『クスリ凸凹旅日誌』▶15話:フォトジェニックな旅

2015年9月29日~10月5日
長野・善光寺、小布施 松本市 常念山脈 (燕岳~蝶が岳)

花崗岩のレフ版効果でいつもよりもっと美しく!

「インスタ映え」か、「フォトジェニック」か
 旅先で写真をたくさん撮る。一週間前後の国内旅行で約3百カット。2週間弱の最も長かった海外旅行では1千5百カット以上撮ったこともある。
 カメラを盗まれたとか、撮ったはずが写っていなかったとか、大きな失敗はないが、デジタルカメラの使い始めの頃、電池容量が分からず交換バッテリーも1個だけで充電器も持たずに出かけ、旅先で撮影不可状態になった。忘れもしないフィレンツェのリッカルディ宮で部屋全体にゴッツオリの「東方三博士の巡礼」が壁画になっているところでアウト。この絵がお気に入りの連れから叱られた。
 撮影は興味のあるもの=撮りたいもの。小さな花から遠くの山まで。マクロ撮影から望遠までが守備範囲である。


 旅先に持っていくカメラは、現在は4台の内のいずれかとスマホ。一番使用頻度が高いのは右端のニコンCOOLPIX。高校時代、写真部からの友人であるO君が退職祝いにプレゼントしてくれた。海外旅行から登山まで、とにかく軽量でいつでも取り出せ、どこでも撮影が可能な一台である。大体このカメラとスマホが旅の相棒である。重い一眼レフはご法度である。
 右から2番目のキャノンPowerShotは自前のカメラ。主に仕事で野鳥や風景を撮る時や荷物に余裕のある時に使う。
 一番大きなペンタックスはボクの写真部の先輩、Uさんの形見である。彼と一眼レフの使い方を忘れないように、たまに使う。

我が舎のカメラ撮影機材一式。ちょっと頼りない感じもしますが、そこは腕でカバー


 写真部の顧問はアマチュアカメラマンとして実績のある方で、指導を受けたボクらの前後4世代くらいは「お前達を写真で食っていけるようにする」という方針で指導された。
 当時はモノクロ写真だけであったが現像、焼付、パネル貼りまでの製作工程はもとより、撮影技術、時にモチーフに対するアプローチの姿勢なども指導を受けた。クラブの顧問というより、どこかの写真家の工房に弟子入りしたような雰囲気だった。だからほとんどのメンバーは〈写真の道〉で生計を立てることになる。ボクのように公務員になったものは少数派で肩身が狭い。
 ボクは写真をうまく撮ることが上手ではなく、在学中も後輩たちが道展(北海道主催の文化展)や各種カメラ雑誌やコンテストに入選するのを横目に、下級生にレギュラーポジションを奪われた上級生の悲哀を味わっていた。
 写真で食べていく道は選ばなかったが、写真や映画、そして絵画など視覚芸術文化に対する興味の土壌はここらへんで形成された。


 SNSの時代ではあるがボクはFacebookしかやっていないので、今の「インスタ映え」というのがピンとこなかったがフォトジェニックとほぼ同義といわれれば納得である。正確にいえば海外ではフォトジェニックは人に関しての「写真映え」。主に美男美女の映画スターの顔立ちに関してフォトジェニックという言い方が一般的であった。現在、わが国では風景や食べ物も含め、「インスタ映え」といえば、ビビットな色合いの変化をフォトレタッチ技術でさらに派手にした状態というのがボクの解釈。
 山に登っても花や鳥、風景やありとあらゆるもので気になるものは写真に撮るので、連れの歩行ペーストと合わなくなる。そもそも連れの方がペースが早いのに、さらにこちらが遅れると待たせ困らせることになる。一方〈写真を撮る〉ということが疲れた時の口実になるので、ボクにとっては様々な意味で助けになる。

フォトジェニックな山
 燕岳は花崗岩で形成された山で、山頂周辺は白い岩石が露出して山全体が色白の美人のような、優しくて美しい印象の山だ。
 この山はフォトジェニックな山である。山そのものだけでなく、周りもフォトジェニックにする山だ。人気の山小屋・燕山荘も山の風景に溶け込んでフォトジェニック。秋の紅葉と常緑樹や山容が織りなす絶景。ライチョウの生息地であり、日本の雷鳥は人間にいじめられた経験が薄いようであまり逃げないのでとてもフォトジェニックな野鳥である。ちなみに欧米でクリスマスの時期に食べる七面鳥は、以前は雷鳥だったらしく、ヨーロッパの雷鳥は人間を見たらすぐ逃げるそうだ。北海道にもエゾライチョウという別種の雷鳥がいるが、これはきわめて美味な狩猟鳥で、とても用心深い。


