「私家版アイヌ語事典」カテゴリーアーカイブ

第十巻 ③岬めぐりと地名めぐり

【第十巻】 厚岸から霧多布へ
 「岬と花の霧街道」を行く

霧多布岬の西側に位置するアゼチ岬から小島と奥の嶮暮帰島を遠望する

▶自然景観としてもっとも特徴的な海岸線の「岬めぐり三昧ツアー」をご案内したい。
山本コウタローのヒット曲「岬めぐり」(1974年)はバスで周ったが、この海岸線の岬めぐりは残念ながら車で巡るしかない(歩いてもいいですが…)。尻羽岬から霧多布岬までの直線にして約35㎞にある10の岬をご案内する。ベストテンは通常多くの中から選ばれた十箇所になるが、ここはten of all.ではなく、all of ten.である。
▶西端から順に並べると…
①シレパ岬~先端まで遊歩道あり。厚岸湾と太平洋の眺めが素晴らしい。
②ノテトウ(岬)~標高75mの御供山には「お供山展望台」があり、厚岸湾、厚岸湖をはじめ厚岸町の市街地を一望できるビュースポット。現在の厚岸本町市街地は埋立で出来た土地。
③バラサン岬~国泰寺の裏山という感じ。急な登りを詰めると厚岸湾が広がる。
④愛冠岬~突端に「愛の鐘ベルアーチ」。これを鳴らすとアイ(愛)が叶うのだとか…? 
アイヌ語由来は〈届かぬアイ(矢)〉だが…。
⑤アイニンカップ岬~愛冠と同じアイヌ地名由来(矢の届かぬ処)車道からは往復2㎞以上の山道を上り下りしなければならないので秘境。(ボクも行ったことがない)
⑥チンベノ鼻~あやめヶ原のある岬。6月下旬から7月にかけてのヒオウギアヤメの満開が見もの。花がなくても展望台からの絶景を楽しむ。
⑦涙岬~海に向かって広々とした丘を散策路が伸びる。断崖の展望台から乙女の横顔が浮かぶ。
⑧アイヌ岬~先端には行けず藻散布から眺める。人(アイヌ)の横顔に見える。
⑨アゼチ岬~展望台から望む琵琶瀬湾の絶景。静かな岬で物思いにふけるには最高。
⑩湯沸(霧多布)岬~突き出た半島の東端が湯沸岬で西端がアゼチ岬。散策するのも良し。ゼニガタアザラシやラッコも運が良ければ出会える。


