土地理院の地図(2万5千分の1)には999・9mと表示されている。道東の中高年登山愛好家たちは春先の足慣らしに、これらの山に登る。景観の素晴らしさはもとより、特に西別岳は6月下旬頃からは高山植物が咲き誇る人気の山でもある。千m以下の低山で高山植物と出会える北海道ならではの登山が楽しめる。
一行が滞在した屈斜路アイヌコタンのあるクッチャロとテシカガは阿寒摩周国立公園を代表する観光地で、屈斜路湖岸の砂湯キャンプ場、和琴半島キャンプ場などは人気のキャンプ場である。また、弟子屈町の「道の駅 摩周」は道内でも人気の道の駅となっている。

第三展望台から摩周湖を望む。中島と摩周岳、そして摩周ブルーの湖面が美しい

▶武四郎一行は5月21日から25日まで滞在したが、25日には丸木舟で釧路川を下って、テシカガに泊まった。その夜、月夜だったが雪が降り、その雪が桜の花の上に降り積もっている情景を武四郎は印象深く日誌に記している。
ゴールデンウィーク明けの道東地方は春というにはまだ肌寒く、多くのドライバー達はタイヤの履き替えを躊躇する期間でもある。5月上旬はエゾヤマザクラはまだ咲かず。その開花期は、道東では例年5月中旬頃まで待たなければならない。釧路、根室は稚内と並んで桜の日本列島最終便の地である。だから桜に雪が積もる情景は道東ならありうる光景ではあるが、さすがに珍しいことではあるかもしれない。
以前、ゴールデンウィーク明けに雌阿寒岳に登った時、麓は桜がちらほら咲き始めていたが頂上でいきなり吹雪になり、道を見失い、ちょっと焦った経験がある。5月の道東は、やっと春が来た…かも? と言う季節感なのである。(続く)

〈第五巻〉③オホーツク人は何処

【第五巻】 ご先祖様の行方を探して~ルーツ再発見の旅 モヨロ貝塚からウトロへ

扉写真はオホーツク海以久科海岸を埋め尽くす流氷原。上の写真は樽見一族の北海道入植百周年を記念してクスリ凸凹旅行舎で2020年出版した「開拓百年を越えて~馬おじさんへの手紙」。

▶岐阜県根尾村に樽見家のルーツを探した一族の旅もいくつかの「かもしれない…」説を手にはしたが、確実なルーツにたどり着くことはできなかった。ボクの代から遡って6代先の先祖まで行きついたが、それから先は歴史に名を遺す超有名人でもない限り、市井の人々のルーツは推測の域を出ないのだそうだ。
しかし、ヒトゲノムの解明で一足飛びに数年万年前の自分のルーツが判るそうだ。また、どんな民族の血と関りがあるかも判るそうだ。いつか、庶民でもコロナのPCR検査なみにルーツ検査ができるかもしれない。民族間のいざこざも少し緩和されるかも。

樽見一族の移動ルートを根尾村教育委員会の調査をもとに作図(クスリ凸凹旅行舎作成)

▶近代以降、北海道への本土からの移住は、明治19年から大正11年までの37年間に三つの大きな波がある。日清戦争後の明治30年(1897)を第一のピークとし、日露戦争後の明治41年(1908)がこれに続く第二のピーク、最後は第一次世界対戦後の大正8年(1919)が第三のピークであった。この間、移民の総数は55万戸、約201万人が移住し、「北海道移住の時代」と言われている。(『北海道の歴史 下』北海道新聞社刊)
樽見家が徳島から北海道に渡った大正8年はこの第三のピークであり、貧窮を極めた徳島県は県知事が当時の県民69万人のうち20万人を北海道に移住させる計画を作っている。さすがに計画通りには行かなかったが、その困窮ぐあいが伝わる。
わが一族の曽祖父は、四国山地から原木を切り出す木材の流送職人であったが、資源の枯渇と輸送モードの変化で仕事をなくし、北海道移住を決意した。十勝に渡り着いた先祖は、道内移住で小清水町止別村を経て、現在の斜里町以久科に昭和3年にたどり着く。
▶本州に習い稲作水田造成を勧めていた村は、度重なる冷害、干ばつ、害虫の発生により昭和12年に水田をあきらめ、馬鈴薯(ジャガイモ)を中心とした農業開拓とその澱粉加工で「澱粉王国斜里」と呼ばれるに至り、これに乳牛酪農業が加わり、従来からの基幹産業である漁業と合わせ、まちの産業が確立した。
樽見家も澱粉工場を興し、本家を継承した伯父は馬産や肉牛の畜産、ヤマメの養殖事業、観光レジャー施設の運営、菊芋の健康食品作りなど多種多彩な事業を行なってきた。
ボクの小さい頃は以久科海岸に流れ着く海の幸や、野山の山菜、そしてハレの日(ほとんどお正月だけだった)は飼っていた羊がジンギスカンに姿を変えて食卓を飾った。初めて〈肉を食べた!〉という記憶は、この羊肉だ。

