〈第七巻〉④「くすり乃たけごんげん」は何処

【第七巻】 摩周から屈斜路へ
神なる山は何処 ? 屈斜路カルデラを巡る

扉写真は摩周湖第三展望台から望む硫黄山と奥に藻琴山。上の絵図は蝦夷図全図(『三国通覧図説』所収図 林子平著1785年)北海道大学北方資料データベース 

▶釧路の厳島神社は安芸の宮島で有名な厳島神社の御分霊で「市杵島姫命」が主祭神。この他、複数祀られている神様の内、「阿寒大神」は雄阿寒岳、雌阿寒岳を霊峰とする山神様で、アイヌの神ともされている。(「厳島神社」ホームページより)
果たして円空が民の平安を願って遥拝した「くすり乃たけごんげん」とは何処の山だったのか。

絵図拡大。右上に「クスリ嶽」、左に「アカヌノ嶽」が表記。阿寒岳とクスリ嶽は違う山の可能性を示す。

▶江戸時代にクスリ場所を海からアプローチする時、シンボリックに見える山といえば、まず候補は、雌阿寒岳(1499m)または雄阿寒岳(1370m)。ちょっと奥には斜里岳(1547m)が見える。霊山としてはカムイヌプリ(神の山)と呼ばれ、崇められる摩周岳(857m)。アトサヌプリ(硫黄山)も伝説に彩られた山である。藻琴山(999・9m)は屈斜路カルデラの外輪山で平坦な山容で目立たないが、霊山という側面でみると決して侮れない。

▶藻琴山には2つのアイヌ名が付けられている。松浦図には「トウエトクシヘ又ウラエウシノホリ云」と記されている。釧路アイヌはトエトクシペto-etok-ush-pe〈湖の・奥に・いる・者(山、神様)〉と云った。逆方向の網走側の浦士別にもかつてコタンがあり、「浦士別川の水源にもあたるので網走側の呼び名がウライウシヌプリurai-ush(-pet)-nupuri〈浦士別川の・山〉と呼ばれていたのであろう」(山田)とのこと。
「山名はその下を流れる川の名前をとって呼ばれる場合が多い」(山田)との例によれば、オホーツク海に流れ出る藻琴川の水源もこの山なので、アイヌ地名ルールにならって現在の和名も藻琴山になったのだろうか。

松浦武四郎著「久摺日誌」に掲載された地図には「クスリ岳」の表記が藻琴山か、硫黄山のあたりに描かれている。

▶屈斜路湖の河口部東側にオプタテシケヌプリ(504m)という山がある。山田氏は著書『北海道の地名』で次のようにアイヌの古老八重九郎翁の話を紹介している。
「オプ・タ・テシケ・ヌプリ(op-ta-teshke-nupuri槍が・そこで・はねかえった・山)の意だろうか。オプタテシケは女山で、トイトクシペ(藻琴山)は男山だ。女は位があるので、ために槍を投げたら槍がテシケ(それる)して眠っている摩周湖ヌプリに刺さってその跡が赤い血の沼になった云々」
この伝説は有名なようで、知里真志保著『アイヌ語入門』でも「山争いの伝説」として紹介されている。同じ話なのだが、八重九郎翁はオプタテシケは女山で、知里真志保氏は男山としているところが可笑しい。知里版には後日談が書かれていて、「マシュウ岳(カムイヌプリ)は腹を立てて、千島のクナシリ島へ飛んで行き、チャチャヌプリのそばへ身を寄せたが、晴天の日にはトゥエトコウシペ(藻琴山)のもがき苦しむ醜い姿が見えるので、さらに飛んでエトロフ島に行った。釧路や阿寒のアイヌが千島に行くと、晴天でも雨が降るというが、それはカムイヌプリが故郷を思い出して流す涙だという…」
八重九郎翁曰く、「カムイノミ(神拝)する時には、山々の名を称えて献酒するのであるが、いかなる場合でもトエトクシペが第一に称えられる最高の神山」(『北海道の地名』山田秀三著)とのこと。