▶岬めぐりの地名めぐりは、アイヌ地名、漢字変換地名、和名と多種多彩。
シレパ岬は尻羽岬と漢字表記もされるが、アイヌ語由来はシリ・パ(地、山の・頭)。和名表記が尻なのはアイヌと和人の感性逆転。ノテトウ notetu は岬そのものの意味。他にも岬を表わすアイヌ語はエトウ、シレトウ、ノツ、エンルム、シレパ、エサシなど。道内の岬を思い浮かべてみてください。
バラサンは「広い柵」という意味や、「野獣を捕る平落としという罠」のことでもあると言われている。この岬の岩層が平落としに似ていたため、厚岸の部落には魔物が近寄らなかったとの伝説がある。(厚岸町HPより)
▶愛冠とアイニンカップはアイヌ語由来は同じで、アイカプaikap で「不可能、出来ない」という意味なのだそうだが、武四郎は『西蝦夷日誌』で、石狩のアイカップについて、「昔し此処の土人此の岩の上より矢(アイ)を放ち、寄手もまた下より矢を放ちしが、互に当らざりし故に号しなり。アイカツプとは出来ざると云事を云也」と記している。また、地元アイヌの伝説では、「ツクシコイのアイヌとアッケシアイヌの戦いで崖の上のツクシコイに対して、下からアッケシアイヌが矢を討ったがとどかなく、敗走したところから、その高い崖をアイカップ岬と言うようになったという」(『釧路・昆布森沿岸・厚岸・地名探訪』釧路アイヌ語の会)
石狩のアイカップも愛冠と当て字されている。ちなみに10の岬の標高は、厚岸東岸の愛冠、アイニンカップ、チンベノ鼻は80m前後。以西の岬が50m以下なので、矢も届かむ大崖と云ってもいいのだろう。
▶乙女の横顔を涙が落ちる様を言い表す涙岬。20年ぶり拝見したら、何となく横顔が少しやつれた感じ。近年マイブームの元となった地質のガイドブック『道東の地形と地質』(前田寿嗣著)は、「岬と花の霧街道」の新たな魅力を引き出してくれた。これによれば涙岬は霧多布層という6600万~5600万年前の古第三紀暁新世に海底に堆積した根室層群の地層で、れき岩と砂岩で出来ている。ちょっと脆いのかもしれない。少し崩れて乙女も熟女になったのかも。
同じ横顔でもアイヌ岬はしっかりした男顔。アイヌは「人間」という意味だから、こんな象徴的な地名をはたしてアイヌが付けたのだろうか? 他にはない地名なので、これは和人がこの形状を見て付けたのではと推察する。
▶アゼチ岬は当然、アイヌ地名と思いきや、畦地さんという方の名前が由来のようで。釧路湿原にもキラコタン岬と並んで宮島岬があるが、これも土地所有者の宮島さんからの名前由来。
ベストテンのトリは霧多布岬。国土地理院の地図では「湯沸岬(霧多布岬)」という表示である。キータプ ki-ta-p (茅を・刈る・処)の当て字だが、霧多布とはいかにもこの地の風土を表わしている地名ではある。なぜ、湯沸と併記されるのか。トープツ to-put又はto-putu,puchi は湖(沼)の・口を意味する。道東にも濤沸、十弗がある。岬の地図をよく見ると浜中市街地から灯台を目指し登り路を直進し、下った先の海岸に集落があり、小さな沼がある。そこに湯沸の表記があり、沼から小さな流れが海に注いでいる。岬は昔は島であった。松浦図でも陸地と分離してキイタツプとトウフツという表記がみえる。

琵琶瀬湾周辺のアイヌ地名と陸繋島の様子

▶『道東の地形と地質』によれば、霧多布の市街地は、かつて島だった湯沸につながる砂洲の上にある。これを陸繋島と呼び、嶮暮帰島にも砂嘴が出来ていて、これが満潮時にも繋がると砂洲になり、琵琶瀬湾には2つの陸繋島が対をなすことになる。さらに今から6000~5000年前の地球が温暖だった時期には琵琶瀬、嶮暮帰島、湯沸が一つ続きの細長い半島で、霧多布湿原は「古琵琶瀬湾」と云われる大きな内湾であった。これは釧路湿原も同様に「古釧路湾」と云われる内湾でその後の寒冷化により、徐々に海面は後退し、湿原が形成されてきた。琵琶瀬湾の場合は浸食により分断されて現在の島の並びになった。
この地形の生い立ちをみると、釧路と厚岸は自然環境や地域の発展過程は兄弟のようでもあり、姉妹のようでもあり。姉妹都市、姉妹港はそれぞれ違うので、ここはいとこ同志ということで、これからもよろしく。
海あり、山あり、湿原あり、人の歴史あり…。多種多彩とはまさにこの地域のこと。掘り起せばまだまだザクザク情報が出てくるとおもわせる厚岸から霧多布への旅であった。(終り)

あやめケ原から東側の海岸線

〈第九巻〉③難しい地名・面白い地名

【第九巻】 桂恋から厚岸へ
 難解アイヌ地名を愉しむ

初無敵(ソンテキ)はいろいろ呼び方があって意味の特定が難しい。扉写真と絵図(目賀田守蔭 北大北方資料データベース)と人の立っている位置が類似している
初無敵(ソンテキ)周辺を3枚の写真を合成した。実際はもっと広い湾になっている。上の絵図にイメージが近い。

