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カモメはカモメ~凸凹WABISABI自然ごよみ/1

ユリカモメ(道東では冬鳥又は旅鳥)夏になると頭が真っ黒に変身!

新規カテゴリーに「凸凹フェノロジーカレンダー」を設けます。フェノロジーカレンダーは日々の自然の移ろいを動植物で示すものですが、気象庁も動植物を季節変化の指標にする項目を大幅に削減。地球温暖化も進み、ここ道東の季節感も少しずつ変化しているようです。皆様も身の回りの自然の変化をこのコロナ禍のなか、ちょっと注意深く愛でるのもいかが? というわけで随時、アップします。
1回目はカモメ。

「カモメは飛びながら唄を覚え、人は遊びながら年老いていく」 
寺山修司の確かコマーシャルに使われたキャッチコピーです。カモメは日本では約10種類ほど観察されるので、このカモメはどのカモメなんでしょう? きっと寺山は下北出身だから、旅人の心情を託したとすれば旅鳥のユリカモメあたりか。それとも八戸の蕪島が大繁殖地のウミネコかしら?
ちなみに東京都の鳥<みやこどり>は種名ミヤコドリ(上写真)とは違い、ユリカモメ(フロント写真)のことです。ユリカモメは夏になると頭が真っ黒になって、これが同じ鳥かとおもいます。仮面カモメで演劇的なので寺山寄りです。
 冬はカモメ観察の季節。冬鳥として渡ってくるシロカモメやワシカモメなどもいて港に魚が揚がる時などは複数種のカモメが観察できます。でも違いは微妙なので、そこが渋い。
 我々に一番馴染みがあるのはオオセグロカモメ。一年中居る留鳥で数も一番多いです。このオオセグロカモメも夏と冬では少し変化します。冬は頭部が白というよりごま塩風の雰囲気。これに加え、大型のカモメは成長になるのに4シーズンほどかかるので、成長過程でも羽色や嘴、足の色が変化するのでこれまた渋い。
 オオセグロカモメは気が強くて、ずうずうしいので、さしずめ「陸のヒヨドリ、海のオオセグロカモメ」といった態度がデカい野鳥両横綱。でも、ヒヨドリもオオセグロカモメも生息域が日本周辺と周辺アジア地域だけなので欧米からのバードウォッチャーには喜ばれる、ガイドにはありがたい鳥ではあります。
 ちょっと困った人だけど付き合ってみるとなかなか味がある、そんな感じ?

『クスリ凸凹旅日誌~24の旅のカタチ』▶あとがき

全24話+随想6話、掲載終了します。お読みいただきありがとうございました。

トレイルは続く

 いろいろなことを考えつつ家を空ける事となる。
 今ではすでに90代に入って老人ホームにいる母二人。持病を持ってグループホームに住む妹。義理の母は心配事はとりあえず、兄夫婦が近くに住むので安心だけど、私の方は頼りになるのは私だけなので、母と妹は私以上に無事の帰りを待っている。
 おおよそ連れは、私のこの心配事とは無縁の人に感じる。楽しむことについてはいつも一杯の様子だ。嫌味ではなく、楽しめる「力」に凄味を感じている。末っ子で幸せに育ったんだと思う。私は長女で様々な家庭の事情を見て育った。そして抱えている。
 家を空ける時は、重たいリュックと、重たい想いを背負って旅に出る。道中、頭を離れない。楽しむとは、きっと様々な事をかかえて対応しなければならないのは、誰もが同じなのだ。
 そんなこんなで留守をする私の気持ちのサポートをいつもしてくれる亡弟の連れ合い信子さん、娘の弓喜子、ありがとう。
 そして母、妹にありがとう。待っていてくれる人がいるから、帰るという事が大切になる。
(幸子)

