■武四郎と衝撃の出会い
昔から武四郎に興味が有ったわけではない。阿寒湖温泉に赴任した時、鶴雅の語り部のアイヌのSさんと武四郎のお話をさせていただいた。話しているうちに「武四郎が釧路に来た時、布伏内にとまった処はオレの孫爺さんのところだ」というボクにとっては衝撃の告白が出て、歴史のなかの人物が、今の時代にもつながっているのを実感した。
Sさんに武四郎ゆかりの場所をご案内していただき、釧路や阿寒、弟子屈のガイド仲間や研究者に声がけして1泊2日の学習会を開いた。このあたりが深みにはまる1合目といったところだったろうか。
学習会の資料集めをした。そのなかに『幕末の探検家松浦武四郎と一畳敷』(ⅠNAⅩ出版)という本があって、武四郎は晩年自分が足跡を残した寺社仏閣の部材を集めて一畳の書斎をつくったことが紹介されていた。このセンスに大いに刺激された。
人間の活動を起承転結にたとえれば、ボクはちょうど〈転〉から〈結〉に向かう時期だ。人生の〈結〉をどう迎えるかに興味が有った。また、齢を重ね「われわれは何処からきて、何者で、どこに行くのか」という命題にも整理をつけた晩年をむかえたいとおもっていた。
■足跡のリサーチをはじめる
武四郎の釧路の足跡を整理するため『久摺日誌』の現代語訳とその野帳ともいうべき『東西蝦夷山川地理取調日誌第8巻 東部安加武留宇知之誌』(秋葉実解読)を教科書に足跡をたどることにした。
これにさまざまな関連書籍やインターネット情報、そしてSさんやガイド仲間たちの情報をまとめフィールドで検証した。『久摺日誌』はこの地を最初に紹介した観光ガイドブックという意味で周知であったが、野帳や『東西蝦夷山川地理取調図』という地図など、まさに足跡をたどる必携図書に出会い、この後、ガイド仲間と実際にフィールドを歩くということにつながって行った。
阿寒のガイド仲間を中心に阿寒クラシックトレイル研究会を立ち上げ、実際に阿寒町から阿寒湖温泉までのルートを歩くイベントを開催した。全長約60㎞ですべてを一気に歩けるのは武四郎くらいなので、このルートを3つに分割し、阿寒町から上徹別までを「里の道」、上徹別からイタルイカオマナイまでを「川の道」、イタルイカオマナイから阿寒湖畔までを「山湖の道」としてそれぞれのロケーションにあわせたネーミングで歩くイベントを開催した。
■歩く文化を楽しみながら伝えるために
武四郎足跡研究会ではなく、阿寒クラシックトレイル研究会としたのには意味があった。たしかにきっかけは武四郎で、ベースの情報も武四郎の探査がメインではあったが、調べていくうちに、武四郎も幕府が19世紀初頭に北方警備のため切り拓いた「網走山道」の実態調査が探査の目的の一つであり、その道は、アイヌが湖畔を狩場として使うにあたっての道でもあり、さらにたどれば獣道でもあったところだった。
時代を現代によせれば、「里の道」などは雄別鉄道路線跡。さらには国道240号マリモ国道そのものが武四郎の歩いた道にほぼ沿ってつくられているなど、時代の層が幾層にも重なった道であることを知った。これぞクラシック!