戦時中の樽見家本家の様子。学生たちは援農で来ていた者たちで家長は学生の横。昭和17.18年頃。

▶ボクの初めての海外旅行は中国の西域シルクロードだった。ウイグル、チベット、カザフの民やミックス(明らかに西方と東方の混血を思わせる人々)たちとの出会いで、中国が9割の漢民族と、残りの1割が55の少数民族で構成された多民族国家であることを実感した旅であった。
カザフ族の居留地に滞在した。その時パオ(テント型住居)で羊を潰し、茹でた肉と、乳で作ったチーズとチャイ(ミルクティー)、そして小麦粉のナンの夕食を頂きながら、周りのカザフ族の住民があまりにもボクの親族に似ていて唖然とした。叔父さんや叔母さんたちに囲まれながら仄暗いパオでする食事は、言葉は通じなくても心穏やかな宴で、家畜と共に命を分かち合う暮らしに懐かしさを感じた。旅の思い出が幼い時の記憶とつながった。今にして思うと、ルーツを共にする人々に出会っていたのかもしれない。

カザフ族の家族。パオのなかで一宿一飯。昔の自分に出会った気分。(1984)

▶『牛のはなし』で叔父さんは「四変」(正式名称「第四胃変位症」という)の病気にかかった牛の開腹手術を15分ほどでおこなう自らの施術を〈マジシャンのような早業〉と、ちょっと自慢気に紹介している。しかし、この話の本題は別だ。高い濃厚飼料を食べさせ、沢山乳を搾るようになって、牛を経済動物としてしか扱わなくなった、現在の酪農業と社会状況に対する警鐘だ。
四変という病気は以前は無く、濃厚飼料を食べさせることで胃の位置が変位する現象が起きてきた後発的な病気なのだそうだ。本来の牛の寿命も20年もあったのだが、今はたった5年だそうだ。そんな不憫な牛のおもいを叔父さんは牛に代わって語る。
「モーこれ以上乳を出せないよ。モーこれ以上人間のために頑張れないよ。モー少し長生きしたいよ。地球上の生き物はみんな仲間だ、共生しよう。人間は野生動物の保護ばかり叫んでいる。あまりにも不公平だ。人間のために野生動物が何かしてくれたの。牛だけがこんな酷い目にあうのはモー我慢できない。今度生まれてくる時はモー牛はまっぴらだ。野生動物がいい。待てよ、水にも空気にもこれからダイオキシンがだんだん増えるそうだ。そうだ! やっぱり青いオホーツクの海底で静かに暮らす貝がいい」。(『牛のはなし』より)
60年を越えて、酪農家と家畜の暮らしを現場で見続けてきた人の言葉は重い。

叔父さんの沖縄の貝のコレクション。膨大なコレクションが庭や室内に展示され、私設博物館の趣である。

▶叔父さんの沖縄の貝のコレクションは、こだわりの人らしく現地との交流も重ねながら、ただならぬ量と質を誇る。コレクションを眺めていると、貝が人間の為に命を捧げた夥しい数の〈名もなき牛たちの墓標〉のように思えてきた。
そして、ふっと叔父さんの心の中にも〈オホーツク人の血〉が騒いだのではないかとの思いに至った。
海に眠っていた貝は、太古に北と南に分かれた〈アイヌ〉と〈オキナワ〉の民が、先祖からから引き継いできた物語を蘇らせ、オホーツクの地で、北方の海人の調べに耳を澄ませているかのようにそこにあった。(終わり)