 コロナ禍のなか新生活様式というのが提唱されている。北海道も「新北海道スタイル」といわれるライフスタイルで、これまでの我々の日常生活にも変化が促されている。
 時が経てばまた〈あの時〉のように生活を楽しみ旅を楽しむことができるだろうか? 〈あの日常〉を我々は取り戻すことができるのだろうか? 〈あの刻〉のように異国を旅することはできるのだろうか? その答えは誰にもわからないようだ。世の中は〈あの日〉に見切りをつけて、〈これからは〉にシフトしているようだ。しかしボクは記憶の旅を振り返り、今の自分達が置かれている状況を確認しつつも、未来への期待は萎むことはない。
 これからどれほどの旅が実現できるだろうか? ひょっとしたら、ひとつもできないかもしれない。それでもいいのだ。
 ボクの旅文化は〈空間〉だけでなく〈時間〉も旅をするなかに包含されている。だから記憶の旅も、現場で起きてる旅も、これから実現を期待している旅もすべて〈旅〉である。
 幕末の蝦夷地探検家・松浦武四郎が晩年、全国を旅して歩いた寺社仏閣から91個の木片の部材を取り寄せ、離れに一畳の庵を作った。一畳敷である。現在も国際基督教大学の敷地内に遺っており、同学の文化祭の日にだけ公開されるそうだ。ボクはまだ見ていない。1日60キロメートルを歩いたという伝説の男の到達点のひとつが一畳の畳であったことにボクは感動を覚える。
 ここには空間としての旅だけではなく、時間としての旅の記憶が内在する。その記憶を呼び覚ます91の木片がある。拡大から縮小へ。マクロからミクロへ。歳をとり、歩くこともままならぬ状態でも人間の可能性は残されている。
 方向を間違わず、身の丈のスピードで歩いている限り、トレイルは続いている。 
(博文)

『クスリ凸凹旅日誌』●随想⑥あの道、この道、怖くて危ない道

塩  幸子

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 歩いてきた道々を思い出す。小学校4年生の時、北見から釧路へと引っ越した。転校となった初日の帰り道、校門を出て左へ行くのにのっけから右へと間違えた。景色の違いに気付いて慌てて引き返した。自分の道オンチに驚かされ続けて今日に至る。
 登山道も結構間違える。後ろに続く連れに指摘される。体力のなさで私を悩ます連れだが、道は自信ありだ。年1回のアルプス登山はもうかれこれ10年に及ぶ。北海道の山では体験していなかった困難が待ち受けていた
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 南アルプス北岳登山でのことだった。稜線を歩きたくて必ず縦走計画を立てる。北岳から間ノ岳へと続く稜線の道は三千メートルの天空の散歩道といわれる。好天の元、歩く自分の姿を思い浮かべていたが、この道をまさに散歩中に調子が悪くなった。高度障害。体質を知ることとなった。人気の道はあえなく断念するしかなかった
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 後立山は2回に分けて登った。全長31キロの山脈だ。最初の年は扇沢から唐松岳へ。松本から入って信濃大町で一泊。利用する人はほとんどが登山客の定宿だった。
 早朝、鹿島槍ヶ岳が洗面台の窓を占領するかのようにいっぱいに大きい姿が目に入った。こんなに近くにと驚き、横で洗面している女性に思わず喜々として声をかけた。見慣れているのか何の感動もない体での冷たい反応に悲しかった。
 稜線上にある種池山荘まであと100mの所で急激に体調不良となった。数歩で一休み。 喘ぎながら登る。先を行く連れが心配そうに振り返って私を見ている。急激な高山病到来だった。五体投地さながらの苦行が続いた道となった。冷池山荘にどうにか辿り着いた。小屋入り口での部屋割り待ちに結構な人の列ができていた。順番待ちの間、ふらふらと体が崩れそうになるのかと思わんばかりの最中、連れは山の激写に夢中だった。どうにか声を出して交代してもらった。
 その日の夕食は食べられなかった。翌日の朝食も喉を通らず次の山へと向かった。ありがいことに徐々に体調は回復に向かった。鹿島槍ヶ岳に近づく。双耳の山は両頂に登った。雲の中だったが、昨日の朝、窓越しに見たあのしっかりとした姿を思い出していた。

