前回の投稿が2023.5.30でほぼ1年近く、投稿していませんでした。ガイド業を終了し、少し時間にも気持ちにも余裕ができそうなので、出来るだけコンスタントに観光情報や当舎のPR、私の心持を投稿したいと思っています。お付き合いください。
ということで、いきなりPRですが、当舎新刊『復刻阿寒国立公園の三恩人+プラス』が4月1日に発刊されました。釧路市内の書店や観光施設等にはおいているのですが、ご希望の方には郵送サービスもしますので、よろしくお願いします。筆者の種市佐改は冒頭で「観光は愛情産業。優しい自然愛、旅行者への人間愛、熱烈な郷土愛…」とおっしゃる根っからの観光人。故人ですが昭和40~50年代、冬の観光がまったくなかった時期に、三白観光(タンチョウ、ハクチョウ、流氷)の提唱し、現在の道東観光の発展に尽力した方です。
また、種市さんは観光に関する地域資料の蒐集や執筆なども精力的におこないました。その道東観光の魅力を発信し続けた種市佐改さんの名著『阿寒国立公園の三恩人』を復刻し、私も含め編集者3名のあたらな原稿をプラスしたのがこの本です。今、よみがえる阿寒摩周国立公園誕生の秘密。
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『松浦武四郎と行く~新・道東紀行』の修正について
拙書『松浦武四郎と行く~新・道東紀行』をお買い上げいただいた方、ご購読いただいた皆様には心より御礼申し上げます。
いろいろ勉強しながら記述してきましたが、ところどころに間違いがあり、この場をかりて修正をお願いしたいと思います。
246頁の大雪山の山名由来で、
松田岳(松田伝十郎)と永山岳(永山在兼)のそれぞれの人物に由来した山名と表記しましたが、松田岳は松田市太郎。永山岳は永山武四郎に由来する山名で、修正をお願いいたします。
また、これに関連した表記で32頁の松田伝十郎に関する囲み記事の後段、「大雪山には名を冠した松田岳がある。」を削除願います。
【間違いの言い訳】
・毎年のように大雪山には行っていて、お鉢周りという外輪山を歩いてました。間宮岳があり松田岳もあり、樺太探検をした両探検家のつながりが頭にあり、長い間、松田伝十郎に由来すると思い込んでおりました。松田岳の由来は安政4年に大雪山を踏破し、石狩川水源を発見「イシカリ川水源見分書」を遺した松田市太郎の功績に由来するとのことです。
・永山在兼は道路技師として阿寒国立公園の道路を拓き、そのことで国立公園化を果たした道東地域発展の恩人です。明治時代に、陸軍で北海道に赴任し屯田兵本部長と北海道長官も兼任し北海道開拓に尽力した永山武四郎も同郷(鹿児島県)でつながりもあるのですが、こちらは私のはやとちりでした。
齢を重ね、ますます「おもい込み」「はやとちり」「かんちがい」が多くなり自戒しております。「お・は・か」チェックで気をつけますが、これからも同様の事例があるかもしれません、その際には、随時修正させていただきます。引き続きよろしくお願いいたします。
〈第五巻〉③オホーツク人は何処
【第五巻】 ご先祖様の行方を探して~ルーツ再発見の旅 モヨロ貝塚からウトロへ
▶岐阜県根尾村に樽見家のルーツを探した一族の旅もいくつかの「かもしれない…」説を手にはしたが、確実なルーツにたどり着くことはできなかった。ボクの代から遡って6代先の先祖まで行きついたが、それから先は歴史に名を遺す超有名人でもない限り、市井の人々のルーツは推測の域を出ないのだそうだ。
しかし、ヒトゲノムの解明で一足飛びに数年万年前の自分のルーツが判るそうだ。また、どんな民族の血と関りがあるかも判るそうだ。いつか、庶民でもコロナのPCR検査なみにルーツ検査ができるかもしれない。民族間のいざこざも少し緩和されるかも。
▶近代以降、北海道への本土からの移住は、明治19年から大正11年までの37年間に三つの大きな波がある。日清戦争後の明治30年(1897)を第一のピークとし、日露戦争後の明治41年(1908)がこれに続く第二のピーク、最後は第一次世界対戦後の大正8年(1919)が第三のピークであった。この間、移民の総数は55万戸、約201万人が移住し、「北海道移住の時代」と言われている。(『北海道の歴史 下』北海道新聞社刊)