難しい地名・面白い地名
▶アイヌ地名には様々な解釈があるが、釧路町が公式動画でアップしている「ふるさと地名の旅」から何箇所かご紹介すると、宿徳内は「アサツキがはえている沢」。跡永賀は二つあって、アトイ・カatui-ka(海の・上)とアトイ・オカケatui-okake(昔は海のあった所)。初無敵は色々な呼び名があって特定しづらいようだが、ソウン・トゥ(滝のある小山)という解釈も紹介している。知方学はチェプ・オマ・ナイ(魚の集まる処)。同じ意味合いで仙鳳趾がチェップ・オッ・イ(小魚〈ニシン〉が沢山いるところ)とのことだが、仙鳳趾はこの海岸線にある4つの漁港(桂恋、昆布森、老者舞、仙鳳趾)のひとつで、近年は厚岸と並んで牡蠣がブランドとして有名になっている。

目賀田守蔭の絵図によるセンポウシ(右手)。厚岸湾側から太平洋を望む。
現在の地名は「古番屋」になっている旧センポウシを訪れた。奥側が厚岸で岩崖の形状が絵図と似ている
南部藩士の楢山隆福が1810年に描いたセンポウシ(函館市中央図書館蔵)


▶この仙鳳趾にまつわる地名は少々入り組んでいる。現在の仙鳳趾漁港から南寄りに古番屋という地名がある。ここが昔の仙鳳趾である。仙鳳趾は様々な絵図に遺されている要所だ。文化7年(1810)の『東蝦夷地与里国後へ陸地道中絵図』は南部藩の楢山隆福という藩士が蝦夷地警備を命ぜられ、国後に滞在した後、帰路は陸路をこの太平洋沿岸沿いに箱館まで戻った。その時、描いた各地の番屋や会所の絵図が、当時の様子を伝えている。

旧センポウシは近年まで番屋として使われていた。廃屋に面影を偲ぶ


▶ボクは仲間と一緒に旧仙鳳趾である古番屋を訪れた。てっきり古い番屋のあった所という和名だとばかり思っていたら、さにあらず。アイヌ地名由来でフルパンヤ(崖の上の平らな場所)という意味だそうだ。絵図を見ると確かに崖の中の平らな箇所に建物がある。通行屋を併設していたと思われる番屋の他、蔵や小屋などが点在し、稲荷神社も見える。ここから厚岸会所を結ぶ舟便があったことも含め、それなりの賑わいを感じさせる。
現地には既に廃屋しかないが、建物の配置や、浜から望む景観には、絵図と重なるところがあり、往時を偲ばせた。(終り)

〈第九巻〉②難解地名を分析する

【第九巻】 桂恋から厚岸へ
 難解アイヌ地名を愉しむ

カツラコイ(桂恋)の図は谷文晁が描いた。(北海道立美術館蔵)上の現在の写真と岩の形が符合する。ただ、左手は陸地なので絵図の砂嘴のような形状とは異なる。

難解地名を分析する
▶松浦図で釧路市の知人岬から仙鳳趾までの海岸線地名をチェックすると57地名あり、そのうち現在、漢字和名として表記されているのは、おおよそ24地名。約4割が現役である。じっと眺めていると知人岬からおおよそ中間点の跡永賀までの地名は、ほぼアイヌ語の〈音〉に漢字をあてた地名なので、無理をすればなんとか読める地名だ。しかし、跡永賀の次の冬窓床から知方学までの7箇所は、どう考えても読めない超難解地名である。難解度は東高西低なのである。ひょっとしたら一人が和名付けをしたわけではなくて、ここら辺で嫌になって、誰かにバトンタッチしたのかもしれない。どんな知的バックグラウンドを持った人がこういう漢字をあてたのだろう。