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 斜めに傾いたように見える槍ヶ岳。初めての北アルプスでは雨で登頂断念の頂だ。 今日は快晴。前日、上高地から歩いて槍沢ロッジでの一泊、今朝から6時間かけて槍ヶ岳山荘まで来た。この時を迎えて気持ちは弾んでいない。弟の高校でのクラスメイトが大学1年の時、槍ヶ岳頂上で落ちた。 そんな事もあり、やはり怖い。
 山頂は狭い。揺れている感じがするのは心理状態の現れか。怖さにかがんで少しバックしたら後ろにいた登山者に軽く触れた。互いにドッキリ! 危ない! 見渡して山々に目線を移す。下山を思うとなんだか気もそぞろで楽しめない。登りよりも何倍も怖い下りが待っている。危ない道トップクラスの北鎌尾根の茶色いゴツゴツ岩が険しいんだゾッ! と言わんばかりにその姿がグッと近くに見て取れる。しっかり気をつけて肩の小屋に辿り着いた。もっともっと怖くて危ない大キレットがこれから待ち受けているんだ 。
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 南アルプス赤石岳縦走は、数年前から計画していた。今が決め時。近年体力の衰えが気になり、もう先延ばしにはできない。天候に不安を抱えて空港に向かう。空港のテレビで最後のチェックをする。気になるのは台風襲来だった。
 やっぱりだ! 南アルプスを力を持っての通り道となってしまった。 切り替えだ。日本海側の山なら免れそうだと思った。手元に地図がない。知人に連絡してスマホで送ってもらう。大まかな変更を空港で開始した。 奥深い南アルプスは登り口までが遠い。最寄りの駅から足となるタクシーを予約していた。これをまずキャンセル。秋の登山は客が少なく山小屋はまず安心して泊まれる。だがこの時期はいつも台風とにらめっこだった。
 赤石への山旅は無くなった。この山は3泊必要なのだ。それも天気が良しとしてのことで悪天なら小屋に足止めとなる。 年齢を考えると次はない。残念だった。
 幸いに台風は変更した日本海側の山に及ぶことはなかった。大日岳・奥大日岳から室堂への縦走路は全日快晴の元、登り降りた
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 大キレット、不帰キレット、剣岳、下の廊下。危ない山、縦走路を中心に歩いてきた。
 山小屋で明日の道を考え、不安で目が冴えていつもなかなか寝付かれない。十分に疲れているのに眠りに入れない。毎度この繰り返しだった。怪我なく帰って来れた。 ありがたいとつくづく思う。
 どのみちも魅力的だった。

『クスリ凸凹旅日誌』▶24話:ガウディの偉大さと 出会う旅

2019年5月13日~23日
スペイン(バルセロナ マドリッド)、ローマ

サグラダファミリアの尖塔部の上から下を眺めると鳥の目です

芸術が溶け込んだ暮らし
 バルセロナを旅するにあたってアナロジカルな視点で釧路とバルセロナの類似性を考えてみた。外海に面した港町で、海鮮市場があり、最近はクルーズ船の基地として観光拠点になっているそんなマチ。そして個性的な建築物が観光資源になっているマチ。
 バルセロナのそれはいうまでもなくガウディである。一方、釧路地方には毛綱毅曠の建築物が11棟ある。バルセロナのガイドブックを見るとガウディ建築物で紹介されている主要な建築物も11棟であった。
 19世紀末に活躍したガウディの時代は、世紀末芸術のアールヌーボーの時代であった。スペインでもモデルニスモ(近代主義)と呼ばれる芸術活動の広がりのなかでガウディも活躍していた。このため街中にはガウディ以外の建築物も点在しマチの景観を形成している。 
 2020年9月、ボクは釧路の道立芸術館で行われていた「毛綱毅曠の建築脳」という展示会を見た。それは建築家の発想の根源となった日本の古事記や曼荼羅の世界から、現実の建築物という立体に作り上げていった建築家の創作プロセスを展示したものであった。しかし、ボクがここで書こうとしていることはガウディと毛綱毅曠の建築についてではない。
 屋外建築物であれ、室内の美術品であれ、我々の身の周りにあるアートの世界と我々の暮らしの関係性についてである。ヨーロッパに旅行して、特に感じることは芸術と触れ合う距離の近さである。抽象的な意味ではなくて、まさに近くで絵が見れて芸術を楽しむことができるということである。それは美術館や博物館や建築物を鑑賞する上での管理の問題であると同時に芸術と人の暮らしの距離感の問題でもある。


