『クスリ凸凹旅日誌』▶22話:山小屋にみる人間模様

2018年9月25日~10月1日
中央アルプス 木曽駒ケ岳~空木岳

山小屋の楽しみの一つは何といっても食事です!(木曽殿山荘)

アルプスの山の魅力に追加されたもの
 本州のアルプスを中心とした登山を始めたのは50代後半に入ってからである。理由は二つある。体力の限界が近づきつつある中、連れが温めてきた登りたい山に行くタイムリミットであったこと。もう一つは時間的な余裕ができたこと。〈今しかできないこと、今だからできること〉を最優先にした我々の旅テーマが如実に表れたのが〈登山〉であった。
 これまでも北海道の山にはある程度登っていた。しかし北海道の山と本州の山には決定的な違いがあった。それは山小屋の存在であった。北海道の山には食事を提供してくれる山小屋というのがない。あるのは避難小屋と称する無人もしくは有人でも宿泊避難箇所の提供のみ、というものである。
 若かった時、十勝連峰や大雪山を縦走した時は、食料と水は最低持参であった。これだけで水場の乏しい十勝連峰などは15キロ近くのリュックを背負わなければならなかった。本州の特に人気の高い北アルプスなどはルート上に山小屋が整備され食事と宿泊が提供されるのでリュックの重さは8キロ以内で十分である。
 山小屋は一泊一万円弱の宿泊料金だが、なんとも我々中高年登山者にとってはありがたい存在だ。メリットがあるとデメリットもあって中高年登山者の事故が絶えない。体力や力量に見合わない輩が出没し、足元も怪しいので滑落が増える。しかし、金と時間と自信だけはあったりするので始末が悪い。いわば分不相応の場所にいけてしまう。我々もその一員であることに違いないが、この恩恵は何物にも代え難い価値を山好きにもたらす。悪魔の誘惑とでもいおうか。
 山小屋というのが登山の楽しみの一つになる。これまで様々な山小屋に宿泊させていただいたが初めての北アルプスに行った時、最初に泊まった山小屋が燕岳の燕山荘であった。ここで生ビールとエビフライ付きの夕食を頂いて、いきなり山小屋の五つ星ホテルに泊まってしまった。後に燕山荘はとても人気のある山小屋であることが分かった。そしてその後経験した山小屋の多種多様さにこれまた驚いた。
 我々の基準でいうと山小屋で大切なものはトイレ、寝床(寝具も)、食事である。泊まる処の環境で水が貴重なところもあれば豊富なところもある。風呂が付いているところもあったり、温泉があるところもある。しかしこれは山小屋の設置されている環境に左右されるので致し方ない。先に挙げた三つの大切なものはある程度は山小屋のスタッフの熱意と努力でカバーされるところなので自ずと山小屋の印象を左右する重要な要素になる。山小屋に滞在中の登山客やスタッフとの交流などその人間模様が本州を登山する魅力に加わった。

偏屈おやじの山小屋
 日本のアルプスは、北アルプスと呼ばれる飛騨山脈。中央アルプスと呼ばれる木曽山脈。南アルプスと呼ばれる赤石山脈。この三つのアルプスが本州を縦断する形で連なっている。
 中央アルプスは木曽駒ヶ岳を主峰とする3千m弱の山が連なってはいるが、ロープーウェイで千畳敷と呼ばれる氷河の跡地までいけるため、日帰り登山も可能で多くの登山者が訪れる人気の山だ。我々はこの一般ルートから山で2泊して空木岳まで縦走し下山する計画を立てた。
 初日は好天だったが翌日が悪天候で稜線ルートを縦走する我々は予備日も設定しているので、雨の中を歩くのを止め、山小屋に停滞することになった。これまでも悪天候の停滞で山小屋に連泊することはあったが滞在時間が長くなるとそれなりに粗が見えてくる。我々が泊まった宝剣山荘は宮田村村営の山小屋である。
 この山小屋の問題点はトイレである。洋式なのだが奥行きがほとんどなく、身長161㎝のボクでも便座に座ると膝と入り口のドアがほとんどぶつかる狭さだ。真っ先に思い出したのは中国シルクロードの旅行である。奥地のホテルではドアのないトイレがあった。また当時の公衆トイレには全く衝立のないフラットな地面に穴が開いてそこに用を足す形態のものもあった。宝剣山荘のトイレはちょっと足の長い人、背の高い人ならどうやるんだろうと思った。
 スタッフの対応もどこかマニュアル対応で登山者への優しさに欠けるような印象があった。
 しかし、いい思い出もあって2日目夕食で席を共にしたご家族3人組と意気投合。釧路湿原でネイチャーガイドをしている話をして名刺を渡したところ、後日そのご家族を釧路湿原でご案内することができた。