樽見家が徳島から北海道に渡った大正8年はこの第三のピークであり、貧窮を極めた徳島県は県知事が当時の県民69万人のうち20万人を北海道に移住させる計画を作っている。さすがに計画通りには行かなかったが、その困窮ぐあいが伝わる。
わが一族の曽祖父は、四国山地から原木を切り出す木材の流送職人であったが、資源の枯渇と輸送モードの変化で仕事をなくし、北海道移住を決意した。十勝に渡り着いた先祖は、道内移住で小清水町止別村を経て、現在の斜里町以久科に昭和3年にたどり着く。
▶本州に習い稲作水田造成を勧めていた村は、度重なる冷害、干ばつ、害虫の発生により昭和12年に水田をあきらめ、馬鈴薯(ジャガイモ)を中心とした農業開拓とその澱粉加工で「澱粉王国斜里」と呼ばれるに至り、これに乳牛酪農業が加わり、従来からの基幹産業である漁業と合わせ、まちの産業が確立した。
樽見家も澱粉工場を興し、本家を継承した伯父は馬産や肉牛の畜産、ヤマメの養殖事業、観光レジャー施設の運営、菊芋の健康食品作りなど多種多彩な事業を行なってきた。
ボクの小さい頃は以久科海岸に流れ着く海の幸や、野山の山菜、そしてハレの日(ほとんどお正月だけだった)は飼っていた羊がジンギスカンに姿を変えて食卓を飾った。初めて〈肉を食べた!〉という記憶は、この羊肉だ。
▶ボクの初めての海外旅行は中国の西域シルクロードだった。ウイグル、チベット、カザフの民やミックス(明らかに西方と東方の混血を思わせる人々)たちとの出会いで、中国が9割の漢民族と、残りの1割が55の少数民族で構成された多民族国家であることを実感した旅であった。
カザフ族の居留地に滞在した。その時パオ(テント型住居)で羊を潰し、茹でた肉と、乳で作ったチーズとチャイ(ミルクティー)、そして小麦粉のナンの夕食を頂きながら、周りのカザフ族の住民があまりにもボクの親族に似ていて唖然とした。叔父さんや叔母さんたちに囲まれながら仄暗いパオでする食事は、言葉は通じなくても心穏やかな宴で、家畜と共に命を分かち合う暮らしに懐かしさを感じた。旅の思い出が幼い時の記憶とつながった。今にして思うと、ルーツを共にする人々に出会っていたのかもしれない。
▶『牛のはなし』で叔父さんは「四変」(正式名称「第四胃変位症」という)の病気にかかった牛の開腹手術を15分ほどでおこなう自らの施術を〈マジシャンのような早業〉と、ちょっと自慢気に紹介している。しかし、この話の本題は別だ。高い濃厚飼料を食べさせ、沢山乳を搾るようになって、牛を経済動物としてしか扱わなくなった、現在の酪農業と社会状況に対する警鐘だ。
四変という病気は以前は無く、濃厚飼料を食べさせることで胃の位置が変位する現象が起きてきた後発的な病気なのだそうだ。本来の牛の寿命も20年もあったのだが、今はたった5年だそうだ。そんな不憫な牛のおもいを叔父さんは牛に代わって語る。
「モーこれ以上乳を出せないよ。モーこれ以上人間のために頑張れないよ。モー少し長生きしたいよ。地球上の生き物はみんな仲間だ、共生しよう。人間は野生動物の保護ばかり叫んでいる。あまりにも不公平だ。人間のために野生動物が何かしてくれたの。牛だけがこんな酷い目にあうのはモー我慢できない。今度生まれてくる時はモー牛はまっぴらだ。野生動物がいい。待てよ、水にも空気にもこれからダイオキシンがだんだん増えるそうだ。そうだ! やっぱり青いオホーツクの海底で静かに暮らす貝がいい」。(『牛のはなし』より)
60年を越えて、酪農家と家畜の暮らしを現場で見続けてきた人の言葉は重い。
▶叔父さんの沖縄の貝のコレクションは、こだわりの人らしく現地との交流も重ねながら、ただならぬ量と質を誇る。コレクションを眺めていると、貝が人間の為に命を捧げた夥しい数の〈名もなき牛たちの墓標〉のように思えてきた。
そして、ふっと叔父さんの心の中にも〈オホーツク人の血〉が騒いだのではないかとの思いに至った。
海に眠っていた貝は、太古に北と南に分かれた〈アイヌ〉と〈オキナワ〉の民が、先祖からから引き継いできた物語を蘇らせ、オホーツクの地で、北方の海人の調べに耳を澄ませているかのようにそこにあった。(終わり)
〈第五巻〉②開拓史から日本人の起源へ
【第五巻】 ご先祖様の行方を探して~ルーツ再発見の旅 モヨロ貝塚からウトロへ