 日本の美術館や展示会では常に監視されているということを気にしながら作品と対峙する現実がある。国内の美術館で写真が撮れないことは常識である。この常識を特段問うこともなく、疑うこともなかったが、ヨーロッパの美術館で自由に写真が撮れるところが多いことに唖然とした。全てがそうではないが多くの美術館では自由である。監視員もそれなりに配置はされているがあまり堅苦しい感じはしない。
 フェルメールの名画が揃うマウリッツハイス美術館でボクは「真珠の耳飾りの少女」を幼稚園の子供たちと一緒に鑑賞した。それは絵を見る勉強の時間だったようで名画の前に子供たちが座り、先生が絵の感想を子供たちに聞いていく授業だ。同じことはアムステルダム美術館のレンブラントの「夜警」の前でも同じように授業が行われていた。この気取らない雰囲気と絵と鑑賞者との関係性を観ることも実物にふれる価値だとおもう。
 やっぱり小さい時から芸術に楽しみながら親しむことは重要なのだなぁと思う。マドリッドのプラド美術館とソフィア王妃芸術センターはいずれも館内撮影禁止であった。公立美術館のせいなのか、私立のテッセンポルセミッサ美術館は撮影可であった。ソフィア王立芸術センターの目玉はいうまでもなくピカソの「ゲルニカ」である。この名画の記憶は、作品を前に監視員と鑑賞者の写真撮影をめぐる攻防にあった。攻防には二つのパターンがあった。
 一つは撮影禁止は承知の上で、隠れてでも写真を撮ろうとする輩である。これは監視員と輩との、隠れたり、見つけたりの攻防が楽しい。もうひとつのパターンは確信犯である。堂々と写真を撮り、監視員に咎められ、それに反論し、議論するタイプである。言葉がわからなかったので議論の詳細は不明だが、なぜ写真を撮れないのか? その自由はなぜ制限されるのか? という問いに監視員も慣れているようで、公式の見解で反論しているようであった。
 ゲルニカという作品に出会う旅で得た体験である(もちろんゲルニカへの感動もあるがここでは省略)。こういうことも含めて旅の楽しみというんだなぁ。

 
 毛綱毅曠の展示会で撮影禁止の理由について、係員は、資料の貸出元の意向、表現物の著作権、遺族や所有者の了解の必要性などを述べ、撮影はお断りしていると答えた。毛綱毅曠氏が亡くなってまだ50年は経過してないので表現物は著作権フリーではないのだろう。保護されなければならない権利である。ボクも展示主催者を担ったことがあるので理解している。
 しかし、ちょっとそこまで厳格でなくてもいいのではというエピソードがあった。様々なドローイング作品や資料を閲覧しながらボールペンでメモをとっていたら、監視員の方が近づいてきて、トレイに入った鉛筆を使ってくれとの事。「なぜボールペンはダメなんでしょう?」 との問いに、「ボールペンのインクが飛んで作品に付着することも考えられるので、道立の美術館では全て同じ措置を取らせて頂いています」とのこと。
 これはギャグかコントの世界であった。ボクは神棚に祀られた仏画をお参りするような心持ではアートに親しむ気分になれない。さすがにこれにはついていけないとおもった。
 日本で行われる美術館でも監視員の人たちの存在が気になってゆったり鑑賞する気分になれない。もう少し肩の力が抜けた美術館や監視員が増えて欲しい。
 ボクの携帯の待ち受け画面はアムステルダム美術館で撮ったフェルメールである。小さい絵なので近づかないと撮れない。また、老眼のボクには眼鏡をかけなくてはカメラオブスクーラを駆使したフェルメールの技を鑑賞できない。芸術が生活に溶け込んでいる暮らしのバックボーンは一朝一夕でなるものではないが、今一度、日本の美術館関係者にも鑑賞の本質に立ち返って考えてもらいたい。 
 日本が全てダメなわけでもない。ヨーロッパの美術館は汚いところもあり、教会や由緒ある建築物にも落書きが目立ったりする。日本だとニュースである。
 バチカン美術館に「アテネの学堂」というラファエロの名画の部屋があって、そこに行った時、壁画の額縁に落書きを見つけた。イタリア人のツアーガイドにそれを指摘したら、英語でその落書きは昔からあって書かれたのは何年頃で…、と落書き解説をしてくれた。相手は筋金入りなのだ。
 いいところもあり、困ったところもあるが、それも含めて芸術が生活に溶け込んでいる様を知るが我が国においては観る側も監視側も互いにリラックスして鑑賞の雰囲気を作っていければと思う今日この頃ではある。

