日誌からみる武四郎の人となり

■ドナルド・キーンが亡くなって、あらためて 『百代の過客<続>』 を読み直し、氏の日本における日記文学への深い眼差しに興味惹かれた。 キーン氏は同書に武四郎を取り上げ、 「アイヌ民族の権利の、力強く、そして説得力のある擁護者としての姿が、文中から立ち現れてくる。」と 武四郎を評し 、また日記が武四郎自身の人となりを自ずと語ってくれているのが面白い、と述べている。
■ 現在、私は仲間との勉強会「武四郎を読む会」で、武四郎の日誌『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌』を解読しているが、そのなかでも、そのことを納得するような件があった。勉強の対象テキストである『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌』は在野の武四郎研究者であった秋葉実さんの解読による著書で、現在、読み合せているのは1858年、武四郎第6回目(最後の)蝦夷地探訪の部分である。「戊午久須利日誌」と題され、後に刊行本『久摺日誌』として紹介される釧路から阿寒湖畔、網走、斜里を巡り、摩周、弟子屈を経て釧路に戻るまでの日誌部分である。
■ ご存知のとおり、武四郎の旅はアイヌの案内人の同行があってはじめて成立したもので、依頼者とガイドとの関係性もガイドである私にとっては興味のあるところだ。今回、ご紹介するのはこの日誌の塘路泊を記述した個所で、武四郎とアイヌ案内人とのつながりと旅仲間に対する眼差しの優しさにいたく感心したのである。同文箇所の秋葉解読文と私の訳文を以下に示す。

上段:『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌』部分抜粋 下段:塩による訳文

■ ここで共感するのは、武四郎のマメな優しさ、上下関係より仲間関係重視、郷愁に対する感性、武四郎の旅のイメージなどであるが、ガイドの疲労に配慮して自らが米を研ぐ武四郎の姿勢は、彼の繊細な心遣いを表している。まさに寝食を共にして、苦難に満ちた蝦夷地探訪をアイヌ案内人とともに成し遂げた基本姿勢である。
また、ケンルカウスがイトウをさげて現れた様を「生涯の話の種に」という件には、エピソードの積み重ねのなかに旅の価値を認め、現場のなかの事実を積み上げながら、真のアイヌの姿に触れようとした人となりが垣間見れる。
■ 尊王攘夷論者として対ロシアから蝦夷地を守り日本がこれを統治する武四郎の考えには揺るぎはなかったのであろうが、武四郎のおもいどおりにアイヌを同化させることにはならなかった失敗談のエピソードも日誌には綴られていて、武四郎自身の揺らぎや困惑も垣間見れる。私が武四郎に学ぶのは、思想的影響をうけながらも、現地現場でそれを補正しながら真実を見極めようとする姿勢である。

-25℃極寒の釧路の朝

氷が張って川を覆っています

2019年2月9日。 釧路湿原極寒の朝。-25℃の世界。みんな寒そう~。

釧路川のけあらし(水温より外気温が低く発生する川霧)
釧路川のカヌーステーション。氷が流れ樹氷とフロストフラワーの競演。
タンチョウも寒そうに川辺にたたずんでいました
シカの親子も寒そう

マクンペッ探訪記

古におもいを馳せるマクンペツ探訪のはじまり

釧路湿原の東側に位置する塘路湖の近辺に、地元の方たちが古川と呼ぶ、河川跡がある。松浦武四郎の『東西蝦夷山川地理取調日誌』によれば、マクンベツ及びマクンベツチャロとして紹介されているあたりとおもわれる。アイヌ語ではマクン〔mak-un〕奥の、奥にある、ぺッ:川となるのだろうか。ガイド仲間と一緒に1月下旬に探訪した。事前情報は、武四郎の勉強会の仲間が提供してくれた、古い写真である。1948年の空撮写真にはまだこの川が写し出されている。

