「『松浦武四郎と行く~新・道東紀行』」カテゴリーアーカイブ

〈第三巻〉②マチネシリとはどの山か

【第三巻】 イタルイカオマナイから雌阿寒岳へ
 登ったのか? マチネシリは何処

扉写真は「久摺日誌」に描かれた阿寒湖周辺。上は白湯山展望台から望む雄阿寒岳

▶武四郎の記述から類推する「マチネシリ」という山について考察してみたい。現在のピークであるポンマチネシリが雌阿寒岳の頂上という認識は一旦横に置いて、武四郎一行が来た1858年の時点でマチネシリとはどの山を指したのか? 果たしてそれは現在の頂上だったのか? について調べた。 
雌阿寒岳は複数(8つ又は9つの山)の山で構成された複合火山である。火山は3つの噴火口で形作られ、太古から活発に活動し、1万年前後には巨大な火砕流噴火により中マチネシリと呼ばれる大きな火口ができ、7000年から3000年前にはポンマチネシリと北側の山群が相次いで誕生した。2500年から1100年前にかけて南側の阿寒富士と呼ばれる一番新しい山ができ、ほぼ現在の山容となる。その後、近年の噴火は水蒸気噴火が主のようであるので、武四郎が来た時点で山の姿は今とそれほど変わりはなかったように推察できる。
この火山の形成を調べていたら『北海道阿寒町の文化財 先史文化篇第二輯』(阿寒町教育委員会刊)のⅡ『阿寒湖畔とその周辺の地形及び地質』で岡崎由夫氏は、―雌阿寒岳の形成過程の中で、現在、雌阿寒岳が形成された順序は、〈フレベツ岳→南岳→1042m山→東山→と剣峯、瘤山が最も古く、その後、中マチネシリが形成され、次に北山、西山、ポンマチネシリが出来、一番新しいのは阿寒富士―、と記していた。剣峯は現在、剣ヶ峰と表記されている。
この中で「剣峯(マチネシリともいう)」という記述があった。(強調は筆者)
▶ボクはアイヌ語でポン(小さい)は通常はポロ(大きい)との対比語と理解していたので、以前から一番高い頂上がなぜポンマチネシリなのか、不思議であった。ところが『地名アイヌ語小辞典』(知里真志保著)によると「ポロもポンもともにポ(子)から派生した語である。(中略)ポンの方もたぶんポ・ヌ(子・である)が語原で現行の若い、小さいの意味が出て来たのである」と記載されていた。
雌阿寒岳の形成史からいうと剣ヶ峰がマチネシリで、現在の頂上であるポンマチネシリとの関係は大小ではなく、古い(親)に対して、新しい(子)との関係にあることと理解できる。つまり、〈古いマチネシリ〉に対して、〈新しいポンマチネシリ〉という関係になり、一行が登った、又は目指したマチネシリは剣ヶ峰だった可能性が高まる。
実は北海道夏山ガイドの掲載地図にも剣ヶ峰(マチネシリ)と表記されているし、YAMAKEIオンラインの登山地図にも同様の表記がされている。マチネシリ=女山=雌阿寒岳=ポンマチネシリピーク(1499m)という思い込みがボクも含めて多くの人にあったのかもしれない。

雌阿寒岳山頂(ポンマチネシリ)から中マチネシリの火口とマチネシリ(剣ヶ峰、右て奥)を望む。

▶もう一つ違う角度から剣ヶ峰登頂の可能性を検証したい。武四郎は下山後、翌日アイヌと一緒に丸木舟で阿寒湖の四島巡りをしている。この印象を漢詩に詠み、それは現在も阿寒湖畔のボッケ散策路の碑に刻まれている。
碑文を和訳すると―
 「水面風おさまる夕日の間 小舟竿をさして崖に沿って帰る 
 たちまちに落ちる山の長い影 これはわれが昨日よじ登った山」

つまり前日のマチネシリ登山の山を湖上から確認している。
『日本百名山』(深田久弥著)で深田氏はこの漢詩を詠んで、この峰が「雄阿寒岳であることは間違いない」と書いているが、日誌の経過から読むと雄阿寒岳登山の可能性は考えにくい。また湖から雄阿寒岳は東側なので、夕日に山の影は馴染まない。
実は阿寒湖から雌阿寒岳を見ると頂上のように見えるのは手前の剣ヶ峰であり、奥のポンマチネシリは噴煙の風向きや、悪天時などはほとんど確認することができない。これらのことも勘案すると、私の推察は、武四郎一行は「剣ヶ峰」に登った可能性が高いという結論になる。

