「武四郎逍遥」カテゴリーアーカイブ

第十一巻 ④武四郎は水夫となって…

【第十一巻】落石から納沙布まで
バードウォッチャーは極東を目指す

扉写真は国後島の島影。上は武四郎の千島探訪を描いた関谷敏隆さんの絵本「北加伊道」

▶武四郎は根室を自身初めての蝦夷地探訪であった弘化2年(1845)、4回目の安政3年(1856)と最後の6回目の安政5年(1858)に訪れている。これに加え、嘉永2年(1849)には、江戸幕府大老井伊直弼の御用商人だった場所請負人の柏屋喜兵衛(近江商人)の長者丸という船に乗り、色丹島、国後・択捉島を探訪している。この時は箱館を発って、ユルリ島にも立ち寄ってるので、これも加えれば、根室地方には4回来訪していることになる。
▶この千島列島への航海で武四郎は、船に水夫の身分で乗り込み、国後島や択捉島の山川や岬の様子、そして様々な野鳥や魚、動物などをアイヌの案内人と一緒に観察し、日誌に記録している。
何十万羽のハシボソミズナギドリが海面を群飛び、イルカやクジラ、エトピリカ、サケ・マス、昆布、クロテン、カワウソ、ラッコ等々、豊富な自然資源がこの地に溢れている様子が伝わる。これらの生物は博物学的視点と物産品という見方で捉えられており、『蝦夷訓蒙図彙』や『蝦夷山海名産図会』などの著作で紹介されている。
武四郎をこよなく愛する絵本作家の関谷敏孝さんは『北加伊道~松浦武四郎の蝦夷地探検』に型染版画という技法を使って、この時の探検の様子をメインに描いている。


▶現在、根室の代表的な観光資源は何と言っても北方領土を見渡す納沙布岬と花咲ガニに代表される豊富な魚介類のグルメであるが、これに野鳥観光とともに〝日本百名城〟に選ばれた「根室半島チャシ跡群」が加わった。チャシはアイヌの史跡で、戦いの砦、祭祀の場、見張り場など多目的な用途に使われた場であるが、根室半島には32箇所もある。道内では松前城とともに日本百名城に登録され、このお城巡りが新たな観光資源となっている。
▶野鳥とお城とはなんとも不思議な取り合わせだが、同時に両方の魅力を味わえるおすすめの場所を紹介したい。
納沙布岬から北側を根室市街に2㎞ほど戻ると温根元という小さな漁港がある。ここに温根元ハイド(観察小屋)とヲンネモトチャシがほぼ並んで岩崖の突端にある。ハイドからは眼下に広がるオホーツク海と岩礁の周辺を漂う水鳥や、岩の上に佇むオオワシなどが観察できる。珍鳥チシマシギの観察例も多い。
ヲンネモトチャシは百名城に指定された「根室半島チャシ跡群」の一つで、アイヌのチャシ跡から遠方の知床半島や北方領土を眺め、古の蝦夷地の面影を偲ぶ心持ちになる処だ。厳冬期には氷上を渡って先住の民たちは移動したのだろうか。



▶海外のお客さんを案内して、野鳥や観光資源を紹介することはある程度できるようになったが、宿泊した宿でのアフター5にボクも武四郎の探検やアイヌ文化を紹介する魅力的なお話しと、それを伝える語学力をなんとか身につけたいと思っている。
現在、国や北海道が力を入れている海外からの誘致策は、アドベンチャー・ツーリズム(略してAT)だ。ATは、アクティビティ(体験プログラム)、自然資源、異文化体験の3つの要素がが備わっている観光の形なのだそうだ。北海道の魅力を活かしたツーリズムである。
道東はまぎれもなくその適地ではあるが、その活かし方についてはまだまだ工夫と開発の余地があると思う。そのヒントを求めて、この地を紹介した武四郎の旅行記『納沙布日誌』でも携えながら根室にバードウォッチングに出かけたいなぁ、と思う。
冬将軍の到来と冬鳥たちの飛来の知らせを聞く。あの荒涼とした大地とモノクロームな海原を見つめながら、北からの風に身をまかせたい心持ちになるのである。(終り)

ノッカマップ周辺の断崖に佇むオオワシ。背景は流氷押し寄せるオホーツク海と知床半島。

第十巻 ②古の国際交流

【第十巻】 厚岸から霧多布へ
 「岬と花の霧街道」を行く

仙鳳趾から舟で厚岸会所についた様子を伝える『北海道歴検図』のアッケシ図(部分拡大)