研究会のメンバーは湖畔在住の自然ガイドやアイヌコタンでアイヌ料理店を営むものや前田一歩園財団、ホテル従業員など、30~40代でこれからの阿寒観光を担う世代。観光が生活にかかわる者として、新しい観光文化としての〈歩く観光〉を意識した商品開発も目標の一つと位置づけた。
まさに古きを訪ね新しきを知る「温故知新」をポリシーにした。阿寒湖温泉は北海道を代表する温泉観光地の一つだが、これまでのイメージが固定化し、なかなか新しいイメージを打ち出しにくいのが現状だ。豊かな自然を活かしたアウトドア基地阿寒を目指して、この研究会の活動が少しでも観光振興につながるように様々な試みをした。
近年、フットパスやロングトレイルが各地で生まれてきている。道東でも、厚床をはじめとする根室地方のフットパスや北根室ランチウェイのロングトレイルなど魅力的な歩く場所が生まれているが、我々はその原点を「はじめに〈ル〉ありき」と表現した。
つまり、アイヌ語で〈ル〉人や獣が踏み分けた道が原点にあるということだ。
北海道の歩く道は、アイヌ地名に呼応する豊かな自然の多様性に溢れているとともに開拓の歴史を風土に刻んだところが特徴だ。時代に則した新しい活用方策を考えていきたいと思った。
■武四郎と今の阿寒をつなぐもの
観光を主産業とする釧路、特に阿寒湖温泉では、インバウンドつまり海外からのお客様に魅力をうったえる観光まちづくりをすすめてきた。最近は、カジノ設置も市長選の争点になった。武四郎は阿寒湖を「実に一奇」つまりオンリーワンと記している。カジノはオンリーワンではなく、世界標準のリゾートには随所にある。
オンリーワンの魅力を阿寒に温故知新で探すとき、ボクは武四郎の足跡とともに前田一歩園創設者前田正名を類比して考える。アイヌという先住民文化と火山カルデラを囲む針広混交林と湖沼群を抱える豊かな自然のなかにある阿寒湖温泉にとって、人と自然の共生関係をつくる基盤を担ったキーパーソンがこの二人だとおもう。
二人の共通項をボクは3つの視点でまとめてみた。一つは発禁本。
『近世蝦夷人物誌』(松浦武四郎著) アイヌの暮らし、人となりのエピソードを聞き取りした記録で今日、ルポルタージュとして高い評価を受けているが、幕府から発禁措置を受け、死後、お孫さんの手で再販。平凡社ラブブラリーから『アイヌ人物誌』として刊行されている。
『興業意見書』 前田正名が明治政府で農商務省の若手官僚として全国の地域産業の実情と振興の方向性を示したものだが、地方の実情描写の生々しさと政府の施策批判、計画の実現性を巡り発禁措置になる。
二人とも現実の直視と原因に対する批判が赤裸々すぎた。
正名は興業意見書の最初に「人民生活の有様は衣食住ともに十分ならず、人にして今だ人と称すべからざる者多し」とし、人民の生存権を政策的に支援することを訴えた。武四郎が「開発より福祉を」と訴えた姿勢に共通するものがある。
前田正名というひとは、「国力は地方産業を振興し、わが国ならではの地場産業製品を直接輸出により外国に売って、生活を豊かにしていくこと」という主張を生涯ぶれずに訴え、そのための施策を実行した。主張を変えなかったので、2度にわたり政府の官僚トップの立場を追われている。
■歩く人の系譜をたずねて
2つめの共通項は「下野」つまり、野に下る、職を追われる、官から民へ、ちょっと官が上で民が下という差別的なニュアンスもある。武四郎は明治政府、北海道開拓使のアイヌ政策に不満をしめし、開拓判官の職を辞す。正名も政府内部の政策論争に破れ、その信念をつらぬくために地方の産業振興のため、民間産業団体づくりに奔走する。
起承転結の「転」は下野であるが、見方を変えれば二人とも元々「野」=現場で輝く人であったとおもう。正名においては、農業関係はじめ10数に及ぶ産業団体の全国組織を結成する本領発揮の時期を迎える。
3つめの共通項は「歩く人」ということだ。武四郎はいわずもがな、正名は全国を歩き回ったこの時期を「前田行脚」といっている。二人とも身長150㎝ほどの小柄な体躯でありながら、誠に頑強な身体を晩年まで維持している。