 山小屋の主人には偏屈な人もいる。翌日の滞在箇所の木曽殿山荘に前夜予約の電話を入れた。連れの様子がどうもおかしい。聞くと「必ず午後4時までに絶対到着してくれ」という、指示というか、命令というか。そのいい方が妥協を許さない感じでとても気分が悪いとのこと。どうやら周りの登山者の中にも同様の洗礼を浴びた方がいたようだ。
 翌朝、朝食もそこそこに快晴の中央アルプスの稜線を歩きながら午後4時までには着かなければ、というプレッシャーが常にあった。これだけでマイナスである。幸いなことに予定時刻前に着くことができ、そのオヤジと対面することになった。
 先に、この山小屋の良い所から云う。こじんまりとした小屋ではあるが、とても掃除が行き届いてるのがわかる。水場がないので10分ほど降った谷間の沢水を取りに行かなければならないが、トイレが綺麗で浄化設備がよくできている。食事も丁寧で美味しくいただけた。
 次に問題点。主人の態度が上から指示目線。客の要望を受け入れる雰囲気なし。冗談や雑談を交わすフレンドリーさゼロ。なるほど世間にはこういう人もいるのだろうが、山小屋というほぼ選択の余地のない立地条件にある施設では、登山者は主人と喧嘩して小屋を出たら行き場がなく、ちょっと歩けば谷底に転落する危険もあり、その指示には従うしかない。お客様は神様ではなく、宿主様は神様状態なのだ。
 夕食のメニューはおでんであった。我々のテーブルに6、7人いて真ん中におでんの鍋があった。食事前に主人が説明した。「おでんのネタは7種類あって各鍋に一人1個ずつ7種類のネタが入っていますので、同じネタを1個以上食べないように」合理的な説明であった。
 翌朝は霧雨で視界も悪く、いきなり空木岳の急登の岩場という結構危険で間違いやすいルートを登攀しなければならない。朝食中、主人が頂上までのルートの説明をしだした。その説明は全く叙情的かつ印象的な要素を排し、ひたすら合理的でわかりやすく明瞭なルート解説であった。
 長所と短所が時として入れ替わることもあるのだなと思った。この主人の偏屈さは山小屋という特殊な環境の中では、場合によっては登山者の命に関わる局面を支える要素になるのかもしれない。
 我々は雨の中無事下山した。山小屋には名物偏屈オヤジが点在している。そういうオヤジの小屋は決して大規模ではないので、辺境の厳しいルート上にあることが多い。我々にはちょっと敷居が高いルートでもあるので、偏屈オヤジに出会う確率は知床でヒグマに会う確率より低い。
 でも観察という点では、ヒグマと同じ、いやそれ以上に登山の魅力の一つになっている。


         

『クスリ凸凹旅日誌』●随想⑤統合と分断

パリからベルギー方面への鉄路の玄関はパリ北駅、この雰囲気が旅情をそそる

 パリからベルギー、オランダを経由してアムステルダムまでの移動は電車であった。
 この間、ブリュッセル、ブリュージュ、ゲント、アントワープ、デン・ハーグで途中下車や宿泊をして街歩きや美術館で名画を堪能した。
 この一帯は古くはネーデルランドといって 14世紀頃には西ヨーロッパ、つまりは世界の先進地域であった。欧州の歴史にいつでも登場するハプスブルク家が継承。この後、紛争戦争を繰り返しながらスペイン、ベルギー、オランダに分割されることになる。弊社の社名は釧路の旧名「クスリ」に由来する。オランダから見れば極東の端ではあるが、釧路の江戸時代の呼称であったクスリについて記されたもっとも古い記録は、日本人の手によるものではない。寛永20年(1643年)、オランダ東インド会社所属のM・G・フリース艦長率いるカストリクム号の航海記録に残っていたものが最初の記述である。
 出島はもとより、こんな身近な出来事にも当時のオランダがどれほど世界の中で影響力を持っていたかを偲ぶことができる。


 一方、第二次世界大戦下におけるオランダと日本の戦い、特にオランダ人捕虜をめぐる様々な事件は両国関係に大きな影を今も落としている。旅行出発前にBS の世界のドキュメンタリーでアジア系の女性が自分の出自を調べて日蘭の戦争史を調べる番組を見た。彼女の父親はオランダ人でメイドとして働いていた母親が家主であったこの父親に強姦されて生まれたのが彼女であった。自分の父親がどんな人間であったのかを調べる中で、戦争中捕虜として日本軍に捕まり様々な辛酸を舐め帰国後、PTSD(Post Traumatic Stress Disorder 心的外傷後ストレス障害)を患った父親の歴史にたどりつく。それは日本軍に対する復讐の代償としてアジア系のメイドを甚振ったという複雑な事情が背景にある悲劇であった。
 昭和天皇や上皇陛下がオランダ訪問時に猛烈な反対に遭遇した様子も番組では紹介されていた。ボクの知る限り日本でも報道されたが、その番組ではオランダ側が取材した、さらに過激な実態を映し出していた。

