「『クスリ凸凹旅日誌~24の旅のカタチ』」カテゴリーアーカイブ

『クスリ凸凹旅日誌』▶6話:歩く旅。ガイドの原点


2006年1月20日~24日名古屋市 熊野古道(中辺路、熊野三山、那智の滝ほか)

熊野古道中辺路の牛馬童子と記念写真


旅元のトラブル
 旅先で大きなトラブルに遭遇したことはない。しかし旅元、つまり旅行中の自宅が大きなトラブルに見舞われた。
 この旅は名古屋在住の甥っ子の結婚式に出席するのがメインテーマであった。このため通常は出かけることのない真冬の旅となった。北海道は1月下旬から2月上旬にかけてが最も寒い期間である。この時期は旅行に行っては行けない危ない時期なのだ。
 以前勤務していた港湾部でこの時期に釧路港の港が凍結したことがあった。このためLPGタンカーが入港できず、不凍港といわれている釧路港が凍結することで、ここを基地として道東各地や道北に輸送するプロパンガスが停止した。氷が溶けないので最終手段として港を浚渫しているクレーン船に氷を割ってもらい窮地を脱した。そんな苦い経験を思い出す。
 ボクたちは1月21日の結婚式に合わせて前日出発し、結婚式が終わった後は熊野古道を探訪し、釧路に戻る4泊5日の旅を計画した。出発前に水道の元栓を閉め、万全の体制で出かけたつもりだった。
 しかし…、

 帰釧すると、どうも家の中の様子がおかしい。元栓を開き水道の蛇口を開けても水が出ず。そのうち台所の下や、トイレの中で妙な音がすると水が湧き出してきた。よく見るとトイレが割れている。な、なんと家の中の温水器やトイレや水道管のなかの水が凍結し氷となって管が破裂しているのである。
 我々が旅行中の釧路の最低気温(すべて氷点下)は20日ー9・4度、21日ー13・9度、22日ー16・3度、23日ー18・3度と右肩下がりの冷凍庫状態であった。結局補修するのに旅行費用の倍以上のお金がかかった。
 その後、我々の旅行は、この教訓を生かし、①真冬は旅行しない ②水道の元栓を締めるだけではなく、室内にある水を全て排水する作業を行う。これには専門家の指導を受け、忘れない為にマニュアルを作るほどの念の入れようになったのである。

ガイドの原点
 この旅で初めてガイドというのを熊野観光協会を通して依頼した。有償ガイドでそれなりの料金であった。1日中ガイドされるのは独学志向のボクにとってはちょっと煩わしいので、午後からの半日ガイドをお願いした。午前中はボクらだけで熊野古道を歩いて雰囲気をつかみたいと思った。
 熊野古道を選んだのは、世界遺産指定は意識したが特別に興味があったわけではない。中上健次の小説は何冊か読んではいたが、映画化された『赫い髪の女』(熊代辰巳監督)、『十九歳の地図』『火まつり』(柳町光男監督)などの映画の方が身近であった。特に柳町監督作品は映画サークルで上映したこともあり、監督とも会ったことがある。南方熊楠のことは興味があったが、奇人として捉えていた。
 どうも熊野というのは何か因縁のある土地のような気がしていたが、ボクにはちょっと奥が深すぎて手に余る処のような気がしていた。

 ガイドをつける価値があると思った。玉井さんという女性のガイドは、その後のボクにガイドの道を開いた原点になった。本人が聞いたらびっくりするかもしれない。旅行の時点でそう思ったわけではない。その後、旅先では意識的に地元のガイドや施設のガイドサービスを利用するようにした。特に熊野古道や遠野など土地の歴史や風土の背景を知っていることが旅をより楽しくする旅先ではガイドの力は大きい。
 玉井さんは決して多弁ではなく、歩きながら合間、合間に風景や道端の史跡を説明してくれた。そのリズムがなかなかいい。ボクたちの質問にも的確に答えてくれた。ガイド、特に無償のボランティアガイドなどはガイドが自分の知識を我々に伝えることに一生懸命なあまり、一方的になり、こちらの気持ちは置いてきぼりのことがままある。高齢の方にその傾向が強い。自戒したい。

