『クスリ凸凹旅日誌』▶2話:研修という名の 海外旅行

1992年2月2日~9日
アメリカ合衆国:サンフランシスコ ロス アンゼルス ホノルル

ハワイ大学で生涯学習研修を終えて全体の研修スケジュールも終了。全員で記念写真

グランドツアーは視察旅行の原点
 アメリカには興味がないわけではないが訪問地の優先順位では欧州が先行している。都市観光の原点は17世紀に英国貴族の子弟が修学のためにおこなった海外旅行(グランドツアー。主に渡航先はイタリア)である。そんな貴族でも何でもないボクにもチャンスは巡ってきた。自治体職員の海外研修旅行というちょっと変わったグランドツアーであった。
 釧路市役所から選抜された2名の職員がJTBが催行する海外先進自治体研修ツアーに参加する形であった。財政が逼迫して、おそらくこの年が海外研修の最後の年になったはずだ。
 ボクは入所してちょうど20年目を迎え、役所生活の折り返し点だった。年齢も38歳。脂が乗った生意気な職員であった。
 この研修の選抜にあたっては通常、部長クラスの推薦があって決められるのだが、ボクの場合は当時の職員課長がボクのことを気に入ってくれて推薦してくれた。
「塩、お前を海外研修に推薦したから」「ありがとうございます。ところでどちらですか?」「アメリカだ」「できればヨーロッパに行きたいですが…」「……」。
 こんな感じだった。ボクたちは全国各地から集まった15名の参加者とともにアメリカに向かった。研修目的は、サンフランシスコ郊外のギルロイという街でニンニク(ガーリック)をテーマにした祭りの企画運営。ロサンゼルス郊外のサンタモニカ市で情報システムサービス。ホノルルのハワイ大学コミュニティカレッジで成人教育生涯教育の運用などであった。

コンピュータを使った行政システムの先進都市サンタモニカ市でPENシステムを学ぶ。今思い起こせば時代の変化のスピードを痛感します。


 研修後、ボクは約50ページに及ぶ記録報告書を作成した。参加者全員に配って「出張報告に使わしてもらうよ」とえらく感謝された記憶がある。全部は掲載できないので「研修後記」と「(職員課)研修担当へ」という2項目を抜粋し掲載する。
 おおよそ30年前のボクの思考回路が今とあまり変わっていないことと、役所におけるボクの生意気ぶりが伝わる文章である。言いたいことは言わせてもらう。あまり忖度しない職員であった。
 この後、ボクは港湾部に異動し、港祭りや港湾管理の仕事に従事した後、観光セクションに異動。観光振興に携わり阿寒湖温泉勤務で市役所生活を終える。この研修で見聞した祭り運営、フィッシャーマンズワーフ開発の様子やハワイの観光産業の振興策などは多かれ少なかれその後のボクの仕事の糧になったと思っている。
 税金は無駄に使っていませんからぁ!

研修後記
■研修を終えて
 大雪、地震。飛行機は遅れる、電車は遅れる。集合時間にも遅れ、やっとこさのユナイテッド828便。二度あることは三度ある。すわ! サンフランシスコ大地震とおもいきや…。6泊8日の海外研修は順風満帆。天気に恵まれ、善意の人々に支えられ無事終了することが出来た。
 視察研修は地域振興(ギルロイ、ガーリック祭)、公共情報ネットワーク(サンタモニカ、PENシステム)、成人教育生涯教育(ホノルル、カピオラニコミュニティカレッジ)といずれも釧路においてはタイムリーなテーマであり充実した視察であった。
 国際化の時代といわれるが、テーマや表現力が類似していても、それを支える思想や思考には大きな違いがあるとおもう。近年の日本の経済成長により、「アメリカが手本の時代は終わった」とか「日本はアメリカを越えた」とか、威勢のいい声も聞こえるが、ここは謙虚に学ぶべき点は学ぶ姿勢が必要である。
 ギルロイでは地域振興をとおし自立したボランテイア精神を知ることができた。サンタモニカでは民主主義の基盤となる、情報提供と民意の集積に対する積極的な自治体の姿勢を感じた。
 ホノルルでは地域社会への貢献という建学精神を見事に反映した合理的な教育システムづくりに羨望の感すら抱いた。
 これらはいずれもアメリカ社会の良質な部分として受け取ることは出来る。しかし一方で自由時間の間に見たサンフランシスコ、ロスアンゼルスのホームレスや冷徹なまでの棲み分け。どことなく暗かった街の人の表情や治安の悪さ(ボクは怖い目には合わなかったが…)。これも経済不況、人種問題、麻薬問題等々病める大国アメリカの一面なのであろう。これらは違う問題なのだろうか。実利主義に対する奉仕精神。競争原理が生み出す勝者と敗者。合理主義がもたらすシロクロのはっきりした社会等々。ボクには最大値と最少値の振幅が広い社会ではないかとおもわれた。
 同時に移民の国として、来る者は拒まずの間口の広さ、懐の深さは島国に育ったボクには、やはり腐っても鯛(失礼!) であった。
 個別の事例のなかに学ぶべき点や参考になる点もたくさんあった。結論的に言えば、平凡ではあるが釧路には釧路の良さがあって、その長所を踏まえた上で、検討モデルとして他国の社会を見つめる眼を持ちたいものだとおもった。
 国際化の時代といわれるが、わけのわかんない政治家の暴言・失言(?) に振り回されるより、顔の見える地域間の国際交流の方が永い眼で見るとずっと実り多い相互理解を育むのではないかと実感した8日間であった。