 燕岳がフォトジェニックなのはもう一つ理由がある。人間のポートレートを撮る時、レフ板という反射板を使って下から光を当てると、とてもフォトジェニックな写真が撮れる。テレビの女性アナウンサーをよく下からライトを当てて、見栄え良く映している。燕岳の白い花崗岩で山頂全体が天気のいい時はフォトスタジオみたいな状態である。だから登山者は誰でもフォトジェニックな記念写真が撮れる。
 この燕岳から常念岳、大天井岳、蝶ヶ岳に続く登山道は〈北アルプスの表銀座〉と言われている。銀座とつくぐらいなのでフォトジェニックな場所なのである。このルートから眺める槍、穂高の山並みや遠望する富士山や麓の田園風景など、まことに美しくその景色を堪能しながら稜線を優雅な気分で歩くことができる。


 ボクたちは蝶ヶ岳から下山し、豊科のマチに降りた。このエリアは山岳写真家で高山蝶の撮影でも有名な田淵行男氏のフィールドで、豊科には「田淵行男資料館」がある。連れ合いが『黄色いテント』(山と渓谷社刊)というエッセイ集を読んでいた。また、テレビ番組のドラマでもその活動が紹介されていた。ボクの両親の故郷・知床の斜里町には串田孫一が創刊した『アルプ』という山岳文芸雑誌の資料を集めた「アルプ美術館」という私設美術館がある。ボクたちのお気に入りの美術館で何度も訪れている。そこで田淵氏の高山蝶のスケッチを見ることができた。そんな縁も含めてフォトジェニックな山行であった。

 現在のボクは、観ることに関しては写真より絵画の人であるが、カラバッジョの明暗法(キアロ・スクーロは著名な映画撮影者であるヴィットリオ・ストラーロも映画撮影に取り入れている)、フェルメールのカメラ・オブスクラ(初期のカメラを自らの絵画表現に取り入れた)、ダ・ヴィンチのスフマート(重ね塗りで輪郭線を描かない技法で空気遠近法と呼ばれたりする)などは、その後の写真や映像文化につながる技術的アプローチである。
 ボクはロイスダールが描いたオランダの「雲」やターナーの絵画における「空気感」などが紡ぎ出す「気象」にも惹かれる。
 日々刻々と変化する山の自然に抱かれながらの山行は、ビジュアルとピクチャレスクな両面を味わいながら、岩稜の散策路を歩いている趣で、我ながら贅沢な楽しみ方だと思うのである。


                 

『クスリ凸凹旅日誌』▶14話:離島観光と信仰の山巡り

飛島は自転車と散策で探鳥をしながら島を一周しました

 2015年5月15日~20日 
 秋田県飛島 出羽三山 山寺(立石寺)

離島観光の落とし穴
 ボクは釧路、阿寒湖温泉、根室の三つの観光協会に所属している会員である。特に会員マニアというわけではない。市役所在職当時、広域観光でお世話になり、今もネイチャーガイドという仕事のつながりもあり、入会している。その縁で根室バードランドフェスティバルのお手伝いを何度かさせていただいている。
 そんな根室の観光協会からPRプロモーションで飛島に行くお誘いを受けた。全国の熱心なバードウォッチャーが珍鳥をターゲットに集まる飛島に鳥見がてらバードランドフェスティバルの宣伝に行くという。この分野ならではのプロモーションである。


 友人のバーダーから「離島観光はスケジュールに余裕を持って」とのアドバイスを受けた。あまり離島観光の経験がないボクは、そうはいっても5月のいい季節にこの際だから東北を探訪したい。出羽三山に行ってみたい。そうだ芭蕉の山寺(立石寺)にも足を伸ばしたい。そんな夢を抱きながらいつものように旅のスケジュールを組んだ。
 出港地の酒田に着いてご当地出身の写真家・土門拳の記念館を訪れた。高校時代の部活の顧問が写真の指導をする時よく土門拳の話をしていた。記念館は一写真家の記念館としては誠に立派で、土門拳らしい重厚な作りで郷土の誇りというものを感じさせた。