 
 ボクたちは熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)を巡り、那智の滝を拝み、熊野信仰の原点といわれ、熊野の神々が降臨したゴトビキ岩と呼ばれる巨岩のご神体が断崖上に祀られている神倉神社にも行った。
 旅先の現場でしか味わえないこととは何だろう? 熊野古道のことを知りたければ歴史書や映画や小説など様々な表現物が導いてくれる。現地でなくては感受できないもの。ひと言でいえばセンス・オブ・ワンダー(レイチェル・カーソン)。興味への気づきとでもいおうか。現場でインスパイアされるもの。
 玉井さんが現地で説明してくれたことをボクは今はほとんど思い出せない。でも熊野古道は「いいなぁ」と気づかせてくれた。またいつか熊野古道を歩いてみたいとおもった。東京に戻り新宿のタカシマヤ紀伊国屋書店で『熊野古道』(小山靖憲著 岩波新書)を購入し、釧路への帰路に完読した。

 SIT(Special Interested Tour)という分野が旅行にはある。特定のテーマに沿ったグループツアーである。ボクがガイドする釧路湿原の観察ツアー、松浦武四郎の古道散策、バードウォッチングツアーもSITである。
 ガイドの力は大きい。しかしガイドはお客さんに寄り添いながら、気づきをサポートすることが重要だ。出しゃばりすぎはよくない。でも引き出しは沢山用意してくことが重要。
 ボクは8年後、市役所を退職し、クスリ凸凹旅行舎というネイチャーガイドの会社を立ち上げた。この会社は地域出版物も手がけているので「ガイド」と「出版」が活動の両輪である。
 現地での旅を終え、書籍でその旅を振り返りながら知識を膨らませ、興味を広げるいわば「読む旅」も手掛けたいと思った。
 新たな旅文化をつくる。熊野古道はそういう志のガイドの原点になったのである。


                 

『クスリ凸凹旅日誌』▶5話:飛んで、飛んで、 ワールドプロモーションの旅

2005年8月17日~24日
英国(ラットランドウォーター ロンドン)

ブリティッシュ・バード・ウォッチング・フェア(BBWF)は英国ラットランドウォーターで開催される世界最大のバードウォッチャーのための旅行博。釧根連携で出展しました。


ナンバーワンよりオンリーワン
 ANAヨーロッパの社長であったNさんが観光振興室に来られたのは確か2003年であった。Nさんは東北海道の自然資源のポテンシャルの高さを評価し、中でもバードウォッチングが世界的に見ても有望な観光資源であることを強調した。
 彼自身勤務地のロンドンで在住日本人を対象としたバードウォッチングツアーを販売した実績もあり、一方で自らが熱烈なバードウォッチャーとして道東を何度も訪れている経験をお話しされた。自分自身の経験知がビジネスの可能性を拓く、言わば〈好きこそものの上手なれ〉を地で行くような人であった。ボクも自宅の小さな庭に餌台を置いて家族で始めたバードウォッチングがファミリーブームとなっていて、公私混成の観光振興にちょっと胸が踊った。


 Nさんの観光開発理念はナンバーワンよりオンリーワンに集約された。野鳥観察は日本だけでなく世界のバードウォッチャーにとっても、この地域が魅力的なデスティネーションになることをNさんは自らのバーダーとしての経験と、旅行エージェントとしての経験を重ね合わせて、この地域の可能性を確信しているようであった。
 合理的な説明と共に、具体的な提案もされ、さすが第一線のビジネスマンはかくありとおもわせた。提案とは、英国で開催されているブリティッシュ・バード・ウォッチング・フェア(以下BBWF)への地域としての参加であった。当時、インバウンド観光誘致の主体は釧路空港国際化推進協議会が担っていた。官民一体の団体ではあったが釧路市がその事業費の大宗を担っていたため、会員であった根室管内の自治体にとっては釧路空港国際化のお付き合い程度の協議会だったのかもしれない。
 しかしアジア圏のチャーター便誘致が本格化し、海外の旅行関係者を地域に案内する機会が増えてきた折り、会員である根室管内も不公平がないようにと紹介するのだが、アジアの団体旅行客ツアー行程の中には根室管内は全然含まれなかった。
 地域側も温泉地がない点もあり、仕方がない諦めムードもある中、Nさんのこの提案は、この地域に眠っていた潜在的な国際観光資源の可能性を開いた。