■研修担当へ
 短いような長いような8日間の研修でした。海外滞在期間中は五感がフルに活動するので濃度の高い時間を過ごすのだと実感しているところです。
 この体験を市政に少しでも反映できるようにと、秋里君と共同で視察研修の採録を試みました。関係部局の職員及びテーマに関心のある方に少しは参考になるかとおもいます。
 さて、せっかくの機会ですから勢いついでに、今回の研修をとおし海外研修システムそのものについての意見を述べさせていただきます。

1、今回の海外研修にボクは選ばれたのですが、本人の意志が反映しないこのような形より、希望の申告を前提とした選抜の方が民主的だとおもいます。今回の参加者の中でも、希望申告により来られた方もいました。他の研修とは違い、希望者全てが行けるわけでもないし、選ぶ上で難しい問題もあるのでしようが、やはり本人の主体性がどこかに確保されていることが必要だとおもいます。

2、今回は全額公費の研修でしたが、このような海外研修の機会拡大のために、費用の部分負担の研修もあってよいのではないでしょうか(全額公費で行った本人がいうのも図々しいとお思いでしょうが…)。たとえば、リフレッシュ休暇と海外研修の併用型(海外旅行の中に研修テーマがあるものに費用負担をおこなう)や姉妹都市交流と海外研修の併用型(姉妹都市を訪問する旅行プランには助成する。これは市民も対象にすべき)など、もっとバラエティーに富んだ研修システムがあってよいとおもいます。自己費用で海外に行き勉強してくる職員もいるのです。これらの人にも何らかのバックアップがあっても良いのではないでしようか。

3、非管理職員クラスの海外研修枠をひろげてほしいです。今回の参加者中、管理職でないのは釧路市の二人だけでした。「釧路は進んでいるなぁ」と嫌味でなく感心されました。ラムサール会議や釧路湿原の話にもあいまって釧路の国際交流にかける意欲を他の自治体の方にも感じてもらえたとおもいます。また、研修での体験を咀嚼し市政に反映するのは現場の職員ですし、研修成果をレポート等で広げる機会も縦割り組織を意識しなければならない管理職より自由に出来るのではないでしようか。

 映画サークルなど民間での文化活動にも参加していて、市役所、さらには組合という組織においても役所内だけに通用する〈市役所文化〉みたいなものに対する不満が行間に顔を出す。それにしても約30年前の自分に会ったようで恥ずかしい。

カルフォルニア州ギルロイ市はニンニクの特産地。物産フェスティバルを主催する協会でイベントによる地域おこしの手法を研修しました

『クスリ凸凹旅日誌』▶1話:わが旅スタイルの 源流を振り返る

1984年8月
中国・シルクロード

ベゼクリク千仏洞(トルファン)世界でもっとも暑いといわれ気温50℃くらい

初物づくしの旅
「原点」ではなくあえて「源流」というには理由がある。この年30歳を迎えたボクにとっては、色々な意味で転換点の年であった。
 結婚した。市役所に入って十年目を迎え仕事にも慣れたがどこかしか行き詰まりも感じていた。仲間と十年間続けてきた映画サークルを閉じることになった。敬愛する寺山修司が死に、ミスターシービーに続けてシンボリルドルフが2年続けての三冠馬に輝いた。
 さて、旅先の中国では日中国交回復の流れをうけ、前年に日本人の個人客にも中国内の旅行を解放した。TVではNHKのシルクロード特集が人気となり、中国からヨーロッパに向かうシルクロードがにわかに脚光を浴び始めた。
 こんななか、ボクにとっては初めての海外旅行は中国への個人旅行となった。個人旅行とはいえ、当時の中国への入国は、ツアーという形で入国し、現地一泊後解散。期間中、フリーで最終日前日にまた指定の箇所に集合し、一緒に出国するという変則ツアーであった。
 この旅行にはもう一つ重大なミッションがあった。いや、こちらがメインテーマ。高校時代一緒に写真部に所属していた友人のK君が会社を興し、海外の写真を有償提供するストックエージェンシーという事業を行っていた。K君はシルクロードに目を付け、長期取材を敢行した。中国滞在中の彼に未使用のフィルムを届け、代わりに撮影済みフィルムを持ち帰る、いわばボクは「運び屋」であった。
 撮影はシノゴと呼ばれる4インチ×5インチの大型フィルム使用のため、取材期間中でのフィルム交換が必要となった。今思うと空港の税関でよく捕まらなかったものだと思う。拘束され、逮捕され、市役所は失職、家庭は崩壊、そんな可能性だって無きにしも非ず。でもそんなことはつゆほども考えず、やっぱり若かった。


