第一巻 蝦夷地探訪の先駆者たちが行き交う〈西と東蝦夷地を結ぶ道〉~直別から白糠・庶路へ
▶探訪ツアーに戻ろう。海岸線から釧路の方向に向かって古の旅人を思いながら散策した。海岸線に並行して川が流れており、その川を渡り、浜に出ることが難しかったので、その内側のヨシの繁茂した自然堤防を歩いた。このように川がストレートに海に流れ出ることができず、狭い海岸砂丘の後ろを流れ、大きな川の河口に合流する地形がある。
アイヌ語にコイ・トゥイェ(波が・破る)という地名がある。海の波が荒い時に砂丘を破って川に流れ込むところから由来しているとのこと。道東にも野付半島の付け根と白糠の海岸線にこの名前が残っている。特に白糠の海岸線の「恋問」には現在、人気の〝道の駅〟があり、コイトイ川も河口で庶路川に合流している。
恋問というあて字は、恋人同士が海岸を散策する様を連想させて悪くないが、この由来を聞いたらちょっとがっかりするかもしれない。
稚内のコイトイは声問とあて字され、苫小牧には小糸井という地名があるそうだ。いずれも同じ由来。
▶松浦武四郎は1841年の1回目、1856年の4回目、そして1858年の6回目、都合3度にわたってこの海岸線を歩いている。1回目と4回目には尺別の通行屋に宿泊している。
音別市街地から国道38号を西に2キロほど行くと左手に火葬場の看板があって、細い脇道がついている。ここを百メートルほど上り、火葬場の駐車場に車を止め、丘の頂を目指して5分ほど歩くと音別八景の一つ「尺別の丘」(標高50m)に着く。太平洋の雄大で地球が丸いことを実感させる水平線を眺めながら、海岸線の景色と絵図に描かれた通行屋のあった処を照らし合わせる。
武四郎の最初の蝦夷地探訪記録である『蝦夷日誌』には…
「此所広々たり場所南向海に沈み北の方岡山樹木なし、海浜惣じて玫璁尾鼠萩井に柳葉菜花蘆荻にて多し、其余目に見なされる草多し……夷人〔アイヌのこと〕小屋七八軒あり。シヤクヘツ訳して夏川と云り、シヤクは夏也、ベツは川なり」と記している。
▶渋江長伯一行の調査に同行した絵師・谷元旦の『蝦夷奇勝図巻』に描かれたシヤクベツには、海岸沿いの小山の陰に通行屋と数件の小屋、丘に登る山道が描かれている。
この絵と照合するため、松浦武四郎の4回目の探訪記録である『竹四郎廻浦日記』〔竹四郎は武四郎の別名〕から音別と尺別の記述を抜き出してみたい。この時の探訪ルートは道北から網走、斜里を経由し、根室を周って箱館に戻る帰路にあたる。手前の音別からの部分を抽出すると…
ヲンヘツ
川有幅二十余間〔一間は約1・8m〕船渡し、川向近年迄土人〔アイヌのこと〕小屋四軒有、当時二軒シヤクヘツより出張す、此川鮭、鱒、鯇〔アメマスのこと〕、桃花魚、チライ〔イトウのこと〕等多し、越て崖の下に出廻りて川有幅七八間遅流形也、此辺の川何れも波浪有る時は川尻さまざまと切口変ずるが故に甚危し、何も此場所船渡し守ちんせん一ケ月銭六百文の由也
シヤクヘツ
番屋立継通行屋一棟(二十四坪)制札〔禁制、掟などを書いた掲示板〕、板蔵、厩、茅蔵二棟、上に稲荷社有前平地にして谷地多し、其傍に夷人小屋九軒……引越さし有る也、其傍に野菜もの少々作て有り、前に標柱 白ヌカ〔白糠のこと〕よりチユクヘツへ十三丁〔一丁は約109m〕有。
▶この記録は1856年の探訪時なので、谷元旦の絵図や『陸地道中絵図』からは50年ほど後になるが、記録と照らし合わせるとアイヌの住居と稲荷社が増えている。アイヌの住居が9軒なので結構なコタンが形成され、小規模な農耕の様子も伺える。文中の「引越さし有る也」はよそから移って(移らされて)きたとのこと。尺別が労働力として人を必要としていたことか。
目の前に開かれた景色と角度は違うが、絵図と武四郎の文章を照らし合わせながら、しばし江戸時代の情景をオーバーラップさせた。
▶音別はオムペッ(川尻が・塞がる・川)という説とオンペッ(腐・川)、木の皮を水に浸し腐らすという説があるようだが、前者の説を裏づけるような音別川の河口の砂地で塞がったようすが尺別の丘から見れる。
尺別川はなぜ夏の川なのか? アイヌ語に詳しい仲間が夏になると水が乾く(サッ)と同音に近い夏(シヤク)又は無い(シヤク)が由来のもとになっている話をした。
ちなみに直別川は秋の川で、アイヌたちは秋にこの川に来て魚を獲り、食したことを示す、という解説もあるが、道内各地にある同名が何故秋なのかの意味は不明だそうだ。榊原さんもこの川を鮭やシシャモが揚がる秋の光景を見て育ったそうだ。
シシャモはアイヌ語のススハム(柳の葉)が転訛したもので、今でも「柳葉魚」と表記され市場に出されたり、商品名に使われている。世界でも北海道太平洋沿岸を唯一の母川としているので、この沿岸はシシャモの産地である。
尺別の丘からは西にトカチ境の直別川、そして東の方向には白糠そして釧路の街並みも遠望できる。この海岸線沿いが蝦夷地の西と東を結ぶ黎明期の道であったことを実感する。
先人達が行き来した様に思いを馳せた。(終)