「『松浦武四郎と行く~新・道東紀行』」カテゴリーアーカイブ

〈第二巻〉②歩く文化を楽しみながら

【第二巻】 阿寒町から阿寒湖畔へ
松浦武四郎の歩いた道〈阿寒クラシックトレイル〉

国道240号(まりも国道)のイタルイカオマナイ沢からは北電の送電線ルートが一番武四郎ルートに近い(「山湖の道」)。扉写真は旧上飽別小学校を借りて行った宿泊イベントでカピウ&アパッポの焚火を囲んだコンサート。

▶武四郎足跡研究会ではなく、「阿寒クラシックトレイル研究会」としたのには意味があった。たしかにきっかけは武四郎で、ベースの情報も武四郎の探査がメインではあったが、調べていくうちに、武四郎も幕府が19世紀初頭に北方警備のため切り拓いた「網走山道」の実態調査が探査の目的の一つであり、その道は、アイヌが湖畔を狩場として使うにあたっての道でもあり、さらに遡れば獣道でもあったところだった。
時代を現代に戻せば「里の道」などは雄別鉄道路線跡。さらには国道240号マリモ国道そのものが武四郎の歩いた道にほぼ沿ってつくられているなど、時代の層が幾層にも重なった道であることを知った。これぞクラシック!

旧雄別鉄道跡は現在、市道で国の近代産業遺産に登録されたルート。ホルンナイという岩穴のある処で、ここに伝わるアイヌの小人伝説を解説。(「里の道」)


▶研究会のメンバーは湖畔在住の自然ガイドやアイヌコタンでアイヌ料理を営むもの、前田一歩園財団、ホテル従業員など、30~40代のこれからの阿寒観光を担う世代。新しい観光文化としての〈歩く観光〉を意識した商品開発も目標の一つと位置づけた。
まさに古きを訪ね、新しきを知る、「温故知新」をポリシーにした。
阿寒湖温泉は北海道を代表する温泉観光地の一つだが、これまでのイメージが固定化し、なかなか新しいイメージを打ち出しにくいのが現状だ。豊かな自然を活かしたアウトドア基地阿寒を目指して、この研究会の活動が少しでも観光振興につながるように様々な試みをした。
3つのルートの日帰りイベントを基本に、昔、コタンがあった飽別では旧小学校を借りて宿泊イベントを行った。阿寒湖アイヌコタンの古老に昔のコタンのお話をしていただき、アイヌの伝統音楽を継承する「カピウ&アパッポ」のコンサートも焚火を囲みながら行った。

会の重鎮で長く前田一歩園の森づくりに携わってきた西田さんから「復元の森づくり」についてお話を伺う。間伐した樹木が放つ香りに包まれたひととき。


▶近年、フットパスやロングトレイルが各地で生まれてきている。道東でも、厚床をはじめとする根室地方のフットパスや北根室ランチウェイのロングトレイルなど魅力的な歩く場所が生まれているが、我々はその原点を「はじめにルありき」と表現した。つまり、アイヌ語で〈ル〉、人や獣が踏み分けた道が原点にあるということだ。北海道の歩く道は、アイヌ地名に呼応する豊かな自然の多様性に溢れているとともに、開拓の歴史を風土に刻んだところが特徴だ。時代に則した新しい活用方策を考えていきたいと思った。(続く)

「山湖の道」の峠越えの道はルベシベと日誌に記され、その頂上部は標高620mのルチシ(峠)だ。阿寒湖の湖面が遠望でき、ゴールは近い。
武四郎にならってカヌーで湖上めぐり。気分は最高!

〈第二巻〉①武四郎との衝撃の出会い

【第二巻】 阿寒町から阿寒湖畔へ
松浦武四郎の歩いた道〈阿寒クラシックトレイル〉

松浦武四郎、60歳時(松浦武四郎記念館提供)