▶ヒトゲノムの研究により日本人の源流調査は飛躍的な進展を見せている。斎藤成也著『日本人の源流』で、氏はこれまでの〈日本人の起源〉を旧石器時代に渡ってきた原アジア人の、今の日本列島に移り住んだ縄文人の流れと、その後、弥生時代に稲作文化を伝えた渡来人の流れをくんだ「二重構造モデル」を発展させた「三段階渡来説」を提示した。
▶これによれば、第一段階の約4万年前から約4400年前までの間に、ユーラシアの様々な地域から採集狩猟民が日本列島全域に渡ってきた。釧路湿原をガイドする時、「北海道には約1万5千年前から人が暮らしていた痕跡が残っており、この湿原の周辺にも、様々な時代ごとの遺跡が約5百か所も残っています。1万5千年前は地球の最終ウルム氷河期で、今より海水面は低く、ユーラシア大陸とサハリン、北海道は繋がっていました。マンモスやそれを追いかけて人々も北海道に渡ってきました」と解説をする。つまりこの第一段階に渡来した人々が、縄文人やその先祖集団ということになる。
▶ボクにとって新たな知見だったのは、第二段階で、約4400年前から約3000年前までの間に、漁労を生業の中心とした採集狩猟民が、現在の朝鮮半島と中国大陸沿岸の地域から日本列島の中央部に渡来したことだ。この〈海の民〉は列島の北部(北海道)や南部(沖縄諸島)には渡らなかったようで、こんにちの北海道人の起源を理解する上では脇役っぽいが、重要な役割をなしているように思えた。
▶第三段階は前期と後期に分かれ、前期は約3000年前の弥生時代から約2000年前までの間で、朝鮮半島を中心としたユーラシア大陸からきた農耕の渡来民が、稲作などの技術を導入し、急速な人口増をもたらしていくが、この人々も北部や南部の先住民たちにはほとんど影響しなかった。
この時期を釧路湿原でガイドする時は「氷河期以降、約1万年前から6000年前ぐらいまでの間は地球が温暖化して、縄文海進と呼ばれ、今より水位が高かったため、我々がいる釧路湿原は海でした。その後、徐々に寒冷化が進み、その過程で湿原が形成され約3000年前ぐらいには、こんにち我々が見る釧路湿原の姿となります。〈豊葦原瑞穂国〉(ヨシが豊かに繁茂し、稲穂がたれる国という日本の美を讃える表現)と『古事記』 や『日本書紀』に謳われた〈日本の原風景〉は、まさに今、我々が見ている湿原の姿です」と少しドヤ顔の気分で解説するのである。
後期は約2000年前から現在までで、引き続き、朝鮮半島を中心としたユーラシア大陸から渡来民がやってくるのだが、第一段階で渡来して東北地方に居住していた人たちは、6世紀前後にその大部分が北海道に渡っている。そして北海道では、5世紀頃から北方、サハリンを経由して〈オホーツク人〉と呼ばれる人たちが渡来し、先住集団との遺伝的交流もあり、後にアイヌ人及びニブタニ(アイヌ)文化が形成された。そして、江戸時代以降はアイヌ人と移住したヤマト人(和人)の混血が進んだ。ここでやっと北海道移住史につながることになる。
▶叔父さんは獣医一筋60年ではあるが、決して堅物ではなく、多趣味な人である。しかし八方美人的な趣味ではなく、一つの物事に集中してある程度、道を究め、はい次、というタイプである。
ある日、「ヒロフミ、オホーツク人って知ってるか?」と問いかけがあった。その前にひとしきりここ数年来究めてきた沖縄の貝のコレクションの話を聞いた後のクエスチョン。「あー、まあ、名前だけは聞いたことはあるけど…」。叔父さんは続けて、オホーツク人に関してウトロの遺跡を見に行ったことや、その歴史的背景の特異性について流れるように話をした。「う~ん、次はオホーツク人かぁ!」ボクの頭の中で赤ランプが緑に点滅した。
▶布石があった。一族の開拓誌を作るにあたって、そのベースになった親族の旅行体験があった。遅ればせながら、一族の姓は〈樽見〉と言う。遡ること10数年前、樽見を名乗っている一族に岐阜県根尾村の教育委員会から「全国の樽見さんにおたずねいたします」という手紙が届いた。新手の詐欺の手口かと一部親族では対応に腐心したそうだ。