ガウディおそるべし
 話をガウディに戻したい。バルセロナでは有名なサグラダファミリア教会をはじめ、グエル邸、カセ・バトリョ、カセ・ミラ(外観だけ)そして郊外にあるコロニアグエル教会のガウディ建築物を見ることができた。
 ボクはガウディ建築物の多種多彩な素材、多様な表現に思わず「ガウディおそるべし!」と叫んだ。監視員は飛んでこなかった。
 芸術家としての偉大さについては様々な書籍、テレビ番組などでも紹介されているので、ちょっと違う角度から感じたことを記したい。
 サグラダファミリアは尖った尖塔部の付け根までエレベーターで上がることができる。入館料とタワーに登る料金も合わせると4000円で事前予約が必要である。普通、教会はただである。名画が揃うロンドンのナショナルギャラリーもただである。でもサグラダファミリアは建築中である。金が必要なぁ~んである。
 ガウディは晩年サグラダファミリア教会建設に没頭し、寝泊まりも工事現場でしたらしい。毎朝通っていた小さな教会から現場に向かう途中、市電に轢かれて死んだ。その時の服装があまりにみせぼらしかったのでガウディと気がつくのに時間がかかった、という逸話が残っている。建築途中だったため、仲間がガウディの意思を引き継いで、工事は続くがその後スペイン内戦や多くの戦火により建築図面や建築の資料は損失することになる。そんななかで今日までサグラダファミリア教会の建設が継続していることがすごいと思う。
 後に続く建築家や美術家や職人たちはガウディの意志を読み取り、想像し、形にしていく作業を続け、その意思を受け継いでいる。ガウディが生前手がけた「生誕のファザード」と呼ばれる正面側と、後に作られた反対側の「受難のファザード」や教会内部などは統一された表現というよりは、その時代、その時携わった人たちが自分たちなりのガウディを表現しているように感じた。そのことがとても面白い。
 塔まで上がると下の人たちが米粒のように見える。最終的には中央のキリストの塔も含め18の塔が完成の暁には建つとのこと。地上に降りると受難のファザードの入口扉は日本人の美術監督、外尾悦郎氏の作である。そこにはアヤメやヨシやそれに棲む蜂、カエル、トンボ、蝶などまるで釧路湿原の世界である。バルセロナで釧路湿原である。鳥の目と虫の目の世界である。


 サグラダファミリアの特異性の一つは納期である。ガウディの全体構想の実現を目指して現代の担い手たちは2026年のガウディ没後100年の完成を目指しているそうだ。しかし、それは現代建築物が必ず背負う〈時間の規制=納期〉とは違う。出来るか、出来ないかは神のみぞ知る。
 ガウディの建築物を見ていると細部に行き渡る職人の技を感じる。この建築は紛れもなく総合芸術の世界であろう。金物細工師の父親を持つガウディならではの職人との関係があったのかもしれない。ガウディがサグラダファミリアの現場で職人たちに残した言葉、「神は急いでおられない。明日はもっといい仕事をしよう」。
 サグラダファミリアを一言でいえば〈幸福な建築物〉である。様々な規制があって表現は成立する。制限や規制は必ずしもマイナス要因ではない。でも世の中に一つぐらい納期も規制もなく、いつできるとも決まらない建築物があってもいい。
 幸福とは幸福を目指す過程に存在する。
 工事中のクレーンや忙しく働く作業員たち。タイルの修復に当たる職人たち。ボクが生きている間にサグラダファミリアが完成したらどんな気持ちになるのだろう。完成したサグラダファミリアを見にまたバルセロナに行きたいと思うのだろうか? 
 ボクは少し寂しい気持ちになるのではないだろうか。そして、工事現場と聖なる空間が渾然一体と入り混じった〈あの日のサグラダファミリア〉をきっと懐かしむことだけは間違いないようにおもう。