〈第五巻〉②開拓史から日本人の起源へ

【第五巻】 ご先祖様の行方を探して~ルーツ再発見の旅 モヨロ貝塚からウトロへ

扉写真は中国シルクロードの天山山脈でカザフ族のパオ(住居)に泊った時(1984年)。上の写真は樽見一族がルーツ探して岐阜県根尾村樽見を訪問した時(2006年)

▶ヒトゲノムの研究により日本人の源流調査は飛躍的な進展を見せている。斎藤成也著『日本人の源流』で、氏はこれまでの〈日本人の起源〉を旧石器時代に渡ってきた原アジア人の、今の日本列島に移り住んだ縄文人の流れと、その後、弥生時代に稲作文化を伝えた渡来人の流れをくんだ「二重構造モデル」を発展させた「三段階渡来説」を提示した。
▶これによれば、第一段階の約4万年前から約4400年前までの間に、ユーラシアの様々な地域から採集狩猟民が日本列島全域に渡ってきた。釧路湿原をガイドする時、「北海道には約1万5千年前から人が暮らしていた痕跡が残っており、この湿原の周辺にも、様々な時代ごとの遺跡が約5百か所も残っています。1万5千年前は地球の最終ウルム氷河期で、今より海水面は低く、ユーラシア大陸とサハリン、北海道は繋がっていました。マンモスやそれを追いかけて人々も北海道に渡ってきました」と解説をする。つまりこの第一段階に渡来した人々が、縄文人やその先祖集団ということになる。

「渡来から見る日本の概略歴史年表」(クスリ凸凹旅行舎制作)

▶ボクにとって新たな知見だったのは、第二段階で、約4400年前から約3000年前までの間に、漁労を生業の中心とした採集狩猟民が、現在の朝鮮半島と中国大陸沿岸の地域から日本列島の中央部に渡来したことだ。この〈海の民〉は列島の北部(北海道)や南部(沖縄諸島)には渡らなかったようで、こんにちの北海道人の起源を理解する上では脇役っぽいが、重要な役割をなしているように思えた。
▶第三段階は前期と後期に分かれ、前期は約3000年前の弥生時代から約2000年前までの間で、朝鮮半島を中心としたユーラシア大陸からきた農耕の渡来民が、稲作などの技術を導入し、急速な人口増をもたらしていくが、この人々も北部や南部の先住民たちにはほとんど影響しなかった。
この時期を釧路湿原でガイドする時は「氷河期以降、約1万年前から6000年前ぐらいまでの間は地球が温暖化して、縄文海進と呼ばれ、今より水位が高かったため、我々がいる釧路湿原は海でした。その後、徐々に寒冷化が進み、その過程で湿原が形成され約3000年前ぐらいには、こんにち我々が見る釧路湿原の姿となります。〈豊葦原瑞穂国〉(ヨシが豊かに繁茂し、稲穂がたれる国という日本の美を讃える表現)と『古事記』 や『日本書紀』に謳われた〈日本の原風景〉は、まさに今、我々が見ている湿原の姿です」と少しドヤ顔の気分で解説するのである。

約3千年前に出来た釧路湿原の太古の姿を今にとどめるキラコタン岬

後期は約2000年前から現在までで、引き続き、朝鮮半島を中心としたユーラシア大陸から渡来民がやってくるのだが、第一段階で渡来して東北地方に居住していた人たちは、6世紀前後にその大部分が北海道に渡っている。そして北海道では、5世紀頃から北方、サハリンを経由して〈オホーツク人〉と呼ばれる人たちが渡来し、先住集団との遺伝的交流もあり、後にアイヌ人及びニブタニ(アイヌ)文化が形成された。そして、江戸時代以降はアイヌ人と移住したヤマト人(和人)の混血が進んだ。ここでやっと北海道移住史につながることになる。