 翌朝、酒田と飛島を約1時間で結ぶフェリーで島に向かった。乗客はほとんどがバードウォッチングで島を訪れる輩のようで、船が動き出すと早速双眼鏡を持って海鳥の観察を始めた。
 5月は春の渡りのシーズンで多くの鳥達が越冬地から繁殖地に移動する。その海を渡る鳥たちが時に休憩地として使う島々が野鳥ファンにとっては垂涎の珍鳥に出会うことのできる場所となる。
 飛島は周囲約10キロで漁業とバードウォッチャーが利用する宿を経営する住民が2百人ほど暮らしている。


 海鳥たちの渡りに見惚れていると島に着いた。宿に荷物を降ろすと早速バードウォッチングに出かけた。レンタル自転車を借りてバードウォッチングをしながら島巡りをする。ボクのお目当ての鳥はコウライウグイス、ブッポウソウ等々である。早速散策ルートにあるトイレの横の屋外に仮設PRブースを作って根室野鳥観光の宣伝を行う。こういうところに来るコアなバーダーたちにとっては道東は知れ渡っているところだが、そこはさらに細い野鳥情報を中心に情報提供をする。
 根室の仲間は何度かこの地を訪れているそうで、はじめてのボクたちはセッティングを終えると探鳥をさせていただいた。

行きはよいよい帰りは??
 飛島には二日間の滞在予定。翌日の午後の便で島を離れ、酒田で根室の仲間とも別れ、ボクたちは出羽三山巡りに赴く予定であった。
 フェリーは波高3メートル以上になると欠航するそうだ。港湾部で8年間の釧路港勤務経験があるボクは、陸側から波を見ることにかけては経験者だ。出発前の天気予報では好天が続く予報だったのではあるが海は別物。翌朝、宿の部屋から海を見ると少し白波が立っていた。風が強いとたつ波なのであるが、この程度の波だとそれなりの大きさのフェリーの航行にとってはあまり問題ではないのではないかと思った。
 宿の主人は元漁師ということでお話をすると、「欠航の時は放送が入る。大丈夫!」とのことで安心して探鳥に出かけた。島を巡っていると防災放送でよく聞き取れないのだがどうやら「本日のフェリーは欠航です」。
 宿に戻って困ったという話を主人にすると、我々が北海道から来て後にスケジュールがあることを知っていた主人は「大丈夫! 俺が仲間を酒田から呼んであげるからその船に乗って戻ればいい。ただ他のお客さんには言わないように」とのこと。

 指定時刻に港について、その酒田からやってくるという船を待っていた。波高3メートルで欠航するフェリーの大きさが双胴船ではあるが沖合底引き船ぐらいの大きさだったので、ほぼそれぐらいの大きさの漁船が来るのかと期待していると、小さなポンポン船が岸壁に向かって近づいてきて接岸した。根室の落石クルーズは地元の漁協と連携して漁船を使っているが、ポンポン船は落石クルーズの漁船よりさらに一回り小さく、案の定、我々4名も含め乗船した10名ほどのお客さんは、クルーズ船のガイドをしている高野さんとボク以外は皆、出航間もなくダウン。我々二人は、波頭に木の葉のように揺れる船から海鳥たちを観察しつつ酒田に戻った。

先人の旅人たちと
 この旅の印象を振り返えると〈旅のスピード感〉について色々考えさせられた。旅の基本である移動手段では、この旅は飛行機、列車、船、自動車、自転車、歩行等、ほぼ想定される移動手段を使い、なおかつフェリーや漁船、山歩きや街歩きなどバリエーションも多彩。レンタカーでぐるっと回った出羽三山は現地確認という感じの行程ではあったが、それでも羽黒山の山道や湯殿山の御神体参拝などもできた。その後、峠を越えて山形の立石寺を訪れた。松尾芭蕉の「閑さや岩にしみ入る蝉の声」で有名な山寺の参道は、整備された岩登りの登山道のようだった。
 旅のスピード感を考える時、芭蕉の『奥の細道』の冒頭「月日は百代の過客にして行き交う年もまた旅人なり」というフレーズを思い出す。
 月日という時間の流れそのものが、旅人のようなものであるというこの言葉とともに、「日々旅にして旅を栖とす」と詠む芭蕉の旅に対する姿勢。
 生き生きとした感受性を取り戻す旅そのものを人生とし、俳句で歩きながら表現し続けた芭蕉は、旅=人生の〈究極の旅人〉だったかもしれない。そこには〈ゆっくり歩かなければ発見できない世界 〉を生きる芭蕉のスピード感があった。