いざ、バードウォッチングの本場へ
 早速、釧路と根室が中心となってBBWFへの出店準備が進められたが、そこでもNさんのビジネススキルは遺憾なく発揮された。世界最大のバードウォッチングフェアである BBWFへの日本からの出展はニコンやコーワなどの光学機械メーカーのみで、旅行代理店にとってはノーマークのフェアであった。 
 しかし中南米のコスタリカを始めエコツアーが注目され、欧米のネイチャーツアー市場にとってバードウォッチングツアーは、それなりの市場規模を持つに至っていた。
 英国のバードウォッチング人口は約300万人といわれ、人口が6千万人強なので20人に1人はバードウォッチャーであった。BBWFはRSPB(英国王立鳥類保護連盟)と会場になっているラットランドウォーターという地域のトラスト団体が主催者であった。ちなみに、我が国最大の自然保護団体である「日本野鳥の会」が会員約3万人ほどの時、RSPBは約60万人の会員を有していた。 


 BBWFは観光のみならず、鳥文化全般に関わる人々が集まるフェアであった。世界の探鳥地として可能性を秘めた地域の政府機関や自治体、イギリス国内の旅行代理店、そして世界を代表する光学機械メーカー、書籍、バードカービング、音楽、絵画等々。鳥に拘る国際文化祭という趣であった。
 巨大なテントが何張も設営された屋外フィールドに大小合わせて4百以上のブースが出展される規模であった。人気のあるフェアのため、出店希望者は既に2百件以上の出展待ちがあった。Nさんは主催者と掛け合い、極東地域からの出店を待望していた主催者とも話がつき、我々はスキップして参加が認められた。
 開催期間の3日間の間、我々のブースには一般のバードウォッチャーはもとより世界から出店してきた政府機関や自治体の人たちも入れ替わり立ち替わりやってきた。口々にタンチョウやオオワシのことを尋ね、改めて東北海道の魅力を評価する人が世界にいることを実感した。
 我々も他のブースに出向き、イギリスの旅行代理店にはツアーの誘致を促し、中南米やアフリカのブースでは来客者に振るまわれる食べ物やワインを頂いたりして、お互いちょっとした国際交流の場でもあった。

フェア参加が地域にもたらしたもの
 BBWFへの出店は我が国の政府機関や観光団体にも北海道のネイチャーツアーの可能性を認知せしめるとともに、アジア圏一辺倒であったインバウンド誘致に新たな方向性を見いだす先鞭となった。
 しかしながら釧路空港国際化推進協議会の基本戦略はチャーター便の誘致だったため、協議会としては2年間この事業に関わったがそこで釧路の参加は撤退となった。担当者だったボクとしてはそれでは済まない、と思い継続の意思を示していた根室市とともに阿寒町(合併前)、鶴居村、浜中町の管内自治体や民間団体、個人に働きかけ、結局、BBWF参加は以降、10年間地域連携で継続実施された。
 その間にNさんはANAを早期退職され、根室に移住を果たすという本気度を我々に見せ付けた。根室観光協会に籍を置き野鳥観察施設であるハイド(hyde)の建設、漁業者と連携し落石クルーズによる海洋野鳥観察ツアー開発、国際野鳥ガイドの人材育成事業等々この地域の受け入れ態勢の土台を作った。


