「凸凹日誌」カテゴリーアーカイブ

北海道のハイマツ

こんなハイマツの道もあります。疲れた足を上げるのが大変

ハイマツは北海道の山では1000m位以上の高山には普通に見られるが、弟子屈の硫黄山周辺などは硫黄で土壌が強酸性のため平地でも見れる。球果の松ぼっくりはヒグマの重要な食糧の一つではあるが成熟に2年かかるので、この豊作凶作がヒグマの出没件数にも関連するようだ。今回の大雪山縦走では雌花雄花が咲き、花粉舞うハイマツ帯の通過が大変だった。ハイマツの花粉アレルギーもあるのかしら? この時期のヒグマはハクサンボウフという植物の根が主食のようで、雪渓の糞にもハイマツは入っていなかった。種子は動物散布で、その主役であるホシガラスにも出会わなかった。まだ食べるには熟した松ぼっくりがないのかもしれない。北から広がった氷河期の遺存種で日本はその南限(南アルプスあたり)だそうだ。

大雪山は世界有数の高山植物の宝庫です

ホソバウルップソウ(紫)を取り囲むようにチングルマとエゾノツガザクラ(化雲岳)

釧路市内から約3時間半で大雪山国立公園。7月15日から18日まで3泊4日の山旅はテントと食糧をもって自給自足の北海道仕様の縦走でした。北海道の山には食事提供の山小屋がありません。さらにコロナ禍で避難小屋も出来るだけ使用しないのが基本。
コースは沼の原という湿原帯から入山し、五色が原、化雲岳、ヒサゴ沼、トムラウシ山、忠別岳、高根が原、緑岳、高原温泉とまさにカムイミンタラ(神々の遊ぶ庭)を縦走し、様々なエリアで沢山の高山植物を見ることができました。その一部をご紹介します。

映画「アイヌモシリ」は阿寒湖アイヌコタンを舞台にした素敵な映画

 ボクが5年間暮らした第三の故郷、阿寒湖温泉を舞台にした映画「アイヌモシリ」はとても素敵な映画だった。ドキュメンタリーのようでありながらドラマであり、フィクションとノンフィクションが混在する。阿寒湖アイヌコタンに実際に暮らしている人たちが出演している。その演技は日常生活の延長線上で演じられ、とても自然な感じがする。物語はアイヌコタンに暮らす少年とデポさんと呼ばれる男を中心に、その周辺の人々で織り成される。

 阿寒湖アイヌコタンの人々は 昭和30年代以降、木彫りを中心とした土産物販売や古式舞踊などのアイヌ文化を観光客に伝えることを生業としながら、文化の保存継承を進めてきた。その民族的アイデンティティの根幹といわれるのが「イオマンテ」と呼ばれる熊送りの儀式だ。

 春熊猟で射止めた母グマの子熊を数年間コタンで育て、時期が来たら殺して天に送る儀式だ。昭和30(1955)年に北海道の通達で野蛮な儀式として廃止されたが平成17(2007)年にはその通達は廃止されている。アイヌにとっては最も重要な儀式とされているが、今の時代、アイヌではないボクにとっては理屈ではわからなくもないが、その重要性は今ひとつ…?

 阿寒湖温泉では行政マンだったボクはヒグマ対策会議のメンバーとして地域に出没するヒグマの対応に当たっていた。年に何度か温泉街の周辺にもヒグマは出没したがその多くは子別れした若熊であった。ある時、例によって会議が招集され、通学路に出没した若熊に対する対応が議論された。

「まだ若い熊だからもうちょっと様子を見るか」
「爆竹で追い出すか」
「追い出しても縄張りのオスから弾かれる」
「罠をかけようか」
「いや通学路に出てきたら処分するしかない」
「……」。

 そんな議論を映画を見ながら思い出した。映画ではイオマンテという儀式を復活させたいという男のおもいがコタンの仲間たちの間で議論になる。

「熊を殺すなんて今の世の中じゃできない」
「観光客を相手にどう説明する」
「牛でも豚でも食べているのに臭いものには蓋の世の中は納得できない」
「イオマンテを俺たちがどう捉えるかが重要だ」
「……」。

 観光という生業を通して伝えられているアイヌ文化へのもどかしさ。伝統という民族が共有する記憶とその価値について、自分たちの手で体感したいという男のおもいがイオマンテ復活に込められているように思った。イオマンテ復活はこの映画の物語の軸である。

 〈人と自然の共生〉が叫ばれている。時代のスローガンともいえるこのフレーズは何時からかアイヌ文化がその先達の役回りを担わされた。しかし近頃ボクは、人と自然が共生する社会はどこか嘘くさいとおもうようになった。なぜならイオマンテで送られる若熊は殺されるのである。これは共生ではない。どう考えたって一方的な話だ。 そもそも人と自然が共生するような理想郷な世の中がこれまであったのか? その疑問の答えはアイヌの人からいただいたような気がする。