▶昔から武四郎に興味が有ったわけではない。平成21年、勤務地の異動で阿寒湖温泉に赴任した時、ホテル鶴雅の語り部をされていた千家さんと武四郎のお話をさせていただいた。話しているうちに、「武四郎が釧路に来た時、布伏内でとまった処はオレの孫爺さんのところだ」というボクにとっては衝撃の告白が出て、歴史のなかの人物が、今の時代にもつながっているのを実感した。釧路や阿寒、弟子屈のガイド仲間や研究者に声がけして、千家さんに武四郎ゆかりの場所をご案内していただき、1泊2日の学習会を開いた。このあたりが深みにはまる1合目といったところだったろうか。
学習会の資料集めをした。そのなかに『幕末の探検家松浦武四郎と一畳敷』(ⅠNAⅩ出版)という本があって、武四郎は晩年、ゆかりの寺社仏閣の部材を集めて一畳の書斎をつくったことが紹介されていた。このセンスに大いに刺激された。
人間の活動を起承転結にたとえれば、ボクはちょうど〈転〉から〈結〉に向かう時期だ。人生の〈結〉をどう迎えるかに興味があった。また、齢を重ね、〈われわれは何処からきて、何者で、どこに行くのか〉という命題にも整理をつけた晩年をむかえたいとおもっていた。

▶武四郎の釧路の足跡を整理するため『久摺日誌』の現代語訳と『東西蝦夷山川地理取調日誌第8巻 東部安加武留宇知之誌』(秋葉実解読)を教科書に足跡をたどることにした。
これにさまざまな関連書籍やインターネット情報、そして千家さんやガイド仲間たちの情報をまとめ、フィールドで検証した。『久摺日誌』はこの地を最初に紹介した観光ガイドブックという意味で周知であったが、戊午日誌や『東西蝦夷山川地理取調図』という地図など、まさに足跡をたどる必携図書に出会い、この後、ガイド仲間と実際にフィールドを歩くということにつながって行った。
阿寒の仲間を中心に阿寒クラシックトレイル研究会を立ち上げ、実際に阿寒町から阿寒湖温泉までのルートを歩くイベントを開催した。全長約60㎞ですべてを一気に歩けるのは武四郎くらいなので、このルートを3つに分割し、阿寒町から上徹別までを「里の道」、上徹別からイタルイカオマナイまでを「川の道」、イタルイカオマナイから阿寒湖畔までを「山湖の道」として、ロケーションにあわせたネーミングで歩くイベントを開催した。

阿寒クラシックトレイル60kmの全行程図(電子地形図25000(国土地理院)をクスリ凸凹旅行舎が加工して作成)

歩く文化を楽しみながら伝えるために
▶武四郎足跡研究会ではなく、「阿寒クラシックトレイル研究会」としたのには意味があった。たしかにきっかけは武四郎で、ベースの情報も武四郎の探査がメインではあったが、調べていくうちに、武四郎も幕府が19世紀初頭に北方警備のため切り拓いた「網走山道」の実態調査が探査の目的の一つであり、その道は、アイヌが湖畔を狩場として使うにあたっての道でもあり、さらに遡れば獣道でもあったところだった。
時代を現代に戻せば「里の道」などは雄別鉄道路線跡。さらには国道240号マリモ国道そのものが武四郎の歩いた道にほぼ沿ってつくられているなど、時代の層が幾層にも重なった道であることを知った。これぞクラシック!
研究会のメンバーは湖畔在住の自然ガイドやアイヌコタンでアイヌ料理を営むもの、前田一歩園財団、ホテル従業員など、30~40代のこれからの阿寒観光を担う世代。新しい観光文化としての〈歩く観光〉を意識した商品開発も目標の一つと位置づけた。
まさに古きを訪ね、新しきを知る、「温故知新」をポリシーにした。

▶阿寒湖温泉は北海道を代表する温泉観光地の一つだが、これまでのイメージが固定化し、なかなか新しいイメージを打ち出しにくいのが現状だ。豊かな自然を活かしたアウトドア基地阿寒を目指して、この研究会の活動が少しでも観光振興につながるように様々な試みをした。
3つのルートの日帰りイベントを基本に、昔、コタンがあった飽別では旧小学校を借りて宿泊イベントを行った。阿寒湖アイヌコタンの古老に昔のコタンのお話をしていただき、アイヌの伝統音楽を継承する「カピウ&アパッポ」のコンサートも焚火を囲みながら行った。
近年、フットパスやロングトレイルが各地で生まれてきている。道東でも、厚床をはじめとする根室地方のフットパスや北根室ランチウェイのロングトレイルなど魅力的な歩く場所が生まれているが、我々はその原点を「はじめにルありき」と表現した。つまり、アイヌ語で〈ル〉、人や獣が踏み分けた道が原点にあるということだ。北海道の歩く道は、アイヌ地名に呼応する豊かな自然の多様性に溢れているとともに、開拓の歴史を風土に刻んだところが特徴だ。時代に則した新しい活用方策を考えていきたいと思った。(続)