▶17世紀から19世紀にかけては、ロシアの南下の動きや諸外国のアジア進出と通商要求が蝦夷地の周辺でも賑やかになってきた。厚岸周辺でも様々な出来事があった。時系列で追いながらこの前後の厚岸が海の玄関口としていかに重要な拠点であったかをおってみたい。
ジパング(日本)に金銀を探して、フリース船長率いるオランダ船カストリウム号が厚岸に寄港したのは1643年。その航海記録には当時の厚岸の様子が記されている。18日間の滞在中、アイヌとの交流もあり、牡蠣とハマナスの実がアイヌから船に贈り物として届けられている。クスリの初見はその航海日誌にあるが、フリースは厚岸湾をグーデホープ湾(希望湾)と名付けたほか、各所に地名をつけ、見聞記をオランダで発表するなど、さしずめ〈オランダの武四郎〉。
時は経ち1779年、愛冠岬から東側を望む海岸の筑紫恋にロシア人シャバーリンを長とする一行が交易を求めてやってくる。その案内をしたのは後にクナシリ・メナシの戦いで蜂起した国後アイヌの長であるツキノエであった。

筑紫恋の上陸したシャバ―リン一行の様子を伝えるオランダの文書


▶ロシアの商人たちは千島列島に沿って南下しはじめ、アイヌとの交易が進められていくがその動向に幕府は危機感を抱き、1785年に大規模な蝦夷地調査を行う。その拠点が厚岸であり、アイヌのリーダーであるイコトイが案内役を担った。一行には探検家・最上徳内もいた。1789年に場所請負人に不満を持ったアイヌが蜂起し、クナシリ・メナシの戦いが勃発するが松前藩の鎮圧により国後のリーダーであったツキノエは同族と共に、大きな打撃を受ける。
▶1792年にロシアの使節アダム・ラックスマンが国書を携え根室に行ってくる。翌年には厚岸を経由して松前に上陸し幕府と交渉を行う。蝦夷地探訪の先駆者である最上徳内は生涯9度も蝦夷地を探訪し、1798年には択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建立し、領土を示す。
危機感を高めた幕府は1799年に松田伝十郎が中心となり政徳丸で江戸~厚岸の航路を拓く。この航路開拓は蝦夷地を経営する奉行所を箱館ではなく、厚岸にする幕府の意向があった。江戸・東北・蝦夷地を海路で結ぶ「東海路構想」は実現しなかったが、厚岸が江戸時代蝦夷地第一の湊といわれた証を示している。1805年から6年にかけてロシアのレザノフの通商要求を拒絶したことに端を発し、露寇事件が勃発。幕府はロシアへの対応を巡り極度の緊張状態に陥る。
▶その後、ロシアがナポレオン戦争のロシア戦役に対応するため、しばし極東は平安を取り戻すが、1821年に幕府から再び松前藩の管理になったのにあわせるかのように、再び外国船の動きが活発になる。1831年には羨古丹沖(浜中湾)に現れた外国船が上陸し、厚岸会所の役人、アイヌらと戦闘となる。この船はオーストラリアの捕鯨船と伝えられている。1844年にはフランス船がバラサン沖に出現し、食料燃料を補給し、何事も起こさず湊を離れる。1850年にはオーストラリアの捕鯨船イーモント号が末広沖で難破し、乗組員32名が厚岸の人々によって救助された。これが縁となり厚岸とオーストラリア、クラレンス市とは姉妹都市提携を結ぶ。禍福は糾える縄の如し。この交流は今日まで続く。
▶クラレンス市はオーストラリアといっても、大陸の南東部に位置するタスマニア島の街である。タスマニア島といえばハシボソミズナギドリの繁殖地として有名。この海鳥は、最も長距離の渡りをする鳥として知られ、5月の下旬から6月にかけては厚岸沖から根室沖、知床を大群で通過し、ベーリング海から北極海まで約32000㎞を渡る鳥類の最長フライヤーである。人も野鳥もオーストラリアとは縁が深い。
1853年ペリーの黒船が浦賀に来航。翌年、幕府は鎖国を解き、開国。長崎、横浜とともに蝦夷地では函館が開港し、幕府は蝦夷地の管理を再び松前藩から直轄地に移すことになる。(続く)