釧路町海岸線の難解地名を松浦図と現況図で比較した。


▶近世の文化人が漢詩や漢文をたしなむのは標準的な教養だったのだろう。武四郎も一般向けの刊行物である久摺日誌などには、わざわざ漢文で同じ箇所の説明を繰り返しているところがある。雌阿寒岳登山の件については、この例なのだが漢文箇所と和文箇所で微妙に内容を変えているところもあり、芸が細かい。一般向け書籍なので、読者も漢文に親しんでいたのだろう。
▶地名の和名表記は明治政府ができて以降の話なので、地域の役人か、北海道開拓使の吏員がこの任にあたったのだろうか? 和人の入植者が付けた可能性も…。詳細の読みについては次頁「釧路町海岸線難解地名マップ」をご参照頂きたい。この24の地名のなかで〈音〉も〈意味〉もアイヌ語にほぼそっているのは昆布森が唯一と言っていい。あえてもう一つ挙げるとすれば尻羽岬である。後者はカタカナ表記も使われている。アイヌ語解釈ではシレパは(山の・頭)である。あて漢字は尻の羽(尾)なのでアイヌと和人の自然を捉える方向性の多くが逆転してることを考えれば、尻羽岬も当たらずとも遠からず。
昆布森は松浦図ではコンフイ。コンプモイ(kombu-moi)昆布の・入江の意味である。昆布はアイヌ語でもコンブまたはサシともいう。同じ太平洋沿岸の根室地方にも昆布盛がある。「森」も「盛」も「モイ(湾)」のあて字である。

「昆布井」の図(目賀田守蔭 北大北方資料データベース)。現在の昆布森周辺。通行屋の横に馬用の飼料小屋が見える。馬が荷運びの役割をはたしていた


▶超難解7地名のうち、知方学と入境学はナイに〈学〉という字があてられている。通常は〈内〉でナイと読ませることが多いのだが、この2箇所以外は内になっているので、どうも命名者のセンスのような気がする。そういえば知、舞、遺、学、窓など学芸的な漢字使いも気になる。
▶地名研究者から〈アイヌ地名としての解釈も難しい〉といわれるのは又飯時と老者舞である。マタイトキは『釧路町史』では、〈海の瀬の荒いところ〉と解しているが、『北海道の地名』で山田氏は、武四郎の日誌の〈マタは水也、エトキは汲んで明ける事也〉の解釈を引用し、「マタが水とは変だ。水ならワッカであろう。エトキにそんな語源があるだろうか。その内容を言葉をあてて見ると、ワッカ・タ・エトゥとなるだろうか。とにかく難しい地名である」と書いている。オシャマップについても、解釈の記録がなく、「オ・イチャン・オマ・プ(川尻に・鮭鱒産卵場・ある・もの=川)とも聞こえるが、うっかり解がつけられない。」としている。あてた漢字も意味と全くつながらないので、お手上げの地名である。

「マタイトキ」の図(目賀田守蔭 北大北方資料データベース)


▶人名は人名漢字さえ使っていれば後は極端に言えば、どう読んでもいいそうだ。近年、全く読めない人名が多くて、他者に分かってもらうことと、自分をアピールすることの齟齬について考えざるを得ない。地名も似たところがあって、音を無視し、意味を重視してリネームをするとすれば、幌内〔大きな川〕は大川、来止臥〔ギョウジャニンニクが群生する処〕は葱群処、浦雲泊〔小さな入江〕は小泊、去来牛〔葦が群生する処〕は葦群処と書いて読ませるのはいかがでしょう。しかし、こうなれば至る所に大川や小泊がついて、アイヌ地名の標準化指向に近くなり、それは国が地名により、場所を特定させる方向性からは離れることになる。

浦雲泊から左からトド岩、中央奥に立岩、右手陸側に三角形のタコ岩が並ぶ奇岩群。隣接地の十町瀬(トマチセ)は現在、行くことができない。


▶土地は〈天からの預りもの〉ではなく、〈国の管理するもの〉になったのだ。現代は、どこまで土地にこだわるシステムに依存した社会を維持していくのだろう。領土をめぐる国家間の軋轢から、ご近所との土地境界のいざこざまで、争いは尽きない。アイヌ地名付けにみる考え方や「名は体を表す」との諺にも立ち返り、名称付けのあり方を今一度考える契機にしたい。(続く)