ボッケ散策路にある武四郎の漢詩碑。建立者は武四郎顕彰に尽力した釧路の経済人であり、議会人かつ郷土史家でもあった佐々木米太郎を中心にした発起人メンバー。
結氷した阿寒湖の湖上から雌阿寒岳に沈む夕陽。右手はフップシ岳。(撮影 松岡篤寛)

▶次に〈武四郎はマチネシリには登っていない〉という定説について調べた範囲でその根拠を整理したい。武四郎の発刊本である『戊午日誌』『久摺日誌』には、その元となる野帳と云われるフィールドノートが存在し、武四郎研究家である秋葉実氏により、手控(=野帳)が解説付きで活字化され出版されている。日誌のもとになるメモ書きを解読したものなので、内容の詳細や日程を確認する手助けとなる。
これによれば三月二七日出立し、移動行程のなかでルヘシヘからエナヲウシでの記述は…
「エナヲウシ 又カムイモミウシとも云。右の方ヲアカン左りの方メアカン岳に拝。是より笹原平地。また十丁計にて
小川
また少し上りて一ツ山をこへてヲウンコツ…」
これしか記されておらず、秋葉氏は注釈で次のように解説している。
「…このあと雌阿寒岳登山の記事があるが、文飾である」
何とも素っ気ない注釈ではある。「文飾」とは文章、語句を飾り立てることではあるが、この手控えを最優先すると、武四郎のマチネシリ登頂は、事実ではないことになる。武四郎の日誌には「文飾」がこのほかにもあり、現代語訳者の丸山道子さんもマチネシリ登山は「彼一流のフィクションであろう」と解説している。
秋葉氏は、武四郎が下山した翌日の阿寒湖の丸木舟による四島巡りも「三月十六日以降、日誌の行程は一日ずれていたが、ここで二七日阿寒湖内巡りをしたことにして、手控と日誌の行程が一致した」と解説している。(注:強調は筆者)
このことを知った時はさずがに驚きとショックがあったが少し落ち着いて、いく通りかの考えがめぐった。(続く)

〈第三巻〉①武四郎一行の登山行程について

【第三巻】 イタルイカオマナイから雌阿寒岳へ
 登ったのか? マチネシリは何処

扉写真は雌阿寒岳頂上直下から剣ヶ峰や雄阿寒岳を望む。上はイタルイカオマナイ沢からルベシベ(峠越え)の道

▶松浦武四郎が釧路から阿寒を経由して網走に至る途中で、マチネシリ(アイヌ語で雌山を意味し雌阿寒岳を指している)と呼ばれる山に登山をしたことが記されている。
この登山に関しては、〈実際には登っていない〉ということが定説となっている。様々な方たちが、武四郎は聞き書きしたのではないか、とか、日程的にズレがある、などの理由を述べられている。松浦武四郎は蝦夷地探検家であるとともに〈江戸、明治時代の登山の先駆者〉としても知られており、山岳関係の方々も武四郎の登山についての著作を出されている。
なかでも『江戸明治の百名山を行く~登山の先駆者松浦武四郎』(渡辺隆著 北海道出版企画センター刊)は、蝦夷地における武四郎の登山に関して、詳細な検証をしている。著者の渡辺さんは道内出身者で松浦武四郎やアイヌ語研究の他、登山家としても山岳学会で活動されている方である。
▶渡辺さんは決して〈武四郎一行はマチネシリを登らなかった〉とは言い切ってはいないが、巻末の登山一覧では「断念」と整理されている。
渡辺さんは武四郎の日誌から推定し、行程の時間を割り出し、時間的な限界から雌阿寒岳登頂は困難としているが、「どこかの山にアタックしたのは事実であろう」としている。
どこかの山は「831mの無名山」と「エナヲウシ(場所不明)」をあげておられる。私は渡辺さんの分析を参考にしながら、これまで仲間と共に活動してきた阿寒クラシックトレイルなどで歩いた武四郎ルートと照らし合わせ、武四郎一行の雌阿寒登山の可能性を検証してみたい。
武四郎はマチネシリへの登山に関しては「戊午日誌」と「久摺日誌」に記載している。特に久摺日誌において、登頂経過は、和文で記載された部分と重複して、漢文でも記載され、特段の思い入れの深さを感じさせる扱いとなっている。(以下「久摺日誌:和」又は「久摺日誌:漢」と表記する)