世界の海を支配した17世紀のオランダの様子を展示したアムステルダム国立美術館

〈第七巻〉④「くすり乃たけごんげん」は何処

【第七巻】 摩周から屈斜路へ
神なる山は何処 ? 屈斜路カルデラを巡る

扉写真は摩周湖第三展望台から望む硫黄山と奥に藻琴山。上の絵図は蝦夷図全図(『三国通覧図説』所収図 林子平著1785年)北海道大学北方資料データベース 

▶釧路の厳島神社は安芸の宮島で有名な厳島神社の御分霊で「市杵島姫命」が主祭神。この他、複数祀られている神様の内、「阿寒大神」は雄阿寒岳、雌阿寒岳を霊峰とする山神様で、アイヌの神ともされている。(「厳島神社」ホームページより)
果たして円空が民の平安を願って遥拝した「くすり乃たけごんげん」とは何処の山だったのか。

絵図拡大。右上に「クスリ嶽」、左に「アカヌノ嶽」が表記。阿寒岳とクスリ嶽は違う山の可能性を示す。

▶江戸時代にクスリ場所を海からアプローチする時、シンボリックに見える山といえば、まず候補は、雌阿寒岳(1499m)または雄阿寒岳(1370m)。ちょっと奥には斜里岳(1547m)が見える。霊山としてはカムイヌプリ(神の山)と呼ばれ、崇められる摩周岳(857m)。アトサヌプリ(硫黄山)も伝説に彩られた山である。藻琴山(999・9m)は屈斜路カルデラの外輪山で平坦な山容で目立たないが、霊山という側面でみると決して侮れない。

▶藻琴山には2つのアイヌ名が付けられている。松浦図には「トウエトクシヘ又ウラエウシノホリ云」と記されている。釧路アイヌはトエトクシペto-etok-ush-pe〈湖の・奥に・いる・者(山、神様)〉と云った。逆方向の網走側の浦士別にもかつてコタンがあり、「浦士別川の水源にもあたるので網走側の呼び名がウライウシヌプリurai-ush(-pet)-nupuri〈浦士別川の・山〉と呼ばれていたのであろう」(山田)とのこと。
「山名はその下を流れる川の名前をとって呼ばれる場合が多い」(山田)との例によれば、オホーツク海に流れ出る藻琴川の水源もこの山なので、アイヌ地名ルールにならって現在の和名も藻琴山になったのだろうか。

松浦武四郎著「久摺日誌」に掲載された地図には「クスリ岳」の表記が藻琴山か、硫黄山のあたりに描かれている。

▶屈斜路湖の河口部東側にオプタテシケヌプリ(504m)という山がある。山田氏は著書『北海道の地名』で次のようにアイヌの古老八重九郎翁の話を紹介している。
「オプ・タ・テシケ・ヌプリ(op-ta-teshke-nupuri槍が・そこで・はねかえった・山)の意だろうか。オプタテシケは女山で、トイトクシペ(藻琴山)は男山だ。女は位があるので、ために槍を投げたら槍がテシケ(それる)して眠っている摩周湖ヌプリに刺さってその跡が赤い血の沼になった云々」
この伝説は有名なようで、知里真志保著『アイヌ語入門』でも「山争いの伝説」として紹介されている。同じ話なのだが、八重九郎翁はオプタテシケは女山で、知里真志保氏は男山としているところが可笑しい。知里版には後日談が書かれていて、「マシュウ岳(カムイヌプリ)は腹を立てて、千島のクナシリ島へ飛んで行き、チャチャヌプリのそばへ身を寄せたが、晴天の日にはトゥエトコウシペ(藻琴山)のもがき苦しむ醜い姿が見えるので、さらに飛んでエトロフ島に行った。釧路や阿寒のアイヌが千島に行くと、晴天でも雨が降るというが、それはカムイヌプリが故郷を思い出して流す涙だという…」
八重九郎翁曰く、「カムイノミ(神拝)する時には、山々の名を称えて献酒するのであるが、いかなる場合でもトエトクシペが第一に称えられる最高の神山」(『北海道の地名』山田秀三著)とのこと。