 
 アントワープからデン・ハーグへ向かう車中は自由席で混んでいたので通路を挟みボクと連れは別々のボックスに坐ろうとした。ボクの隣には30代らしい日本人女性がいた。
 どう見ても旅行者ではない。こういう時は冷静に振る舞わなければいけない。「この席は空いていますか、座ってよろしいですか」「どうぞ」とやりとりした後は相手から話しかけられるまでじっと我慢するのが紳士の振る舞いというもの。バタバタ焦って自分のことばかり喋り続けるのは最悪。と、心で確認するのもまもなく、相手から「ご旅行ですか?」「ハァ~、ハイ!」以下会話はとてもリズミカルに…。
 彼女は我々に関心を持ってくれたようで次から次と会話が弾む。こちらから聞いたわけではなく、自己紹介もしてくれた。
 彼女は日本を離れ20数年、現在はKLMのキャビンアテンダントとして働き、夫と子どもとアントワープに暮らしている。今日はフライト乗務でアムステルダムの空港まで移動中とのこと。納得した。コミュニケーションサービスのプロであった。
 彼女の話は、例えばベルギーとオランダの違いを国の歴史、人の気質、生活環境なども含めて素人旅行者の我々に伝わるように話してくれた。
「ベルギー人はちょっと気取ったところがある東京人のようだけど、オランダ人は関西風できっとアムステルダムではオランダ人の親切心に触れることができると思う」。こんな感じである。
 ボクがエールフランスで来て、帰りはKLMを使う、と話すと現在2社は持株会社でヨーロッパ最大の航空グループとなっているとのこと。統合にあたってそれぞれの会社の社風や文化背景も違い苦労した話も面白かった。確かに旅の予習ではベルギーはカトリック、オランダはプロテスタント。食事のうまいベルギー、乳製品以外これといった名物料理もないオランダ。まぁこんな程度の予備知識だもんね。
 現地でこんな人に偶然出会い、様々な話を聞ける機会はそうあるわけでもない。日本語を喋る現地ガイドというのも存在する。ボクは外国人もガイドするので逆パターンで考えるとボクがその立場である。しかし彼女は美人で聡明でしかも無料。この偶然は神様が与えてくれた〈旅の贈り物〉なのだ。
 旅先の外国で政治の話をするのは御法度ということにはなっているが、その場の雰囲気や相手次第でボクは結構シビアな話もする。
 彼女にとっておきの質問をした。「オランダ人は日本人に対して第二次世界大戦中の虐待行為に対する恨みが今も根強くあると聞いたことがあるが、あなたはそういうことを体験したことがありますか?」 彼女は自分の体験としてキャビンアテンダントの友人からホームパーティーの招待を受け、参加したところ、友人から「自分の祖父は日本人には会わない」と言われたことがあることを話してくれた。同世代の日常的な仕事の付き合いや友人関係ではそんな確執は一切感じたことがないが、戦争体験世代の中には、そういう体験に今も苦しめられている人がいることを実感したとのことであった。


 上海便のフライトに乗務する彼女とデン・ハーグで別れた。
 最終訪問地のアムステルダムの宿の近くにユダヤのシナゴーグと歴史資料館があった。彼女と会わなかったら行かなかったかもしれないこのユダヤの施設はヒトラードイツ占領下のユダヤ人の悲劇を今に伝えていた。休館日で見ることができなかった「アンネ・フランクの家」の見学を埋めるかのように。
 歴史資料館で写真家デヴィッド・シーモアの特別回顧展が催されていた。マグナム・フォトの代表者をつとめ、ボクにとっての写真アイドルであったロバート・キャパやユージン・スミスと同世代の写真家でいきなり写真小僧だった高校時代にタイムスリップしたような気分だった。
 ボクのサブカルチャーの引き出しは骨董屋で仕入れた我が家の種苗農家の種入箪笥のようだ。引き出しは沢山あるのだが、歳をとると、どこに何を入れたのかわからなくなる。
 でも旅に出て人と出会ったり、街歩きでふと見る情景に記憶の引き出しは不意に開かれ、ボクに忘れかけていた過去を呼び覚まさせ、新たな物語を語り始めてくれる。
 それはボクにとって旅の醍醐味といっていいものだ。旅先での出会いは一期一会かもしれないが〈記憶〉として蘇り、あわよくば再会する刻がくることを念じる。そして別れのひと言を…
 See you again someday, somewhere. 

『クスリ凸凹旅日誌』●随想④旅の付加価値

ヴィルモランの社長と旅の記念写真を

 イタリアでルネサンスの洗礼を受け北方ルネサンスやバロックそして17世紀オランダ絵画への興味が広がるなか、西洋絵画に目覚めた我々にとってこの旅は必然であった。名画を訪ねフランス、ベルギー、オランダを縦断する計画をたてた。観光と名画鑑賞が旅のメインテーマではあるが、サブカルチャー志向のボクにとってはいくつかのサブテーマも仕込んだ。
 芸術の都パリは写真小僧だった若かりし頃のボクにとってはアンリ・カルティエ・ブレッソンやウジェーヌ・アジェなどの写真家に活写された憧れの都であった。我が家にも数冊写真集があるが、そこにはいずれも19世紀から20世紀初頭にかけて写真の黎明期に撮られたパリの姿があった。