 ボクも役所を退職した後、自然ガイドという仕事を選んだ理由はこのBBWFへの参加やNさんとの出会いがその原点になっている。当時会場で英国バーダーのリクエストにあったのは「日本に是非行きたいが、ガイドを紹介してほしい」というものであった。そしてそれを実現するためには大きなハードルが我々にはあった。
 ネイチャーガイドが自家用車を移動案内手段に使う上での合法的措置。 
 日常会話・野鳥観察の専門用語を習得したガイド養成。顧客・ガイドも含めた保険対応等危機管理支援など。当時から、そして今もなお解決していない問題を抱えている。ボクが問題解決にどれだけ寄与できるかはわからないが、その一端を担うのがネイチャーガイドを目指した理由でもある。
 この地域の世界に通用するオンリーワンの観光資源が豊かで多様性にあふれた自然素材であることは間違いないと確信している。そのなかで、ネイチャーガイドが観光プレイヤーの一翼として認知され、地域の雇用にとって可能性を広げることがボクのミッションと自覚している。その意味で、BBWFはこれからの道東観光誘致のベースになった旅であった。  

釧根のスタッフとNさんの会社の方、そしてボランティアで支援してくれた国際バードガイドのSさん。一同でブースの前で記念写真。牧草地に設営されたテントなので草地です

『クスリ凸凹旅日誌』●随想①私の旅スタイル

登山も海外もいつでもどこでもリュックご愛用(スペイン、マドリッド駅)

塩 幸子

●「荷物は背中に」がモットー
 どこに行くにもリュックにしている。どうも荷物を手にすると、右か左に偏りがちになる。
 リュックなら背中で左右対称だ。
 ウォーキング、スーパーへの買い物、便利だ。私の住む美原では遊歩道が周りをとり囲む。この道を歩けば、車が入ってくることはない。安心して歩けるが困りごともある。自転車だ。音無しで超スピードでいきなり追い越されるとドッキリだ。自転車は遊歩道で、我がもの顔で走る。万が一、追突されたらと思うと冷や汗ものだが、それをリュックがカバーしてくれると信じている。

● 旅では荷物は最低限がモットー
 登山以外の旅行の衣類は替え一組と決めている。このスタイルは自分との戦いに負けない意志がカギだ。
 旅の1日は歩き通しに近い形となる。特に海外では神経も使うのでクタクタで宿に入る。
 シャワーの後はまず洗濯だ。部屋には小さな石鹸が必ず付いている。洗濯物の手洗いはお手のもの。脱水は手とタオルだ。手で絞るだけ絞って、仕上げはタオルで挟んで絞る。部屋付きハンガーを使って干し、翌朝ドライヤーで仕上げて終了。疲れた1日の終わりのこの作業は、強い意志が必要となる。干された洗濯物を見て、深い満足感を得て眠りにつく。
 そして何といっても荷物を預けず機内直行が楽だ。リュックはそのために重さ(8キロ)、サイズの制限を守って荷造りする。着陸時もリュックを背に短時間で空港を出られる。ある時、一番の早さで税関のチェック時、荷物検査員に足を止められた。不定期の検査が入ったようだ。何の心配もないがドキドキする。調べ終えた検査員が「少ない荷物で旅慣れていますね」と声を掛けてくれた。ヤッターと思った。

● 旅行計画を楽しむがモットー
 本番前に楽しむ。それは重要なことだと思う。山は主に私、海外旅行は主に連れが計画する。だが役割分担は最小として、できるだけ同じように旅行内容を把握することとしている。
 楽しさと苦しさが入り混じった旅があった。九州旅行。もう25年余り昔のことになるが9泊10日の春の旅だった。今となっては懐かしさに、連れとこの旅の話に及ぶことが多々ある。
 娘は小学生。学校を10日間休んだ。長い休みになるので担任に手紙を書いて、娘に持たせた。
 幾日待っても反応がなく、痺れを切らして連絡を入れた。「勉強のことを考えると勧められません」これが返答だった。
 娘の荷物は教科書で一挙に増えた。〝ええよぉ、それなら〟という私の考えで、宿に入ってからしっかり娘は毎日時間割通りの勉強をこなした。完全に学校の勉強など忘れて、楽しめなかった。私の小心さが今でもひっかかる。
 桜はすでに終了していたが、春の九州はあれもこれもと、一つ一つ笑える思い出を私たちにもたらしてくれた。ただこの旅の計画は連れがたてた。帰宅して旅の順路がうまく思い出せなかった。計画にしっかり参加しなかった反省が残った。
 一つ一つの旅を終え、今のスタイルが出来上がってきている。後はもう体力の出来る限りの持続だと思う。