▶叔父さんは獣医一筋60年ではあるが、決して堅物ではなく、多趣味な人である。しかし八方美人的な趣味ではなく、一つの物事に集中してある程度、道を究め、はい次、というタイプである。
ある日、「ヒロフミ、オホーツク人って知ってるか?」と問いかけがあった。その前にひとしきりここ数年来究めてきた沖縄の貝のコレクションの話を聞いた後のクエスチョン。「あー、まあ、名前だけは聞いたことはあるけど…」。叔父さんは続けて、オホーツク人に関してウトロの遺跡を見に行ったことや、その歴史的背景の特異性について流れるように話をした。「う~ん、次はオホーツク人かぁ!」ボクの頭の中で赤ランプが緑に点滅した。
▶布石があった。一族の開拓誌を作るにあたって、そのベースになった親族の旅行体験があった。遅ればせながら、一族の姓は〈樽見〉と言う。遡ること10数年前、樽見を名乗っている一族に岐阜県根尾村の教育委員会から「全国の樽見さんにおたずねいたします」という手紙が届いた。新手の詐欺の手口かと一部親族では対応に腐心したそうだ。
根尾村は、樽見という姓や地名が遺る岐阜の山村で、郷土のルーツを調べるための全国調査の一環だったようだ。この村は南北朝時代の南朝サイド・後醍醐天皇派、新田義貞の弟・脇屋義助一派が吉野に赴くにあたり、その一員の武士、樽見定時がこの地に留まり、数々の功績を残し、彼の姓から樽見の地名が遺ったとされる。これを知った我が一族は、それまでは四国徳島から北海道に流れ着いた移民の末裔だと思っていたところから、さらに調査をすすめた。そして、歴史を遡れば、「どうやら平家の落人か、南北朝時代の南朝の落ち武者にいた樽見という一派のなかで、近畿や四国に流れ着いた武士の一族のなかに、我ら樽見家の先祖もいたらしい…!」という物語が生まれた。こういう時の論理的支柱になるのも叔父さんであった。
一族をまとめ岐阜県根尾村への先祖ルーツ探しの旅を企画し、計画し、添乗員として実行するのも文武両道を我が道とする叔父さんらしい振る舞いではあった。ツアーには16家族25名が結集。樽見ワンチームは根尾村教育委員会を圧倒した。もちろん参加者全員が同じテンションである理由もなく、旧知の親族との宴会や寄り道しての古城巡りなど、さながらお伊勢参りに合わせて大阪や京都に立ち寄った、江戸時代の旅スタイルを彷彿させた。

岐阜県根尾村教育委員会から樽見一族に届いたルーツ質問状

▶本土からの移住者を先祖にもつ北海道人は「北海道には歴史がない」というコンプレックスを少なからず持っている。ボクも修学旅行で初めて京都・奈良に出向いた時はもとより、東京で瓦葺の家屋を見ただけで歴史の重みを感じてしまう田舎者であった。高度成長期に生まれ育ったボクの世代でもそうなのだから、移住世代は尚更、北海道のむき出しの自然と向き合わざるを得ず、特別に考古学の教養や、想像を巡らす暮らしのゆとりがなければ、「歴史」という言葉は、日常生活には登場しない。その〈日本の歴史〉というワン・ウェイが実は、〈北海道の歴史〉〈沖縄の歴史〉と合わせて、スリー・ウェイだった。近年、その〈北海道の歴史〉に、輝くオリジナリティをもたらしたのは〈アイヌ文化〉であり、〈開拓移住の歴史〉であり、そして脇役にして主役を喰わんばかりの異彩を放つ〈オホーツク人〉の存在である。

旧石器時代からオホーツク文化期までの主要な遺跡分布図(クスリ凸凹旅行舎作成)