ルベシベの登りを行く「山湖の道」トレッキング参加者

▶日誌から事実関係を推察する。
一行は1858年(安政5)旧暦3月の戊午日誌では26日、久摺日誌では27日にマチネシリ登山をして湖畔に下山している。1日のズレがある。旧暦なので今の暦では5月9日又は10日になる。
前泊したルベシベナイを発って、シユマタツコフという小山を経由し、ルベシベの麓まで来て、ここから山越えの道を歩き、そのピーク(ルチシ=峠)まで来た件については、別記「武四郎一行マチネシリ登山ルート推定図」(以下「ルート推定図」)でご確認いただきたい。一行はこのルベシベのピークで、登山をするものと、先に湖畔に向かって滞在の準備をするものが別れる。ここまでは渡辺さんと私の分析はほぼ同じだ。
▶ここから見解が違う部分を説明したい。
一つはルベシベの位置についてである。私達が阿寒クラシックトレイルの阿寒湖への峠越えの道として使ってきたルベシベのピーク(ルチシ)は標高620mである。渡辺さんの記述では「ルベシベより頂上までの標高差は約1100mである」となっていて、頂上がポンマチネシリの1499mとすると、逆算すればルベシベの標高は399mとなる。この標高をルート上で探すと、麓であるイタルイカの周辺にあたる。
武四郎は戊午日誌には「ルベシベ 此処は路越えると言う儀なり。是アカン越えの頂上なり」と書いているので、標高620mのピーク周辺がこの地点に当たると思われる。
渡辺さんが想定したルベシベのポイントと我々が想定したポイントの標高差は221mで、その違いはこのあとの登山行程の見積時間にも影響したのではないかと思われる。
ここから山頂までの行程を日誌から拾うと全行程76丁(1丁は109m)約8・3㎞の行程になる。
久摺日誌には頂上到着が「達山巓、則日己未」(久摺日誌:漢)とあり、すでに午後2時になっていたとされる。
渡辺さんは「雪の無い所は2時間半、雪のある所は直登したとして小休止を含め、4時間は必要と思われる。途中で昼食30分として頂上到着は午後6時頃」と行程時間(ルベシベから合計7時間)を割だし、到着時刻を推定している。ここで午後2時頃に登頂した武四郎一行とは4時間もの大きな差が生じることになる。このことが登頂困難の最大の理由となる。

雌阿寒岳登山の阿寒湖温泉ルートから頂上を目指す。前方中央に剣ヶ峰がみえる


▶さらに渡辺さんとボクの間で、時刻の取り扱いに大きな見解の相違が出る。久摺日誌(和)には「五ツ比シユマタツコフに至る」という表記がある。これを渡辺さんは「午前9時に通過」と解釈されている。江戸時代の時刻表記については、日の出から日の入りまでの時間を6分割し2時間単位で一刻、二刻と呼ぶ。一方で日の出を「明六ツ」、日の入りを「暮六ツ」と呼んだそうだ。昼と夜の時間がほぼ半々となる「春分の日」や「秋分の日」は、一刻が2時間となるが、季節によって昼夜の時間長は変わるので、時間の単位も変動するのが江戸時代の時刻表記なのだ。
武四郎がマチネシリに登った5月10日前後の日の出時刻は午前4時頃、日の入りは午後6時半頃だ。昼間時間が14時間30分として、6等分すると、武四郎一行登山時の一刻は2時間25分になる。「暁靄深く同行の者も見失う故に、互いに聲をかハし行。」(久摺日誌:和)。暁が日の出時刻と設定すれば明六ツは午前4時。「五ツ比シユマタツコフに至る」(久摺日誌:和)の五ツは一刻を過ぎて、6時半頃である。渡辺さんの午前9時とは2時間半の時間差が生じた。
「シユマタツコフよりここまで(ルベシベ)を地図上の計測で仮に2時間とする」(渡辺)に倣えば、ルベシベの峠到着時刻は8時半である。山頂到着が午後2時。ルベシベ(ルチシ)から山頂までは5時間半あることになり、この間に約8・3㎞の山道をどこまで行けたかが検証のポイントとなる。