屈斜路湖から流れ出る釧路川河口左岸にあるオプタテシケ。伝説に彩られた山だ。

▶釧路の郷土史家・故佐藤直太郎の研究論文によれば〈「薬ケ嶽」の初見は『和漢三才図絵』(1713)であり、その後『蝦夷全図』(林子平著1785)には、「クスリ」の傍に「クスリ嶽」が描かれ、それより北東方向に「アカヌノ嶽」(阿寒嶽)も描かれている。伊能忠敬の実測では阿寒嶽のみが描かれ、航海者の目標にもなった。『北海道志』(開拓史編1884)の地図には釧路嶽、雌阿寒嶽、雄阿寒嶽がのっていて、クスリ嶽は薬ケ嶽なので阿寒嶽は別の山。釧路嶽=クスリ嶽=薬ケ嶽は釧路地方の代表的名山であった証拠。〉とされている。
多様な由来や霊山としてのエピソードも加味され、〈藻琴山こそがクスリの地のシンボルマウンテン・くすり乃たけごんげん〉とのおもいを強くしたのだが…。後年、武四郎の探訪記録にはウラエウシヌプリ=藻琴山とは別にクスリ岳と表記された絵図(野帳)もあり、佐藤氏はアトサヌプリ(硫黄山)がこれにあたるのではとの推察もされている。

屈斜路湖の東岸に並ぶ3つの山。左端がアトサヌプリ(裸の山。現・硫黄山)

▶ボクの両親の故郷は斜里である。父は斜里岳の麓・川上羅萠で、母は以久科という海岸線の集落で育った。父方の実家の裏には小さな祠があり、祖母が山に向かい手を合わせていた姿を覚えている。以久科はボクの見立てではもっとも斜里岳が美しく見える処である。すそ野まで左右対称にのびた山容は全身斜里岳である。さらに山頂からは実家も含めオホーツク海に抱かれた原野が見渡せる。双方向視界全開のシンボルマウンテンである。
我が家の祖先のみならず、オホーツク人はもとより、古の先人達は、此の山に何を祈り、何を感謝して日々生き抜いて来たのだろう。
「ふるさとの山に向かいて言うことなし
 ふるさとの山はありがたきかな」(啄木)

斜里町以久科から見た斜里岳は最も均整のとれた山容。我が先祖の入植の地でシンボルマウンテンだった。

▶釧路で育ったボクは製紙工場の紅白の煙突にたなびく白煙を背景に遠望する雄阿寒岳、雌阿寒岳を見ながら少年・青年期を過ごし、そして老年期を迎えた。2022年春、その白煙は工場の閉鎖で途絶えたが雄岳、雌岳は変わらぬ山容を今に留める。
伊能忠敬は此の山を測量の標とし、松田伝十郎は海霧のなかに頂きを探したに違いない。アイヌたちは阿寒川沿いにこの山を頼りに湖畔を目指した。その阿寒の山が「くすり乃たけごんげん」か、否かは研究者に任せるにしても、ある刻から阿寒大神の山神になったことは納得できる。歴史の謎解きに身を委ねれば藻琴山か、硫黄山のいずれかが「くすり乃たけごんげん」なのかも知れない。しかし、時代の変遷にそってシンボルマウンテンは替わり、今日、道東に暮らす多くの北海道人が、それぞれのおもいをよせるシンボル・マウンテンが複数存在することも確かである。
単身赴任で5年間、阿寒湖温泉に暮らしたボクにとっても第二の故郷の山は雄阿寒岳、雌阿寒岳である。「くすり乃たけ」がシンボル・マウンテンズになるのも時の流れ。(終り)

武四郎が描いた釧路会所の図(『東蝦夷日誌』)背後に道東のシンボルマウンテンズが連なる

〈第七巻〉③母なる川と「くすり乃たけごんげん」

【第七巻】 摩周から屈斜路へ
神なる山は何処 ? 屈斜路カルデラを巡る

扉写真は屈斜路湖釧路川河口。上の写真は円空作薬師像(厳島神社蔵)

▶母なる川と「くすり乃たけごんげん」
釧路に住むボクたちにとって、釧路川は屈斜路湖に源を発し、154㎞に及ぶ流れの道中で釧路湿原の中を蛇行しながら、多くの支流を集め、太平洋に注ぐ母なる川である。
水源の湖である屈斜路湖は、松浦図には「クスリ湖」と表記されている。クスリ・トゥ(薬・温泉の湖)は釧路の地名由来の一つである。
アイヌの人たちは自分たちの生活圏の中で、誰もがわかる大きな湖や河川については、特段名前をつけるわけではなく、ただ単にトウ(湖)やペッ(川)と呼んだそうだ。だから松浦図の記載どおり、アイヌの人たちが昔からこの湖をクスリ湖と呼んでいたという確証はない。アイヌ文化の伝承者・山本多助エカシは、クシリ・オンネ・トー(薬温泉の・大きな・湖)と伝えているし、そもそも〈アイヌは、クスリではなく、クシリという〉とのことで、釧路川も「クシリ・シ・ペツと云った」とのこと。(『森と大地の言い伝え』チカップ美恵子編著 北海道新聞社刊より)