 アイヌの考え方にある〈折り合いの哲学〉。人と自然が折り合う社会、きっとそれは臭いものには蓋をせず、様々な心の内の葛藤やおもいやこだわりを吐露し、議論し、修正し、何かしらの収まりをつける社会。アイヌコタンの人たちはきっと映画の中で演じられた場面のような話し合いをこれまでもしてきたのだとおもう。そのことがこの映画の自然さを醸し出している。

 昨年、温泉街の自然散策路を使ってカムイルミナと呼ばれる夜間の光と音の映像ショーが開催された。そのショーはアイヌの民話をコタンの守り神であるシマフクロウが語るものであった。ボクは阿寒湖温泉に暮らしていた時、この散策路の森に生息するチプッタチリカムイ(舟を造る神様)と呼ばれるクマゲラを何度か見ていたのでこのイベントには反対であった。人と自然の共生をうたいながら、実はカムイたちをこの森から追い出すことになる矛盾。アイヌの仲間にこのことを問うと「そのぐらいの事は大丈夫だ」と彼は軽くいなした。

 一方で会場の設営や運営に多くの地域の人々が参加し、そこで暮らしの糧を得る姿を見て、ボク自身の折り合いをつけなければならないと思った。職場の後輩にボクと同じような視点を持っている人たちに説明できるようしておいた方がいいとアドバイスをした。我ながら世間に忖度する気分であった。本当はやめてほしい。でも地域がやるとまとまったのなら、そのことを考え方として整理してほしい。自分の考えはさておいて。なさけないが本当に整理なんてできるんだろうかと疑問がわく。

 この映画を見ながらやっぱり人と自然が共生する社会(地域)なんて、ありもしない理想のスローガンに振り回され、騙され、思考停止されることより、折り合いをつけるため、現実を直視しつつ異論、反論も包含し、でも核心は忘れない柔軟な心持ちを持ちたいものだとおもった。初老を迎えるボクがいい歳をして、今更無理な話なのだろうと思う。きっとこの映画の主人公である少年に対するボクの期待なので、おせっかいなことである。お母さんもあの男も近くで寄り添いながら少年に優しく伝えている。 

 この映画に登場する出演者は、俳優としては素人なのかもしれないが、日々表現の術を鍛錬している人々である。コタンでの生業とともに、朝や夜には観光客を相手にアイヌ文化を伝えるマルチワーカーたちだ。

 ボクたちは本物の自分を考える時、日々ちょっとした嘘や、ホラ話や、自己顕示、ささやかな虚飾で彩られたもう一人の自分と同居しながら生きている。どちらも自分であり、そのことを客観視できるのが大人になるということなのかもしれない。

 少年から老人まで、コタンの人々のささやかな気持ちの揺れを丁寧にとらえた映像。少年たちのバンドの語らいで、アイヌの楽器を使うことをためらう仲間をみんなで受けとめるシーン、カラオケで歌いまくる男に呆れた表情のスナックの女主人、ちょっとした等身大の人々のスケッチが積み重なっていく。それを時にトレンディドラマのワンシーンの様に、はたまたニュース映像の様に、家族の想い出の8ミリムービーの様に積み上げられて映画は輝きを増していく。

 福永監督を中心とする映画作りのスタッフたちは、様々な映画的表現を駆使しながら、失われつつあるイオマンテの記憶を阿寒湖アイヌコタンに手繰り寄せ、その真実を解凍させ、我々にその意味を伝える。映画の歴史の古道を歩きながら新たな映画の道を創造して行く作業がコタンの人たちの自己表象能力とシンクロし、素晴らしい映画的興奮を我々にもたらしてくれた。過去と現在を行き来し、伝統と創造を織り交ぜ、夢のような現実のような、その混沌とした交差する道筋に表現の確かな方向性を導く映画文法。

 最後の熊送りの儀式に参列する少年と異論を乗り越えて、〈決めたことはみんなで取り組んできた〉コタンの伝統に沿って参列したコタンの男たちの後ろ姿。少年の赤いモンベルのハードシェルが民族衣装の中に溶け込む。

 少年と父との静かな再会。送られる子熊の目に宿る炎。そして少年が見上げる先の樹冠に止まったコタンコロカムイの姿。印象に残る様々なシーン。実写なのだろうか? CGなのだろうか? 本物なのだろうか? 作り物なのだろうか? 
 どちらでも構いはしない。記憶が伝承され、継承される。そのことにかけたおもいは〈真実〉としてこの映画に刻まれた。 

