「千里の道も一歩から」(どんなに大きな事業でも、まず手近なところから着実に努力を重ねていけば成功する)という老子の格言はあまりにも有名である。 千里といえば、一里が約4キロとして、4千キロ。地球一周の10分の1。
この格言にもっとも馴染むのは、幕末、日本国中を歩き、我が国の輪郭を地図化した伊能忠敬の業績であろう。伊能は、最初の蝦夷地測量の頃は歩測で距離を測った。研究者によれば、一歩が約66から69センチになるとのこと。名実ともに一歩一歩積み重ね、大きな功績を跡したことになる。
釧路の地名研究会が主催した伊能の足跡を訪ねるバスツアーに参加したことがある。難解地名で有名な北太平洋シーサイドラインを釧路から西別まで、伊能が1800年、初めての測量で歩測し私たちの郷土の輪郭をトレースした足跡をたどり、労苦の一端をしのぶことができた。 伊能は江戸への物資供給地であった佐原(現、千葉県香取市)の商人として事業を成した後、56歳から夢である全国測量に踏み出し、17年をかけた全国測量の集大成『大日本沿海輿地全図』を1816年に完成し、日本の国土の姿を正確に示した。 伊能が人生の歩みを終えた1818年に、松浦武四郎は誕生する。武四郎の蝦夷地探検は1845年から58年の足かけ13年を要した。その成果のひとつは地図として『東西蝦夷地山川地理取調図』(1859年)としてまとめられた。この時の武四郎も、伊能同様、懐中羅針盤以外の測量道具を持たず、距離は歩測で測った、とされている。また、この地図の輪郭は伊能忠敬・間宮林蔵が実測したもので、武四郎は先人の偉業をふまえ、それをもとに蝦夷地の内陸部へ歩をすすめ、山地・湖沼・河川・交通路と一万に近い地名を記録し地図化する。伊能は身長160センチほど、武四郎はさらに小柄で150センチなかったといわれているので、一歩の歩幅はどのくらいだったのであろう。
阿寒で一歩と言えば前田一歩園である。創設者前田正名も歩く人であった。明治新政府で農商務次官として活躍した正名は、政策方針を巡って政府中枢と対立し、40代以降は下野し、民間人として、産業団体を組織化する必要性を訴え、全国を歩きまわる。その行動は「前田行脚(あんぎゃ)」と言われ、正名の功績は後に彼をして、<日本産業振興の祖>といわれるまでになった。正名が関わった全国組織の産業団体は実に十数団体に及ぶ。 伊能や武四郎の一歩は測量や地図化につながる実利的な一歩であったが、正名の一歩は日本の産業振興という悲願へむけて道筋をつける一歩であった。身の丈、五尺(150センチメートルほど)の行脚は明治25年(1892)からはじまった。そろそろ交通機関も整備されてきた時期ではあったにせよ主は人馬の世界であったであろう。この時期から没する1921年まで、およそ30年にわたり全国をくまなく訪ね、生涯現役を貫き、産業振興を説き、自らも先駆的な事業を興したエネルギーは超人的ともいえるものであった。
阿寒前田一歩園は正名が明治39年に阿寒湖周辺の山林五千ヘクタールの払い下げを受け、開発事業に着手するにともない設立された。社名は、正名の座右の銘「物ごと万事に一歩が大切」から命名されたが、これは武者小路実篤の「如何なる時にも自分は思う もう一歩、今が大事な時だ もう一歩」という言葉に共鳴して名づけたものとのこと。前田一歩園記念館には、実篤の直筆の色紙もある。
一歩園は、創設者の正名から二代目正次(次男)、三代目光子(二代目の妻)と私有財産として受け継げられてきたが、昭和28年に財団法人化され、現在に至る。 前田家には家訓があって、そのイズムを最も伝えているのは「前田家の財産はすべて公共の財産となす」である。この精神は前田家三代を超えて、財団設立主旨へ、まさに私から公へ引継がれている。
正名は日本産業界の振興を訴えつつ、晩年の阿寒開発の夢として、「阿寒の山は伐る山ではなく観る山だ」と自然保護への転換を二代目の正次に託した。その精神を継承し財団は現在、「復元の森づくり」と称して、阿寒の森がもっとも原生に近い3百年前の森林に復元する事業を進めている。現理事長の前田三郎氏は財団設立30周年で「財団永続にむけての道すじをつけたい」と語った。まさに、世代を超えて一歩園精神は継承されている。
