〈第五巻〉③オホーツク人は何処

【第五巻】 ご先祖様の行方を探して~ルーツ再発見の旅 モヨロ貝塚からウトロへ

扉写真はオホーツク海以久科海岸を埋め尽くす流氷原。上の写真は樽見一族の北海道入植百周年を記念してクスリ凸凹旅行舎で2020年出版した「開拓百年を越えて~馬おじさんへの手紙」。

▶岐阜県根尾村に樽見家のルーツを探した一族の旅もいくつかの「かもしれない…」説を手にはしたが、確実なルーツにたどり着くことはできなかった。ボクの代から遡って6代先の先祖まで行きついたが、それから先は歴史に名を遺す超有名人でもない限り、市井の人々のルーツは推測の域を出ないのだそうだ。
しかし、ヒトゲノムの解明で一足飛びに数年万年前の自分のルーツが判るそうだ。また、どんな民族の血と関りがあるかも判るそうだ。いつか、庶民でもコロナのPCR検査なみにルーツ検査ができるかもしれない。民族間のいざこざも少し緩和されるかも。

樽見一族の移動ルートを根尾村教育委員会の調査をもとに作図(クスリ凸凹旅行舎作成)

▶近代以降、北海道への本土からの移住は、明治19年から大正11年までの37年間に三つの大きな波がある。日清戦争後の明治30年(1897)を第一のピークとし、日露戦争後の明治41年(1908)がこれに続く第二のピーク、最後は第一次世界対戦後の大正8年(1919)が第三のピークであった。この間、移民の総数は55万戸、約201万人が移住し、「北海道移住の時代」と言われている。(『北海道の歴史 下』北海道新聞社刊)
樽見家が徳島から北海道に渡った大正8年はこの第三のピークであり、貧窮を極めた徳島県は県知事が当時の県民69万人のうち20万人を北海道に移住させる計画を作っている。さすがに計画通りには行かなかったが、その困窮ぐあいが伝わる。
わが一族の曽祖父は、四国山地から原木を切り出す木材の流送職人であったが、資源の枯渇と輸送モードの変化で仕事をなくし、北海道移住を決意した。十勝に渡り着いた先祖は、道内移住で小清水町止別村を経て、現在の斜里町以久科に昭和3年にたどり着く。
▶本州に習い稲作水田造成を勧めていた村は、度重なる冷害、干ばつ、害虫の発生により昭和12年に水田をあきらめ、馬鈴薯(ジャガイモ)を中心とした農業開拓とその澱粉加工で「澱粉王国斜里」と呼ばれるに至り、これに乳牛酪農業が加わり、従来からの基幹産業である漁業と合わせ、まちの産業が確立した。
樽見家も澱粉工場を興し、本家を継承した伯父は馬産や肉牛の畜産、ヤマメの養殖事業、観光レジャー施設の運営、菊芋の健康食品作りなど多種多彩な事業を行なってきた。
ボクの小さい頃は以久科海岸に流れ着く海の幸や、野山の山菜、そしてハレの日(ほとんどお正月だけだった)は飼っていた羊がジンギスカンに姿を変えて食卓を飾った。初めて〈肉を食べた!〉という記憶は、この羊肉だ。

戦時中の樽見家本家の様子。学生たちは援農で来ていた者たちで家長は学生の横。昭和17.18年頃。

▶ボクの初めての海外旅行は中国の西域シルクロードだった。ウイグル、チベット、カザフの民やミックス(明らかに西方と東方の混血を思わせる人々)たちとの出会いで、中国が9割の漢民族と、残りの1割が55の少数民族で構成された多民族国家であることを実感した旅であった。
カザフ族の居留地に滞在した。その時パオ(テント型住居)で羊を潰し、茹でた肉と、乳で作ったチーズとチャイ(ミルクティー)、そして小麦粉のナンの夕食を頂きながら、周りのカザフ族の住民があまりにもボクの親族に似ていて唖然とした。叔父さんや叔母さんたちに囲まれながら仄暗いパオでする食事は、言葉は通じなくても心穏やかな宴で、家畜と共に命を分かち合う暮らしに懐かしさを感じた。旅の思い出が幼い時の記憶とつながった。今にして思うと、ルーツを共にする人々に出会っていたのかもしれない。

カザフ族の家族。パオのなかで一宿一飯。昔の自分に出会った気分。(1984)

▶『牛のはなし』で叔父さんは「四変」(正式名称「第四胃変位症」という)の病気にかかった牛の開腹手術を15分ほどでおこなう自らの施術を〈マジシャンのような早業〉と、ちょっと自慢気に紹介している。しかし、この話の本題は別だ。高い濃厚飼料を食べさせ、沢山乳を搾るようになって、牛を経済動物としてしか扱わなくなった、現在の酪農業と社会状況に対する警鐘だ。
四変という病気は以前は無く、濃厚飼料を食べさせることで胃の位置が変位する現象が起きてきた後発的な病気なのだそうだ。本来の牛の寿命も20年もあったのだが、今はたった5年だそうだ。そんな不憫な牛のおもいを叔父さんは牛に代わって語る。
「モーこれ以上乳を出せないよ。モーこれ以上人間のために頑張れないよ。モー少し長生きしたいよ。地球上の生き物はみんな仲間だ、共生しよう。人間は野生動物の保護ばかり叫んでいる。あまりにも不公平だ。人間のために野生動物が何かしてくれたの。牛だけがこんな酷い目にあうのはモー我慢できない。今度生まれてくる時はモー牛はまっぴらだ。野生動物がいい。待てよ、水にも空気にもこれからダイオキシンがだんだん増えるそうだ。そうだ! やっぱり青いオホーツクの海底で静かに暮らす貝がいい」。(『牛のはなし』より)
60年を越えて、酪農家と家畜の暮らしを現場で見続けてきた人の言葉は重い。

叔父さんの沖縄の貝のコレクション。膨大なコレクションが庭や室内に展示され、私設博物館の趣である。

▶叔父さんの沖縄の貝のコレクションは、こだわりの人らしく現地との交流も重ねながら、ただならぬ量と質を誇る。コレクションを眺めていると、貝が人間の為に命を捧げた夥しい数の〈名もなき牛たちの墓標〉のように思えてきた。
そして、ふっと叔父さんの心の中にも〈オホーツク人の血〉が騒いだのではないかとの思いに至った。
海に眠っていた貝は、太古に北と南に分かれた〈アイヌ〉と〈オキナワ〉の民が、先祖からから引き継いできた物語を蘇らせ、オホーツクの地で、北方の海人の調べに耳を澄ませているかのようにそこにあった。(終わり)