検証登山の工程図


▶私の山の経験は趣味程度で夏山登山が主である。雌阿寒岳、雄阿寒岳にはもちろん登っている。一行のルート上で、渡辺さんが登頂の可能性として記載されている阿寒湖の南に位置する「831mの無名山」には冬に登ったことがある。地元では「800メートル峰(C地点)」と呼ばれ、結構知られたところである。詳細は地図を見て頂いた方が分かりやすいとは思うが戊午日誌の「扨此処(ルベシベ)より真一文字に、何をも不管して二十丁も上るや…」という記述に対応するように、ルベシベで西側に直角に折れた先、約1・5kmほどで800メートル峰ピークになる。さらに雌阿寒岳頂上につながる延長上に重なる。
ルート推定図上の直線距離測定ではルベシベ(B)から剣ヶ峰(G)までは8・5㎞、ポンマチネシリ(H)までは9・75㎞となった。当然、屈曲はあるにせよ、剣ヶ峰に関してはほぼ近い距離だ。現在の雌阿寒岳阿寒湖畔コースの登山口(E)はこの直線上の少し北寄りに設定されているが、登山コースタイムは、登りで剣ヶ峰(G)コルまで2時間。ポンマチネシリ頂上(H)までさらに40分で合計2時間40分。下りは頂上から30分で剣ヶ峰コル。そこから登山口までは1時間30分で合計2時間となっている。(『北海道夏山ガイド⑤』北海道新聞社刊)
つまり、ルベシベから登山口まで3時間半で行けたら、少なくとも剣ヶ峰までには午後2時に着くことができる。もちろん、これは夏山で登山道が整備されている現在の状況下で、1858年5月登攀日の条件下でどこまで行けたのかが問題である。(続く)

白く見えるのが剣ヶ峰。その背後に雄阿寒岳。左手に阿寒湖がみえる

〈第二巻〉④温故知新の道を行く

【第二巻】 阿寒町から阿寒湖畔へ
松浦武四郎の歩いた道〈阿寒クラシックトレイル

扉写真は「山湖の道」で武四郎にならって、阿寒湖の湖上四島めぐりをカヌーで行った

▶環境と人権というテーマで起承転結の「結」にしたい。
武四郎の蝦夷地探訪が後世に残したものは、この地の風光明媚な観光的価値と、開拓資源の豊かさと交通網の可能性、そして開発政策よりアイヌ保護を優先するとの主張だった。一方、森林開発の夢を阿寒に求めた前田正名は阿寒の国立公園化の動きを受けて「阿寒の自然は、スイスの自然に勝るとも劣らず」そして、「阿寒の山は伐る山ではなく、観る山だ」との政策転換を果たし、今日の「復元の森づくり」につながる自然資源を観光の柱とする阿寒の基盤を築いた。
この二人はともに先住民アイヌに対する人権家としての眼差しを持ち、それは阿寒におけるアイヌ文化につながっていると実感する。

武四郎関連のクスリ凸凹旅行舎発刊図書


▶マリモ祭りはアイヌと和人が協働でマリモに象徴される自然保護を世に問った祭だ。
毎年、全道から集まったアイヌとシサムが温泉街を行進し、立ち寄る先に前田正名像のある前田公園と三代目園主・前田光子が暮らした前田一歩園山荘がある。奉納の舞と祭りの報告とともに感謝の言葉が述べられる。
明治39年に前田正名が取得した広大な阿寒湖周辺の森は、一方の視点から見れば、利権により得たともいえるものだが、「前田家の財産はすべて公共事業に供する」を家訓とする前田家のユニークな経営により、実質的には公有化されたも同然。さらにイズムを継承する二代目、三代目により、一層厳格な規制の元で自然は活かされて来た。前田家のほぼ独占的な土地資源、温泉資源活用は、あらためて所有の意味を考えさせられる。


▶今日、流行言葉のようにサスティナビリティ(持続可能性)が叫ばれている。交流市民と定住市民が観光産業をとおして財の交換をする。観光資源である自然とアイヌ文化を持続可能なものとするため、行政と協働関係にある地域マネジメントシステムの一翼を担っているのが前田一歩園財団だ。
それを支える思想の源流部にはアイヌ文化とともにある松浦武四郎、前田正名という二人の偉人がいるのだとおもう。
現在の日本で、人と自然の共生関係をアイヌ先住文化に学びながら、持続可能な地域社会と自然環境を実現しているユニークモデルが阿寒湖温泉なのだ。これはオンリーワンかもしれないが、可視化が難しい。物語を説明するガイド機能が必要となる。
このことをフィールドで体感してもらうが阿寒クラシックトレイルの魅力の真髄で、それを〈暮らしの糧として地域に定着させたい〉というのが我々の活動の肝である。(終わり)