樹齢約5百年のミズナラがある巨樹の道(山湖の道)
雄阿寒岳と阿寒湖を見下ろす絶景の展望地で昼食(山湖の道)
紅葉の阿寒川を遡上します(川の道)

〈第一巻〉③古の旅人におもいを馳せて

第一巻        蝦夷地探訪の先駆者たちが行き交う〈西と東蝦夷地を結ぶ道〉~直別から白糠・庶路へ

「尺別の丘」から音別・白糠・釧路をのぞむ。表紙絵図は目賀田守蔭による白糠の図(『北海道歴検図』1870)北海道大学北方資料データベース

▶探訪ツアーに戻ろう。海岸線から釧路の方向に向かって古の旅人を思いながら散策した。海岸線に並行して川が流れており、その川を渡り、浜に出ることが難しかったので、その内側のヨシの繁茂した自然堤防を歩いた。このように川がストレートに海に流れ出ることができず、狭い海岸砂丘の後ろを流れ、大きな川の河口に合流する地形がある。
アイヌ語にコイ・トゥイェ(波が・破る)という地名がある。海の波が荒い時に砂丘を破って川に流れ込むところから由来しているとのこと。道東にも野付半島の付け根と白糠の海岸線にこの名前が残っている。特に白糠の海岸線の「恋問」には現在、人気の〝道の駅〟があり、コイトイ川も河口で庶路川に合流している。
恋問というあて字は、恋人同士が海岸を散策する様を連想させて悪くないが、この由来を聞いたらちょっとがっかりするかもしれない。
稚内のコイトイは声問とあて字され、苫小牧には小糸井という地名があるそうだ。いずれも同じ由来。

海岸沿いに平行してキナシベツ川が奥の直別川の河口に合流する

▶松浦武四郎は1841年の1回目、1856年の4回目、そして1858年の6回目、都合3度にわたってこの海岸線を歩いている。1回目と4回目には尺別の通行屋に宿泊している。
音別市街地から国道38号を西に2キロほど行くと左手に火葬場の看板があって、細い脇道がついている。ここを百メートルほど上り、火葬場の駐車場に車を止め、丘の頂を目指して5分ほど歩くと音別八景の一つ「尺別の丘」(標高50m)に着く。太平洋の雄大で地球が丸いことを実感させる水平線を眺めながら、海岸線の景色と絵図に描かれた通行屋のあった処を照らし合わせる。
武四郎の最初の蝦夷地探訪記録である『蝦夷日誌』には…
「此所広々たり場所南向海に沈み北の方岡山樹木なし、海浜惣じて玫璁尾鼠萩井に柳葉菜花蘆荻にて多し、其余目に見なされる草多し……夷人〔アイヌのこと〕小屋七八軒あり。シヤクヘツ訳して夏川と云り、シヤクは夏也、ベツは川なり」と記している。

「尺別の丘」から白糠方面を望む。奥に釧路の街並みも見える。手前の沼のような河口形状が音別川

▶渋江長伯一行の調査に同行した絵師・谷元旦の『蝦夷奇勝図巻』に描かれたシヤクベツには、海岸沿いの小山の陰に通行屋と数件の小屋、丘に登る山道が描かれている。
この絵と照合するため、松浦武四郎の4回目の探訪記録である『竹四郎廻浦日記』〔竹四郎は武四郎の別名〕から音別と尺別の記述を抜き出してみたい。この時の探訪ルートは道北から網走、斜里を経由し、根室を周って箱館に戻る帰路にあたる。手前の音別からの部分を抽出すると…
ヲンヘツ
川有幅二十余間〔一間は約1・8m〕船渡し、川向近年迄土人〔アイヌのこと〕小屋四軒有、当時二軒シヤクヘツより出張す、此川鮭、鱒、鯇〔アメマスのこと〕、桃花魚、チライ〔イトウのこと〕等多し、越て崖の下に出廻りて川有幅七八間遅流形也、此辺の川何れも波浪有る時は川尻さまざまと切口変ずるが故に甚危し、何も此場所船渡し守ちんせん一ケ月銭六百文の由也