〈日常の惰性的な生活の中で閉ざされたボクたちの心を旅は開かれた予感に満ちたものにする〉(『知の旅への誘い』中村雄二郎、山口昌男著 岩波新書刊)
 初めての海外、そして行き帰りの飛行機チケットと離発着日の宿泊場所以外は全て現地で手配しなければならない。中国という未知との遭遇。どんな偶然に支配されるか分からない旅は、当然にも小心者のボクを不安にさせた。
 彼との待ち合わせは内陸の旧都西安。シルクロードの起点であり昔は長安と呼ばれた。事前に、この西安駅の正面玄関左側の柱(きっとあるはず)で約束の日に会うことにしていた。当時、携帯電話はなく中国からの連絡は現地の交換手を通してしなければならず、30分近く待たされ、言葉は通じず、これだけで一仕事。今振り返ってもどんなふうに連絡できたのかよく分からない。
 西安駅での待ち合わせは当然叶わず彼から連れに連絡が入り、ボクはどこに行ったのか? どこかで野垂れ死んでしまったのではないかと連れは新婚で身重にもかかわらず、いきなり奈落の底に突き落とされた感じがしたと後日、連れから聞かされた。そもそも連れが身重だったので新婚旅行をカットし、身内からいただいた祝い金を持って、中国旅行に出かけたことで身内の評価は著しく低下。まぁ、我ながら相当いい加減な輩だったことは違いない。 


 これまで様々な旅を経験してきたが血湧き肉踊り全身にアドレナリンとドーパミンが噴出する感じというのは何度かある。でも最初にその感覚を味わったのは、旅の初日蘇州の街歩きであった。なぜか「負けてはいけない」とおもった。スタートダッシュが肝心。ホテルの朝食をキャンセルし、早朝の街にでかけた。まだ自由経済が進んでなかった中国では住民が配給券みたいなものを持って朝食の油條(棒状の油の揚げパン。以降、台湾でも朝食にはこれが定番になる)を買うため並んでいた。ボクも物珍しさに眺めていると住民が声をかけてくれ、配給券を1枚くれてボクも列に並び油條を買って食べた。これが中国の最初の朝食だった。
 蘇州から西安に行くには列車の切符を購入しなければならず駅に向かうと校内は長蛇の列。さすがに日本人観光客はほとんどおらず、住民からは好奇の目で見られるが、どういうわけか不安な気持ちに陥らない。そのうちもの好きな人が声をかけてくれ「金を交換してくれるなら切符を早く買ってあげるぞ」と提案してくれる。これを筆談でやるので、ワンフレーズ2・3分かかる。ボクには好奇心が今以上にあったことは間違いない。『何でも見てやろう』小田実著の本のタイトルが頭に広がる。(ちなみに沢木耕太郎『深夜特急便』は2年後)その好奇心は、中国という国を人の暮らしのレベルから観察し、楽しみ、関心を寄せる知的情熱の源泉であったように思う。

国を知るという事 
 中国人民とボクの関係は、それぞれがもの珍しく関心を寄せ合う関係であったに違いない。こんな経験はそうあるものではない。この間30数年が経て、社会政治状況の変化はことのほか激しく、激変するグローバル世界を前にして、なんと素朴で幸福感に満ちた時間だったのだろうと実感する。
 「金を交換する」とはどういう意味か。当時は人民が使うお札と外国人が使う紙幣は別であった。人民札と兌換札。兌換札は人民にとっては外国人が使う高級店舗で、そこだけで買うことができる高級消費財を手に入れることができる特別な紙幣であった。
 我々〈何でも見てやろう旅行者〉は人民の暮らしを体験したいので人民元で十分なのである。ここに交換市場が発生する。「代わりに切符を買ってあげるから交換してちょうだい」という役務提供タイプと1:1.5とかの交換レートでの両替タイプの2パターンがある。日本国内では貧乏な若者も中国ではリッチマンとして通用する時代であった。ちなみに『地球の歩き方中国版』のうたい文句には「中国を1日1500円(宿泊、食事、移動費込み!)で旅する」とあったように記憶している。
 この交換はイツデモドコデモ。さまざまな人(駅、街頭、列車の車掌、ホテルのメイド等々)から囁かれた。 