〈第二巻〉③今昔の阿寒をつなぐ二人のキーパーソン

【第二巻】 阿寒町から阿寒湖畔へ
松浦武四郎の歩いた道〈阿寒クラシックトレイル〉

晩年の前田正名。阿寒の森を管理する前田一歩園の創設者。森には樹齢5百年を越えるミズナラの巨樹が生きている。

▶観光を主産業とする釧路、特に阿寒湖温泉では、インバウンドつまり海外からのお客様に魅力を訴える〈観光まちづくり〉をすすめてきた。最近は、カジノ設置も市長選の争点になった。武四郎は阿寒湖を「実に一奇」つまりオンリーワンと記している。カジノはオンリーワンではなく、世界標準のリゾートには随所にある。
オンリーワンの魅力を阿寒に温故知新で探すとき、ボクは武四郎の足跡とともに前田一歩園創設者・前田正名を類比して考える。アイヌという先住民文化と火山カルデラを囲む針広混交林と湖沼群を抱える豊かな自然のなかにある阿寒湖温泉にとって、人と自然の共生関係をつくる基盤を担ったキーパーソンがこの二人だとおもう。
▶二人の共通項をボクは3つの視点でまとめてみた。1つは発禁本。
◎『近世蝦夷人物誌』(松浦武四郎著) アイヌの暮らし、人となりのエピソードを聞き取りした記録で今日、ルポルタージュとして高い評価を受けているが、幕府から発禁措置を受け、死後、お孫さんの手で再販。平凡社ラブブラリーから『アイヌ人物誌』として刊行されている。
◎『興業意見書』 前田正名が明治政府で農商務省の若手官僚として全国の地域産業の実情と振興の方向性を示したものだが、地方の実情描写の生々しさと政府の施策批判、計画の実現性を巡り発禁措置になる。
二人とも現実の直視と原因に対する批判が赤裸々すぎた。
正名は興業意見書の最初に「人民生活の有様は衣食住ともに十分ならず、人にして今だ人と称すべからざる者多し」とし、人民の生存権を政策的に支援することを訴えた。武四郎が「開発より福祉を」と訴えた姿勢に共通するものがある。
前田正名というひとは、「国力は地方産業を振興し、わが国ならではの地場産業製品を直接輸出により外国に売って、生活を豊かにしていくこと」(『人物叢書前田正名』祖田修著より)という主張を生涯ぶれずに訴え、そのための施策を実行したひとだった。主張を変えなかったので、2度にわたり政府の官僚トップの立場を追われている。

「山湖の道」は前田一歩園の所有林を行く。昔は峠越えのこの道(ルベシベ)を歩いて阿寒湖畔を目指した


▶2つめの共通項は「下野」つまり、野に下る、職を追われる、官から民へ、ちょっと官が上で民が下という差別的なニュアンスもある。武四郎は明治政府の新たな行政機関である北海道開拓使のアイヌ政策に不満をしめし、開発判官の職を辞す。正名も政府内部の政策論争に破れ、その信念をつらぬくために全国地方の産業振興のため、産業団体づくりに奔走する。
起承転結の「転」は下野であるが、見方を変えれば二人とも元々「野」=現場で輝く人であったとおもう。正名においては、農業関係はじめ10数に及ぶ産業団体の全国組織を結成する本領発揮の時期を迎える。
▶3つめの共通項は「歩く人」ということだ。武四郎は言わずもがな、正名は全国を歩き回ったこの時期を「前田行脚の時代」といっている。二人とも身長150㎝ほどの小柄な体躯でありながら、誠に頑強な身体を晩年まで維持している。正名は非職後に一時、山梨県知事をつとめ、ワイン造りを甲府に紹介するなど産業振興をすすめているが、いつも蓑笠に旅草履というアウトドアファッションで執務もしたため「蓑笠知事」、「布衣の農相」とかあだ名がついたそうだ。
「歩く人」をボクなりにいいかえれば、現場主義者ということになる。
「環境と人権」という視点でまとめれば、二人には直接的な接点はないが、アイヌの生存権や生活権、文化権というキーワードはそのまま『興業意見書』における正名の困窮する人民を救済するための政策支援構想とリンクする。
アイヌ民族の持続可能性を武四郎は訴え、アイヌ地名という言語保存の形で後世に引継いだ。正名の前田イズムは阿寒アイヌコタンという生活の場をアイヌに貸与し、地域コミュニティを基盤に観光文化をとおし、アイヌ文化の持続可能性を支援している。
二人がアイヌに尊敬の念をもって讃えられている偉人であることは、そのヒューマニズムが本物であったからだとおもう。