『クスリ凸凹旅日誌』▶4話:出張という名の 海外旅行

2001~2009 台湾、韓国、香港ほか

台湾の中華航空へのプロモーション(2002年)

公私混成の観光振興
 1973年釧路市役所に入所してから42年間、自治体職員をしてきた。ほとんどは経済畑を歩んできたが、中でも観光は最後の5年間の阿寒湖温泉勤務も含めて14年間の長きにわたって携わってきた。
 市役所には本人申告といって1年に1度、自分の希望する職場を申告する制度がある。ボクは結構な頻度で申告をしてきたが唯一希望が叶ったのが観光の職場であった。
 公務員は公私混同がない生活スタイルを求められるが、ボクは〈公〉の仕事と〈個〉の仕事が峻別されることに与しない方だったので、勝手に俺は〈公私混成〉で行くんだと決めていた。
 2001年にこれからは観光の時代ということで格上げされた観光振興室という職場に赴任した。ボクはその中でも希望して当時の観光振興をリードするインバウンド誘致の仕事を担当させてもらった。釧路空港へのチャーター便誘致を主軸にしたインバウンド観光客誘致の黎明期であった。釧路空港国際化推進協議会という官民共同のプラットホームがあって、そのプロモーション事業の担当となった。台湾、韓国、香港など近隣アジアからチャーター便を誘致し団体観光客を東北海道に誘客するのが目的であった。


 海外というのは地方公務員にとってはほぼ無きに等しい出張先であったが、時代が変わって仕事の必要性があれば、東京に行くのも台北に行くのも変わりはない。だが当時、市職員が海外出張に行くのは珍しく、餞別と称して上司の部長から金一封を頂いたことがある。
 当時の誘致事業の流れは、訪問団を結成し、航空会社を訪問し、チャーター便の誘致を要請する。そして主要な旅行代理店を訪問し、釧路地方の観光地としての魅力を紹介する。夜は関係者をお招きしてレセプションを行い交流を深める。
 その後、関係者を釧路に招待し、観光地を案内するFAMツアーという視察ツアーを行う。
 まあこんな感じでチャーター便を利用した団体客が次から次と北海道を訪れ、年間2百便以上もチャーター便が釧路空港にやって来た。役所の仕事で成果がこれほど明確に形になることはそうあるものではなかった。
 ボクが携わっていた時期は、台湾が中心で香港、韓国と続き、これからは中国本土が中心という流れであった。約10回ほど海外出張に赴いたが、台湾が一番多く6回行った。それぞれの国にはそれぞれの事情があってプロモーションも同じではない。台湾は中華航空とエバー航空という2大キャリアの力が強く、旅行代理店はそれぞれのキャリアの系列下であった。このため座席は航空会社が旅行代理店に配分し、販売させる形だった。


 初期のインバウンド観光を牽引した台湾は住民の出国率も高く日本のJPOPやアニメを愛する哈日族と呼ばれる若者を中心とした日本オタクもいて、子供から大人までが親日的であった。中でも北海道は、本当はカナダの雪に憧れている台湾の人が、その代替として近くの北海道が注目されてる、と台湾の人から聞いたことがある。
 台湾は中国の一部として国連の承認も得られず、日本とも国交がなく、政情が不安定なこともあり、子息を海外留学させ、生活拠点を分散させている、という話も聞いた。確かに我々が誘致作業をするときは、正式な政府機関がないので民間組織の台北駐日経済文化代表処が、中華民国(台湾)の日本における外交の窓口機関であった。また、中華民国(台湾)側にも「亜東関係協会」(今は「台湾日本関係協会」に改名)があった。色々偉い人にもお会いしたが台湾の人は概ね友好的で、それはきっとトップダウンの交流が保障されていない中でボトムアップの交流が拠り所であったせいなのかもしれない。
 観光が地域の主要産業に押し上げられインバウンド観光への期待がますます高まるなか、ボクは市役所を定年退職した。退職後の職業に自然ガイドを選んだのは理由がある。団体客から個人客へ、国内観光客から海外観光客へ、地域観光の個性化を通した観光地の魅力アップ 等々、時代の変化の中で、地域の観光振興策を考えた時、必要なのは新たなニーズに対応した雇用モデルの創出だと思った。
 若い人が海外からの個人客をガイドし、広域に広がる東北海道の第一級の自然の魅力を伝える。そのための自然ガイドの職業としての可能性を広げたいと思った。