根尾村は、樽見という姓や地名が遺る岐阜の山村で、郷土のルーツを調べるための全国調査の一環だったようだ。この村は南北朝時代の南朝サイド・後醍醐天皇派、新田義貞の弟・脇屋義助一派が吉野に赴くにあたり、その一員の武士、樽見定時がこの地に留まり、数々の功績を残し、彼の姓から樽見の地名が遺ったとされる。これを知った我が一族は、それまでは四国徳島から北海道に流れ着いた移民の末裔だと思っていたところから、さらに調査をすすめた。そして、歴史を遡れば、「どうやら平家の落人か、南北朝時代の南朝の落ち武者にいた樽見という一派のなかで、近畿や四国に流れ着いた武士の一族のなかに、我ら樽見家の先祖もいたらしい…!」という物語が生まれた。こういう時の論理的支柱になるのも叔父さんであった。
一族をまとめ岐阜県根尾村への先祖ルーツ探しの旅を企画し、計画し、添乗員として実行するのも文武両道を我が道とする叔父さんらしい振る舞いではあった。ツアーには16家族25名が結集。樽見ワンチームは根尾村教育委員会を圧倒した。もちろん参加者全員が同じテンションである理由もなく、旧知の親族との宴会や寄り道しての古城巡りなど、さながらお伊勢参りに合わせて大阪や京都に立ち寄った、江戸時代の旅スタイルを彷彿させた。
▶本土からの移住者を先祖にもつ北海道人は「北海道には歴史がない」というコンプレックスを少なからず持っている。ボクも修学旅行で初めて京都・奈良に出向いた時はもとより、東京で瓦葺の家屋を見ただけで歴史の重みを感じてしまう田舎者であった。高度成長期に生まれ育ったボクの世代でもそうなのだから、移住世代は尚更、北海道のむき出しの自然と向き合わざるを得ず、特別に考古学の教養や、想像を巡らす暮らしのゆとりがなければ、「歴史」という言葉は、日常生活には登場しない。その〈日本の歴史〉というワン・ウェイが実は、〈北海道の歴史〉〈沖縄の歴史〉と合わせて、スリー・ウェイだった。近年、その〈北海道の歴史〉に、輝くオリジナリティをもたらしたのは〈アイヌ文化〉であり、〈開拓移住の歴史〉であり、そして脇役にして主役を喰わんばかりの異彩を放つ〈オホーツク人〉の存在である。
▶稚内から知床半島までのオホーツク海沿岸は、旧石器時代から縄文、続縄文、擦文時代など多くの遺跡群のなかにオホーツク文化時代のものも点在し、モヨロ遺跡などで独自の光芒を放っている。オホーツク人は、北方から来た海洋民族で、トドやオットセイなどの海獣やオオワシの狩猟、漁労などでこの沿岸線沿いに暮らしを営み、先住集団(続縄文人、擦文人)との戦い、棲み分け、婚姻、同化などを経て、13世紀頃には消えていく。
近年の遺伝子研究ではオホーツク人の後裔は現在、北東アジアにいるニブヒやウリチという北方民族に引き継がれているが、アイヌ民族も同様の遺伝子を20%持っているとのこと。ということは、江戸時代以降のアイヌ人とヤマト人(和人)の混血が進む流れを経て、現世北海道人のアイデンティティにとっても外せないオホーツク人ではある。
観光客で賑わうウトロ市街の海岸にシンボリックにいくつかの巨岩がある。なかでも「オロンコ岩」は昔から頂上まで登ることのできる人気の観光スポットでもある。観光協会の資料では、オロンコ岩の地名由来は、「サマッケサラタ(横たわっている岩)と言われていたが、いくつかの岩を合わせて呼ぶウォロクシュマ(たくさん座っている岩)がオロンコ岩に転訛したらしい」とある。
伝説も紹介されている。「昔、この岩に住んでいたオロッコ族がアイヌに悪さをするのでアイヌの人たちは何度かこれを攻めたが要害のため落とすことができなかった。ある日、海藻に小魚を挟みそれに群がるカモメやカラスを見たオロッコ族が寄り鯨だと思い、岩から降りてきたところをアイヌの人が一斉に攻めて滅ぼした」とある。
ウトロ周辺にはオホーツク文化期の遺跡があり、このオロッコ族がオホーツク人と思われていた時期があった。オロッコ族は、現在ウィルタと呼ばれるトナカイを扱う樺太東岸の遊牧先住民族で、オホーツク人の末裔ではない、とのこと。戦前日本領だった南樺太に居住していたウィルタ(オロッコ)の一部は、戦後のソ連占領後、北海道に移住。網走市に6世帯13人が居住していた。つまり、ヤマト、アイヌ民族以外に日本国籍を持つ少数民族ウィルタの日本人がいた。
それにしても多様多彩な北方文化が、オホーツク沿岸の地で繰り広げられた様は、北海道のオリジナルヒストリーと呼べるものだ。