 ボクたち現代人は様々な交通手段を駆使し、広がりを獲得した。世界を知ったような気になったが実は世界の広さというのはもっと深遠なもので、それは理解するものではなく、旅で体感するものかもしれない。
 口を開けば二言目には、スピード感と緊張感を連発していた安倍晋三元首相は「世界を俯瞰する外交」を自負していた。
 しかしながら、彼の世界観は日本を愛する割には一面的で薄っぺらなものに感じた。
〈鳥の目〉だけでは世界は見えてこない。〈虫の目〉の大切さを芭蕉や先達たちの旅はボクたちに教えてくれる。
 ボクたちは東北の山を越え仙台に着いた。帰りはもう廃止になる夜行急行「はまなす」に乗って北海道に戻った。出発前のプラットフォームでは廃止を惜しむ鉄道フアンたちがシャッターを押して名残を惜しんでいた。


                 

『クスリ凸凹旅日誌』▶13話:大キレットって何?

2014年9月6日~13日
北アルプス槍ヶ岳から大キレット経由
奥穂高岳

 いよいよ大キレットである。キレットとはガレットのように食べれるわけではなく、キットカットのように甘くもない。英語ではなく切戸と書く。日本語である。岩でできた刀の刃のような稜線が大きく抉れているところをキレットという。
 我が国最大のキレットは北アルプスの槍ヶ岳から北穂高岳までの間にある大キレットである。ボクたちが最初に北アルプスに足を踏み入れたのは1995年。家族登山であった。娘は小学校5年生。我々は41歳の時だ。それから再び北アルプスに足を踏み入れるのは十数年後で、その間、子育てや仕事に没頭していた。
 全く山に行かなかったわけではなく、北海道の日帰り登山は楽しんでいた。北海道と北アルプスの山の一番の違いは、北海道の山は火山や土壌が盛り上がって山になった感じ。北アルプスは岩山である。人によっては女性的な北海道と男性的なアルプスとかいうが、岩のような女性もいるのでボクはこの表現に与しない。


 雑誌PEAKSの岩山特集で掲載されていた危険な岩山番付によると、大キレットは東大関だ。図の黄色いマークの所が我々の登ったところで、結構危ない山も登ってきた。
 中でも左の横綱である剱岳別山尾根を2年前に登っていたボクたちは少し自信をつけていたのかもしれない。それまでノーマーク(少なくともボクは)であった大キレットへの挑戦の気持ちが芽生えていた。ちなみに東の横綱「西穂高岳から奥穂高岳」の区間は最難関箇所で行く可能性はゼロ。生まれ変わってもボクは行くことはない。東西横綱のレベル差は東横綱が大鵬であれば、西の横綱は柏戸ぐらいの差になる。(分かるかなぁ? この違い) 
 ボクたちのルートは上高地から槍沢沿いに槍ヶ岳に登り、北側から大キレットを縦走して南側の北穂高岳、そしてその先の前穂高岳までの予定であった。一番最初に娘と行った時、槍ヶ岳は小雨が降っていて登頂を断念した。 今回初めて登頂して想像以上に怖かった。あの時、無理せずに登頂を断念した判断は正しかったと思った。
 頂上直下の槍岳山荘で昼食をとって、好天だったので次の南岳小屋まで歩を進めることができた。ここで一泊し、いよいよ大キレット縦走である。

 大きなV字の岩山の切れ込みなのだが、その落差は約300mでさらに底にはギザギザのピークが2ヶ所ある。それが「長谷川ピーク」と「飛騨泣き」と呼ばれる大キレットの2大核心部である。
 長谷川ピークは昭和20年代頃、大学生がここで滑落し、奇跡的に救出された場所だそうで、その人の名前が地名由来となっている。
 飛騨泣きは稜線が刀の刃先の上を歩くような感じで、左足は信州側(長野県)、右足は飛騨側(岐阜県)を跨ぐ感じのところで、特に飛騨側は岩から垂直に最大500mぐらいの落差に切れ込んでいる。思わず泣いてしまう「飛騨泣き」なのだ。
 危険要因は二つ。一つは滑落である。足が恐怖ですくんだり、ボクたちみたいな中高年は平地でもたまに躓くのに、こんなところで躓くと取り返しがつかない。二つ目は落石である。約300mぐらいを上ったり下りたり繰り返すので、岩場の落石も命取り。
 予防策も二つ。一つは「三点支持」という岩場の登坂技術。これは経験と練習で徐々に身についてくるものだ。二つ目はヘルメット着用。上から落ちてきた石が当たった経験はないが、岩場を登っていくと角度が急になると登ってる 頭上の岩に気がつかないことが多い。これが結構ヘルメットの傷となって残っている。