 阿寒湖温泉で仕事をしていた時に、阿寒の森を所有し長年にわたり森林保全を担ってきた前田一歩園の創設者・前田正名を知ることになる。
 明治初期、日本に近代化の息吹をもたらすため有望な薩摩藩の若者が欧米に留学した。その一員として20歳の前田正名は1869年から7年間にわたりパリ留学を果たす。
 この留学で得たフランスの農本主義を中心とした見識は、生涯にわたり〈地場産品をメインに国力を地域の力で押し上げていく農本資本主義〉ともいうべき正名の開発思想に大きな影響を与えた。
 阿寒の森を「伐る山から見る山へ」の転換を図り、現在に至る観光産業を基盤とする自然と人の共生の地域づくりの土台を作ることになる。
 出発の前、『人物叢書前田正名』(祖田修著)をパラパラとめくっていたら、正名が帰国する前にパリの世界的な種苗業者であったヴィルモランの協力を得て、多くの種苗を集め、日本に持ち帰った、と記されていた。オリーブや葡萄や有用植物の種、苗木はその後日本で甲府ワインなどの生産に繋がっていく。本には「ヴィルモランはセイヌ河畔に種苗問屋を営み現在も営業中である」とあった。
 夜明け前にカルチェラタンの宿を出て、カフェで朝食を済ませ、パリ発祥の地シテ島のノートルダム大聖堂で夜明けを迎えた。聖堂見学やサントシャベルを見た後、ルーブル美術館に向かいセーヌ川河畔を歩いていると街角の一角が種苗や造園関係の店舗でできているエリアに出くわした。その角の店の深緑のウインドウルーフにヴィルモランのスペルを見つけた。
 店舗に入ると園芸用品の専門店らしく家庭菜園レベルからプロユースの園芸用品まで品揃いが行きとどいていた。店舗の奥に会議室らしきものが見えたので覗いてみると何人かのスタッフが打ち合わせをしていた。ちょうど打ち合わせが終わったらしく出てきた人に声をかけた。当然こちらはフランス語はできず、英語でそれも片言レベル。社長に会いたいと伝えたら取り次いでくれた。ボクより若い、人の良さそうな社長がボクの拙い説明を必死になって理解しようと聞いてくれた。
「1876年当時、日本の留学生がこの店の協力を得て日本に沢山の種苗や苗木を伝えた。その人物の足跡を訪ねてパリにボクはきた」と、言ったつもりなんだがおそらく伝わったのは半分以下。でも怪しい奴ではないと思ったらしく社長は「ちょっと待ってくれ」と言って奥の事務所から一枚のペーパーを持ち出し、この店の歴史を語り出した。
 ペーパーはフランス語だったのでボクにはチンプンカンプンだったが社長はそこそこの英語で語ってくれた。一緒に写真を撮って、「またいつか訪れたい」と伝え、店を後にした。
 ルーブルの開館時間に間に合わせなければならない! メインテーマはこちらなのだ。


 翌日はオルセーやオランジュリーなどルーブルと共にパリを代表する美術館巡りがメインテーマであった。しかし、またしても夜明け前から始動した我々はカフェで朝食をとり(ホテルは朝食なしの素泊まりの安宿)通勤客とともにメトロを乗り継ぎ、モンマルトルを目指した。
 モンマルトルはルノアールやドガやゴッホなど多くの芸術家が創作活動を行った芸術の街である。近年は映画『アメリ』の舞台として脚光を浴び、パリ観光の人気スポットでもある。
 実はボクの友人の娘さんがモンマルトルでお菓子屋さんを開いたというのである。娘さんのパートナーはパリでも人気のチョコレート職人で日本のテレビ番組でも紹介された。その店にドッキリ訪問しよう、というのがもうひとつのサブテーマであった。同じ町内で生活していたので小さい頃から知っていて、一緒に山に行ったり遊んだりしていたため顔見知り。ドッキリ訪問でも「あれ、どなたでしたっけ?」と肩透かしの危険性がない。友人にも訪問のことは内緒。というのも、もしも訪問できなかったら混乱するかもしれず、〈旅先での約束事は最小限〉の我流教訓にしたがった。


 さすがインターネット時代である。スマホ片手に一発で到着。「ヤア、ヤア、どうも、どうも」「アレ、アレ、アレ~」。まぁ、そんな感じであった。こじんまりとした角地にあって明るい店内ではあるがアトリエ(工場だが、フランスではこういう)も併設。お菓子が中心だがパンも焼いていて、午前中ではあるが程よい感じで常連客風の老若男女が来店していた。
「事前に知らせてくれたら一緒にランチでも食べたのに」。でも彼女は出産したばかりで、今は店のマネージメントをしながら主婦業をしているそうだ。無用な負担は禁物。
 彼女は高卒後、東京の料理学校でパティシエを目指し修行をした後、再度勉強のために単身パリに渡り、働く中で彼と知り合い現在に至る。
 フランス語は男性名詞と女性名詞が分かれる。パティシエは菓子職人だが男性名詞。女性名詞ではパティシエールという。つまり彼女はパティシエールを目指し、パリで修行し、パティシエの彼とめぐり逢い、パティスリーを開いたということになる。
 パ行4段活用である。
 さっと訪問し、さっと去る。中高年の旅の美学。どことなく『深夜特急便』を思い出しながらモンマルトルを後にした。
 それにしても「GILLES MARCHAL」(店名です)のエクレアの美味しかったこと。記憶に残る美味とはまさにあのこと。