前田一歩園の山づくりをしていたメンバーから貴重なお話を聞く。間伐材が放つフィトンチッドの香りに包まれる


▶阿寒クラシックトレイルをガイドして阿寒湖温泉にたどり着き終点は、前田正名像がある前田公園になる。そこで締めくくりの話としてボクはこんな話をする。
「阿寒の地で、自然を活かし、保存再生の森づくりをすすめている前田一歩園は、その財源を温泉地の土地代と温泉使用料に見出し、伐る山から観る山への政策転換を実践しました。このシステムは、皆さんが、阿寒に宿泊し、温泉につかってくれることで支えられ、阿寒の自然、そのシンボルであるマリモの保全につながる阿寒エコシステムといえるものとなっています」。(続く)

前田正名像のある前田公園は、マリモ祭りのパレードで奉納の舞「クリムセ」がおこなわれる

〈第二巻〉②歩く文化を楽しみながら

【第二巻】 阿寒町から阿寒湖畔へ
松浦武四郎の歩いた道〈阿寒クラシックトレイル〉

国道240号(まりも国道)のイタルイカオマナイ沢からは北電の送電線ルートが一番武四郎ルートに近い(「山湖の道」)。扉写真は旧上飽別小学校を借りて行った宿泊イベントでカピウ&アパッポの焚火を囲んだコンサート。

▶武四郎足跡研究会ではなく、「阿寒クラシックトレイル研究会」としたのには意味があった。たしかにきっかけは武四郎で、ベースの情報も武四郎の探査がメインではあったが、調べていくうちに、武四郎も幕府が19世紀初頭に北方警備のため切り拓いた「網走山道」の実態調査が探査の目的の一つであり、その道は、アイヌが湖畔を狩場として使うにあたっての道でもあり、さらに遡れば獣道でもあったところだった。
時代を現代に戻せば「里の道」などは雄別鉄道路線跡。さらには国道240号マリモ国道そのものが武四郎の歩いた道にほぼ沿ってつくられているなど、時代の層が幾層にも重なった道であることを知った。これぞクラシック!

旧雄別鉄道跡は現在、市道で国の近代産業遺産に登録されたルート。ホルンナイという岩穴のある処で、ここに伝わるアイヌの小人伝説を解説。(「里の道」)


▶研究会のメンバーは湖畔在住の自然ガイドやアイヌコタンでアイヌ料理を営むもの、前田一歩園財団、ホテル従業員など、30~40代のこれからの阿寒観光を担う世代。新しい観光文化としての〈歩く観光〉を意識した商品開発も目標の一つと位置づけた。
まさに古きを訪ね、新しきを知る、「温故知新」をポリシーにした。
阿寒湖温泉は北海道を代表する温泉観光地の一つだが、これまでのイメージが固定化し、なかなか新しいイメージを打ち出しにくいのが現状だ。豊かな自然を活かしたアウトドア基地阿寒を目指して、この研究会の活動が少しでも観光振興につながるように様々な試みをした。
3つのルートの日帰りイベントを基本に、昔、コタンがあった飽別では旧小学校を借りて宿泊イベントを行った。阿寒湖アイヌコタンの古老に昔のコタンのお話をしていただき、アイヌの伝統音楽を継承する「カピウ&アパッポ」のコンサートも焚火を囲みながら行った。


▶近年、フットパスやロングトレイルが各地で生まれてきている。道東でも、厚床をはじめとする根室地方のフットパスや北根室ランチウェイのロングトレイルなど魅力的な歩く場所が生まれているが、我々はその原点を「はじめにルありき」と表現した。つまり、アイヌ語で〈ル〉、人や獣が踏み分けた道が原点にあるということだ。北海道の歩く道は、アイヌ地名に呼応する豊かな自然の多様性に溢れているとともに、開拓の歴史を風土に刻んだところが特徴だ。時代に則した新しい活用方策を考えていきたいと思った。(続く)

「山湖の道」の峠越えの道はルベシベと日誌に記され、その頂上部は標高620mのルチシ(峠)だ。阿寒湖の湖面が遠望でき、ゴールは近い。