           

『クスリ凸凹旅日誌』▶23話:何故、山に登るのか?

2019年9月5日~12日
立山大日連峰、富山

大日岳、中大日岳、奥大日岳を大日三山という。大日如来に近づく

実録立山縦走の巻
 体力の限界も近づきつつある(既に過ぎているのだけど)ここ数年は日本有数の山岳路踏破を目指してきた。それも終盤をむかえ、難関の南アルプス縦走を計画した。予備日、下山後の観光視察も入れて7泊8日の壮大な計画。出発が近づきつつあるなか、どうやら台風15号の動きが怪しく、このままだと南アルプス直撃!
 予定の荒川三山、赤石山脈縦走(山中3泊4日)は奥深く、入山まで丸1日かかるほど。もしも、台風でアクセス道路が寸断されたら大変。まかり間違えば、ずっと帰ってこられなくなるのでは、との妄想も駆け巡り、東京に到着して急遽、目的地を台風の影響の少ない北北西に進路変更。立山大日連峰にした。
 目的地を決めたのも東京着後だったので、登山仲間から地図をスマホで送ってもらい、同じくスマホで直前台風予報をチェックしながらの決定。〈スマホと新幹線〉これがドタキャン変更登山を実現させた原動力。台風には勝てないが、うまく使えば文明の力は凄いもんだ。年寄り頭には相当疲れる所業だったが、これもいずれはAIがサポートしてくれそう。
 変更先は日本有数の山岳リゾート立山。早朝の新幹線に乗って富山まで約2時間。富山電鉄に乗換え立山駅からバスで登山口の称名滝についたのはほぼ正午。日本一の落差を誇る滝を愛で、期待はずれの山菜蕎麦をかき込んで、いざ、目指すは大日岳・奥大日岳の2泊3日縦走。ここまでは超順調に文明の力を実感したが、これからが大変だった。


 台風の影響か、とにかく暑い。もう秋の気配の釧路からいきなり気温35度の世界へ。そして標高差1000mくらいを登らなければならない現実。南斜面で陽はカンカン。給水とリンゴやゼリー飲料が五臓六腑に染み渡る感じ。やっとのおもいで夕暮れ時に大日平に到着。ここは立山弥陀ケ原湿原という我が国で一番高いところにあるラムサール登録湿地でもある(現地の説明版で初めて知ったんだけど…)。
 初日の泊まりの山小屋にやっと到着したら、山小屋の主人が「塩さ~ん、お風呂沸いてますのでどうぞ~~」。ちょっと耳を疑ったが、確かに本州の山小屋ではお風呂や場所によっては温泉を使える山小屋もあるが、この時はまさかの坂。こんな山奥でお風呂に入れて、入口で確認したアサヒスーパードライ350ml700円もいただけるなんて。
 風呂上り、夕日の山々を眺めながら冷えたビールで安着祝い。お客もボクたちをいれて5名。何んともいえない幸福感が全身を包んだ。
 さて、2日目も快晴。前日の疲労回復と今日のパワーアップのため秘薬アミノバイタル3500mmgを飲んで出発。目指す大日岳は標高2501mなので、今日も標高差1000mを一歩一歩。
 ボクの経験では、アミノバイタルは約2時間が効力維持時間。快調な前半は早朝でまだ陽も当たらず、気温もそれほどでもなかったが山頂に近づく頃から前日並みの暑さ(高度は上がっているから気温は昨日より高い!)。おまけにアミノバイタルも切れてきて、赤ランプ点滅ウルトラマン状態で大日岳頂上。
 ここからさらに稜線づたいにアップダウンを繰り返し奥大日岳をめざす。「奥」とつくからには奥なんであ~る。遠いのであ~る。陽はカンカンと照り続け、山小屋で買った400円のジュースもアッという間に飲んでしまい、限界が近づきつつある。
 こういう状況だと夫婦喧嘩が勃発しやすい。案の定、今日の宿泊山小屋を確保していないので、早めに電話したらいい、とか、電話がつながらない、とか。なんでこんな山の上なのに電話がつながらないんだ、とか……。
 水を絞りきったボロボロ雑巾みたいになって、夕刻、やっと「みくりが池温泉」に到着。温泉に浸かって、評判の食事をいただき、急転直下、大日連峰縦走登山は無事終了。人生でこれほど汗をかいたことはなかった、とおもわせるほどの発汗と今年一番という快晴のなかの登山であった。
 教訓。気象変動の激しい昨今、スムーズに旅行をするには、的確な情報収集と迅速な旅程変更。さらには事前の変更プランも念頭においた計画づくりが重要になる。本番の登山も楽しかったが、前後の旅程調整にも感慨深い山行となった。