▶司馬遼太郎は『街道をゆく38 オホーツク街道』でこの沿岸を旅している。この本は氏のオホーツク人探しの旅の記録であり、モヨロ貝塚を発見した米村喜男衛をはじめ、地元の考古学の先達たちとの出会いやオホーツク海の豊穣な海の恵みがもたらした文化のあり様が記されている。巻末に氏はオホーツク人の正体に行き着けなかったおもいを吐露し、「…そのことに後悔していない。そんなことより、私どもの血の中に、微量ながらも、北海の海獣狩人の血が混じっていることを知っただけで、豊かな思いを持った。旅の目的は、それだけでも果せた。」と書き留めた。(続く)
〈第五巻〉①ボクの叔父さん
【第五巻】 ご先祖様の行方を探して~ルーツ再発見の旅 モヨロ貝塚からウトロへ
▶ボクの叔父さんは80歳を過ぎて、今も現役の獣医師である。本家のある斜里町で地域の主要産業の一つである酪農業を60年にわたって支えてきた。七人兄弟の三男として生まれた叔父さんは一家の中で唯一、上京して大学に入学し、故郷の期待を背に獣医師になって帰郷した。ボクの母親が年長の長女で、我が家は父親も同じく斜里を故郷としていたので、ボクにとって斜里は第二の故郷である。昭和30年代前半に田舎の大家族の農家から東京の大学に行くということは大変なことだった。叔父さんは稀有な秀才であるばかりか、文武両道の人で大学では相撲部で活躍した。叔父さんはこれまでの仕事のエピソードをまとめた『牛のはなし』というエッセイ集を出版した。本には入植当時の農家の苦労や牛にまつわる様々なエピソードが綴られている。
昭和35年から新米獣医師として仕事をはじめた叔父さんは、さっそくオートバイを購入し、斜里から45キロ離れたウトロに通い、入植者に国の支援事業として導入されたショートホーンという短角牛の飼育指導にあたった。
▶ウトロは武四郎が来た時(安政5)には番屋があった。漁業は古くからの主産業ではある。昭和10年代から斜里町は漁業に加え、ジャガイモをはじめとする農業生産物と乳牛を加えた「有畜寒地農業」による冷害に強い産業振興策を進めた。
この話には何処からかやってきた70戸の入植者に預けられた牛が、冬を越してどこかに消えてしまったというオチがある。真実は叔父さんの胸の中にはあるのだろうが、今は問わず語らず。厳しい自然と対峙しながら人々は知床の地で暮らしてきた。
▶ボクの子どもの頃、夏に幌を被せたトラックの荷台に一族(20名ほどいただろうか)が乗り込んでウトロに遊びに行ったことがある。小学校低学年の頃だと思うので、きっと叔父さんがバイクでウトロの農家の牛を診に通ってた頃と同じである。全線、砂利道だったように思う。オシンコシンの滝は、今は海岸線沿いに下から仰ぎ見るが、当時は滝の落ち口の山側を道は通っていて、上から覗き見たように思う。ボクたちは畑のスイカや味瓜を積み込んでウトロの海岸でみんなで食べた。知床はまだ国立公園にもなっていないし、世界自然遺産なんか、だぁ~れも知らない。一族のピクニックはガタガタ道の乗り心地はさておき、のんびり楽しいひと時だった。快晴で海がとても澄んでいた記憶がよみがえる。その記憶は齢を重ねるたびに輝きを増す。
▶一族の長で本家を守ってきた伯父さんが令和元年に亡くなった。葬儀に集まった甥っ子姪っ子との昔話、思い出話を辿っていったら、一族が北海道に入植してからちょうど百周年であることに気がついた。叔父さん達も加えて一族の開拓誌を作ろうということになり、ボクと叔父さんは一族の移住の歴史について調べることとなった。ボクはその前年、北海道命名150年の節目の年に、松浦武四郎の資料展を釧路で仲間と一緒に開催していた。イベントの中の講演会でアイヌの仲間が武四郎のことを話した。彼は、「武四郎が名前をつけたからそれがどうしたっていうのというのが正直な気持ちだ。武四郎の話で終わったら後の150年は放っておくの? 和人の自分たちの先祖の功績も見つめるべき」と指摘した。チクリと胸に刺さった。
武四郎を契機にしたアイヌと和人の蝦夷地の歴史。そして伯父の死を契機に一族の北海道移住史へと広がった。また、齢を重ね、〈我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこに行くのか〉という、日本人の起源にも興味が膨らんだ。(続く)