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 あの時、ヒグマ対策会議で検討された子熊は結局、殺処分された。現場に立ち会った。子別れして間もない子熊であった。その夜、ハンターの仲間からその熊の肉を食べないかと電話があった。ボクは即座に断った。今思えばボクはその子熊の肉をいただいてその命を体感すべきであったと思う。

 後日、お世話になっていたアイヌの古老が語りかけてきた。
「あんな小さな子熊を殺すなんて。かわいそうに。カムイノミしておいたから」。

 ボクは少し心が軽くなった。

 今の時代に羆のイオマンテをすることの必然性はない。人間が生きていく上で必要な殺生の現場から遠く離れた現代社会。しかしその現場は確かにこの世に存在していたし、今もし続けている。その命に向き合い、持続可能な社会への恩恵を願うおもいを儀式にこめ、人と自然の折り合いをつけてきた先人たちの確かな生の記憶は、どこかに留めておきたい。

 「アイヌモシリ」はその役割を託された映画になった。

 ボクにとって素敵な映画とは端的に言えば〈信じられる映画〉である。そこに込められた〈心と技〉。第三の故郷の記憶が確かに刻まれた「アイヌモシリ」はボクの宝物(イコロ)にもなった。

第7話「トラベルはトラブル」(私たちの旅スタイル全7話)

ローマの地下鉄でスリに会う。混んでいる時は要注意。

 重大なトラブルで旅行自体に影響が及ぶような経験はないが、小さなトラブルはちょくちょく出現。これに焦らず、慌てず、冷静に対処するのが旅の醍醐味。田部井淳子さんと登山した時、緊急時には、「とにかくパニくらないことが一番」とおっしゃていた。この言葉を胸に刻んで、といつもおもってはいるが現実がなかなか。私たちのトラブル事例及び防止策をご参照下さい。

1)2時間前にはスタンバイ

団体旅行の集合時刻は海外ツアーは出発2時間前が一般的なようだが、個人旅行も同じモードが必要。幸いなことにこれまで乗り継ぎ遅れや出発遅延などのトラブルには巻き込まれてこなかったが、今回のローマからの帰国では、空港への鉄道切符を自販機で購入していたら、英語でよく判らないのにアフリカ系の兄さんが近くでいろいろ口を挟む(後で考えるとアドバイスだったかも)ので、エイヤーと購入したら、違うチケットを購入してしまい、結局駅の窓口で払い戻しと再購入手続きで小1時間。どこに落とし穴があるか、わからない。

 当舎は釧路在住なので、新千歳経由で英国に行ったときは、朝(というより深夜)2時に自家用車で自宅出発。4時間ほどで新千歳空港着、8時台の仁川行きに乗り、仁川で乗継。ヒースロー空港着後、マンチェスター行き国内エアに乗継、到着は同日(時差8時間)深夜。この間、ほぼ時間通りに行けたことの方が幸運というべきか。ちなみに、想像をこえていたのは、ヒースロー空港の国際便から国内便の乗換えでターミナルビル移動が別の空港に行くのか、とおもうほどの遠隔地。さらには国内線のセキュリティチェックがえらく厳重。まあ、時間に余裕があったので焦りはなかったが、とにかく移動の時間設定はゆとりが第一である。

 友人の姉妹が出発便の遅延で乗り継ぎ便に遅れたことを妹さんがフェイスブックにアップ。お姉さんの名前はエミさん。『エミ、レイトしました』。この時のエアはエミレイツ航空。緊急時にもこんなユーモアを持ち合わせたい。

列車の切符を間違って買って、あわや乗り遅れ!間一髪

 2)特殊詐欺について

私たちの旅行目的の一つが西洋絵画鑑賞である。数年前からはまったのだが、当舎はだいたい連れの趣味が私に感染して、重篤化するのが常で、登山しかり、自然観察しかり。美術もこのパターンだが最初のイタリア旅行(ベネチア、フィレンツェ、ローマ)でのルネサンス体験と大橋巨泉の美術関連著作が引き金となって、その後の旅行では重要なテーマとなっている。

 美術館や教会などをチェックして見たい作品をリストアップするのだが、これに落とし穴があった。ルーブルやオルセーなどの有名な美術館の名画をふんだんに見まくるぞ、という決意で出向くと、なんと必ずしも全部見れるわけではなく、貸出中や補修のため部屋が閉鎖されていたりと正に出鼻をくじかれ体験。なかには貸出先が東京日本となっているものも、「こちとら東京から来たんだぞ! 」と叫びたい心境。まあ、海外での美術鑑賞では常識的なことのようで、事前の美術館サイトへのリサーチが必要と痛感。