観光で試される地域力とは
 コロナでインバウンド観光の先行きが不透明である。これまでもインバウンド観光はSARSや領土問題、教科書問題などの歴史認識等々、様々な課題に折り合いをつけながら絶えることはなかった。それは一言でいってしまえば〈旅の魅力〉が成せるものなのかもしれない。
 観光振興に携わっていた当時、「試される大地」という北海道のキャッチフレーズがあった。ボクはこのキャッチフレーズがお気に入りだった。
 台湾第二の都市・高雄行った時、現地の交流協会の方が、
「塩さん、貴方の住んでいる街が10年後なくなることは想定していますか? ボクたちは今の高雄がこのまま続くかどうかわかりません」
といった。
 今になるとその言葉に込められた切実さがわかるような気がする。
 香港そして台湾をめぐる中国との政治的緊張感が増す中、コロナはもとより、これまで普通であったことが遠い昔のことに変わる状況が目の前に出現しつつある。「試される大地」この言葉がよみがえる。
 観光は平和産業である。「観光は平和へのパスポート」は国連が1967年の国際観光年に発したスローガン。観光振興とは産業だけのものではない、文化や歴史を通し、人々が交流し、理解する活動の姿である。
 観光振興で培ってきた我々の〈旅文化〉は今、疫病や政治体制の変動など、我々に災難をもたらす要因にどう立ち向かうか、どう折り合いをつけるか、試練の時を迎えている。
 試される大地がその真価を問われるときである。その土台に個人としての旅文化があることはいうまでもない。公私混成なのである。

『クスリ凸凹旅日誌』▶3話:山々への気づき あこがれの北アルプス

1995年9月20~26日 燕岳、槍ヶ岳ほか
 塩 幸子

道を間違えやっとたどり着いた燕岳の稜線

私の山々への気づき
 40代半ば両膝に痛みを覚えた。登山を大きな楽しみにしていただけに憂鬱な体調変化に何かしないと覚悟を決めてウォーキングを始めた。健康関係のテレビ番組で、歩くだけではダメと気づき、膝周りの筋肉を鍛えることとした。
 朝、目覚めてから、夜、布団に入るまで、一つひとつの軽い筋トレを日常生活に取り入れた。安心して歩きたい、登りたい、下りたい、この一心だった。時間、場所、お金の心配なく日々生活の中のなかで続けたことが成功の要因だと思っている。
 40代の十年間登れない時期を過ごし、55歳の時に雌阿寒岳を痛みなく下りられたことに何よりホッとした。その後、連れと共に様々な道を楽しめてこられた。
 日々継続の力の賜物だった。

登山との出会い~初めての北アルプス
 小学校5年の時、友人宅で見たアルバムの写真に釘付けになった。「雌阿寒岳家族写真」、登山を私の内に大きな概念として受け止めた出来事だった。
 山とは深い緑、連なる沢山の木々では? 想像とは違う! 行ってみたい! 強く感じたあの感覚が忘れられなかった。中3の大雪山黒岳から始まり、現在までの山行は夏山中心で年数回の限りではあるがどれも思い出深い。
 近年は膝痛の心配が小さくなり、ここ数年間、続けて憧れのアルプスに行けたことが何よりも今の私を満足させている。
 高校生の時、図書館で『槍までの道』と題した雑誌の中の写真が目に止まった。それからは、すっごく北アルプス。ずっ~と北アルプス…だった。まず目に留まったのは天を突き刺す槍ヶ岳ではなく、「燕」岳。何でこの一字でツバクロと読むのか不思議だった。頂上あたりは奇岩の数々。山の頂は岩? それも白っぽい岩。この山を通過して槍に立てたら……。