近年、北太平洋シーサイドラインには、釧路町、厚岸町、そして、厚床、落石、初田牛などに散策の道<フットパス>が整備されている。釧路から阿寒湖畔へは、阿寒クラシックトレイルとして武四郎や正名が歩いた古道をたどることができる。 日頃、万歩計で何歩歩いたとか、ダイエットや健康維持など目先の幸福に一歩を託している我が身も慈しみながら、先人達の壮大な夢につながる一歩の重さを体感し、故郷の古道を歩くのもいいではないか。 時代をつなぐ「一歩の系譜」とでも言うべき風土に刻まれた道は、未来につながる道である。「伝統とは形を継承することを言わず、その魂を、その精神を継承することを言う」(嘉納治五郎) 世界を見渡す鳥の目と足元の一歩を大切にした虫の目をもつ小さな巨人たちの生き方に学び、私たちも「一歩の系譜」に足跡を印したいものだ。
普段立ち入ることの出来ない前田一歩園の森林を散策し、地元食材のグルメランチを味わえ、その抜群のコストパフォーマンスで話題の「第5回阿寒ハイキング」に参加しました。
樹齢八百年のカツラの巨樹が鎮座する「光の森」をフィトンチッドのシャワーを浴びながら散策すること2時間。スキー場の阿寒湖畔展望台から雄阿寒岳と阿寒湖を拝み、お目当てのグルメランチへ。内容は写真を確認いただき。この日のメニューを以下に。
このイベントは阿寒商工会青年部阿寒湖畔支部の若手メンバーが地元の魅力にこだわって企画したもの。
メンバーは自然ガイド、レストランやお菓子屋さんの本職から地域を支える若手有志がおしみなく阿寒へのおもいをぶつけたイベントとなっています。
私は5回目にして初参加となりましたが、噂に違わぬグルメのオンパレート。さらには、ハイキングで集めたトドマツの若葉からアロマオイルを抽出するコーナーやお土産に阿寒のシナノキで栽培した蜂蜜をつかった特製クッキーや新作マリモ羊羹などが付く、超豪華版でした。
もちろん損得度外視なんでしょうが、参加者に皆さんも何か地元に還元したいとおもった筈なので、そこらへんのスキも見せてくださいね。来年も期待してます。
・ウチダザリガニのミネストローネ・エゾシカのカレー・エゾシカのハンバーク・スジエビとコゴミの天ぷら・ニジマスのちゃんちゃん焼き・ワカサギの天ぷら・ヨモギ入りスコーン・コイのザンギ・ギョウジャニンニク入りパスタ
山菜は大好きですが、採って処理して料理して、となるとなかなか口に届くまでは大変です。その点、フキとコゴミは優等生。まず、何処にでも沢山あるので採るのが容易、灰汁抜きなどの手間がいらない、美味しい!と三拍子揃ってます。
北海道のフキは大きい。特に道東は染色体の数が違うので大型化しているとの話もあります。赤フキや青フキとかいって、茎(正確には葉柄といわれる葉の根元部分)の緑色のものが良いので、河岸や水気の多いところにあるものを探します。
コゴミ(正式にはクサソテツ)は気がつくと葉が伸びきったのが、林のなかに溢れていて、「もっと早く採ればよかった」と後悔します。5月の雪解けでエゾエンゴサクなどが咲き始めた頃に芽吹いて茎の短いものがいいようです。
いずれも、煮てよし、炒めてよし、様々な食べ方がありますが、今回はフキを使って洋菓子のアンジェリカを作りました。砂糖で煮込んだ甘いお菓子ですが、今年は行動食で使ってみようと思ってます。どんな反応があるのか、楽しみです。
今年は例年になく雪が多かった阿寒ですが、6月に入って山はどんな感じでしょう。6月7日に行われる「阿寒ハイキング&バイキング」の下見に阿寒の森を歩いてきました。やはり多雪の影響か、森の中やスキー場などでは早春を飾るヒメイチゲなどがやっと開花、新緑の草花が木漏れ日を浴びて春を満喫しているようでした。釧路への帰路に例年、ショウドウツバメのコロニーが出来る土手に寄って見ると今年もやってきていました。ここは土砂採取場なんですが、いつもショウドウツバメの繁殖期間は採取をしていないようで、所有者の善意なんでしょうか。ともわれ、今年も無事、子育てができることを祈るばかりです。
私が所属している「NPO法人釧路やちの会」の社会貢献事業として、5/24に釧路湿原キラコタン岬の外来植物オオアワダチソウ駆除をおこないました。市民百名が参加、1時間30分にわたってオオアワダチソウの若葉を根から駆除したのですが、これがなかなか大変。根がライナーという地中で横に張っていて根こそぎ取るのはちょっと掘り返さなくてはなりません。キラコタン岬は先端が文化財指定地区なのですが、区域内にも外来植物は入り込んでいるようで、駆除作業は生態系維持のためにも欠かせません。
釧路湿原、阿寒・摩周の2つの国立公園をメインに、自然の恵が命にもたらす恩恵を体感し、自然環境における連鎖や共生の姿を動植物の営みをとおしてご案内します。また、アイヌや先人たちの知恵や暮らしに学びながら、私たちのライフスタイルや人生観、自然観を見つめ直す機会を提供することをガイド理念としています。