 西安駅で会うことのができなかった彼とはホテルで会うことができた。西安の人口は今現在で1200万人、当時も1千万人前後であったに違いない。この大都市で外国人旅行者が何の連絡も取らず(取れず)、でもホテルで再会できるなんて奇跡といわずして何と言う。でもこの奇跡にはネタがちゃんとある。外国人が泊まるホテルは全て数箇所指定されていた。このため目星をつけて、2箇所目ぐらいで彼に会うことができた。
 こういう規制は超マイノリティだった個人旅行者にとっては都合が良い場合もあったがそれは例外。例えば訪問先も開放都市になっていなければ、事前に公安局に行って許可証をとらなければならない。やる気のない国家公務員に遭遇したら、こういう手間で半日。まあ、こういうことも含めて楽しめ、そこで起きるエピソードを面白がれる心持ちが必要だ。60を過ぎた今もボクにはその好奇心は消えていないが、きっと中国では、もっと早く激しい流れについていける自分がいたんだろうと思う。
 日本から一緒に入国した旅行者は、夏休みを利用した社会人や学校の先生・学生・フリーランスのカメラマン(中国残留孤児の取材だった)等々。旅の途中では香港、イギリスの旅行者と一緒に行動したり宿を共にした。
 シルクロードのウルムチ、トルファンなどでは欧米のバックパッカーが多かった。ボクはシルクロードで彼の撮影の助手として一緒に行動し、写真を撮ったりしたが大まかな旅行スケジュールはあるにしても、その場の流れで旅程はフレキシブル状態であった。
 例えばウルムチの近くの天山山脈に天池という標高2200mほどの観光地があった。ここを訪れたときカザフ族の遊牧民がいて、馬で居留地に行かないかという提案があり数名の旅行者と共に行くことにした。


 天池から馬に乗って3時間前後だったと思うがテント暮らしをしている遊牧民一家のパオに一泊することになった。もちろんそのことが遊牧民たちにとっても貴重な収入源であったことは確かであるが、こんな自由度を満喫できる旅はその後していない。真夏の旅行であったが翌朝パオから出ると目の前に雪をかぶった高山があり、歩いて数十メートル先に残雪があった。その手前で少女は機織りをしていた。
 後で調べると新疆ウイグル自治区の国境の峠は約4千mなので我々もほぼその辺りにいたことになる。翌日ウルムチに戻りそこから数時間、ゴビタン砂漠をバスで移動し、中国で最も暑いといわれるトルファンに移動した。このオアシス都市は海抜下154mに位置し、気温は45℃前後であった。天山山脈を源流とする世界最古のカレーズとよばれる上水道施設を有し、砂漠の一直線の道路の脇の水路には雪解け水が悠々と流れていた。アフガニスタン支援で活躍し、2019年、凶弾に倒れた中村哲さんが現地支援で尽力したのも水道設備建設であった。
 中国を横断するタクラマカン砂漠の変わらない風景を2日間ほど見続けた後だと、オアシスのありがたさ、水の大切さをあらためて痛感するのである。
 もう一人の中村、哲学者中村雄二郎の著書から…
〈五感を研ぎ澄ました先に生まれる第六感、それらを躰に統合する体性感覚。さらにはそれを土台として生まれる共通感覚コモンセンス。五感を貫いてそれらを統合する根源的感覚〉
 難解な哲学を体得した気分であった。

人に対する信頼感 
 この中国の旅を書き続けていけば百ページくらいになりそうだ。その一部でも記憶を文章化することで一つの区切りをつけたい。
 この旅で実感したことの一つは人に対する恐怖心についてである。駅、町並みの雑踏、賑わう食堂、すし詰めのバス等々。人の波にもまれながらも不思議と人に対する恐怖というのを感じなかった。出発前は、共産主義一党独裁の中国にあって、中国には乞食がいない、犯罪が起きない、交通事故も少ない等々の伝説があり、一方で無秩序で、モラルなき大衆、いつまでたっても中国は先進国にならないとの評価もあった。伝わる情報の量も質も乏しい時代にあっては、何もが一面的であるとともに、当たらずとも遠からずの側面もあった。
 旅を通し、人々の日常に少し触れることで自分にとっての中国のイメージの源流が形作られた旅であった。混沌の中にも秩序はあり、目の前の困ってる人を助けてあげたいという思いもあり、人に対する信頼感の土台を確認する旅であった。
 その意味では、わが旅の源流は、わが人生の旅にとっても、大きな自信という流れをもたらした旅となった。 

        

『クスリ凸凹旅日誌~24の旅のカタチ』▶はじめに

ひとり出版舎である「クスリ凸凹旅行舎」の第3冊目は自分たちの旅行体験を振り返り、旅のカタチを整理したものです。自分たちのための思い出本でパーソナルなものなのでネット印刷自家製本として30部だけ作成しました。でもやはりどこかで皆さんにも読んでもらいたいおもいもあるので、当ブログで24話+随想6話を掲載します。よかったらお付き合いください。

はじめに~

上手に思い出すということ

●2020年は大きな転換点の年であった。新型コロナウイルスによる世界的なパンデミック。本格的な異常気象現象の顕在化。政治家たちのモラルハザードと独裁。個人生活から国家のレベルまで、ひいては世界中、さらには地球そのものにまで影響を共有する出来事が現在進行形でおこっている。転換点の年、というのはこれらの出来事が対岸の火事ではなく、自分たちの生活スタイル、ひいては思考に至るまで、変更を余儀なくされた転換点であるということだ。