 この時点で私は中学生の時、たった一度の大雪山黒岳登山経験しかない存在だった。憧れではなく夢のような北アルプスの山々。それから40年後、膝の調子も良好で雌阿寒岳を下れた私は、連れと燕から槍の計画を立てた。幾度も地図を見て山道を頭に入れた。「燕」の漢字も書けるぞと一応の準備として満足していた。充分とは思えないが、まあこのくらいでヨシとした。小5の娘を伴って三人で勇んで穂高駅に立った。中房温泉で一泊。翌日の好天を願い眠りについた。
 願った通りの晴れの朝を迎えて、整備された山道、途中の小屋で名物のスイカは食べられるかな? 辛い行程では楽しみが必要だ。一切れいくらかなぁ? と考えながら登り始めた。
 結構な登り時間が過ぎた。頭に入れた要所要所のポイントがなぜか出てこない。連れも変だと言い出し、ちょっと慌てて地図を広げた。大体、全く他の登山客に出会わない。登り人も下り人もいない。
 登山口を軽い気持ちで温泉客に聞いた〈一つ目の失敗〉。前日の下見を怠った〈二つ目の失敗〉。一瞬頭がくらっとした。まさかの間違い。登り口が二つあったのだ。幾度も地図を見たはずだヨ。下準備は十分だと思ったヨ。ドキドキしてきた。今更下れない。予定の1.5倍の登りになってしまった。
 しかしこの失敗が今も思い出に残る登山の一つになった。まずは稜線までの我慢だ。短いジグザグ急登の連続だった。数歩登って息を整える。何度も繰り返す。ふっと振り返ると富士が目に飛び込んできた。山歩きで初めて目にした富士だった。遠方だがその高さがよくわかった。嬉しかった。少し疲れがとれた。そんな気がした。

 燕岳から東沢岳を結ぶ稜線に出た。北アルプスの中心部が目前に突然現れた。沢を挟んで対峙する山脈の山々は薄いブルーに、点在する山小屋の赤い屋根、青い屋根。沢の下には湖が細長く光っている。高瀬湖だ。私にとってこの出会いが北アルプスの原風景となった。
 燕山荘で一泊。御来光を見て、客におねだりのイワヒバリを観察して、ゆったりとした朝の時間を過ごしているうちに、小屋の登山客は次の山を目指して誰もいなくなっていた。私たち家族が最後となってしまった。早出早着きが原則の山で、またしてもこの調子だ。
 薄氷の張ったなだらかな山道が続く。今ここにいるんだ、と現実の幸福感一杯に西岳まで歩く。槍は徐々にその姿を大きくさせた。西岳までのゆったりした道は終わり、アップダウンが厳しい山道となる。東鎌尾根だ。大きな岩場が続き槍岳山荘に着く。雲が湧いて陽が傾き、この日の槍ヶ岳登頂は明朝に持ち越した。翌朝、霧の中の槍の頂はどうも滑りそうだった。娘に怪我をさせてはと思いながらここまで来ていた。
 勇んで釧路を出てきたが、楽しみに浮き足立っているのはきっと私だけで、この登山で嫌な記憶が残り山登りはもうこりごりとは思われたくなかった。いつになくこの時の私は妙に慎重だった。
 石橋を飛び越える私。少し叩いて渡る連れ。叩いて壊れて渡れなくなる娘。三者三様の性格。慎重なのは大切だがこのコロナ禍の中、自宅アパートで仕事をしている娘は週一回買い物以外、外出してない様子なのだ。これはこれで心配。話を元に戻す。ふっ切れた思いだった。夢の北アルプスに来られたのだ。
 もう十分に満足していた。またの機会が必ずある、そう信じて上高地に下りた。