 ボクたちは天候に恵まれていた。雨が降っていたらまずだめだ。ボクは高所恐怖症ではないが、当日は適度に雲があり、眼下の風景が雲であまり見通せなかったので恐怖感に苛まれることがなかった。約5時間近くかかり、最後の急登をよじ登り、北穂高岳山頂に着いた。
 昇り降りしてる間、何か考えていたかというと思い出せない。きっと無心に近い状況だったのかもしれない。北穂高岳に着いた時もやったという達成感があったわけでもない。ただホッとした。
 お昼ご飯を食べて更なる連なりの涸沢岳を経由して穂高山荘が二日目の山小屋であった。しかし、この北穂高岳から穂高山荘までの間が大キレットより怖かった。あまり鎖もなく、岩場の急斜面をフリークライミングで降りていかなければならない箇所など息を抜けない。山の事故の多くは危険箇所で注意喚起されている場所より、そういう所を通過した後、ふと気が抜けた時、滑落したりする。


 計画は山中3泊4日。北アルプスの主峰をつないだ縦走でボクたちの登山史上、間違いなくハイライトであった。この計画は連れが作った。登山は連れがいなければこのレベルには至らない。ボクは連れに登らさせていただいたというおもいが強い。しかし海外旅行に関しては、連れはボクを頼りにしていて、海外では謙虚である。持ちつ持たれつ。一勝一敗、五分である。 
 さてこの山行は計画通りには終わらなかった。翌朝、山小屋を出発し、奥穂高岳山頂に立った。しかし前穂高岳にはいかずボクたちはそこから引き返しザイデングラートというルートを使って上高地に下山した。
 これはボクが前穂高岳に行くのを拒否したことによる。予兆は登山口の上高地のビジターセンターに掲げられていた登山事故の状況を示す案内板にあった。ボクたちのルート上では大キレットでも何箇所かあったが一番事故が密集していたのが奥穂高岳から前穂高岳にいたる吊尾根と呼ばれる箇所であった。その事が頭の片隅に残っていて、ボクはどうしても前穂高岳には行きたくなかった。連れにお願いして無理を聞いてもらった。我儘ではない素直なヒロちゃんにしては珍しいことだった。
 ボクは思った。この難関をすべてこなすのは出来過ぎである。槍に登り、大キレットを縦走し、奥穂高岳の頂上に立てば満願ではないか。 人間、体も心も健やかに生きるのには腹八分目がいい塩梅である。二分は次回に残しておく。それがボクたちを見守ってくれた神様、仏様、ご先祖様への礼儀。連れがその事を理解してくれたかは分からない。ただ大キレットの話をするといつもこのことを責められる。できれば大キレットの話は避けたいのだが、話さずにはいられないほどボクにとっても偉業で自慢のことなのである。
 そのことがちょっと辛い。    

『クスリ凸凹旅日誌』▶12話:アートの力は 人を救うか

伊藤若冲だけじゃないぞ!応挙も芦雪も揃って見事なコレクションを堪能しました

2013年8月26日~9月4日
後立山連峰 福島

若冲の衝撃
 本州に登山に出かける時の一般的なスケジュールは登山に2、3泊。これに予備日を1日つけて、前後の移動日も加えると一週間前後の日程となる。どうしても東京が起点となるので予備日を使わなかったときは東京での街歩きや美術館巡りに充てることが多い。
 2013年の後立山連峰縦走は残暑の8月下旬であった。スケジュール通り縦走を終えたボクたちは東京の娘と一緒に丸1日の予備日を福島への日帰り旅行を計画した。


 福島県立美術館で開催される伊藤若冲の展覧会を見に行くためである。この展覧会は東日本大震災の復興支援特別展と銘打たれ、若冲の世界的コレクターであるジョー・プライス氏のコレクションが一堂に展示される魅力的なものであった。プライス氏の意向で高校生以下は無料。大震災で傷ついた青少年たちをアートの力で励ます氏の思いが伝わるものであった。
 NHK「日曜美術館」で初めて伊藤若冲という江戸時代の絵師の存在を知った。プライス氏はアメリカで石油パイプラインの会社の2代目御曹司として生まれ育ち、若かりしとき日本画に魅せられて購入した一枚の絵がきっかけとなり有数の日本画コレクターとなった。その最初の一枚が伊藤若冲の『葡萄図』であった。 
 震災から2年経ったが福島原発の放射線被害は多くの故郷を離れざるを得ない人々を生み出していた。そんな中でも経済復興を牽引するため福島を観光することや地場産品の購入が叫ばれていた。東北新幹線で福島駅に着くと駅のホームに「あなたの旅が福島の元気です」とのフラッグが掲げられていた。