〈第九巻〉①地域のブランド力

【第九巻】 桂恋から厚岸へ
 難解アイヌ地名を愉しむ

扉写真は1799年に植物調査で太平洋沿岸を探訪した渋江長伯一行に同行した絵師・谷元旦が描いた踏査の様子(『蝦夷紀行附図』函館中央図書館蔵)。上の写真は石門といわれる地形で釧路地方沿岸から厚岸にいたる海岸線に出現する。

地域のブランド力
▶ブランドは大切である。少しでも地域を売り込もうと思うのなら、ブランド力は欠かせない。釧路町の太平洋沿岸は、令和3年3月に「厚岸霧多布昆布森国定公園」の区域に指定された。ボクの自宅は釧路市街地と湿原の際にあり、道路を挟んで東側は釧路町なので、大雑把にいうと国立公園(釧路湿原)と国定公園に隣接しているのである。自慢であるが、地価は安い。
▶この海岸線は、十勝の広尾町から根室の納沙布岬までの全長321㎞メートルが「北太平洋シーサイドライン」と名付けられ、定着してきた。古くは東蝦夷地を探検した冒険者たちが道なき道を辿ったパイオニアルートである。1786年にエトロフ、ウルップに上陸した最上徳内は、真冬にこのルートを松前から根室まで二ケ月余りで踏破している。1798年に幕府は〈様似から釧路まで道を拓いた〉となっている。馬が荷を運べるような道になり、釧路の会所には馬2頭が配置されたとある。これに合わせ、一里塚といわれる距離標識や通行屋(家)といわれる宿泊施設、小休所といわれる休憩施設なども設置された。

谷元旦が描いたとされる通行屋の様子 イルカを食べている!(『蝦夷紀行附図』函館中央図書館蔵)


▶それ以前の釧路町の海岸線は道もなく、引き潮の時のわずかな時間に岩づたいに歩いたり、野宿をすることもあったようだが、昆布森と仙鳳趾(現在の古番屋)に通行屋ができ、同年に植物調査でこの海岸線を探訪した渋江長伯一行も、武四郎もここに宿泊している。釧路市街地からシレパ岬までは約40㎞メートルで、厚岸湾西岸の仙鳳趾から厚岸会所には舟で渡っていたので、仙鳳趾で天気待ちをする様子が日誌などにも記されている。ちなみに、仙鳳趾から厚岸会所までの厚岸湾沿いの陸路は文化5年(1808)に開削されている。
▶当時は道が出来たとはいえ、海岸線の砂浜を歩き、海岸の崖を乗り越え、また砂浜、岩浜を歩く難路だったのだろう。渋江長伯の旅行記『東游奇勝』によれば、釧路を立ち、昆布森の旅館(通行屋)に至る間に、〈石門5箇所、出崎(崖)16箇所、川を大小15箇所渡渉〉との記載がある。現地の海岸線に目を向ければ一行の大変さは実感できる。