1948の写真には流れがあったマクンペッ
これは2000年の写真。すでにマクンペッは枯れている。

当日は晴れた午前中で、まだ雪も深くなかったので長靴での探訪となった。川跡は確かに雪に埋まってはいるが明らかに蛇行する川であることが確認できる。土手には柳やヤチダモが多く繁茂し、カラ類の野鳥が頻繁に行き来する。蛇行するマンクベツを釧路川本流との合流点まで進み、折り返し、ヨシ原を抜けて再びマクンベツの凍結した流れに合流し、今度はアレキナイ川の合流点まで進む。この間は、ヤチダモの高木が多く、キツツキ類(アカゲラ、オオアカゲラ)が目につく。塘路湖と釧路川をつなぐアレキナイ川は冬も凍結しない流れを保っている。
ここから、いつもは釧網線の車窓から眺める、エオルトー、ポントーと呼ばれる湖沼の凍結した氷上を歩き、出発点に戻った約2時間のトレッキングとなった。

武四郎は日誌に、マメキリの乱(1789年のクナシリ・メナシの戦い)でこれに味方しなかったクスリアイヌをネムロ、クナシリのアイヌが追ってきたが、クスリアイヌはこの川に逃げ込み、追ってきたアイヌたちは釧路川を抜けていったので、クスリアイヌたちは助かった旨のエピソードを記録している。確かに本流も相当に蛇行しているのに加え、マクンベツがエスケープルートになって、周辺には小沼も点在しているとなれば、当時の湿原での追跡劇も目に浮かぶ景観である。

丸木舟ではなくカヌーがゆったりと釧路川を流れていきました

私は、冬のトレッキングルートの一つとして今シーズンから既に何度かお客さんをご案内している。時間にあわせてショートカットも出来るので、冬ならではの湿原ウォークを楽しむには魅力のコースである。ここでその昔、こんな物語が展開していたとは…。湿原らしい景観と環境、動物たちとの出会い、そしてアイヌたちの目線で歴史のひとこまにふれる。

アイヌ文化目線について考える

1月22日、川湯温泉で「観光客受入スキルアップセミナー」が開催(主催:くしろ圏観光キャンペーン推進協議会)され、ファシリテーターとしてセミナーに参加した。その内容をお伝えしたい。
 セミナーは「アイヌ文化を活用した観光振興の方向を考える」をテーマに、秋辺日出男さん(阿寒アイヌ工芸協同組合専務理事)の「アイヌ文化目線をとりいれたガイディングの魅力について」と題した講演があり、その後、意見交換をおこない私も司会進行役として参加、計2時間ほどのセミナーとなった。参加者は、ガイド、自治体職員、観光関係者等約30名。地元弟子屈が約半数で、釧路市、厚岸町、霧多布からも参加があった。

○秋辺さんの講演のポイントは3つ、
・ガイドの心構えとして、時代区分の北海道と本州との違いや、アイヌに関する歴史的な基本知識は最低限そなえること。
・先住者にとって、北海道150年に失われたものとそれの回復としての社会環境の整備(白老のウポポィ建設などへ)などを理解すること。
・アイヌ文化のhappy な部分だけでなく、unhappyな部分もガイドは自分の引き出しにおさえておいてほしいこと。

 また、アイヌ語やアイヌ地名における、伝承上の齟齬などネットや一部の解釈での理解は危険であることをふまえつつ、地名などはアイヌも和人も共有するものなので、ガイドをする上で魅力になる。さらに、伝説やアイヌと和人の発想の違いなども紹介し、同じ土地に生まれたもの同士、アイヌ文化を共有財産として活用していくスタンスを意識することが重要と締めくくった。
 特に、次の若い世代にアイヌの文化歴史を伝えることは、北海道の歴史を知る我々の権利でもあると強調した。
 私は講演のメモをホワイトボードでしめしたので、以下写真でご参照下さい。

秋辺さんの講演内容をボートに書き込み、意見交換会の素材提供

 その後、意見交換で各地からの参加者にアイヌ文化を生かしたガイドの実態をお聞きした。それぞれの地域にはアイヌテーマをメインにしたプログラムはないが、それぞれのガイドの場面ではアイヌ地名やアイヌ文化に関連する紹介をしている旨の発言があった。また、旅行代理店からはアイヌの当事者ガイドをメインとしたガイディング事業である「ユーカラ街道事業」の紹介があった。自治体関係者からはプロモーションなどでは、アイヌの負の歴史に関しては出来るだけ話さないようにしている、との実態も率直にお話いただいた。
 秋辺さんからは、アイヌに関連した観光資源の掘り起こしや、アイヌ自らがガイドする事業への期待も表明された。