松浦図拡大。屈斜路湖に「クスリ湖」の表示。その北側に「トウエトクシヘ又ウラエウシノホリ云」(藻琴山)の表記が見える

▶現在の河口には眺湖橋がかかり、源流部カヌーの起点となっている。
松浦図にはクッチャロという地名が見れる。アイヌにとって川は〈海から発し、山に向かって上るもの〉とのことで、自然の地理地形の多くは人体になぞらえて名前が付けられている。湖から見ると水源地の川口部は人間の喉元を表すクッチャロという言葉が標準化されている。阿寒湖でも阿寒川の川口にある滝の名前はソーパロ(滝の口)で、そこから先の細い入江の箇所にもクチャロの名前が見える。
カルデラ湖である屈斜路湖や阿寒湖の湖岸や湖底からは温泉が湧き出しており、クスリは温泉と薬効で結ばれる。
江戸時代の文献では一貫してクスリという表記になっている。その点から、クスリというアイヌ語は和語からの借用語ではないか、との説もある。

釧路川下りの基点。屈斜路湖河口に架かる「湖眺橋(こちょうばし)」


▶クスリの初見は寛永20年(1643)、オランダ東インド会社所属のM・G・フリース艦長率いるカストリクム号の航海記録に残っていたものが最初とある。外国人によって最初に記され、和語とアイヌ語の共用語として今日の地名に引き継がれているクスリではある。
釧路川が母なる川とすれば、母又は父なる山として、ここで取り上げてみたいのは藻琴山である。
▶釧路の厳島神社に江戸時代の仏師・円空の彫った薬師仏がある。円空が寛政6年(1666)に来道した折りに彫った計約40体の道内各地に残されている仏像の一つである。この座像の背面に「くすり乃たけごんげん」の銘がある。この像は内浦湾に面した礼文華峠にあるケボロヰとよばれる洞窟にあった5体のうちの1体で、5体は蝦夷地を代表する山岳にあて、はるばる霊山を訪ね難いのでこの洞窟に背銘像をそろえて遥拝したと云われている。(続く)

摩周第三展望台から屈斜路カルデラを望む。左手の白い山がアトサヌプリ(裸の山。硫黄山)。奥に見えるのが藻琴山。いずれも「くすり乃たけごんげん」の候補。

〈第三巻〉③検証登山てんまつ記

【第三巻】 イタルイカオマナイから雌阿寒岳へ
 登ったのか? マチネシリは何処

中間点の800m峰頂上(C地点)でカムイノミ。後ろに雄阿寒岳を望む

▶2022年5月26日木曜日。長年の懸案であった武四郎一行マチネシリ検証登山が実現した。天気は快晴。最高気温は25℃近くまで上昇した暑い一日であった。阿寒クラシックトレイルの仲間と阿寒湖温泉のガイドスタッフ計5名でイタルイカオマナイ沢の入り口を8時半にスタートした。
ルベシベの峠(ルチシ)に10時に到着した。渡辺さんの見積もった〈シユマタツコフからルベシベまで約2時間〉という行程時間はほぼ一致した。ここからほぼ直角に西に折れ、800m峰のピークを目指した。予想はしていたが笹藪こぎと針葉樹林の倒木を超え、ピークである標高830mまでの標高差は約200m。1.2kmの道なき道を1時間10分ほどかかり、到着した。
▶800m峰ピークからは北東に雄阿寒岳とそれを取り巻く阿寒湖の眺め、西側にフレベツ岳や雌阿寒岳の山並みが美しい。ここがアイヌたちが祈りを捧げるカムイノミウシまたエナヲウシであることを十分推測しうる景観であった。
小休止後、西に向けて雌阿寒岳登山口を目指した。一旦、標高650m地点まで降らなければならなかった。この間が急な斜面で、背丈に近いほどのクマイザサを漕ぎながら数度にわたって転倒し、やっとの思いで接続する林道に出た。ここで30分ほどの昼食を済ませ、この延長上にある750mのピークまで登り返し通過する予定であったが、笹藪が思いのほか手強く、精根使い果たし、アミノバイタルも使用済みであったボクの提案で迂回する林道を行くことになった。白水フレベツ林道を使って雌阿寒岳登山口を目指した。