 私がおっかけている作家のひとりがブリューゲル。オランダ出身のブリューゲルの作品を追って、フランス(パリ)、ベルギー、オランダと旅をした。訪問地の美術館に数点の作品が点在しているため、その作品観賞がとりあえず訪問の最大目的。ベルギーのアントワープという古都にマイエル・ヴァン・デン・ベルグ美術館という小さな市立美術館がある。ここに『狂女フリート』という傑作がある。この絵を楽しみにルンルン小走りで訪れたところ、出張不在とのこと。「何にぃい!! 」と受付で叫ぶ(ところiだった)。この美術館のエースで4番が違うチームにレンタル中とは…。やっと気を取り直して、オランダのロッテルダムに移動。ここのボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館にはかの有名な『バベルの塔』がある。早足で美術館に入り入館前に確認すると、こちらもベルリンだか、どこだかに出張中。「ざけんなよ! 」と呟くも、もはや戦意喪失。

ボイマンス・ファン・ヘーニンゲン美術館エントランスオブジェに慰められる

 予兆は、ベルギー最初の訪問地であったブリュッセルの王立美術館にあった。ブリューゲルには息子二人や孫、親類にも画家がいてブリューゲル一族ともいえる芸術家の一家なので、いろいろな美術館にブリューゲル(一族のだれかが)の描いた絵が沢山ある。ここにはブリューゲル作品をあつめた部屋があって私は『鳥罠のある風景』という作品がお目当てだったのだが、貸出中。替わりにブリューゲル長男(この人は親父の模写が得意だった)の模写が飾られていた。

 受付や学芸員、ミュージアムショップの店員に「わざわざ(ここ強調)日本から来たのに残念だ」との意向を伝えると、済まなそうに謝るタイプとだからどうしたタイプがいる。おもわず「詐欺だ!」と叫びたい心境だが、現場にいると館職員の人件費や美術館の維持管理費などを稼ぐために美術館も大変なんだと妙に納得。

出張中だったブリューゲル『鳥罠のある風景』
ブリューゲルの長男作『鳥罠のある風景』ちょっと違う。親父のコピーが得意。
教会でカラバッジョの名作とパチリ。入館無料。
出張中だったブリューゲル『狂女フレート』。どこに行った!
マネの名作『フォリー・ベルジェールのバー』と記念写真。日本の展覧会ではこうはいかない。

 美術鑑賞趣味で、かつブリューゲルのおっかけという特殊性もあるが、この手の詐欺(見方を変えれば常識)には気をつけたい。

街角でピカソに会うかも…(バルセロナ)

 以上。楽しい旅を!

第6話「どんな荷物、どんな服装」(私たちの旅スタイル全7話)

11月中旬のベルギーアントワープ駅前で、首巻で何とか寒さを凌ぐ

 私たちは国内外、いつでも、どこでもリュックサック派(だいたい30L程度のサイズ)。登山も海外旅行も似姿はリュック一つ(サブバック付き)で靴はトレッキングシューズか、登山靴といったスタイル。重量も手荷物機内持ち込みなので8kg以内に収める。防寒ウエアは雨具と兼用。下着は予備1セット、必要時は現地購入。『地球の歩き方』のような厚いガイドブックは訪問地以外はカット(植村直己が北極探検時の荷造り参考)。まあ、そんなにシビアな話しではないが軽いにこしたことはない。

 メリットは、入管や関税の手続きが早い、ロストバケッジの心配なし、移動しながら観光が可能(ホテルチェックイン前に美術館へ、ロッカーに荷物預けてOK)。デメリットは、旅行中洗濯をしなければならない、気取ったところにいけない(着替え衣装は1セット)、沢山お土産が買えない。ただし、帰りは別バックにお土産を買って預け荷物にもできるのであまり心配はない。

 バックパッカーといってもいいが、旅先では結構多数派のスタイルである。アジアの団体旅行者はスーツケース派が多いけど、個人旅行者は老若男女バックパッカーが目につく。ゴールデンウィーク10連休明けの今回は、日本人旅行者は目につかなかった。私たちみたいなバックパッカーで多いのは韓国人。これまでも旅先で同年輩の韓国人夫婦と一緒になることが何度かあった。いずれも英語、そして片言の日本語も話し、フレンドリーで洗練された印象。韓国の団体ツアーに閉口気味だった連れも相当イメージチェンジした様子。

 いいことばかりではない。預り荷物がないので関税手続きはほぼ先頭で通過するのだが、たまに暇な税関職員につかまり、リュックの中身をチェックされたりもする。本人はいたって万国共通善人タイプとおもっているが、世間は必ずしもそうは見ていない。

4月中旬の英国湖水地方。バードウォッチングをしながらフットパス散策
4月中旬コッツウォルズのフットパス、歩きながら移動なのでフル装備、荷重8kg
帰りはお土産をバックに入れて、あくまで機内持ち込み可能レベル