シヤクヘツ
番屋立継通行屋一棟(二十四坪)制札〔禁制、掟などを書いた掲示板〕、板蔵、厩、茅蔵二棟、上に稲荷社有前平地にして谷地多し、其傍に夷人小屋九軒……引越さし有る也、其傍に野菜もの少々作て有り、前に標柱 白ヌカ〔白糠のこと〕よりチユクヘツへ十三丁〔一丁は約109m〕有。

谷元旦の描いた尺別(『蝦夷奇勝図巻』1799)引用:「釧路の近世絵図集成(釧路叢書)」より
シャクベツ番屋の図(楢山隆福著『東蝦夷地与里国後へ陸中道中絵図』1810)函館市中央図書館蔵

▶この記録は1856年の探訪時なので、谷元旦の絵図や『陸地道中絵図』からは50年ほど後になるが、記録と照らし合わせるとアイヌの住居と稲荷社が増えている。アイヌの住居が9軒なので結構なコタンが形成され、小規模な農耕の様子も伺える。文中の「引越さし有る也」はよそから移って(移らされて)きたとのこと。尺別が労働力として人を必要としていたことか。
目の前に開かれた景色と角度は違うが、絵図と武四郎の文章を照らし合わせながら、しばし江戸時代の情景をオーバーラップさせた。
▶音別はオムペッ(川尻が・塞がる・川)という説とオンペッ(腐・川)、木の皮を水に浸し腐らすという説があるようだが、前者の説を裏づけるような音別川の河口の砂地で塞がったようすが尺別の丘から見れる。
尺別川はなぜ夏の川なのか? アイヌ語に詳しい仲間が夏になると水が乾く(サッ)と同音に近い夏(シヤク)又は無い(シヤク)が由来のもとになっている話をした。
ちなみに直別川は秋の川で、アイヌたちは秋にこの川に来て魚を獲り、食したことを示す、という解説もあるが、道内各地にある同名が何故秋なのかの意味は不明だそうだ。榊原さんもこの川を鮭やシシャモが揚がる秋の光景を見て育ったそうだ。
シシャモはアイヌ語のススハム(柳の葉)が転訛したもので、今でも「柳葉魚」と表記され市場に出されたり、商品名に使われている。世界でも北海道太平洋沿岸を唯一の母川としているので、この沿岸はシシャモの産地である。
尺別の丘からは西にトカチ境の直別川、そして東の方向には白糠そして釧路の街並みも遠望できる。この海岸線沿いが蝦夷地の西と東を結ぶ黎明期の道であったことを実感する。
先人達が行き来した様に思いを馳せた。(終)

シラヌカの図(『東蝦夷図巻』仙台藩関係者1857)白糠は道内で最初に採炭された石炭岬がある。図中にも「岡ノ中腹石炭多シ当巳年ヨリ」採炭するようになったと記される。北海道大学北方資料データーベース
ツアーの行ったところ案内図(電子地形図25000(国土地理院)をクスリ凸凹旅行舎が加工して作成)

〈第一巻〉②斜里山道と網走山道 

八王子千人同心の中心人物である原半左衛門の碑が建つ白糠厳島神社

第一巻        蝦夷地探訪の先駆者たちが行き交う〈西と東蝦夷地を結ぶ道〉~直別から白糠・庶路へ

▶北方防衛策で幕府は、津軽、南部両藩に蝦夷地の警備を命ずるが、なかなか警備体制は進まなかった。
そんななか、1800年(寛政12)には八王子千人同心が出願した〈蝦夷地の開拓と警備にあたりたい〉との申し出を幕府は許可し、勇払と白糠にそれぞれ50名ずつやって来る。彼らは、身分は武士でありながら、農民でもある団体的農兵として、交通の要所の警備と開拓という使命にあたることになった。
▶八王子千人同心は、白糠に駐屯した翌年の1801年(享和元)から斜里山道と呼ばれる峠越えの道の開削にあたる。物資を運び、通行を確保する馬車道の造成は、大規模調査とともに進んだ。斜里山道は、釧路から舟で釧路川を標茶まで行き、虹別、ホンケネカ、ワッカヲイを経て斜里につながるルートとして拓かれる。その後、標津から標津川沿いにつながるルートが1810年に開削され、時代は下り1885年(明治14)には忠類から斜里へつながる現在の根北峠を越えるルートが新斜里山道として造成され、それ以前の斜里山道は廃止されることとなった。