屈斜路湖から流れ出る釧路川河口左岸にあるオプタテシケ。伝説に彩られた山だ。

▶釧路の郷土史家・故佐藤直太郎の研究論文によれば〈「薬ケ嶽」の初見は『和漢三才図絵』(1713)であり、その後『蝦夷全図』(林子平著1785)には、「クスリ」の傍に「クスリ嶽」が描かれ、それより北東方向に「アカヌノ嶽」(阿寒嶽)も描かれている。伊能忠敬の実測では阿寒嶽のみが描かれ、航海者の目標にもなった。『北海道志』(開拓史編1884)の地図には釧路嶽、雌阿寒嶽、雄阿寒嶽がのっていて、クスリ嶽は薬ケ嶽なので阿寒嶽は別の山。釧路嶽=クスリ嶽=薬ケ嶽は釧路地方の代表的名山であった証拠。〉とされている。
多様な由来や霊山としてのエピソードも加味され、〈藻琴山こそがクスリの地のシンボルマウンテン・くすり乃たけごんげん〉とのおもいを強くしたのだが…。後年、武四郎の探訪記録にはウラエウシヌプリ=藻琴山とは別にクスリ岳と表記された絵図(野帳)もあり、佐藤氏はアトサヌプリ(硫黄山)がこれにあたるのではとの推察もされている。

屈斜路湖の東岸に並ぶ3つの山。左端がアトサヌプリ(裸の山。現・硫黄山)

▶ボクの両親の故郷は斜里である。父は斜里岳の麓・川上羅萠で、母は以久科という海岸線の集落で育った。父方の実家の裏には小さな祠があり、祖母が山に向かい手を合わせていた姿を覚えている。以久科はボクの見立てではもっとも斜里岳が美しく見える処である。すそ野まで左右対称にのびた山容は全身斜里岳である。さらに山頂からは実家も含めオホーツク海に抱かれた原野が見渡せる。双方向視界全開のシンボルマウンテンである。
我が家の祖先のみならず、オホーツク人はもとより、古の先人達は、此の山に何を祈り、何を感謝して日々生き抜いて来たのだろう。
「ふるさとの山に向かいて言うことなし
 ふるさとの山はありがたきかな」(木)

斜里町以久科から見た斜里岳は最も均整のとれた山容。我が先祖の入植の地でシンボルマウンテンだった。

▶釧路で育ったボクは製紙工場の紅白の煙突にたなびく白煙を背景に遠望する雄阿寒岳、雌阿寒岳を見ながら少年・青年期を過ごし、そして老年期を迎えた。2022年春、その白煙は工場の閉鎖で途絶えたが雄岳、雌岳は変わらぬ山容を今に留める。
伊能忠敬は此の山を測量の標とし、松田伝十郎は海霧のなかに頂きを探したに違いない。アイヌたちは阿寒川沿いにこの山を頼りに湖畔を目指した。その阿寒の山が「くすり乃たけごんげん」か、否かは研究者に任せるにしても、ある刻から阿寒大神の山神になったことは納得できる。歴史の謎解きに身を委ねれば藻琴山か、硫黄山のいずれかが「くすり乃たけごんげん」なのかも知れない。しかし、時代の変遷にそってシンボルマウンテンは替わり、今日、道東に暮らす多くの北海道人が、それぞれのおもいをよせるシンボル・マウンテンが複数存在することも確かである。
単身赴任で5年間、阿寒湖温泉に暮らしたボクにとっても第二の故郷の山は雄阿寒岳、雌阿寒岳である。「くすり乃たけ」がシンボル・マウンテンズになるのも時の流れ。(終り)

武四郎が描いた釧路会所の図(『東蝦夷日誌』)背後に道東のシンボルマウンテンズが連なる