『クスリ凸凹旅日誌』▶12話:アートの力は 人を救うか

伊藤若冲だけじゃないぞ!応挙も芦雪も揃って見事なコレクションを堪能しました

2013年8月26日~9月4日
後立山連峰 福島

若冲の衝撃
 本州に登山に出かける時の一般的なスケジュールは登山に2、3泊。これに予備日を1日つけて、前後の移動日も加えると一週間前後の日程となる。どうしても東京が起点となるので予備日を使わなかったときは東京での街歩きや美術館巡りに充てることが多い。
 2013年の後立山連峰縦走は残暑の8月下旬であった。スケジュール通り縦走を終えたボクたちは東京の娘と一緒に丸1日の予備日を福島への日帰り旅行を計画した。


 福島県立美術館で開催される伊藤若冲の展覧会を見に行くためである。この展覧会は東日本大震災の復興支援特別展と銘打たれ、若冲の世界的コレクターであるジョー・プライス氏のコレクションが一堂に展示される魅力的なものであった。プライス氏の意向で高校生以下は無料。大震災で傷ついた青少年たちをアートの力で励ます氏の思いが伝わるものであった。
 NHK「日曜美術館」で初めて伊藤若冲という江戸時代の絵師の存在を知った。プライス氏はアメリカで石油パイプラインの会社の2代目御曹司として生まれ育ち、若かりしとき日本画に魅せられて購入した一枚の絵がきっかけとなり有数の日本画コレクターとなった。その最初の一枚が伊藤若冲の『葡萄図』であった。 
 震災から2年経ったが福島原発の放射線被害は多くの故郷を離れざるを得ない人々を生み出していた。そんな中でも経済復興を牽引するため福島を観光することや地場産品の購入が叫ばれていた。東北新幹線で福島駅に着くと駅のホームに「あなたの旅が福島の元気です」とのフラッグが掲げられていた。


 一方、福島県立美術館の敷地内庭園には放射線で汚染されているので立ち入らないでください、との札があった。
 展覧会の目玉は若冲の『鳥獣花木図屏風』であった。その絵は会場の奥まったところの一室の一面、壁を独占する形で展示されていた。1cm四方のマス目が8万6千個グリッドに並べられ、そこに様々な鳥や動物、木や花がモザイク式にびっしりと描かれている。実在するものや空想のものなどが入り混じっている。
 ボクはこれまで色々な美術館や展覧会、そして教会などで様々な絵と出会ってきたが、今までで一番鑑賞時間が長かったのは間違いなくこの絵である。展覧会全体で約2時間。そのうちの1時間以上はこの絵の前にいた。この絵を見ながら色々なことが頭をよぎった。

フクシマで考えたこと
 絵から離れて全体を眺めると2幅の屏風に描かれている生き物の世界が何ともいえず愛くるしい。天竺(インド風)イメージという識者もいるが、確かに象や虎などのモチーフはそうだが、シルクロードで見た仏画の中にこんな形式のものはひとつもなかった。
 これは若冲のオリジナルなんだろうか? 近づいてみるとマス目の中にさらに複数のマス目が描かれているのが分かる。そして細かなマス目に塗り分けられた色の変化が全体の絵のグラデーションを作り上げている。一つ一つのマス目を見ていて飽きないのである。
 その時、ボクに一つの記憶が蘇った。高校生の時、「アサヒカメラ」という雑誌に掲載されていたデビッド・ホックニーの写真である。
 今でこそデビッド・ホックニーが現代美術をリードする芸術家の一人であることは知っているが、当時は新進気鋭の写真家とばかり思っていた。その写真はひとつの場面を数十枚くらいの写真で再構成している。一見コラージュのようなのだが、あくまで一つの場面を分割し再構成する写真の一枚一枚が大きかったり小さかったり微妙に傾いていたりするのである。
 人間の視覚は一枚の絵画や写真を見ていても常に一点の視点が移動しながら全体像を把握する。つまり全体を見ているつもりだが実は一点しか見ていない。これは生理的なことなので如何ともし難い。このことをホックニーは利用し、平面の全体を分割し、複数の視点移動で表現する習作を作っていた。
 1時間も同じ絵を見ていても飽きない一つの理由がホックニーと伊藤若冲の技法に共通する視覚の誘導方法にある。
 先人たちは遠近法や明暗法など様々な手法を開発し、表現の世界を切り開いてきた。「ジョイナーフォト」と名付けられたその技法にボクは妙に引かれ、自分でも同じ手法で何点かの作品を作った。
 伊藤若冲は極めて独創的な手法でいきものたちの姿を描いた。現実に存在する生き物も空想の生き物もこの1cmのグリッド単位を起点として描いた。ボクにはそれが脳細胞の集合モデルを見てるような感じがした。
 頭の中で空想されるイメージの脳細胞図を見ているような思いに駆られた。

  
 会場からロビーに出ると多くの人が列を作っていた。何かと思って前を見るとなんとプライス氏がお連れ合いの悦子さんと一緒にサイン会をしていた。ボクはあまりサインが欲しいとか思わないたちなのだが、プライスさんにひとこと声をかけたくて、その列に並んだ。
 あの時、ボクは彼になんと声をかけたかったのだろう。
「日本のためにありがとう」
「素晴らしいコレクションを見せてくれてありがとう」
「復興支援にご尽力ありがとう」等々。
 英語でいうフレーズを考えていたら美術館の係員がボクの前で「サインはここまでにします。よろしくご理解ください」とのこと。
「コチとら北海道から、それも後立山連峰を縦走し、東京を経由し、わざわざまわり道してここに来たんだぞ!」と叫びたい衝動に駆られた。
 その時聞き慣れた声で「お父さんカレーきたよ」との声。そうだ! 先に展示場を出た家族と館内の食堂で昼食をとる約束をしていて、ボクのメニューはカレーと先に決めて入場したんだよな。
 アメリカを代表する石油資本の御曹司に生まれたプライスさんの出自は原発事故で福島を離れざるを得なくなった若者の出自と宿命という点では同じである。選ばれた運命。一方、若き日のプライスさんが目にした『葡萄図』に魅せられ購入した彼の慧眼は自ら拓いた道であった。
 独学で日本美術を学んだプライス氏は美術商や専門家の助言とは遠く離れ、自らの眼力で当時全く無名であった伊藤若冲のコレクションを作り上げた。
 福島の若者たちに若冲はどんな衝撃をもたらしたのだろう。
 熱いフクシマの一日であった。