▶稚内から知床半島までのオホーツク海沿岸は、旧石器時代から縄文、続縄文、擦文時代など多くの遺跡群のなかにオホーツク文化時代のものも点在し、モヨロ遺跡などで独自の光芒を放っている。オホーツク人は、北方から来た海洋民族で、トドやオットセイなどの海獣やオオワシの狩猟、漁労などでこの沿岸線沿いに暮らしを営み、先住集団(続縄文人、擦文人)との戦い、棲み分け、婚姻、同化などを経て、13世紀頃には消えていく。
近年の遺伝子研究ではオホーツク人の後裔は現在、北東アジアにいるニブヒやウリチという北方民族に引き継がれているが、アイヌ民族も同様の遺伝子を20%持っているとのこと。ということは、江戸時代以降のアイヌ人とヤマト人(和人)の混血が進む流れを経て、現世北海道人のアイデンティティにとっても外せないオホーツク人ではある。
観光客で賑わうウトロ市街の海岸にシンボリックにいくつかの巨岩がある。なかでも「オロンコ岩」は昔から頂上まで登ることのできる人気の観光スポットでもある。観光協会の資料では、オロンコ岩の地名由来は、「サマッケサラタ(横たわっている岩)と言われていたが、いくつかの岩を合わせて呼ぶウォロクシュマ(たくさん座っている岩)がオロンコ岩に転訛したらしい」とある。
伝説も紹介されている。「昔、この岩に住んでいたオロッコ族がアイヌに悪さをするのでアイヌの人たちは何度かこれを攻めたが要害のため落とすことができなかった。ある日、海藻に小魚を挟みそれに群がるカモメやカラスを見たオロッコ族が寄り鯨だと思い、岩から降りてきたところをアイヌの人が一斉に攻めて滅ぼした」とある。
ウトロ周辺にはオホーツク文化期の遺跡があり、このオロッコ族がオホーツク人と思われていた時期があった。オロッコ族は、現在ウィルタと呼ばれるトナカイを扱う樺太東岸の遊牧先住民族で、オホーツク人の末裔ではない、とのこと。戦前日本領だった南樺太に居住していたウィルタ(オロッコ)の一部は、戦後のソ連占領後、北海道に移住。網走市に6世帯13人が居住していた。つまり、ヤマト、アイヌ民族以外に日本国籍を持つ少数民族ウィルタの日本人がいた。
それにしても多様多彩な北方文化が、オホーツク沿岸の地で繰り広げられた様は、北海道のオリジナルヒストリーと呼べるものだ。

ウトロ港のオロンコ岩(左)と三角岩。(斜里町観光協会HPより)

▶司馬遼太郎は『街道をゆく38  オホーツク街道』でこの沿岸を旅している。この本は氏のオホーツク人探しの旅の記録であり、モヨロ貝塚を発見した米村喜男衛をはじめ、地元の考古学の先達たちとの出会いやオホーツク海の豊穣な海の恵みがもたらした文化のあり様が記されている。巻末に氏はオホーツク人の正体に行き着けなかったおもいを吐露し、「…そのことに後悔していない。そんなことより、私どもの血の中に、微量ながらも、北海の海獣狩人の血が混じっていることを知っただけで、豊かな思いを持った。旅の目的は、それだけでも果せた。」と書き留めた。(続く)

〈第五巻〉①ボクの叔父さん

【第五巻】 ご先祖様の行方を探して~ルーツ再発見の旅 モヨロ貝塚からウトロへ

扉写真は昭和30年代の知床半島ウトロの様子。我が家のアルバムから。上は叔父さんの獣医師・樽見佐吉。80歳を越えて現役で「たるみ動物病院」社長。

▶ボクの叔父さんは80歳を過ぎて、今も現役の獣医師である。本家のある斜里町で地域の主要産業の一つである酪農業を60年にわたって支えてきた。七人兄弟の三男として生まれた叔父さんは一家の中で唯一、上京して大学に入学し、故郷の期待を背に獣医師になって帰郷した。ボクの母親が年長の長女で、我が家は父親も同じく斜里を故郷としていたので、ボクにとって斜里は第二の故郷である。昭和30年代前半に田舎の大家族の農家から東京の大学に行くということは大変なことだった。叔父さんは稀有な秀才であるばかりか、文武両道の人で大学では相撲部で活躍した。叔父さんはこれまでの仕事のエピソードをまとめた『牛のはなし』というエッセイ集を出版した。本には入植当時の農家の苦労や牛にまつわる様々なエピソードが綴られている。
昭和35年から新米獣医師として仕事をはじめた叔父さんは、さっそくオートバイを購入し、斜里から45キロ離れたウトロに通い、入植者に国の支援事業として導入されたショートホーンという短角牛の飼育指導にあたった。
▶ウトロは武四郎が来た時(安政5)には番屋があった。漁業は古くからの主産業ではある。昭和10年代から斜里町は漁業に加え、ジャガイモをはじめとする農業生産物と乳牛を加えた「有畜寒地農業」による冷害に強い産業振興策を進めた。
この話には何処からかやってきた70戸の入植者に預けられた牛が、冬を越してどこかに消えてしまったというオチがある。真実は叔父さんの胸の中にはあるのだろうが、今は問わず語らず。厳しい自然と対峙しながら人々は知床の地で暮らしてきた。