 一方、福島県立美術館の敷地内庭園には放射線で汚染されているので立ち入らないでください、との札があった。
 展覧会の目玉は若冲の『鳥獣花木図屏風』であった。その絵は会場の奥まったところの一室の一面、壁を独占する形で展示されていた。1cm四方のマス目が8万6千個グリッドに並べられ、そこに様々な鳥や動物、木や花がモザイク式にびっしりと描かれている。実在するものや空想のものなどが入り混じっている。
 ボクはこれまで色々な美術館や展覧会、そして教会などで様々な絵と出会ってきたが、今までで一番鑑賞時間が長かったのは間違いなくこの絵である。展覧会全体で約2時間。そのうちの1時間以上はこの絵の前にいた。この絵を見ながら色々なことが頭をよぎった。

フクシマで考えたこと
 絵から離れて全体を眺めると2幅の屏風に描かれている生き物の世界が何ともいえず愛くるしい。天竺(インド風)イメージという識者もいるが、確かに象や虎などのモチーフはそうだが、シルクロードで見た仏画の中にこんな形式のものはひとつもなかった。
 これは若冲のオリジナルなんだろうか? 近づいてみるとマス目の中にさらに複数のマス目が描かれているのが分かる。そして細かなマス目に塗り分けられた色の変化が全体の絵のグラデーションを作り上げている。一つ一つのマス目を見ていて飽きないのである。
 その時、ボクに一つの記憶が蘇った。高校生の時、「アサヒカメラ」という雑誌に掲載されていたデビッド・ホックニーの写真である。
 今でこそデビッド・ホックニーが現代美術をリードする芸術家の一人であることは知っているが、当時は新進気鋭の写真家とばかり思っていた。その写真はひとつの場面を数十枚くらいの写真で再構成している。一見コラージュのようなのだが、あくまで一つの場面を分割し再構成する写真の一枚一枚が大きかったり小さかったり微妙に傾いていたりするのである。
 人間の視覚は一枚の絵画や写真を見ていても常に一点の視点が移動しながら全体像を把握する。つまり全体を見ているつもりだが実は一点しか見ていない。これは生理的なことなので如何ともし難い。このことをホックニーは利用し、平面の全体を分割し、複数の視点移動で表現する習作を作っていた。
 1時間も同じ絵を見ていても飽きない一つの理由がホックニーと伊藤若冲の技法に共通する視覚の誘導方法にある。
 先人たちは遠近法や明暗法など様々な手法を開発し、表現の世界を切り開いてきた。「ジョイナーフォト」と名付けられたその技法にボクは妙に引かれ、自分でも同じ手法で何点かの作品を作った。
 伊藤若冲は極めて独創的な手法でいきものたちの姿を描いた。現実に存在する生き物も空想の生き物もこの1cmのグリッド単位を起点として描いた。ボクにはそれが脳細胞の集合モデルを見てるような感じがした。
 頭の中で空想されるイメージの脳細胞図を見ているような思いに駆られた。

  
 会場からロビーに出ると多くの人が列を作っていた。何かと思って前を見るとなんとプライス氏がお連れ合いの悦子さんと一緒にサイン会をしていた。ボクはあまりサインが欲しいとか思わないたちなのだが、プライスさんにひとこと声をかけたくて、その列に並んだ。
 あの時、ボクは彼になんと声をかけたかったのだろう。
「日本のためにありがとう」
「素晴らしいコレクションを見せてくれてありがとう」
「復興支援にご尽力ありがとう」等々。
 英語でいうフレーズを考えていたら美術館の係員がボクの前で「サインはここまでにします。よろしくご理解ください」とのこと。
「コチとら北海道から、それも後立山連峰を縦走し、東京を経由し、わざわざまわり道してここに来たんだぞ!」と叫びたい衝動に駆られた。
 その時聞き慣れた声で「お父さんカレーきたよ」との声。そうだ! 先に展示場を出た家族と館内の食堂で昼食をとる約束をしていて、ボクのメニューはカレーと先に決めて入場したんだよな。
 アメリカを代表する石油資本の御曹司に生まれたプライスさんの出自は原発事故で福島を離れざるを得なくなった若者の出自と宿命という点では同じである。選ばれた運命。一方、若き日のプライスさんが目にした『葡萄図』に魅せられ購入した彼の慧眼は自ら拓いた道であった。
 独学で日本美術を学んだプライス氏は美術商や専門家の助言とは遠く離れ、自らの眼力で当時全く無名であった伊藤若冲のコレクションを作り上げた。
 福島の若者たちに若冲はどんな衝撃をもたらしたのだろう。
 熱いフクシマの一日であった。