▶雌阿寒岳登山口に到着したのは午後1時半であった。我々の検証登山はここで一旦終了した。ルベシベ(ルチシ)出発から雌阿寒岳登山口まで要した時間は3時間半である。これを武四郎一行のタイムテーブルに合わせると一行のルベシベ発を8時半とすると、雌阿寒岳登山口には12時頃到着になる。ここから夏山ガイドブックに沿った登山時間を充てれば、登山口から頂上到達時刻の午後2時までの約2時間で行くことができるのは剣ヶ峰になる。な、なんと! ぴったりの時間設定ではないか!
また武四郎の記した距離程においても、地図上で計測した約8.3kmの距離と一致した。

▶さて我々の検証登山日と武四郎一行の登った5月10日には2週間ほどの日にち差がある。この早春の頃は1日毎に条件が変化する。これをどう勘案するか。
今回の参加メンバーは阿寒湖温泉で長年ネイチャーガイドをし、阿寒クラシックトレイル研究会の代表でもある安井。アイヌコタンでアイヌ料理のカフェを営み、日常的に山菜採りなどで山に入っている郷右近。アウトドアサイクリング団体を主宰し、林道はじめ阿寒の道を熟知している松岡。皆、阿寒の自然を熟知し、40代。安井は武四郎がマチネシリを登った41歳と同年である。女性ネイチャーガイドは30代?。ボクが68歳で体力的にはみんなの足手まといである。途中で何度となく転び、最後尾を遅れ気味についていく。おまけに記録用で愛用していたコンパクトカメラをどこかで落としたらしく、みんなに捜索する手間まで付け加えてしまった。

カメラを無くしたショックと疲労にうな垂れながら仲間に励まされ、もうひと頑張り。背後のピークが800m峰で地図のDからE方向


▶安井は、「当時の笹の状態、雪の状況次第で、雌阿寒岳(ポンマチネシリ)登頂も不可能ではなかったと思いました。5月前半ということで、春の堅雪がブッシュを覆うほど残っていた可能性は十分あると思います。800m峰のところはぐるっと阿寒の様子を見渡せて、カムイノミするのにもいい雰囲気と感じました」と阿寒の自然を熟知している代表ならではのコメント。
後半は林道を歩く形になったので当時より格段に歩きやすかったには違いないが、現行の雌阿寒岳登山口は北側に寄っているので迂回する分、距離は長くなった。

現在の頂上(ポンマチネシリ)直下から中マチネシリ、剣ヶ峰(マチネシリ)そして雄阿寒岳、阿寒湖を望む武四郎一行が登ったと思われるルート。HからG方向(2枚合成)

▶結論から言えば、武四郎一行が登ったと記されたマチネシリ登山に関する時間や距離の計測は、とても理にかなった情報であった。マチネシリが現在の剣ヶ峰だったとしたら、日誌の記述はとてもリアルなものであった。これをもって武四郎がマチネシリに登ったことが事実だったのかどうかはもはや知る術はない。ただそこに記された記録はマチネシリ登山がフィクションではなく、少なくともアイヌ案内人からの聞き取りや現地の山容、地形地質、植生を読み解きながら、自らの経験と見識を加味し綴られた〈武四郎の登山紀行〉というほかはない。
▶日誌に記されているカムイノミウシ又はエナヲウシについては、登りと降り両方に通過したポイントであるため、おそらく白湯山西側の750mピーク(D地点)で、ここから湖畔に向けて下山ルートを取ったものと推察される。(現在の白湯山登山路に重なるイメージ)

下山路に使ったであろう白湯山から湖畔に下るルート。IからJ方向

▶これまで武四郎の記録については、武四郎自ら〈分飾を施した又は興を加えた〉とされる日誌の表現が、ともすれば〈話を盛る、表現過剰〉で、情報の信憑性まで疑われる嫌いもあったようだ。
しかし、阿寒紀行に関しては、ボクたちの阿寒における経験や今回の検証登山と、武四郎の記録を擦り合わせると、武四郎一行がマチネシリに登ったことは《ノンフィクションとして物語ることができた》とおもっている。
▶下山時に失くしたカメラは親友が退職記念にプレゼントしてくれたもので、これまで多くの旅行や登山に同行し、沢山の思い出を遺してくれたイッピン。今回も途中経過を写し、800m峰の頂上から眺める360度に展開する雌阿寒岳や阿寒湖、雄阿寒岳の景観をビデオ機能で撮影した。これらの記録は、この登山ルートのどこかにタイムカプセルのように封印され、次の探訪者に発見されるのを待つのか—。
誠に残念ではあるが、ボクは、記録の喪失より、仲間と共にこの検証登山ができたことの記憶が大切な宝物として遺った喜びを実感している。(終わり)