『クスリ凸凹旅日誌』▶21話:あこがれの巴里から 列車に乗って

2018年11月12日~24日
パリ、ベルギー、オランダ
塩 幸子

パリ初日の早朝最初に行ったノートルダム大聖堂は朝日に映えて美しい姿を見せていたけれど、この半年後、まさか猛火に包まれる姿を見るとは…

「絵」を見て歩く旅なのだ
 喉が痛い。60代半ばに入ってこの頻度はました。風邪引いたのかなぁ? のサインはまず喉からだ。これを侮ってはいけない。しっかりキャッチして対応しなければ病院行きは免れない。
 秋の終わりにフランスベルギーオランダの旅をした。日本を出る前から喉に違和感を感じていた。とりあえず風邪薬を持参して自宅を出た。このちょっとの風邪気味は帰国するまで続いた。万全の状態での旅はそうそうない。
 釧路を出てその日のうちに成田まで行って一泊するか、都内に一泊して午前中に成田に行くか。どちらにしても釧路から成田経由なら国内一泊は必要だ。ヨーロッパへ発つ便は、ほとんど午後一だから一泊しなければ余裕がない。
 この時は午前中の羽田行きに乗り、汐留でジョルジュ・ルオー展を見て、夕方成田に着いた。空港で韓国に一人旅をしていた娘と待ち合わせをした。もう大人なのだから細かく色々とは言えないが、一人旅はやはり心配だ。無事帰国した娘の顔を見て、安心して旅に出られる。夕食を共にして別れた。
 翌日パリ行きの機内で、ここまでこれたとほっと一息だった。この旅行は完全に「絵」を見て歩く旅なのだ。最近はとにかく絵を求めて歩く。これに徹している。思いっきり会いたかった絵。超有名な特別な絵は判別がつく。でも、もうどこで目にしたかはどうも分からなくなってきている絵がたくさんある。テレビで? 雑誌で? 美術館で? このわからないのは何とも言えないやりきれなさだ。
 2泊するパリに着いた。ドゴール空港からパリ市内へのバスチケット購入に手間取っていたら30分毎のバスが行ってしまった。私はこういう時、しっかりショックを受ける。30分はけっこうな時間だ。次のバスでいいじゃないか。のんびり行こう、なんてならない。のっけから「順調」を壊されたかのようだ。しかし、あれだけのたくさんの人たちはどこに散らばったのか。バス停には数名しかいない。先に行ってしまったバスもスカスカだった。個人旅行の心細さ。団体旅行にない心配がうず巻く。
 高速道路を突き抜け走ったバスは人々がざわめく市内に入っていた。初めてだけど、「あぁ、来たな」と思った。うっすらと曇ったような、薄いベールが街全体をふわぁっと覆った雰囲気だった。古くて黒ずんだ壁の建物が人々の行き交う風景を穏やかに見せている。カルチェラタン。ここで宿を見つけるのに結構な時間を費やした。あたりはもう夕暮れだった。夕食は奮発して近くに日本人がオーナーだというレストランに予約をした。今一つの味であった。
 パリの朝はいつまでも陽が出ない。宿向かいのパン屋でコーヒーとパンの軽い朝食をとる。8時を回ってもまだほのかに暗い。意気込んで朝早くから動き出していた。今日はルーブルなのだ。宿から歩いてほどなくノートルダム大聖堂が見えてきた。セーヌ川を挟んで朝日を浴びている。なんて美しいんだろう。


 「2時間で上手く回れるルーブル」を何度もテレビで見ていた。しかし上手く回れるはずの順路はまるっきりダメだった。見どころは少し役立った。この巨大な美術館で夕方まで歩き回っていた。くたくたになった。宿から歩きっぱなしなのだから。
 次の日、知人の娘さん夫婦が営んでいるお菓子屋をモンマルトルに訪ねた。地下鉄を乗り換えて向かう。最初の地下鉄の駅構内で地図を見ながら確認していたら、若い男性が笑いながら声をかけてきた。〈スリ〉のあれこれの手口がいきなり頭をよぎった。私の驚きと緊張した顔を見て、彼はどう思っただろう。今でも気にしている。親切心だとすぐわかった。ちょっと目を上げると幼い姉妹がこちらを見ている。朝の通勤時、子供を送り、これから仕事へ向かうんだと見て取れた。連れが用意していた折り鶴をプレゼントして別れた。乗り換えの時も間違えないか見守ってくれていた目と合った。
 芸術家たちが昔、暮らしていたモンマルトルで店を探して歩いた。昨日の快晴は続かず、雲が空を覆っていた。サクレ・クール寺院は雲の中だった。ルノアールの「ムーラン・ド・ギャレットの舞踏会」の場所は思いのほか、こじんまりとしている。早朝、初冬のこの季節では観光客はまるでいない。やはり人がいて雰囲気が出るのだろうとつくづく思う。店を探し当て、チョコレート、オレンジピールのお土産を買い、お菓子を食べて、お持たせをいただく。「スリに気をつけてね」と声をかけられた。あらめてスリが多いんだと思いおこす。フランス語を客人とスラスラ交わす彼女を見ていた。よく覚えたね。
 凱旋門、オランジュリー美術館、ルーブル、オルセー美術館と次々とこなし帰路は歩いて宿へ。オランジュリーでは一部特別展があり、ポーラ・レゴの作品に惹かれた。帰国して調べたら80代の女性だった。現代感を含んだアートに力強さを感じた。ルーブルでは2日間券だったので、この日も足を運んだ。残念だったのはドラクロワの「自由の女神」、ダヴィンチの「岩窟の聖母」が外出中だったこと。そして「モナリザ」の微笑は、やはり一番。生を見たんだ! 違いを痛感。オルセーでピカソに見入り、特別ピカソ展は長蛇の列。常設だけで我慢だった。くたくたの早足回りのパリを終えた。明日からベルギーだ。