『クスリ凸凹旅日誌』▶11話:剱で問う。常識とは

男は黙って剱岳へ、な~んちゃって


2012年9月28日~10月5日 
立山連峰縦走・金沢・東京

石橋は叩いて渡る
 世の習い事といわれるものには、それぞれにレベルを示す指標がある。柔道、将棋、書道、英検等々には、級や段、時には名人と呼ばれるレベルもある。登山には登山三段とか登山名人とか検定制度がないので、自ずと自分のレベルは周りの登山者と秤にかけて、この山は登れるのかな? 自分のレベルに合うのかな? と思いを巡らせる。登山に関しては連れが上級者であることは間違いないので、登山計画は彼女が作る。男は黙ってついていく。
 剱岳は岳人にとってはあこがれの山である。その歴史、山容、登山難度、いずれも日本を代表する山の一つであることは違いない。
 計画では室堂から立山連峰を縦走し、剱岳を登攀後、真砂沢方面に下り黒部川沿いの水平歩道を欅平まで降る4泊5日のロングトレイルであった。
 出発前から台風の接近が報道され、移動中も天気予報とにらめっこの毎日。「石橋を叩いて渡る」慎重派のボクにとっては計画取りやめも想定。女は度胸タイプの連れは「とりあえず現地に赴く」との意向で不安を抱えながらの旅立ちとなった。

 初日は好天であったが雄山に登る途中、前を登っていた高齢の女性が頭部を岩にぶつけ出血した。幸い登山客も多く救助する人もいて我々は前に進むことができたが何やら不吉な予感。これまで我が登山史上、山中4泊の計画はマックス。不安が先行する。一泊目の剱岳手前の山小屋に夕方到着。台風の接近が報道される中、翌朝、剱岳を目指すことになった。
 剱岳の有名な難所は上りにあるカニの縦ばい、下りにあるカニの横ばいと呼ばれる岩場の登坂である。特にカニの横ばいは、ほぼ垂直の岩場をロープ伝いに横に移動するのだが、さほどの距離ではないのだが最初のステップが視界に入らないので谷底を見ても自分の足場が見えない恐怖が足をすくませる。案の定、ボクはカニの横ばいでつま先を岩場に挟めてしまい立ち往生してしまった。連れに助けを求めたが「ちょっと足を横にしてみたら」の一言で見事に外れ事なきを得た。幼少の頃、家族団欒の時に飴が喉に詰まり一人でもがき苦しんでいたが周りはその苦労も知らず和気あいあい、孤独な恐怖感に苛まれたことを思い出した。

 剱岳は新田次郎の小説『点の記』で有名だが、近代日本の測量技術と登山史の黎明期を代表する山である。映画化(木村大作監督『点の記』)もされ人気の山ではあるが夏場の一般ルートの登山では最も厳しい登攀路といわれている。独立した、まさに剱をおもわせる重厚な山容。標高は2999mで3千mにちょっと足りないところがまた味噌だ。《ワシは高さはメじゃない。誰もが行く富士山なんかとは流派が違う》という感じである。いうならば〈素人が来ちゃいけない〉そんな憧れの山の山頂にあえぎながらもやっと立つことができた。さすがに台風到来の中、山頂の登山者は片手。途中でも数人の登山者とすれ違ったがシーズンは数珠繋ぎになるところだそうだ。
 不吉な暗雲が垂れ込める中を下山し、次の目的地に向かう登山小屋に電話をしてみた。主人曰く「こんな時来るもんじゃない! すぐ下山しなさい」と常識外れの判断をした素人登山者をたしなめるというよりは叱りつける口調で電話を切った。ボクは憤慨するでもなく、内心ホッとしたに近い気持ちだったが、自らの判断の未熟さも反省しつつ、風雨が強まる中、直近の山小屋、剱御前小舎に宿泊することになった。