●私たち夫婦は66歳になった。人並みに物忘れや足腰も弱り、頭も体もピークは過ぎた。自然ガイド業もコロナの影響で休業中である。この間、昨年亡くなった、博文の母方の伯父の追悼と北海道入植百年を記念して開拓史の本をいとこや親戚と共に作った。過去の記憶を手繰り寄せ、記録し、未来に遺す。そんな作業は、上手に思い出すということが大きなテーマとなった。巷でも戦後75年を迎え戦争の生き証人たちがいなくなる。その前に多くの衝撃的な発言が話題となった。人は何らかの遺言を遺したい、それを生きた証としたい。その思いは身内の開拓史であれ、戦争の証言者であれおもいは同じ。


●開拓史が一段落して自分たちの旅日誌をまとめたいというアイデアが浮かんだ。
 私たちも幕末の蝦夷地探検家・松浦武四郎の足跡を追った旅日誌を仲間と一緒に解読し、現地を歩いたりしていたので自分たちの旅日誌というのも興味があった。寺山修司のテーゼを適用すれば「旅が人生の比喩なのではない 人生が旅の比喩なのだ」。旅を振り返ることは自分たちの人生という旅を振り返ると同時に〈旅文化を考える〉というテーマにもつながった。
 この本は24の旅を素材に、過去の記憶を辿りながら今の自分たちが〈書く旅〉そして〈読む旅〉として再構成したものだ。表テーマと裏テーマが交錯し、フィクションとノンフィクションが交差する。個別的な出来事がどこか普遍性を持つ。振り返れば自分達は目標設定をしてそれに向かって突き進むというタイプではないようだ。ただ歩くプロセスの中で喜怒哀楽をかみしめながら生きてきたように思う。〈歩く意味〉も少し振り返りながら考えてみた。それらの思考の舞台としての24の旅でもある。

●歩くという行為は基本的には移動の手段である。近代科学の発展によってそれは移動の手段としての本来的な目的を離れ、先人たちは歩くことに様々な意味を付加してきた。我々にとって歩くことは「ながら移動」である。移動というメインテーマに様々なサブテーマ(思索しながら、健康のために、観察のために……)が付加されて〈歩く文化〉が作られてきた。 
 歩くことはスピードが問題である。人間の五感(見る、聞く、嗅ぐ、触る、味わう)と相性がいい。様々な先人が、歩きながら考え、歩きながら歌を詠み、歩きながら会話をし、歩きながら観察してきた。いわばそれは歩く文化であり、旅という行為と繋がっていく。


●足掛け8年間にわたった安倍政権が退陣した。彼の口癖は「スピード感と緊張感」である。また「政治は結果が全て」とも言った。それは自明の理のように政治家のみならず我々の社会生活においても当然のことのように語られた。彼がいうスピード感とは何なのだろう。迅速に早くということであろう。早く結果を出すためにはプロセスは問わず、記録なしでも構わず、結果オーライ。これが実証された彼らの本質のようで、それは未来志向という方向性につながっている。

●我々の考えるスピード感は歩くという個別の運動能力に伴うスピード感なので、その人なりのスピードである。そこから得られる様々な感覚も個別の体性感覚である。ゆっくり歩かなければ見えないものもある。松尾芭蕉の歌を読むとスピードというのがいかに人間の感覚と表現に繋がっているのかがよくわかる。それぞれのスピードで得られる体性感覚を通した思考や表現を大切にしたいと思う。結果だけではなく、プロセスの中で記録され、記憶された過去を上手に呼び覚まし、私たちなりの旅文化を〈書く旅〉として遺せたらと思った。


● これまで人間の脳細胞というのは加齢に伴い細胞が破壊され、減少の一途をたどるといわれてきた。しかし、これにも異論があり、加齢に伴う記憶後退現象は記憶総量が、パソコンに例えていえば容量オーバーとなり、新たな記憶が入力不可の状態になる、とのこと。よってハードディスクの中の不要な記憶を消去すれば改善するとのことなのだが、我々の脳は自発的に「これは消去」という選別が不得意である。しかし、データを外化することは可能だ。そのためには記憶を一度文章化(デジタル化)し、過去として定着させ、記録形態に変換することが必要となる。

●この本はその作業のカタチである。ボケないための自家製の秘薬みたいなものである。本当にボケ対策になるのかどうかは10年くらい経った後でなければ分からない。即効性がない漢方薬みたいなものだ。ただ本という形で記憶が手元に残ることは効果がある。AIの時代に人間の記憶として最後まで残るのは〈想起的な記憶=過去をイメージとして物語る記憶=純粋記憶〉だといわれている。
 その点ではこの本が私たちにとって「記憶を辿る旅のガイドブック」になることだけは確かなことのようだ。