ベルギー・オランダ街歩き
 パリ北駅からベルギー行きの列車に乗る。下調べでは一番危ないベルギー。歩いてはいけない道もある。ここでは観光を終えてから、夕方宿に入ることにした。まずはコインロッカーにリュックを預ける。駅地下コインロッカーに人は誰もいない。怖い。コインロッカーが開かない。二人で悩んで色々試す。うまくいかない。男性が一人、コインロッカーに向かってきた。声をかけてみた。「私も分からない」とでも言ったのか? 叫びに近い大声が帰ってきた。怖い。コインの両替で近くにあった売店で水を買い求めた。「何なのヨ~」のむっつり顔で最後までしかめ面を維持の若い女性店員。これから向かう世界遺産のグラン・プラスまでの道のりが心配で、思いが崩れそうだった。
 世界一美しいと言われるグラン・プラス。広場を取り囲む建物も圧倒的だ。その中の王の家でブリューゲルの絵に突然出会った。連れは嬉しくて仕方なさそう。出会いを求めて楽しみにしてきた絵が出張中でショックな事が何回かあったが、こんな出会いもある。ベルギーではやはりワッフル。果物、生クリーム、チョコレートなどのトッピング。持病を抱えた私たちには禁断の食べ物だ。一挙に数値を上げるだろう。正統派のただのワッフルを食した。王立美術館でブリューゲルを堪能して宿に入る。いつもは三流宿が常だが、今日は宿ではなくホテル感満載。しかも新築のようだ。金額を事前に確認して予約しているので高額ではないはずだ。しかし夕食は向かいのスーパーで調達。翌朝一泊だけのブリュッセルを後にした。
 ブルージュまでのチケット購入。ヘントで途中下車する。ここでの目的の祭壇画までもう少しだ。駅前のトラム乗車場にいた私たちに、現地の老人が声をかけてきた。「街まで2キロ。歩いて30分」流暢な日本語だった。目的地に着いた。その通りだった。自分の言葉の力を試したくて日本人目当てにその場にいる様子だった。ヤン・ファン・エイク。油彩で絵画を革新したと言われる画家。15世紀、富を蓄えた市民に依頼された絵。「ヘントの祭壇画」。神の手を持つと言われたヤン・ファン・エイクの超驚異的な細密技法。だが薄暗い教会でガラス越しの中、はっきりと、しっかりとは見えなかった。来られたことに満足しなければならないようだ。名物の塩味がきついシチューを食して、再び列車に乗り込む。


 ブルージュに出た。ベルギーならブルージュへ行きたい。数年前からおもい続けていた。夕方、駅から歩いて宿に入る。旧市街、観光地の真ん中だった。観光用の馬車が走る様子を二階の窓から見た。馬の足音が心地よい。翌朝、明るさの中で見た街並みは錆びれていない建物が並ぶ。どうも観光客目当てに薄化粧をしたかのように見てとれる。倉敷の美観地区のようだ。美術館は十分満足だった。メムリンク美術館、グルーニング美術館を堪能した。今、思い出しても再訪したい美術館だった。2泊してブルージュを後にした。
 北上し、アントワープへ。アントワープと名付いた駅が3つ。その最後の駅で降りるのだが、間違うような駅名の付け方だ。北・南・中央と続く。こんなことすらドキッとする。アントワープ中央駅。息を呑む大理石の美だ。世界一美しいと言われる。鉄道の大聖堂と称されている。メインストリートを宿に向かって歩いているとユニクロが目に入った。連れはエッフェル塔で手袋を落としていた。ここで手袋ゲット。宿は大聖堂の真向かいだった。トイレ、シャワーが共同なのが残念。暮れていく中、2階の部屋から大聖堂を見上げる。翌朝、あのアニメ「フランダースの犬」で知っていたネロとパトラッシュのアートな像が後付けで大聖堂の前に設置してあるのを見た。なんだか釣り合わない。観光客向けが明らかなようだ。
 教会に入るとルーベンスの「キリスト昇架」「キリスト降架」。ルーベンス工場といわれる多作な作品の中でこの2点は感無量。
 翌日、マイエル・ヴァン・デン・ベルグ美術館へ。ブリューゲルの「狂女フリート」は出張中だった。この美術館の目玉作品なのに。連れは未だに文句を言う。目玉作品の出張はありえないと。地球の歩き方に載っていたパン屋さんをたまたまキャッチ。ぶどうパン、ゲット。ロッテルダムまでの列車での昼食だ。
 ロッテルダム駅から歩いて目的地のボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館に行く。ここではこの美術館のみでまた駅へと戻る。ブリューゲルの「バベルの塔」はまたもや出張中だった。駅に降りてそのモダンさに驚いた。この街だけ近代モダン建築が目立っていた。立ち寄った街は旧市街地がほとんどなのでロッテルダムは降り立った駅には旧市街は面していないのかもしれない。
 次の街デン・ハーグへ向かう。ここでは一泊する。夕方駅から暗い道を1キロほど歩く。宿の二階部屋に通された。古いが広くて暖かい。なんだか食堂、廊下あちらこちらに骨董らしきものが置かれている。楽しい。明日は朝一番でフェルメールだ。
 美術館へ行く道には人工池。オオバンやカイツブリがいた。日本と同じ種だ。マウリッツ・ハイス美術館。テレビで何度も見ている「真珠の首飾りの少女」「デルフトの眺望」そしてレンブラントの名作の数々。ゆったりとした時間が流れた。小さい美術館。このくらいがいい。しかも名画揃いだった。ここで見た絵は時間を経てもどこで見たか、はっきりと思い出せる。