正名は非職後に一時、山梨県知事をつとめ、ワイン産業を甲府に紹介するなど産業振興をすすめているが、いつも蓑笠に旅草履というアウトドアファッションで執務もしたため「蓑笠知事」、「布衣の農相」とかあだ名がついたそうだ。
「歩く人」をボクなりにいいかえれば、現場主義者ということになる。
「環境と人権」という視点でまとめれば、二人には直接的な接点はないが、アイヌの生存権や生活権、文化権というキーワードはそのまま『興業意見書』における正名の困窮する人民を救済するための政策支援構想とリンクする。
アイヌ民族の持続可能性を武四郎は訴え、アイヌ地名という言語保存の形で後世に引継ぎ、正名の前田イズムは阿寒アイヌコタンという生活の場をアイヌに付与し、地域コミュニティを基盤にアイヌ文化を阿寒に根づかせる支援をすることになる。
さまざまな批判もありながらも、アイヌに尊敬の念をもって讃えられている偉人であることは、この二人のヒューマニズムが本物であったからだとおもう。
阿寒クラシックトレイルをガイドして阿寒湖温泉にたどり着き終点は、前田正名像がある前田公園になる。そこで締めくくりの話としてボクはこんな話をする。
「阿寒の地で、自然を活かし、保存再生の森づくりをすすめている前田一歩園は、その財源を温泉地の土地代と温泉使用料に見出し、伐る山から見る山への政策転換を実践しました。このシステムは、皆さんが、阿寒に宿泊し、温泉につかってくれることで支えられ、阿寒の自然と人の共生につながる〈阿寒エコシステム〉といえるものとなっています」。
■温故知新の道を行く
環境と人権というテーマで起承転結の「結」にしたい。
武四郎の蝦夷地探訪が後世に残したものは、この地の風光明媚な観光的価値と、開拓資源の豊かさと交通網の可能性、そして開発政策よりアイヌ保護を優先するとの主張だった。一方、森林開発の夢を阿寒に求めた前田正名は阿寒の国立公園化の動きを受けて「阿寒の自然は、スイスの自然に勝るとも劣らず」そして、「阿寒の山は伐る山ではなく、観る山だ」との政策転換を果たし、今日の「復元の森づくり」につながる自然資源を観光の柱とする阿寒の基盤を築いた。
この二人はともに先住民アイヌに対する人権家としての眼差しを持ち、それは阿寒におけるアイヌ文化につながっていると実感する。
マリモ祭りはアイヌと和人が協働でマリモに象徴される自然保護を世に問った祭だ。
毎年、全道から集まったアイヌとシサムが温泉街を行進し、立ち寄る先に前田正名像のある前田公園と前田光子が暮らした前田一歩園山荘がある。奉納の舞と祭りの報告とともに感謝の言葉が述べられる。
明治39年に前田正名が取得した広大な阿寒湖周辺の森は、一方の視点から見れば、利権により得たともいえるものだが、「前田家の財産はすべて公共事業に供する」を家訓とする前田家のユニークな経営により、実質的には公有化されたも同然。さらにイズムを継承する二代目三代目により、一層厳格な規制の元で自然は活かされて来た。前田家のほぼ独占的な土地資源、温泉資源活用は、あらためて所有の意味をボクたちに問うているかのようだ。
今日、流行言葉のようにサスティナビリティ(持続可能性)が叫ばれている。交流市民と定住市民が観光産業をとおして財の交換をする。観光資源である自然とアイヌ文化を持続可能なものとするため、行政と協働関係にある地域マネジメントシステムの一翼を担っているのが前田一歩園財団だ。それを支える思想の源流部にはアイヌ文化とともにある松浦武四郎、前田正名という二人の偉人がいるのだとおもう。
現在の日本で、人と自然の共生関係をアイヌ先住文化に学びながら、持続可能な地域社会と自然環境を実現しているユニークモデルが阿寒湖温泉なのだ。これはオンリーワンかもしれないが、可視化が難しい。物語を説明するガイド機能が必要となる。
このことをフィールドで体感してもらうが阿寒クラシックトレイルの魅力の真髄で、それを暮らしの糧として地域に定着させたい、というのが我々の活動の肝である。