映画「アイヌモシリ」は阿寒湖アイヌコタンを舞台にした素敵な映画

 ボクが5年間暮らした第三の故郷、阿寒湖温泉を舞台にした映画「アイヌモシリ」はとても素敵な映画だった。ドキュメンタリーのようでありながらドラマであり、フィクションとノンフィクションが混在する。阿寒湖アイヌコタンに実際に暮らしている人たちが出演している。その演技は日常生活の延長線上で演じられ、とても自然な感じがする。物語はアイヌコタンに暮らす少年とデポさんと呼ばれる男を中心に、その周辺の人々で織り成される。

 阿寒湖アイヌコタンの人々は 昭和30年代以降、木彫りを中心とした土産物販売や古式舞踊などのアイヌ文化を観光客に伝えることを生業としながら、文化の保存継承を進めてきた。その民族的アイデンティティの根幹といわれるのが「イオマンテ」と呼ばれる熊送りの儀式だ。

 春熊猟で射止めた母グマの子熊を数年間コタンで育て、時期が来たら殺して天に送る儀式だ。昭和30(1955)年に北海道の通達で野蛮な儀式として廃止されたが平成17(2007)年にはその通達は廃止されている。アイヌにとっては最も重要な儀式とされているが、今の時代、アイヌではないボクにとっては理屈ではわからなくもないが、その重要性は今ひとつ…?

 阿寒湖温泉では行政マンだったボクはヒグマ対策会議のメンバーとして地域に出没するヒグマの対応に当たっていた。年に何度か温泉街の周辺にもヒグマは出没したがその多くは子別れした若熊であった。ある時、例によって会議が招集され、通学路に出没した若熊に対する対応が議論された。

「まだ若い熊だからもうちょっと様子を見るか」
「爆竹で追い出すか」
「追い出しても縄張りのオスから弾かれる」
「罠をかけようか」
「いや通学路に出てきたら処分するしかない」
「……」。

 そんな議論を映画を見ながら思い出した。映画ではイオマンテという儀式を復活させたいという男のおもいがコタンの仲間たちの間で議論になる。

「熊を殺すなんて今の世の中じゃできない」
「観光客を相手にどう説明する」
「牛でも豚でも食べているのに臭いものには蓋の世の中は納得できない」
「イオマンテを俺たちがどう捉えるかが重要だ」
「……」。

 観光という生業を通して伝えられているアイヌ文化へのもどかしさ。伝統という民族が共有する記憶とその価値について、自分たちの手で体感したいという男のおもいがイオマンテ復活に込められているように思った。イオマンテ復活はこの映画の物語の軸である。

 〈人と自然の共生〉が叫ばれている。時代のスローガンともいえるこのフレーズは何時からかアイヌ文化がその先達の役回りを担わされた。しかし近頃ボクは、人と自然が共生する社会はどこか嘘くさいとおもうようになった。なぜならイオマンテで送られる若熊は殺されるのである。これは共生ではない。どう考えたって一方的な話だ。 そもそも人と自然が共生するような理想郷な世の中がこれまであったのか? その疑問の答えはアイヌの人からいただいたような気がする。

 アイヌの考え方にある〈折り合いの哲学〉。人と自然が折り合う社会、きっとそれは臭いものには蓋をせず、様々な心の内の葛藤やおもいやこだわりを吐露し、議論し、修正し、何かしらの収まりをつける社会。アイヌコタンの人たちはきっと映画の中で演じられた場面のような話し合いをこれまでもしてきたのだとおもう。そのことがこの映画の自然さを醸し出している。

 昨年、温泉街の自然散策路を使ってカムイルミナと呼ばれる夜間の光と音の映像ショーが開催された。そのショーはアイヌの民話をコタンの守り神であるシマフクロウが語るものであった。ボクは阿寒湖温泉に暮らしていた時、この散策路の森に生息するチプッタチリカムイ(舟を造る神様)と呼ばれるクマゲラを何度か見ていたのでこのイベントには反対であった。人と自然の共生をうたいながら、実はカムイたちをこの森から追い出すことになる矛盾。アイヌの仲間にこのことを問うと「そのぐらいの事は大丈夫だ」と彼は軽くいなした。

 一方で会場の設営や運営に多くの地域の人々が参加し、そこで暮らしの糧を得る姿を見て、ボク自身の折り合いをつけなければならないと思った。職場の後輩にボクと同じような視点を持っている人たちに説明できるようしておいた方がいいとアドバイスをした。我ながら世間に忖度する気分であった。本当はやめてほしい。でも地域がやるとまとまったのなら、そのことを考え方として整理してほしい。自分の考えはさておいて。なさけないが本当に整理なんてできるんだろうかと疑問がわく。

 この映画を見ながらやっぱり人と自然が共生する社会(地域)なんて、ありもしない理想のスローガンに振り回され、騙され、思考停止されることより、折り合いをつけるため、現実を直視しつつ異論、反論も包含し、でも核心は忘れない柔軟な心持ちを持ちたいものだとおもった。初老を迎えるボクがいい歳をして、今更無理な話なのだろうと思う。きっとこの映画の主人公である少年に対するボクの期待なので、おせっかいなことである。お母さんもあの男も近くで寄り添いながら少年に優しく伝えている。 