とんでもないお土産
 旅の締めくくり、最後の街アムステルダムの駅は大きい煉瓦造りだ。東京駅のモデルとなった。駅前のインフォメーションで運河巡りの水上バスと二日間有効の交通チケットをゲット。対応してくれた初老の男性はテキパキとしていて、拙い連れの英語力を理解して、仕事バリバリできます、の感で気持ちがいい。さっそく水上バスに乗り込む。風邪の調子今ひとつで船の上で綿棒で喉を消毒した。辛い。街が平らだ。水際の建物の湿気対策はどうなんだろうと考える。カビが嫌いだ。
 トラムで宿へ。天井が高い。そして一応清潔感はある。だが石鹸、シャンプー、フェイスタオルが部屋に設置されていない。照明は小さくて手元がはっきりしない。なのに廊下は異常に明るく、大きな照明だ。ゴミ箱もない。2泊したがこちらが言わないとタオル交換はできていなかった。そして最後にとんだおまけを持ち帰ることとなる。
 翌日、朝食を済ませてトラムを乗り継いで国立ミュージアムへ。あーっ、広い。なんだか博物館もプラスした様相だ。フルマラソン残り5キロ最後の踏ん張りどころ。そんな思いで入り口に足を踏み入れた。レンブラント「夜警」。世界三大名画と言われている。大きい。人だかりができている。じっくり見る。レンブラントの自画像が私は好きだ。隣のゴッホ美術館に入る。やはり人が多い。今や印象派の大スターだ。もちろん好きな画家。「ひまわり」が1枚もない。ちょっとひっかかる。世界中の美術館に納まっているのか。沢山のゴッホの絵は観たものの、なんだかしっくりこない。他の絵に混ざって、ゴッホだ! と観るのがいいのかなと思った。
 王宮、アンネ博物館はお休みだった。帰路のトラムに乗る。ホテルの近くでトラムを降りる。ユダヤ歴史博物館が目に入る。結構しっかりした内容の博物館だ。アウシュビッツに送られた若い女性、シャルロッテのコーナーが目に入った。日本のデパートで彼女の絵の展覧会が催されていた。ガラスの中の展示品コーナーにチラシを見つけた。惹きつけられる絵だった。ポストカードを買った。才能はこうしてたくさんの人に触れられている。ユダヤのもっと生きたかった人々がここにいたんだ。
 翌日、オランダから帰国の途についた。最後の宿でとんでもないお土産をもらった。帰路の機内でなんだか痒い。赤い点々があっちこっちに出ている。釧路ですぐ皮膚科へ。正体は〈ダニ〉。でも連れは大丈夫だった。なんでぇ?
 この旅はもう「絵」まみれだった。汐留のルオーから始まり、帰国後、上野でフェルメール展。近年、人気のフェルメールは混雑予想で事前予約が必要だった。上野の美術館は対応する女性職員たちがラピスラズリ色の服で迎えてくれた。
 フェルメール・ブルーだ。

『クスリ凸凹旅日誌』▶20話:空海の歩いた道。 高野山巡礼

2018年4月6日~11日
奈良、高野山、吉野山、松阪市

壇上伽藍といわれる高野山の修行施設群。その象徴である根本大塔

祖母の記憶
 父の母、ボクの祖母・塩ウトは徳のある人であった。気さくな人で子どもだったボクとテレビを見ながら「これは向こうの人もこちらが見えるんだろうかね?」と聞いたりした。「バーチャンはこうだからなぁ…」と小馬鹿にしていたボクも、今の時代になると、バーチャンには未来を予見できたのかも? とおもう。
 バーチャンは熱心な仏教徒であった。塩家の宗派は真言宗。弘法大師・空海である。バーチャンは何度か高野山や四国八十八カ所霊場巡りなどにも行っていたので、高野山や弘法大師のことも話や絵本の読み聞かせなどで教えてくれた。両親も中高年に入ってから同じように霊場巡りをしていた。父を湯潅する時は八十八ヶ所巡りの装束を着せ、杖を入れて納棺した。だからボクも…、というわけではない。
 例によって連れの発案で高野山の旧道町石道を歩こうということになった。高野山は標高約8百mほどの深山の平地に広がった空海が修行道場として開発した宗教都市である。
 高野山には高野七口と呼ばれる7カ所の出入口があるのだが、町石道は空海が最初に高野山の開発で造成した道であり、その道が今も山道として残っている。