常識と非常識の間
 山小屋には我々と熟年の女性グループ、そして高齢の男性が一人先着。その男性は我々の隣の部屋に煌々と電気をつけて仰向けになって寝ていた。〈どこか違う〉そんな思いが頭をよぎる。夕飯時にボクの向かいがその男性の席であった。男性は夕食の膳にコンビニのおにぎりを持参してきた。老人とは思えない食べっぷりで黙々と食事をとった。
 ボクは一段落ついてやはり気になる男性に声をかけた。ボクは《怖いものを避けたい》と思う一方、《怖いものと仲良くなってその場の雰囲気を和らげたい》という思いが起きるタイプである。男性は九州小倉から一人で来て、午後から入山し雨の中、やっとこの小屋までたどり着いたとのこと。明日、剱岳を目指すのだが山小屋の主人からきつく登山を断念するように言われ下山するとのこと。我々の事情も話し、お互いの山の経験なんかも話始めた。吉岡さんという70代であろう男性はこの後、我々に吉岡の爺ちゃんと呼ばれることになる。(本人の前では言わないが)

 吉岡の爺ちゃんの初めての登山は、募集登山で参加した富士山登山であった。この時はなんとかツアーに付いていくことができ、登頂もできたそうだ。次のチャレンジが今回で、なんと今回は単独で剱岳に来たとのことである。
 〈どこか違う〉との感覚は、その服装、佇まい、振る舞い、話しぶり、そしてこの山の経験談で決定的になった。女性グループは明らかにひいてしまい、我々が吉岡の爺ちゃんの話を聞くことになる。電源関係の電柱を立てるような土木作業をしていたが、仕事が一段落(きっと退職)してから登山でもやってみようということではじめたらしい。ということで吉岡さんのスタイルは、山に関しては常識的(つまりバランスの取れた大人の考え方、物事の多くの側面を考慮した振る舞い)とはいい難い仕様になっていた。
 はっきり言って、この空間においては場違い。でもボクは想像した。吉岡さんは非常識だからといって、特に迷惑をかけるでもなし、悪い人にはおもえないし、個人史的には、高度成長期にがむしゃらに働き、やっと余暇を楽しむ時間ができて山でも行ってみたいなという夢を実現しようとしたのではないか。そのことは愛おしいことだと思った。
 翌日朝食を終え下山の準備をしていると山小屋の主人が声をかけてきた。
「塩さん、雷鳥沢に下るのであれば吉岡さんと一緒に行ってください」「え~!」。見れば外では吉岡さんがこちらを待っているような。雨が降っていたので上下雨具に着替え、外に出ると吉岡さんは作業着風の上下に山菜採りにでも行くような大きめのデイパックを背負って立っていた。
「雨具を着た方がいいと思いますが…」「雨具は持ってるんだけど、とりあえずこのままで大丈夫」とのやり取りもどこかチクハグ。
 常識と非常識は紙一重という。吉岡の爺ちゃんは確かに非常識。でも台風襲来の時に縦走を考えた我々も現地の人から見れば非常識といえば非常識。世の中振り返ってみれば、非常識の輩はあちらこちらに。国ごと非常識なところもある始末。つまり五十歩百歩。


 旅の格言に「郷に入れば郷に従え」というのがある。好奇心を持った人間は時には異郷、場違いな空間に足を踏み入れる。そのことは時には非難されることかもしれないが、決して恥ずべきことではない。しかし、その非常識をたしなめられた時は忠告に従う謙虚さが旅人には必要である。吉岡の爺ちゃんは謙虚であった。
「お世話になったんで下山したら一緒に飯でも食わないかい」とか「どこまで行くんだい? 富山までなら俺の車で送っていくよ」とかいうセリフは全く無く、吉岡の爺ちゃんはずっと雨具を着ることもなく、室堂の建物がうっすらと霧の中から見えはじめるとさりげなく手を振って我々に別れを告げた。その後ろ姿は、孤独だけど寂しくはない、そんな感じを漂わせていたように感じた。         

釧路湿原、阿寒・摩周の2つの国立公園をメインに、自然の恵が命にもたらす恩恵を体感し、自然環境における連鎖や共生の姿を動植物の営みをとおしてご案内します。また、アイヌや先人たちの知恵や暮らしに学びながら、私たちのライフスタイルや人生観、自然観を見つめ直す機会を提供することをガイド理念としています。