 この映画に登場する出演者は、俳優としては素人なのかもしれないが、日々表現の術を鍛錬している人々である。コタンでの生業とともに、朝や夜には観光客を相手にアイヌ文化を伝えるマルチワーカーたちだ。

 ボクたちは本物の自分を考える時、日々ちょっとした嘘や、ホラ話や、自己顕示、ささやかな虚飾で彩られたもう一人の自分と同居しながら生きている。どちらも自分であり、そのことを客観視できるのが大人になるということなのかもしれない。

 少年から老人まで、コタンの人々のささやかな気持ちの揺れを丁寧にとらえた映像。少年たちのバンドの語らいで、アイヌの楽器を使うことをためらう仲間をみんなで受けとめるシーン、カラオケで歌いまくる男に呆れた表情のスナックの女主人、ちょっとした等身大の人々のスケッチが積み重なっていく。それを時にトレンディドラマのワンシーンの様に、はたまたニュース映像の様に、家族の想い出の8ミリムービーの様に積み上げられて映画は輝きを増していく。

 福永監督を中心とする映画作りのスタッフたちは、様々な映画的表現を駆使しながら、失われつつあるイオマンテの記憶を阿寒湖アイヌコタンに手繰り寄せ、その真実を解凍させ、我々にその意味を伝える。映画の歴史の古道を歩きながら新たな映画の道を創造して行く作業がコタンの人たちの自己表象能力とシンクロし、素晴らしい映画的興奮を我々にもたらしてくれた。過去と現在を行き来し、伝統と創造を織り交ぜ、夢のような現実のような、その混沌とした交差する道筋に表現の確かな方向性を導く映画文法。

 最後の熊送りの儀式に参列する少年と異論を乗り越えて、〈決めたことはみんなで取り組んできた〉コタンの伝統に沿って参列したコタンの男たちの後ろ姿。少年の赤いモンベルのハードシェルが民族衣装の中に溶け込む。

 少年と父との静かな再会。送られる子熊の目に宿る炎。そして少年が見上げる先の樹冠に止まったコタンコロカムイの姿。印象に残る様々なシーン。実写なのだろうか? CGなのだろうか? 本物なのだろうか? 作り物なのだろうか? 
 どちらでも構いはしない。記憶が伝承され、継承される。そのことにかけたおもいは〈真実〉としてこの映画に刻まれた。 

KC3S0011

 あの時、ヒグマ対策会議で検討された子熊は結局、殺処分された。現場に立ち会った。子別れして間もない子熊であった。その夜、ハンターの仲間からその熊の肉を食べないかと電話があった。ボクは即座に断った。今思えばボクはその子熊の肉をいただいてその命を体感すべきであったと思う。

 後日、お世話になっていたアイヌの古老が語りかけてきた。
「あんな小さな子熊を殺すなんて。かわいそうに。カムイノミしておいたから」。

 ボクは少し心が軽くなった。

 今の時代に羆のイオマンテをすることの必然性はない。人間が生きていく上で必要な殺生の現場から遠く離れた現代社会。しかしその現場は確かにこの世に存在していたし、今もし続けている。その命に向き合い、持続可能な社会への恩恵を願うおもいを儀式にこめ、人と自然の折り合いをつけてきた先人たちの確かな生の記憶は、どこかに留めておきたい。

 「アイヌモシリ」はその役割を託された映画になった。

 ボクにとって素敵な映画とは端的に言えば〈信じられる映画〉である。そこに込められた〈心と技〉。第三の故郷の記憶が確かに刻まれた「アイヌモシリ」はボクの宝物(イコロ)にもなった。

第7話「トラベルはトラブル」(私たちの旅スタイル全7話)

ローマの地下鉄でスリに会う。混んでいる時は要注意。

 重大なトラブルで旅行自体に影響が及ぶような経験はないが、小さなトラブルはちょくちょく出現。これに焦らず、慌てず、冷静に対処するのが旅の醍醐味。田部井淳子さんと登山した時、緊急時には、「とにかくパニくらないことが一番」とおっしゃていた。この言葉を胸に刻んで、といつもおもってはいるが現実がなかなか。私たちのトラブル事例及び防止策をご参照下さい。

1)2時間前にはスタンバイ

団体旅行の集合時刻は海外ツアーは出発2時間前が一般的なようだが、個人旅行も同じモードが必要。幸いなことにこれまで乗り継ぎ遅れや出発遅延などのトラブルには巻き込まれてこなかったが、今回のローマからの帰国では、空港への鉄道切符を自販機で購入していたら、英語でよく判らないのにアフリカ系の兄さんが近くでいろいろ口を挟む(後で考えるとアドバイスだったかも)ので、エイヤーと購入したら、違うチケットを購入してしまい、結局駅の窓口で払い戻しと再購入手続きで小1時間。どこに落とし穴があるか、わからない。