何故、山に登るか?
「そこに山があるから」と答えたのは英国の登山家ジョージ・マルロー。そこにある山、というのはエベレストだったようで、この問答は哲学的というより具体的なやりとりに哲学的な解釈が後で加味された話のようだ。
 しかし近代アルピニズムを英国の登山家たちがけん引し〈目標設定とストイックに努力と挑戦を繰り返し、達成する〉その精神的背景に産業革命を成し得たプロテスタントやピューリタンリズムの思想があることは識者の指摘するところである。
 ボクはなぜ山に登るのか? その問いかけにどう答えようか。この縦走を振り返って少し整理がつけた。猛暑の中で体中の水分が失われ、脱水症状一歩手前で、ひと休みし水を飲み、りんごを食べた。生き返った気がした。周りの草花や湿原の瑞々しい情景が目にしみた。翌日、再び猛暑の中、大日岳の頂上を目指した。雲ひとつない快晴の頂上に立った時、そばに若いカップルがいた。一段落して連れが女性に声をかけた。聞き耳をたてていると二百名山を目指して全国の山を登っているとのこと。
 連れが「目標を達成するために犠牲にすることもあるよね」と呟くと、登山者は「そう、そうなんです!」と激しく同意。なるほど目標達成のためには、犠牲も必要だ。


 ウォーキングの10種類の類型(『誰も知らなかった英国流ウォーキングの秘密』市村操一著より)に沿って考えれば、先鋭的なアルピニストたちが目指す「達成」のウォーキングにボクは無縁だ。頂上に立った達成感がないことはないが、その事にあまりこだわりはない。百名山を目指すとか、何か登山に関して特別な目標設定をしているわけでもない。どちらかというと、自然を愛で、時に思索し、自分の生を実感する歩き、とでも云おうか。
 高野山の町石道を歩いて曼荼羅のことを調べていたら、真言密教の中心の仏は大日如来とのこと。たしかに曼荼羅のメインには大日如来が描かれている。曼荼羅は宇宙を描いた図像で、真言密教では、今生きている自分の命は大宇宙のいのちの一部であると考えるのだそうだ。
 「生かされて、生きる命を大切に」と記されたテレフォンカードは菅原弌也住職が行なっていた「命の救済の電話」のスローガンである。住職の葬儀の引き出物は、今もボクのお守りとしていつも持っている。
 一木一草、命あるものと共にあることを体感する登山。決して宗教的な歩行ではないが、あえていえば「自然観照」と「思索」そしてちょっと悟りへの修行が加味された歩行がボクの山に登る答えになるのかもしれない。
 登った山が大日岳、中大日岳、奥大日岳(大日三山と呼ばれる)という大日如来に最も近い地上の稜線とおもわれる処だったのは、出来過ぎた話である。