 南海高野山線に乗って終点の極楽橋駅の六つ手前の九度山駅で下車。町石道の入り口である慈尊院まで九度山の街を歩く。大河ドラマの『真田丸』で真田一族が徳川家康に蟄居を命ぜられ、隠れ住んだ跡地の寺院を見物し、ご当地グルメ柿寿司を製造元でゲット。いよいよ町石道である。
 入り口の慈尊院は女人禁制であった高野山に空海の母が会いに来た処。母に会うため空海は九度下山したということが九度山の名前由来の一説だそうだ。町石道はここから高野山まで約23キロ、約7時間の散策コースである。標高差は約7百mで山道ではあるがハイキングコースとして整備されており、迷う心配はない。1町=109m毎に石でできた卒塔婆=町石(五輪塔を乗せた角塔婆という)があり、この町石毎に手を合わせ、高野山に至る(我々はそんなことはしませんでしたが)〈祈りの道〉であり〈修行の道〉である。
 これまで歩いた本州の古道は何処も森は杉の人工林になっており、残念ながら植生の多様性という点から見ると魅力に乏しい。ボクにとって歩くことの意味は、これ一つというものに絞れるものではないが「自然観察」はその一つであることは確かなのでその点では残念だ。しかし高野山に行くにあたって、この町石道を歩くということは、人生を振り返り、再生し生まれ変わる修行体験と考えれば、とても意義深い経験であった。
 町石は慈尊院から高野山の「壇上伽藍」と呼ばれる修行施設群まで180基、そこから空海が即身成仏として入定し、今も眠るとされている「奥の院」まで36基ある。
 前者は「胎蔵曼荼羅」、後者は「金剛界曼荼羅」という真言密教にとって重要な曼荼羅(密教の宇宙観や世界観を描いた図像)を表し、そこに描かれた仏の数にちなむのだという。ここを歩くことは〈仏の道〉に近づくこと。ということもほとんど高野山から戻ってから調べてわかったことであった。
 我々は宿坊と呼ばれるお寺の宿に一泊した。ここで一泊することも修行になるそうだ。何から何まで、ご利益がありそうだが…。ボクは観光振興に毒されているかも。

高野山の教え
 高野山には聖地のシンボルが二つある。一つは「壇上伽藍」と呼ばれる金剛峯寺や根本大塔などの修行寺院群。もう一つは空海が眠る「奥の院」である。町石道を歩いている間はほとんど人に会わなかったが奥の院には観光客がたくさんいた。驚いたことに半数いやそれ以上が外国人観光客。さらに驚くべきことは外国人観光客が欧州からの個人客が多いということである。アジア系の団体客が皆無。欧州からの観光客は、中山道を歩いた時も目立った。
 海外旅行で知ったのだがキリスト教の三大巡礼地は生誕の地エルサレム、ローマのバチカン、そしてスペインのサンチャゴ・デ・コンポステーラであり、巡礼の道というのは文化として根付いているのがヨーロッパだということである。多くの観光客は日本の寺院や、特に高野山を特徴づける奥の院の杉の巨木に囲まれた中にある30万基を超えるといわれる墓石や供養塔が作り出す日本ならではの聖地の佇まいに日本文化の一旦を感じるに違いない。また宿坊での宿泊体験(勤行や精進料理)も魅力的な観光資源になっているのだろう。ボクがロマネスクやゴシックの教会で彫刻や絵画、ステンドグラスに描かれた物語に魅入るのと同じで、そこには宗教を越えて迫りくる何かがあるのだ。


 ボクは特別信心深くもなく、我が家の法事もとりあえず参加する程度。高野山にも格別宗教的な目的を持って行ったわけではない。真言密教とは「言葉で伝えられる限界を超えたところに仏教の悟りがある」という考えだそうだ。言語に頼る宗派は顕教といわれるそうだ。
 ボクにとって歩く旅は、スピードやリズムに合わせて、過去を振り返り、未来を思索する。そして軟弱ではあるが山岳修行にも繋がるものと空海のことを調べながら行き着いた。
 「貴賎を論ぜず、貧富を看ず(亡くなってしまえば、男女も、貴賤もない)」「怨親平等(生あるものは皆、平等)」といった空海の教えをバーチャンの〈振る舞いの記憶〉がボクに諭してくれているようだ。奥の院には千人以上の高野聖を処刑した織田信長の供養塔もあった。
 仏敵と山のように積み上がった無縁仏の野仏が共に眠っている。死した後は皆、平等の教え。
 論より証拠である。

釧路湿原、阿寒・摩周の2つの国立公園をメインに、自然の恵が命にもたらす恩恵を体感し、自然環境における連鎖や共生の姿を動植物の営みをとおしてご案内します。また、アイヌや先人たちの知恵や暮らしに学びながら、私たちのライフスタイルや人生観、自然観を見つめ直す機会を提供することをガイド理念としています。