 当舎は釧路在住なので、新千歳経由で英国に行ったときは、朝(というより深夜)2時に自家用車で自宅出発。4時間ほどで新千歳空港着、8時台の仁川行きに乗り、仁川で乗継。ヒースロー空港着後、マンチェスター行き国内エアに乗継、到着は同日(時差8時間)深夜。この間、ほぼ時間通りに行けたことの方が幸運というべきか。ちなみに、想像をこえていたのは、ヒースロー空港の国際便から国内便の乗換えでターミナルビル移動が別の空港に行くのか、とおもうほどの遠隔地。さらには国内線のセキュリティチェックがえらく厳重。まあ、時間に余裕があったので焦りはなかったが、とにかく移動の時間設定はゆとりが第一である。

 友人の姉妹が出発便の遅延で乗り継ぎ便に遅れたことを妹さんがフェイスブックにアップ。お姉さんの名前はエミさん。『エミ、レイトしました』。この時のエアはエミレイツ航空。緊急時にもこんなユーモアを持ち合わせたい。

列車の切符を間違って買って、あわや乗り遅れ!間一髪

 2)特殊詐欺について

私たちの旅行目的の一つが西洋絵画鑑賞である。数年前からはまったのだが、当舎はだいたい連れの趣味が私に感染して、重篤化するのが常で、登山しかり、自然観察しかり。美術もこのパターンだが最初のイタリア旅行(ベネチア、フィレンツェ、ローマ)でのルネサンス体験と大橋巨泉の美術関連著作が引き金となって、その後の旅行では重要なテーマとなっている。

 美術館や教会などをチェックして見たい作品をリストアップするのだが、これに落とし穴があった。ルーブルやオルセーなどの有名な美術館の名画をふんだんに見まくるぞ、という決意で出向くと、なんと必ずしも全部見れるわけではなく、貸出中や補修のため部屋が閉鎖されていたりと正に出鼻をくじかれ体験。なかには貸出先が東京日本となっているものも、「こちとら東京から来たんだぞ! 」と叫びたい心境。まあ、海外での美術鑑賞では常識的なことのようで、事前の美術館サイトへのリサーチが必要と痛感。

 私がおっかけている作家のひとりがブリューゲル。オランダ出身のブリューゲルの作品を追って、フランス(パリ)、ベルギー、オランダと旅をした。訪問地の美術館に数点の作品が点在しているため、その作品観賞がとりあえず訪問の最大目的。ベルギーのアントワープという古都にマイエル・ヴァン・デン・ベルグ美術館という小さな市立美術館がある。ここに『狂女フリート』という傑作がある。この絵を楽しみにルンルン小走りで訪れたところ、出張不在とのこと。「何にぃい!! 」と受付で叫ぶ(ところiだった)。この美術館のエースで4番が違うチームにレンタル中とは…。やっと気を取り直して、オランダのロッテルダムに移動。ここのボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館にはかの有名な『バベルの塔』がある。早足で美術館に入り入館前に確認すると、こちらもベルリンだか、どこだかに出張中。「ざけんなよ! 」と呟くも、もはや戦意喪失。

ボイマンス・ファン・ヘーニンゲン美術館エントランスオブジェに慰められる

 予兆は、ベルギー最初の訪問地であったブリュッセルの王立美術館にあった。ブリューゲルには息子二人や孫、親類にも画家がいてブリューゲル一族ともいえる芸術家の一家なので、いろいろな美術館にブリューゲル(一族のだれかが)の描いた絵が沢山ある。ここにはブリューゲル作品をあつめた部屋があって私は『鳥罠のある風景』という作品がお目当てだったのだが、貸出中。替わりにブリューゲル長男(この人は親父の模写が得意だった)の模写が飾られていた。

 受付や学芸員、ミュージアムショップの店員に「わざわざ(ここ強調)日本から来たのに残念だ」との意向を伝えると、済まなそうに謝るタイプとだからどうしたタイプがいる。おもわず「詐欺だ!」と叫びたい心境だが、現場にいると館職員の人件費や美術館の維持管理費などを稼ぐために美術館も大変なんだと妙に納得。

出張中だったブリューゲル『鳥罠のある風景』
ブリューゲルの長男作『鳥罠のある風景』ちょっと違う。親父のコピーが得意。
教会でカラバッジョの名作とパチリ。入館無料。
出張中だったブリューゲル『狂女フレート』。どこに行った!
マネの名作『フォリー・ベルジェールのバー』と記念写真。日本の展覧会ではこうはいかない。

 美術鑑賞趣味で、かつブリューゲルのおっかけという特殊性もあるが、この手の詐欺(見方を変えれば常識)には気をつけたい。

街角でピカソに会うかも…(バルセロナ)

 以上。楽しい旅を!

釧路湿原、阿寒・摩周の2つの国立公園をメインに、自然の恵が命にもたらす恩恵を体感し、自然環境における連鎖や共生の姿を動植物の営みをとおしてご案内します。また、アイヌや先人たちの知恵や暮らしに学びながら、私たちのライフスタイルや人生観、自然観を見つめ直す機会を提供することをガイド理念としています。