斜里山道と網走山道のルート図。太平洋沿岸は19世紀初頭に一番最初に拓かれたパイオニアルートである


▶幕府は江戸から厚岸までの海上航路も1799年にひらき、海と陸の路を繋ぎ、釧路から対ロシア防衛の前線となる斜里への物資輸送ルートを拓くが、釧路川の舟運も利用したルートである斜里山道とは別に、阿寒を越え網走までの陸路の造成が行われる。
この網走山道は白糠、庶路から阿寒川沿いに阿寒湖を経て網走川沿いに北上し、網走に至るルートとして開削が進められた。開削にあたっては1804年(文化元)着工説と1806~7年にかけて開削した説、1810年に開削が終了したとの説があり、若干不明な点がある。いずれにしても斜里山道直後に着手され開削されたことになる。
この開削の中心は白糠にいた幕吏・大塚惣太郎であり、アイヌなどの使っていた路を頼りに開削していったものと思われる。斜里山道を開削した八王子千人同心は、道東の厳しい自然条件と自給自足体制不備の中、多くの犠牲者を出し解散してしまう。このため大塚惣太郎という人物は、八王子千人同心ではなく幕府の幕吏という立場で網走山道の開削作業に当たったと思われる。
▶それから約半世紀後、1858年に松浦武四郎は網走山道を通って、阿寒から網走に抜けている。
武四郎は6度蝦夷地を探訪している。そのうちの最初の3回は私的身分(水戸藩の支援も受けていたようだ)で、後半の3回は幕府雇いという身分で公務としてやってきている。1858年は6回目、最後の蝦夷地探訪だった。

武四郎が道東を訪れた4回の探訪ルート図。特に4回目と最後の6回目は内陸調査がおこなわれた。

公務であるからには業務命令がある。函館奉行村垣範正から下された特命には「蝦夷地一円山川地理取り調べ方申し渡し候へば、新道新川切闢場所、其外見込みの趣、追々取調べ申し立て候様致すべし」とある。つまり新しい道や川を切り開く場所の調査を命じられた。
武四郎の戊午日誌で、阿寒湖に向かう峠越えの起点となるイカルイカの記述に大塚惣太郎が記されている。
・イタルイカ
「イタは板也、ルイカは橋なり。昔し大塚某此処え板を以て橋を架けしによって号るとかや。今土人等、其橋は無けれども、如レ此までも下をあわれみて大塚ニシパは致し呉られしとして、木幣を通るものは削りて立行ことになり。惣て此山中大塚某を尊敬すること神のごとし」
▶ニシパはアイヌ語では尊敬される人を表すもので、大塚惣太郎が尊敬の対象になっていたことがわかる。
松浦武四郎の蝦夷地探訪においては、この網走山道、斜里山道の確認調査が随所でなされている。
イタルイカにおいても…
「此処昔し一里塚有りと云跡有」
と記されており、この一里塚が山道造成時に建てられた距離標柱であったと思われる。
▶一里塚に関しては日記の中に随所に同様の記載がされているので、武四郎の内陸調査のルートはこの山道が主要な経路になっていたことは明らかである。阿寒の仲間たちとはじめた阿寒クラシックトレイルも武四郎が探訪した網走山道がルートになっている。
これら幕府により造成された山道はとりあえず幹線道であるが、アイヌはそれ以前から峠越えの路、ルベシベと呼ばれる地名沿いに行き来する路を利用していた。路は人や獣だけが越えることのできる路もあれば、その後、切り拓かれ、山道として馬車道となり、人と物資を輸送する道になっていくものもあった。そして近代に入ると自動車が通行する道路が開発整備されていく。
地図で現在の主要幹線道路網と武四郎が辿った山道のルートを重ね合わせると道東の開発の歴史を今日も辿ることができる。(続く)

『蝦夷全図』所収「東蝦夷地クスリ場所絵図面)部分 藪内於太郎(安政5年頃・1858)著者は箱館奉行の役人 ∩印は一里塚、□印は通行屋である 北海道大学北方資料データベース