30数名のガイドや観光関係者、自治体関係者と意見交換

 ファリシテーターは進行役なので自分の意見は出来るだけ言わない、とおもっていたが、是非、秋辺さんの被差別体験の話をお聞きしたいと質問した。というのも、セミナー前に2回ほど秋辺さんと打ち合わせしていたなかで、unhappyな歴史をガイドとしておさえる重要性を再認識させられ、私自身ガイドにおける「心と技」の部分では、「心」の記憶として秋辺さんの被差別体験を留めたいとのおもいがあった。
 講演タイトルの「アイヌ文化目線をとりいれたガイディングの魅力について」は秋辺さん自身の命名ではないそうだが、理屈っぽく考えるには適したものだ。「アイヌ」とは何か、「文化」とは何か、「目線をとりいれる」とはどんな表現か、我々の「ガイディング」スタンスは、お客さんに伝える「魅力」とは…。そういう「技」を駆使しつつ、決して忘れることのない「心」を秋辺さんの体験をとおし、参加者と少しでも共有できたとおもえた。

私の頭のなかで整理したテーマの図解

 私は前日、豪州からの観光取材メンバーを川湯温泉まで案内してきた。2000年シドニー五輪は先住民アボリジニの最終聖火ランナーであるキャシー・フリーマン(彼女は400mの金メダリストにもなった)の印象が残る民族融和の演出が施された開会式であった。秋辺さんも2020東京の開会式演出で先住民部分の演出を担うようだ。何かの縁を感じた。総合統括である野村満斎氏の演出コンセプトは「和の心」だそうだ。その「和の心」にアイヌの心がどのように含まれ、表現されるのか、とても楽しみになってきた。

 最後にまとめとして、会場ではまとめきれなかったので紙上でご勘弁いただきたい。
 我々が目指す目線は、不幸な過去を忘却の彼方に追いやるものではなく、それを包含し多様な文化を共有しつつ、ともに目指す未来像であってほしいとおもう。グローバルには「民族の共生」から「自然と人の共生」へ、ローカルでは「持続可能な自然と地域」を実現する”心と技”をお互い磨いていきましょう。

我が家の飯寿司づくり物語

この樽に35日間漬けられておりました

 4年ほど前から飯寿司づくりをはじめた。母の手作り飯寿司は年末年始の味だったが、高齢になりそれも叶わず、連れ合いといよいよ我々の出番登場となった。師匠は古くからの友人で家庭科の教師経験もある料理の達人。きちっとしたレシピと発酵食品としての飯寿司の道を入門とあいなった。
 さて、北海道の飯寿司魚種といえば、一にハタハタ、二に鮭、三にカレイという感じ? しかし、近年、ハタハタは漁獲量減と手間がかかり、食品管理が難しいこともあり家庭飯寿司からは姿を消しつつある。やはり、鮭。それも色鮮やかなベニザケが我が家の定番。木樽に阿寒の森で採取したクマイザサを使用。これも採る時期を誤ると綺麗で殺菌効果のある笹の効果を損ねることになる。
 ちょっと話が硬くなったので肝心の味について、約35日間、5度以下0度以上の適正温度管理も順調にすすみ、カムロという醗酵をしめす白い塊も順調に出現し、 今年の味は、我々の間では、「ばっちり!」とおもっていたが…。  関係各位に配布後、師匠にも配達し、数時間後、師匠からの電話。大根がしなり気味なこと、温度管理と重石の重量の確認等々、細かな指摘と注意事項。まだまだ道は続く。
 飯寿司は本当に奥が深く素晴らしい発酵食品だとおもう。この食文化を家庭料理として繋げていければとおもうのだが、我が家の継承者は「なんか、生ごみみたい」とのリアクション。いやいや食文化は地域で、道産子が伝える、ということでいいんでないかい。

良品ベニザケを安価に確保し、塩で丁寧に揉む。塩は豊富です。
ベニザケの陸封型が阿寒湖原産のヒメマス。これの飯寿司もあるそうな、食べてみたい!
新鮮な野菜をふんだんに入れる。大目の野菜が我が家流。
漬け込み作業中。
笹にくるまれた飯寿司がいよいよご開帳!
我が家のシェフです。私も助監督として参画してます。
約1ケ月を越える沈黙を破りオープン!不安と期待が入り混じる瞬間。