斜里町以久科に入植した樽見一族。昭和16年頃の太平洋戦争へ出征する記念写真。

▶ボクの子どもの頃、夏に幌を被せたトラックの荷台に一族(20名ほどいただろうか)が乗り込んでウトロに遊びに行ったことがある。小学校低学年の頃だと思うので、きっと叔父さんがバイクでウトロの農家の牛を診に通ってた頃と同じである。全線、砂利道だったように思う。オシンコシンの滝は、今は海岸線沿いに下から仰ぎ見るが、当時は滝の落ち口の山側を道は通っていて、上から覗き見たように思う。ボクたちは畑のスイカや味瓜を積み込んでウトロの海岸でみんなで食べた。知床はまだ国立公園にもなっていないし、世界自然遺産なんか、だぁ~れも知らない。一族のピクニックはガタガタ道の乗り心地はさておき、のんびり楽しいひと時だった。快晴で海がとても澄んでいた記憶がよみがえる。その記憶は齢を重ねるたびに輝きを増す。

オホーツクの海(峰浜海岸)で遊ぶ一族の記念写真。昭和30年代前半。

▶一族の長で本家を守ってきた伯父さんが令和元年に亡くなった。葬儀に集まった甥っ子姪っ子との昔話、思い出話を辿っていったら、一族が北海道に入植してからちょうど百周年であることに気がついた。叔父さん達も加えて一族の開拓誌を作ろうということになり、ボクと叔父さんは一族の移住の歴史について調べることとなった。ボクはその前年、北海道命名150年の節目の年に、松浦武四郎の資料展を釧路で仲間と一緒に開催していた。イベントの中の講演会でアイヌの仲間が武四郎のことを話した。彼は、「武四郎が名前をつけたからそれがどうしたっていうのというのが正直な気持ちだ。武四郎の話で終わったら後の150年は放っておくの? 和人の自分たちの先祖の功績も見つめるべき」と指摘した。チクリと胸に刺さった。
武四郎を契機にしたアイヌと和人の蝦夷地の歴史。そして伯父の死を契機に一族の北海道移住史へと広がった。また、齢を重ね、〈我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこに行くのか〉という、日本人の起源にも興味が膨らんだ。(続く)

〈第三巻〉③検証登山てんまつ記

【第三巻】 イタルイカオマナイから雌阿寒岳へ
 登ったのか? マチネシリは何処

中間点の800m峰頂上(C地点)でカムイノミ。後ろに雄阿寒岳を望む

▶2022年5月26日木曜日。長年の懸案であった武四郎一行マチネシリ検証登山が実現した。天気は快晴。最高気温は25℃近くまで上昇した暑い一日であった。阿寒クラシックトレイルの仲間と阿寒湖温泉のガイドスタッフ計5名でイタルイカオマナイ沢の入り口を8時半にスタートした。
ルベシベの峠(ルチシ)に10時に到着した。渡辺さんの見積もった〈シユマタツコフからルベシベまで約2時間〉という行程時間はほぼ一致した。ここからほぼ直角に西に折れ、800m峰のピークを目指した。予想はしていたが笹藪こぎと針葉樹林の倒木を超え、ピークである標高830mまでの標高差は約200m。1.2kmの道なき道を1時間10分ほどかかり、到着した。
▶800m峰ピークからは北東に雄阿寒岳とそれを取り巻く阿寒湖の眺め、西側にフレベツ岳や雌阿寒岳の山並みが美しい。ここがアイヌたちが祈りを捧げるカムイノミウシまたエナヲウシであることを十分推測しうる景観であった。
小休止後、西に向けて雌阿寒岳登山口を目指した。一旦、標高650m地点まで降らなければならなかった。この間が急な斜面で、背丈に近いほどのクマイザサを漕ぎながら数度にわたって転倒し、やっとの思いで接続する林道に出た。ここで30分ほどの昼食を済ませ、この延長上にある750mのピークまで登り返し通過する予定であったが、笹藪が思いのほか手強く、精根使い果たし、アミノバイタルも使用済みであったボクの提案で迂回する林道を行くことになった。白水フレベツ林道を使って雌阿寒岳登山口を目指した。


▶雌阿寒岳登山口に到着したのは午後1時半であった。我々の検証登山はここで一旦終了した。ルベシベ(ルチシ)出発から雌阿寒岳登山口まで要した時間は3時間半である。これを武四郎一行のタイムテーブルに合わせると一行のルベシベ発を8時半とすると、雌阿寒岳登山口には12時頃到着になる。ここから夏山ガイドブックに沿った登山時間を充てれば、登山口から頂上到達時刻の午後2時までの約2時間で行くことができるのは剣ヶ峰になる。な、なんと! ぴったりの時間設定ではないか!
また武四郎の記した距離程においても、地図上で計測した約8.3kmの距離と一致した。