桂恋から昆布森方面を望む海岸線。砂浜と岩崖が連続し、時に崖越えをしながら歩いたようだ


▶現在の釧路町、厚岸町、浜中町を通る道道142号は「岬と花の霧街道」とネーミングされて観光PRがされてきた。海蝕崖が連続する海岸線が織りなす景観、希少な海浜植物が咲き誇る原生花園、ガスと呼ばれる海霧が立ち込めるロマンチックな佇まい。これらをまとめて「岬と花の霧街道」という名称は誠に絶品。国定公園に指定されるぐらいだから一大観光地とおもいきや、初夏のシーズン以外はひっそりとして、特に釧路町の海岸線などは観光地という趣は皆無である。漁村集落が崖の間の砂浜に点在する。宿泊施設もなく、商店は昆布森に一店。コンビニはないけど、コンブは豊富なエリアである。
▶そんな中にあって、この地域は難解地名を売りにしてきた。アイヌ地名由来なのだがあてた漢字が極めて難解で、これを初見で全部読むことのできる人は存在しない。断言する。
「歴史に汚点を残す許しがたい暴挙の一つ」という批判もあるが、ここはひとまずおいて、地元自治体から地域住民まで、結構この難解地名にノリノリで、結果としてこの地域のブランド化に大きな役割を果たしてきた。釧路町は公式PR動画の「ふるさと地名の旅」をYouTubeで配信している。「難解地名番付表」というのを作った方もいらっしゃるし、アイヌ語研究をしている仲間達もアイヌ語由来の解説とあわせて現在の漢字の難解地名を紹介したり、解説したりしている。今日、ボクの最大の関心の拠りどころは、誰がこの難解漢字地名を付けたのかであるが、ネットを見るとそのことをリサーチしている方もいて、先駆者がいるのでここはその方の結果待ちもいいかなと思っている。しかし、ボクなりに少し分析めいたこともしてみたい。(続く)

昔の昆布森といわれる伏古から崖があって崖越えをしたところ。下の絵図と一致する地形が見える
昆布森には通行屋があって、その様子を描いた仙台藩の藩士・楢山隆福の絵図(『東蝦夷地与里国後へ陸地道中絵図』1810 函館市中央図書館蔵)

日誌からみる武四郎の人となり

■ドナルド・キーンが亡くなって、あらためて 『百代の過客<続>』 を読み直し、氏の日本における日記文学への深い眼差しに興味惹かれた。 キーン氏は同書に武四郎を取り上げ、 「アイヌ民族の権利の、力強く、そして説得力のある擁護者としての姿が、文中から立ち現れてくる。」と 武四郎を評し 、また日記が武四郎自身の人となりを自ずと語ってくれているのが面白い、と述べている。
■ 現在、私は仲間との勉強会「武四郎を読む会」で、武四郎の日誌『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌』を解読しているが、そのなかでも、そのことを納得するような件があった。勉強の対象テキストである『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌』は在野の武四郎研究者であった秋葉実さんの解読による著書で、現在、読み合せているのは1858年、武四郎第6回目(最後の)蝦夷地探訪の部分である。「戊午久須利日誌」と題され、後に刊行本『久摺日誌』として紹介される釧路から阿寒湖畔、網走、斜里を巡り、摩周、弟子屈を経て釧路に戻るまでの日誌部分である。
■ ご存知のとおり、武四郎の旅はアイヌの案内人の同行があってはじめて成立したもので、依頼者とガイドとの関係性もガイドである私にとっては興味のあるところだ。今回、ご紹介するのはこの日誌の塘路泊を記述した個所で、武四郎とアイヌ案内人とのつながりと旅仲間に対する眼差しの優しさにいたく感心したのである。同文箇所の秋葉解読文と私の訳文を以下に示す。

上段:『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌』部分抜粋 下段:塩による訳文

■ ここで共感するのは、武四郎のマメな優しさ、上下関係より仲間関係重視、郷愁に対する感性、武四郎の旅のイメージなどであるが、ガイドの疲労に配慮して自らが米を研ぐ武四郎の姿勢は、彼の繊細な心遣いを表している。まさに寝食を共にして、苦難に満ちた蝦夷地探訪をアイヌ案内人とともに成し遂げた基本姿勢である。
また、ケンルカウスがイトウをさげて現れた様を「生涯の話の種に」という件には、エピソードの積み重ねのなかに旅の価値を認め、現場のなかの事実を積み上げながら、真のアイヌの姿に触れようとした人となりが垣間見れる。
■ 尊王攘夷論者として対ロシアから蝦夷地を守り日本がこれを統治する武四郎の考えには揺るぎはなかったのであろうが、武四郎のおもいどおりにアイヌを同化させることにはならなかった失敗談のエピソードも日誌には綴られていて、武四郎自身の揺らぎや困惑も垣間見れる。私が武四郎に学ぶのは、思想的影響をうけながらも、現地現場でそれを補正しながら真実を見極めようとする姿勢である。