〈第一巻〉①道が拓かれて〈東蝦夷地パイオニアルート〉 

太平洋沿岸の道は東蝦夷地を探訪する探検家たちのパイオニアルート。松浦武四郎の『東西蝦夷山川地理取調図』にも点線で示されている

第一巻        蝦夷地探訪の先駆者たちが行き交う〈西と東蝦夷地を結ぶ道〉~直別から白糠・庶路へ

▶1798年(寛政10)幕府は日高の様似から釧路まで道を拓いた。
蝦夷地の支配を行ってきた松前藩の管理体制を揺るがすアイヌの蜂起が東蝦夷地で起こり、幕府は松前藩の場所請負人体制に対する不信を募らせる一方、ロシアの南下の動きもあり、ついにこの翌年から東蝦夷地を直接支配管理する体制を敷く。
このため様々な調査団が前後して東蝦夷地にやってきた。1799年には松平信濃守忠明が率いた8百余名からなる大規模な調査団が派遣され、その翌年には伊能忠敬が蝦夷地測量を行うため、この海岸線を通った。
▶幕府は道路開削にあたっては一里(4キロ)ごとの標識となる一里塚の設置と通行屋といわれる宿泊施設がおおよそ八里(32キロ)毎に設置した。いわば幕府にとっては、この道は東蝦夷地を拓くパイオニアルートとして東西を結ぶ幹線路の役割を果たすこととなった。
ボクは仲間と共に、十勝との国境である直別から白糠までの海岸線を探訪し、尺別に設置されていたとされる通行屋の跡地を探すツアーを行なった。
▶現在は白糠を中心にすると西側に直別、尺別、音別の3別。東側に茶路、庶路、釧路の3路が並ぶ海岸線沿いにルートは設定されていた。いずれも川名で、河口の地名でもあるが、3路の方はこの川沿いを遡上すると山越えの路なので、「路」をあてた意図があるのだろうか。
この頃から各種の地図や絵図が充実し、それがルート確認の手立てでもあり、それと現地を照合することがこのツアーの楽しさの一つでもある。
▶ボクたちはこの海岸線のキナシベツ湿原で保全活動を長年、熱心に取り組まれているSさんに案内をしてもらう幸運に恵まれた。Sさんは先祖が明治後期にこの地に入植され、農業や酪農を営むかたわら自然保護活動も実践。現在もこの地に住まわれている。
まず、昔も今もトカチ(十勝)とクスリ(釧路)の境となっている直別川から海岸沿いに東にに向かった。この海岸線は基本的には砂浜ではあるが処々に海岸縁まで丘陵(岬)が突き出ている箇所がある。トカチ境の直別川河口にも丘陵が突き出ていて、昔はここで渡船を使い、川を渡ったことになっている。

砂浜に突き出た丘陵(尺別海岸線)


▶古地図には一里塚の印もあった。Sさんにそのことを話すと、明治期に入ってもこの河口には駅逓所や一里塚もあったとのこと。特に一里塚については、〈自分が牧草地を広げる時、除去作業を直接行ったのでよく記憶している〉とお話しされ、スケッチも描いてくれた。ボクは武四郎一行の蝦夷地探訪の日誌にもよく出てくる一里塚の痕跡を探していたが、どこにもそんなものは見当たらず。きっと当時は木製の標柱が使われていて、もう痕跡はないのだろうと勝手に推察していた。その一里塚は石製で、円形に彫られた石盤の中央部に半球が突き出ていて、盤の周りも割石で土台が作られていたとのこと。もしこれが当時のものだったとしたら、これからもこのルート上に一里塚を発見することがあるかもしれない。
▶1798年(寛政10)の調査で、近藤重蔵と最上徳内は択捉島に領土を宣言する「大日本恵登呂府」の標柱(木柱)を建てた。ロシアの脅威が高まる中、領土を確定する意味においても蝦夷地調査の必要性が高まった。
翌年の大規模調査では、幕医であり、本草学者でもある渋江長伯を中心とした一行が東蝦夷地の植物調査に赴き、箱館から太平洋沿岸沿いに厚岸までを往復し、その間の植物調査を行なっている。植物=薬草の採集観察やアイヌ名の調査等が行われる。この一行には江戸後期の代表的な絵師・谷文晁の実弟である谷元旦も同行。植物標本や探訪の光景、アイヌの風俗などを描いている。絵師は写真前の時代では、記録係の役割を担った。(続く)

直別から庶路までの案内図
尺別のハウシュベツ川河口。ハウシュベツは炭川とも云われ、昔、寄り鯨が河口を埋めて炭色にしたアイヌの伝説が由来とも