▶さて我々の検証登山日と武四郎一行の登った5月10日には2週間ほどの日にち差がある。この早春の頃は1日毎に条件が変化する。これをどう勘案するか。
今回の参加メンバーは阿寒湖温泉で長年ネイチャーガイドをし、阿寒クラシックトレイル研究会の代表でもある安井。アイヌコタンでアイヌ料理のカフェを営み、日常的に山菜採りなどで山に入っている郷右近。アウトドアサイクリング団体を主宰し、林道はじめ阿寒の道を熟知している松岡。皆、阿寒の自然を熟知し、40代。安井は武四郎がマチネシリを登った41歳と同年である。女性ネイチャーガイドは30代?。ボクが68歳で体力的にはみんなの足手まといである。途中で何度となく転び、最後尾を遅れ気味についていく。おまけに記録用で愛用していたコンパクトカメラをどこかで落としたらしく、みんなに捜索する手間まで付け加えてしまった。

カメラを無くしたショックと疲労にうな垂れながら仲間に励まされ、もうひと頑張り。背後のピークが800m峰で地図のDからE方向


▶安井は、「当時の笹の状態、雪の状況次第で、雌阿寒岳(ポンマチネシリ)登頂も不可能ではなかったと思いました。5月前半ということで、春の堅雪がブッシュを覆うほど残っていた可能性は十分あると思います。800m峰のところはぐるっと阿寒の様子を見渡せて、カムイノミするのにもいい雰囲気と感じました」と阿寒の自然を熟知している代表ならではのコメント。
後半は林道を歩く形になったので当時より格段に歩きやすかったには違いないが、現行の雌阿寒岳登山口は北側に寄っているので迂回する分、距離は長くなった。

現在の頂上(ポンマチネシリ)直下から中マチネシリ、剣ヶ峰(マチネシリ)そして雄阿寒岳、阿寒湖を望む武四郎一行が登ったと思われるルート。HからG方向(2枚合成)

▶結論から言えば、武四郎一行が登ったと記されたマチネシリ登山に関する時間や距離の計測は、とても理にかなった情報であった。マチネシリが現在の剣ヶ峰だったとしたら、日誌の記述はとてもリアルなものであった。これをもって武四郎がマチネシリに登ったことが事実だったのかどうかはもはや知る術はない。ただそこに記された記録はマチネシリ登山がフィクションではなく、少なくともアイヌ案内人からの聞き取りや現地の山容、地形地質、植生を読み解きながら、自らの経験と見識を加味し綴られた〈武四郎の登山紀行〉というほかはない。
▶日誌に記されているカムイノミウシ又はエナヲウシについては、登りと降り両方に通過したポイントであるため、おそらく白湯山西側の750mピーク(D地点)で、ここから湖畔に向けて下山ルートを取ったものと推察される。(現在の白湯山登山路に重なるイメージ)

下山路に使ったであろう白湯山から湖畔に下るルート。IからJ方向

▶これまで武四郎の記録については、武四郎自ら〈分飾を施した又は興を加えた〉とされる日誌の表現が、ともすれば〈話を盛る、表現過剰〉で、情報の信憑性まで疑われる嫌いもあったようだ。
しかし、阿寒紀行に関しては、ボクたちの阿寒における経験や今回の検証登山と、武四郎の記録を擦り合わせると、武四郎一行がマチネシリに登ったことは《ノンフィクションとして物語ることができた》とおもっている。
▶下山時に失くしたカメラは親友が退職記念にプレゼントしてくれたもので、これまで多くの旅行や登山に同行し、沢山の思い出を遺してくれたイッピン。今回も途中経過を写し、800m峰の頂上から眺める360度に展開する雌阿寒岳や阿寒湖、雄阿寒岳の景観をビデオ機能で撮影した。これらの記録は、この登山ルートのどこかにタイムカプセルのように封印され、次の探訪者に発見されるのを待つのか—。
誠に残念ではあるが、ボクは、記録の喪失より、仲間と共にこの検証登山ができたことの記憶が大切な宝物として遺った喜びを実感している。(終わり)